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哲学対話に参加する理由:学生哲学カフェ「onecafe」の500回記念冊子「混ざる」を読んでみた

私がよく参加させていただいている学生哲学カフェ「onecafe」が先日、500回目の哲学カフェ開催を記念して「混ざる」をテーマにした冊子を発行した。運営の学生や参加者から寄稿を募って出来上がったものだ。私も文章を載せてもらった。

うねり、反発し、結合しあうような、相互の関係性を前提とした議論は、少しずつ螺旋を描き、マーブル様の球体となって渦巻いていくようです。混ざっていく、しかし混ざり切ってはいないその過程そのものが、私たちが今回表現したかった「混ざる」という言葉なのです。

非常に面白い文章が多かったのだが、とはいえ、いつものように感想を書くのはちょっと難しい作品でもある。1編1編が短いし、さらに、「混ざる」という共通のテーマはありつつも、冒頭で触れられている通り「必ずしもテーマに沿わなくていい」という程度の縛りなので、1つの作品として感想を書くのはなかなか難しいというのが正直なところだ。

というわけで今回は、本冊子中の様々な文章を文脈から切り離すぐらいの勢いで混ぜこぜにし、その集積から「onecafeや哲学カフェの良さ」がなんとなく伝わるような文章を再構成してみようと思う。かなり恣意的に再構築を行うので無理矢理な部分も出てくるとは思うが、その辺りはご容赦願いたい。

単一な解釈で自分を定義することなど、許されない。そんなことをしようものなら、世界の複雑さが、すぐに矛盾という名の牙を剥いてくる。

哲学カフェ(哲学対話)にやってくる者は様々だ。しかし、もしもそこに何らかの共通項を見出そうとするなら、「自身の輪郭を掴みきれていない(ことを自覚している)者」ぐらいの括り方は出来るかもしれない。自分自身や周囲との関係、あるいは世界との関わり方について「語る言葉」を持つというのは、ある種「自分の輪郭を確定させようとする行為」にも思える。そして、「そうしようとしている」という事実は即ち、「未だ自分の輪郭が定まっていない」ことを示唆しているのではないだろうか。

しかし、事はそう単純ではなさそうだ。

このような哲学対話における体験を検討する手がかりとして、本稿では社会構成主義という立場に注目したい。社会構成主義とは「私たちが捉える現実は客観的事実として存在するのではなく、人々の対話や関係性、社会的な相互作用の中で形成される」という考え方である。この立場に立ったとき、私たちが当たり前だと感じている価値観や常識、さらには「自分とはこういう人間だ」という理解も、固定されたものではなく、日々のやりとりの中で更新され続けるものとして見えてくる。

確かにその通りだろう。「自分とはこういう人間だ」という理解にしても、「自分が今何と相互作用しているのか?」によって変わり得るはずだ。「自分の輪郭」とは「自分が接している『何か』との境界線」にすぎず、故に、「何か」が決まらなければ「自分の輪郭」も判然としないのだと思う。

そして、その「境界線」を仮想的に知ろうとする試みの1つが哲学カフェ(哲学対話)だと言えるのではないだろうか。

社会構成主義の観点からとりわけ重要なのは、哲学カフェが参加者の「前提の可視化」を促すという点だ。私たちは日常において、多くの意味づけや価値観を自明のものとして抱えており、それを問い直す機会はほとんどない。哲学カフェはこの自明性を問いの俎上に載せる。

さて、本冊子にもそんな「前提の可視化」を試みる文章がいくつかあるが、その中でもなかなかのインパクトを放っていたのが「汚部屋論」だ。筆者は冒頭から「私は部屋が汚れているとき、無性に安心する」と記し、読む者の価値観を揺さぶってくる(ちなみに私も、「整頓されていること」に特段の魅力を感じないので、筆者の主張はよく理解できた)。

何故、モノに住所を定め、決まった場所に都度整理整頓される部屋が良しとされるのだろうか? どうして、必要最小限に出来るだけモノの数の少ないすっきりした部屋の方が”機能的”で”安心”とされるのだろうか。確かに、そのような信念を念頭に作られた部屋は誰にとっても使いやすく、誰にとってもその必然性を理解できるよう、美しく秩序立てられた空間かもしれない。どこに何があって何がどれをするか、予測可能性を持った安心感ある空間かもしれない。しかし、それは公共施設などが重視するユニバーサルな部屋作りの信念であって、全くそこに「私」自身が住む必然性はない部屋のように思われる。

確かに至極その通りだなと思う。そしてその後も、「自分の部屋の棚を、コンビニの商品ラックと同一視する人間がどこにいるだろう?」と、読者を煽る。見事だ。ともすれば「怠け者の詭弁」にしかならない主張を、「他者が当然だと思い込んでいる『前提』を炙り出す議論」に昇華していると言っていいだろう。

「私の部屋」とは、パーソナルの具現であり、都度ローカライズされる空間であり、誰が使っても便利なように標準化されたモデルルームではないのである。畢竟その意味で私室とは、「私」の存在によって、またモノごとの働きかけによって、都度々々相互性を持ってカスタマイズされ、デザインハウスのように組みあがった独特の空間のことを言う。

彼女が主張する、「私が良いって言ってんだから良いんだよ(大意)」という理屈を突き崩すのはなかなか難しい。しかしだとしても、このような主張に触れることで、「なるほど、確かにそうとも言えるな。だったら、自分が『綺麗な部屋』を望むのは何故だろう?」と、「問うことすら思いつきもしなかった問い」が浮かび上がりもするのだ。まさに「前提の可視化」と言えるだろう。

さて、「前提の可視化」は他にもあった。

ただ、「旅をすると価値観が変わる」と人々は言うけれど、これには賛同できない。旅の良さはそこにはない。あるのは現実からの逃走だ。嫌な言い方に聞こえるかもしれないが、私に言わせれば、旅の良さはそれでしかない。旅の本質は脱走なのだから。

なかなかに清々しい断定である(ちなみに筆者は、「補足だが、私は旅が大好きである」とも書いていた)。そして、この主張にも私はとても賛同できてしまうのだ。というわけで私も、「嫌な言い方に聞こえるかもしれない」ことを書いてみよう。私はそもそも、「旅に出たぐらいで変わる程度の価値観なんて、元々大したものじゃない」と思っている。そんなものは、旅に出なくたっていくらでも変わる余地はあるだろう。

で、筆者もまた、「内面を磨くなら旅じゃなくていい」と主張している。

正直、内面を磨きたいのなら、本を読むか、全く価値観の違うコミュニティに飛び込むほうがよっぽど効果が期待できる。私たちはより自分を批判的に捉えられる場に身を置くべきだ。

これもホントにその通りだなと思う。特に読書なんか1人きりでいつでもどこでも出来るんだから、こんなにコスパ・タイパに優れた行為はないとさえ思える。本を読む人は年々減っているはずだが、得られるメリットの大きさを考えると、何故これが高コスパ・高タイパと認識されないのかは謎だ。

さて一方で、「全く価値観の違うコミュニティに飛び込む」というのはいささかハードルが高い。それは「勇気が要る」という意味も含むが、それ以上に、「そんなコミュニティが身近に見つかるか?」という問題の方が大きい気がする。学生なら、部活動やサークル、アルバイトといった形で「全く価値観の違うコミュニティ」を見つけやすいかもしれないが(どうだろう)、社会人ともなると、そういうコミュニティを見つけること自体がなかなか容易ではないように思える。

そして、そんな社会人にとっての選択肢の1つとして「哲学カフェ(哲学対話)」を挙げてもいいだろう。対話がもたらす変容はなかなかに刺激的だ。

私は昔から、座学がもっぱら苦手なわりに、口だけは人より動く子供だった。
だからこそ、「周りから想像される自分像」と「現実の自分の出来なさ」との乖離に、ずっと悩んできたのだ。いつの間にか、その周りからの「理想」は「なりたい像」にすり替わっていった。いかにおしゃべりで自分を「それっぽく」見せ、評価される場所に身を置くか。それこそが、社会という場所に評価してもらい、上手く「混ざる」ための唯一の手段だと思い込んでいた。

何を喋っていても、自分の身体という「皮」を被った「なにか」が動いているような、気味の悪い感覚。他者と混ざり合っているようでいて、実は、自分の「皮」一枚すら相手に触れさせていないような絶望的な孤独。それは「できない自分」を飾り立てたことによる一時的な虚飾にすぎなかった。

「何者か」になって他者に評価されることだけが、自分の価値だと思い込んでいた。

筆者(別に社会人ではないが)は、「onecafe」と出会うまでは「その場その場での評価(見られ方)」に固執するようなタイプだったようだ。だから最初は、「対話によって浮かび上がる様々な違いを受け取って自分の価値観を作り変えていく」みたいなことが出来ていたわけではなかったという(筆者は自分で「『意識高い系』に自分を見せかけようと奔走していた」と書いている)。しかし「onecafe」と関わる過程でどんどん考えが変わっていったようだ。

どんどんと混ざってはぐちゃぐちゃになって、わからなくなっていく。こんな場に絶妙な居心地の良さを感じた私は、段々と自分もこの場に言葉を置きたいと思うようになった。長年自分を偽り、守ってきた「皮」を自ら矧ぎ、「私」から生まれる言葉を紡ぐ。

このような変容によって、自分の価値観も、輪郭さえも変わっていったというわけだ。

さてここからは、「全く価値観の違うコミュニティ」繋がりということで、「外在する人・集団とどう混ざる(混ざらない)のか」に関する本作中の様々な文章を取り上げたいと思う。

だが次第に、退屈さを覚えるようになった。自分が「完成」しつつあるのだ。もう伸び代が少ないと確信してしまった。それが焦りにつながる。どんどん行動すればするほど、決断すればするほど、自分は「完成」してしまう。だからこそ、僕は他人に一方的に蹂躙されるような混じり方をしたいのだろう。自分という強固な器を壊して、誰かに体を蝕まれていく。そうして自己の輪郭を曖昧にして不安を感じたい。そうすることで自己の定義が揺らぎ、また新しい何かに出会える気がする。

「自己の輪郭を曖昧にして不安を感じたい」というのはなかなか斬新だ。私も近い感覚を持っているとは思うが、「不安を感じたい」とは思わないかな。「自分の輪郭を曖昧にしておきたい」とは常に考えている。あまり、捉えられたくないからだ。

幼稚園の頃に、「魂の型」が同じでも、環境の摩擦を受けて、異なる選択肢を選べばその分疎遠になる。精神が成熟して、幼稚園の頃とは別の趣味や人の好みの変化がでる。それは自然なことだ。しかし、そうやって異なる分かれ道を選び続けたら、どうなるだろう。一方が昔のあり方で他方が環境の変化や精神の習熟で現れた新しいあり方。年を取るにつれて、新しいあり方を選べば選ぶほど、昔のあり方を選んだ人とは異なる道を行く。もはや過去の親密さなどなかったように。もちろん、新しい道を選んだ結果同士、たまたま同じ景色を見ることもあるだろう。しかしそれは偶然に過ぎないのではないか?

「魂の型」と同じ話だと思うが、私は割と昔から「ソウルメイトに出会いたい」と考えてきた。しかしやはり、筆者が書いている通り「『魂の型』が変化する」が故に、それはとても難しいことでもある。出会ったその時に「魂の型」が同じ必要があるからだ。やはりそれも「偶然」としか言いようがないだろう。

自分らしく生きようと純粋さを守ることは、絶え間なく流れ込む不純物との戦いであり、それはあまりにも孤独で疲弊する道のりだ。だから時折、不純に染まり自分を投げ打って生きればどれほど楽かとも思った。だがやはり、快楽のためだけに人生を生きることに、どうしたって納得いかなかったのだ。

濁りゆく世界の中で、私はまだ、一切の汚れがない海を夢見ている。けれど同時に、流れ込む不純物を飲み込みながら、自分にしか出せない「解釈」という色を編み上げていきたい。その重なりこそが、死ぬ間際に「それほど悪くなかった」と思える唯一の証になると信じて。

将棋は、「駒を1つも動かさない初期配置が最も守りが堅い(隙がない)」と言われている(はずだ)。しかし、それだと攻撃できない。だから、防御を緩め、相手の侵入を許すことになったとしても、駒を動かして相手陣地へと攻めていくのだ。筆者の主張はそんな将棋の戦いにも近いものがあるなと思う。誰とも一切混じり合いたくないなら何もしなければいい。しかし他者との関わりを望むなら、自分の形を変えるしかない。そんなジレンマを抱えながら生きていくしかないというわけだ。

私は感情を、炎のようなものだと考えている。
炎は自然に燃えあがることもあるが、放っておけばやがて消える。薪や燃料がなければ、燃え続けることはできない。
長く続けたい感情や関係があるなら、自ら薪をくべ続けなければならない。
逆に、消えてほしい怒りや執着があるなら、薪を足さなければいい。
何を自分の意志で継続させるか。
それもまた、自分の選択なのだ。

「シロクマのことだけは考えるな」という心理学の有名な実験があるが(詳細は各自調べてほしい)、「忘れなきゃ、忘れなきゃ」と思えば思うほど思考が強化され忘れられなくなるという話だ。それはまさに薪をくべているのと同じことだろう。同様に、外部要因によって続いているように思える状況でも、実は自分が燃料を足し続けていただけだったなんてことは案外多いのかもしれない。他者との関係においては、こういう点もまた難しいなと思う。

そこで私は、「方言を一切話さないようにする」という些か極端かつ的外れなやり方で、自分の中の「言葉の強さ」を取り除こうとした。中学生か高校生の頃には、自分が話す言葉には方言はほとんど現れなくなったと思う。

上京して働き始めると今度は、職場で関わる人が使う言葉に対して違和感を覚え、意識的に自分の語彙や表現に取り入れまいと努めるようになった。ベースとしての口汚さや、さらに女性の配偶者を妻ではなく「嫁」や「かみさん」と呼ぶような習慣を伝染されまいと、どの言葉や表現を自分の語彙に取り入れ、どれを取り入れないかをより意識的に弁別するようになった。

本人が「極端かつ的外れ」と言っている通りではあるが、しかしここまで頑なに「混ざらない」ことを選択できるものなのか(しかも中学生くらいの段階で)と驚かされた。このようなスタンスもまた清々しくて良いなと思う。

アニメが与えてくれた生きる意味は、数時間後には自前の論理によって粉々に打ち砕かれる。真面目な話ができない同級生、受験というシステムに囚われた教師、そして、どうして産んだんだと、そんな残酷な問いを突きつけることなどできるはずもない両親たちが私を孤独にする。孤独の中で唯一縋った創作上のヒーローたちでさえ、私の拗らせた理屈の檻を壊してはくれない。

極端に言えば、「『外界が存在する』という事実そのものが自身の『孤独』の源泉である」というような主張なのだろうし、なかなかハードな自己認識だなと感じる。もちろん「外界のすべて」がそうさせるわけではないだろうが、そんな風に感じられてしまうのだろう。そしてそんな筆者が結局行き着いたのが「onecafe」だったのである。

そして今、私は哲学対話の席についている。言葉を自由に、遠慮なく交わすその場所は、私にとってひどく居心地の良いものだった。「対話なんて飽きた」と口では言いながら、結局はこのコミュニティに居続けてしまっている。

こんな風に、哲学カフェ(哲学対話)には人生に対するスタンスが様々な人たちが集まってくるわけで、だからこそ面白いとも言えるだろう。

すると、ここにいる人たちは、問いに対してなにか一つの「正解」を持っているわけでも求めているわけでもないんだなあと感じてきた。むしろ、普段の社会生活の中でなんとなく正解とされている問いに対して、各々ができる限りの経験談や考えを持ち寄り、あーでもないこーでもないと呟く。個々人の経験談や価値観は、この「あーでもないこーでもない」のための素材の一つでしかなく、それ以上でもそれ以下でもない。だからこそ、普段は絶対に言わないような家庭環境の話や、独特の価値観を多くの人が怖がらずに話せるのではないだろうか。

さらに言えば、哲学カフェ(哲学対話)は「『私』と『社会(現実)』を繋ぐ中継地点」と言ってもいいのかもしれない。

哲学対話はカタルシス的な行為であり、カタルシスは逃走的な側面を持つ。哲学対話では、自分自身の言葉、あるいは他者の語りによって、日ごろ心の中に鬱積している情緒が解放され、それによって快を得る過程、すなわち浄化の経験が生じる。
自分の鬱積した情緒を言葉にして外に出す「カタルシス」は、まさに精神的な逃走だ。そしてそれは、日常や現実からの逃走でありながら、現実社会へ再び戻るための準備でもある。語ることは、自分と現実の間に適切な距離を保ち、生き急がないための処世術なのだ。

そしてだからこそ、そこは「救いの場」ともなり得るのだ。

ただ、私にとっては、背負っていた重荷がほんの少しだけ軽くなる「きっかけ」になったのは事実だ。もしかしたら、この場所でなくても、いつかはこんな「きっかけ」が訪れたのかもしれない。でも、私はonecafeというこの「設定」された場に救われた。

筆者は哲学カフェ(哲学対話)について、「生活に追われ、今日のパンを確保することに必死な人にとって、正解のない問いを『うだうだ』話す余裕なんてないはずだ」「ひどく贅沢な遊びではないか、という疑念は今も消えない」なんて風にも考えている。しかし、「他の人にとってどうか」などどうでもいい。自分にとってそこが「救いの場」だと感じられるなら、それ以上に大事なことなどないだろう。

また、「救われた」という感覚は「救いたい」という気持ちを呼び覚ます可能性を孕んでもいるはずだ。

私もまた、彼女のように、誰かの人生に光を与えられるような存在になりたい。彼女から貰ったものを自分の中で育て、混ぜ合わせ、今度は私の一部分として、誰かに繋いでいきたいと思う。

「なんでそんなに人を敵視するの?」
人間関係を拗らせた元友人に、我慢できず放った言葉。つぎはぎの糸で辛うじて繋ぎ止めていた関係が、ぷつりと千切れた。その一言は彼女の刺々しい防御機構を暴走させるだけで、私はその中にある震える本体に触れてあげることはできなかった。彼女を救いたいと願ったはずが、その「救済」という名の傲慢さによって、照らし出されたのは私自身の心の醜さだった。それでも。救済への祈りは、今も止まない。

そして、「救われた/救いたい」という感覚は、「私」を「社会(現実)」へと接続させる動機にもなり得るだろう。

そう考えると、旅という存在は実にありがたい。
普段の生活から物理的に切り離され、帰ってきたときには心にわずかな余白が生まれている。この余白によって、私たちは緩やかに日常・社会という名の地獄へと帰っていくことができる。生き延びるために脱走し、また戻る。この繰り返しで、どうにかこのドブカスな社会を生き抜いていくのだ。

そう、私たちは「地獄」に生きているのである。そして、「地獄だと分かっていながら、なおそこに戻る動機を探し出さなければならない」のだ。なんとも難儀な人生である。

天国でも地獄でもなく
私はあなたの肺がいい


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