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東風、地を翔ける 序章 帯方⑥

【前回までのあらすじ】
 誉田別大王の後継争いが燻る倭国で、荒田別と鹿我別は密命を受けて半島へ渡る。しかしその進軍は、帯方郡の漢人遺民を逃がすための囮にすぎなかった。
 偽装退却の罠にはまり、高句麗の歩騎五百余に取り囲まれた倭軍は恐慌状態に陥り、「倭寇潰敗、斬殺無數」と後の世で記されたとおりの惨状となった。

→帯方への道をたどる……

「せめて利根川の河原じゃったら、石合戦であやつらの脳天をかち割ってやれたのにのう。
 残念ながら、石礫のひとつも転がっておらんわ」
 後陣で、絶望的な戦況を一望していた鹿我別は思わず嘯いた。

「弟よ、甲を脱げ。川に飛び込むぞ」

 荒田別はもはや敗北を悟っていた。圧倒的な力の差は目の前の現実が物語っている。
 挂甲の繋ぎ目を大刀の刃先で断ち切ると、奥津城の副葬品として共に長い眠りにつくはずだった愛用の甲を惜しげもなく打ち捨てた。
 退路は濁流の中にしかなかった。

「兄上、兵たちは内陸育(おかそだ)ち、泳げぬものも多いぞ。
 ましてやこの川の流れ」
「全員は助からぬ。運に身を任せるしかあるまい」
 そう答えると荒田別は声を張り上げた。
「引けいっ。
 泳げるものは川に飛び込め。
 泳げぬものは時間を稼ぐため最後まで闘え。
 死を恐れるな。
 赤城の大神が我らを故郷に導いてくれよう」

 生き残った兵士たちが次々と飛び込んだが、みるみると流されていく。
 兵士たちの姿は次第に白泡の中に吸い込まれていった。
 必死に手足をばたつかせる者、恐怖で声も出ずもがく者、河岸に手を伸ばしつつも濁流に呑まれていく者。

 ――何人助かるだろうか。 

 荒田別は、鹿我別を先に逃がすと、しばしの間弓矢で援護し、兵士らの退路を開いた。
 そして、せめて一矢報いようと、原始和弓ともいえる重心の低い大弓の弦を引き絞った。

 狙いは土手の上で采配を振っている金色に輝く大将だった。

 弓弦が鳴るとともに鋭い矢が空を裂き、弧を描きながらまっすぐに金色の甲の貴人へと向かっていく。
 敵将は一瞬の硬直の後に慌てて身をひるがえしたが、鋭い鉄の鏃が頬をかすった。

 それを見届けると、荒田別は大刀も弓も投げ捨てて岸壁まで走ると、流れに身を投じた。臨津江の流れは、深く、冷たく、あまりにも急だった。

 折しも、川下から吹き上がる風が逆波を立てながら川面を激しくなめていく。
 荒田別は重く冷たい濁流に身を任せながら、逆巻く無数の白い波頭が幾千もの馬になって群走するのを見た。
 荒れ狂う波と幻の馬は完全に同調し、それ自体生命があるかのように疾駆した。

 うっとりするほど美しい光景であった。
 馬という生き物は本当に美しかった。

 ――願わくば、毛野の地にあの美しい馬を連れ帰りたかった。馬がおれば、東国は大和に……。

 荒田別はその狂気にも似たうねりに揉まれ、やがてその意識ごと暗く冷たい水底へと沈んでいこうとした。
 意識が完全になくなる前に、荒田別は無数の脚のある大きな影が川面に覆いかぶさるのを見たような気がした。
 影は金色に輝くと厳かに告げた。

 「荒田別よ、なんたる失態か。
 だか、そなたにはまだ役割がある。毛野に足りぬものをそなたは手に入れるのだ。
 わしの和御魂(にぎみたま)でそなたを救ってやろうぞ」

 ――赤城様が本性である大百足のお姿になってはるばるやって来たのかのう。

 そう思った刹那、触手のような脚が伸びてきて荒田別の襟首を持ち上げた。
 次の瞬間強い力で引き寄せられた。

***

「殿、殿、お目覚めください。殿」

 朦朧とする意識のなかで聞き覚えのある声がした。
 今にも泣き出しそうなその声の主に激しく身体を揺さぶられて、荒田別は我に返った。
 大百足と思われたものは巨大な漕船の船影であり、荒田別の襟首に差し込まれたのは船の櫂であった。海人たちのたくましい腕が荒田別を引き上げたのだった。
 船上にはすでに十数名の兵士が救護されていた。

「奈良別か」

 鹿我別の孫で、荒田別にとっては大甥にあたる少年だった。
 今回の外征が初陣のはずだったが、思うところがあって伝令役として海人のもとに残しておいた。

「荒田別殿、ご無事で何よりです」

 産声をあげたばかりの赤子のように、飲み込んだ水を苦しげに吐き出す荒田別に近づく人影があった。

「どうぞご安心ください。
 鹿我別殿も、別船にてすでに救い出しております」

 逆光でよく見えなかったが、まだ髭も生えていない若い海人のようだった。

「荒田別殿は、すでに無事に救出した。
 これ以上の逗留は不要や。
 ただちに退く。帆を下ろし、船を旋回させよ」

 海人は振り返ると、厳しい声で各人に命じた。凛とした、よく通る声だった。

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