東風、地を翔ける 序章 帯方⑤
【前回までのあらすじ】
誉田別大王の後継争いが燻る倭国で、荒田別と鹿我別は密命を受けて半島へ渡る。しかしその進軍は、帯方郡の漢人遺民を逃がすための囮にすぎなかった。物語は、彼らの任務の背景として、檀君・箕子の建国神話からの古朝鮮、漢四郡の興亡、高句麗・百済の台頭までを俯瞰する。やがて両国の抗争が激しさを増すなか、倭国は漢人遺民救出のために動き出す。
→帯方への道をたどる……
さて、馬の鳴き声は、古代の人々にはどのように聞こえていたのだろうか。
語頭のハ行は、かつてパ行、ファ行を経て変化した音であり、現在の形に定着したのは近世以降である。
つまり、古代人の耳に馬の声が「ヒヒーン」と響くことはなかった。
手がかりは「い・ななく」という語にある。正解は――。
イイーン――。
白い霧の向こうから、低く長い嘶きが響いた。遠雷のように、大気そのものを震わせながら。
荒田別と鹿我別は、その不吉な長嘶を耳にしながらも、それがおのれの知る戦いの世界を根底から覆す兆しであることを、まだ理解できずにいた。
偽装撤退――「釣り野伏」を想わせる陽動と伏兵を巧妙に組み合わせた戦法である。その起源は古く、騎馬民族の得意とするものであった。
彼らは退却を装いながら倭軍を翻弄し、巧みに伏兵の待つ決戦場へと誘い込んだ。
荒田別の直感は、いままさに自らがその術中に嵌まりつつあることを告げていた。
***
突如、世界が息を潜めたような静寂が訪れた。
次の瞬間、爆発するような蹄音が地を揺るがし、霧が蹴散らされたかのように晴れ渡った。
視界が開けると、目前にはところどころ芝に覆われた河畔が広がり、その前方にいまだかつて目にしたことのない巨大な砦が浮かび上がった。
赤い高句麗瓦で葺かれた石積みの堅固な城は、臨津江がその支川と交わる岸壁で囲まれた小高い土地に築造された対百済最前線の防塁である。
今では瓠蘆古塁(ホロゴル)と呼ばれ、崩れた石積のみが残る城塞は、かつてはその美しい偉容にふさわしい名で呼ばれていたに違いない。
***
気がつけば、高句麗の歩騎五百余が倭軍を取り囲んでいた。
丘の上から戦況を見下ろしている、護衛に囲まれた金色に輝く甲を纏った騎乗の貴人が大将だろうか。
兜の頂には、ヤクの毛を赤く染め上げた旄頭が炎のようにたなびいていた。彼の傍らに黒い軍旗が掲げられている。
その貴人が高く挙げた手を振り下ろした瞬間、突撃の合図が響き渡った。
鬨の声とともに騎馬は疾風のごとく前進し、波濤となって戦場を縦横無尽に駆け抜けていく。
***
無数の矢羽が空を覆った。殲滅戦の始まりである。
赤化粧を施した異形の兵士たちは瞬く間に包囲され、矢が唸りをあげて飛来するただなかに晒された。
タヒの系統を引く蒙古馬は東アジア人の短躯によく馴染んだ。
高句麗ではさらに小型の果下馬(かがば)が重用された。俊敏で小回りが効き、持久性に優れているこの小型馬は、その生来の硬い蹄で大地を蹴り、飛ぶがごとく戦場を走り抜けた。
百騎ほどの軽騎隊は、矢哮(やたけび)とも、あるいは馬を御する号令ともつかぬ異様な叫びをあげた。その声に呼応するかのように馬は一糸乱れぬ機敏な動きを見せた。
疾駆する馬を操りながらも、放たれる矢は驚くほど正確であった。
瞬く間に飛来音が交錯した。
逃げ惑う倭軍兵士の背中は次々と矢に射抜かれていく。
矢は肩を貫き、脚を砕き、首筋に深々と突き刺さった。倒れた者は叫びを上げる間もなく地面を転げ回り、やがて馬蹄に踏み潰されていった。
次に槍を得物とする重騎兵が突入した。長槍の穂先は陽光を反射して閃き、逃げ場を求める兵を容赦なく突き刺した。
歩兵が騎兵に対抗するにはファランクスや槍衾のような密集戦法で耐えるくらいしか方策はないのだが、身を守るには木盾は脆弱であり倭軍は恐慌状態となった。
恐怖と混乱の渦のなか、固まるどころか雪崩を打って敗走し、倭軍の陣形は完全に瓦解した。つまるところ総崩れとなった。
対新羅戦で威力を発揮した長矛や自慢の大弓も、機動力で圧倒する騎兵の前では無力だった。
最後に歩兵が投入され、敗残者を掃討していった。
槍、斧、刀剣と思い思いの得物を手にした彼らは、既に戦意を喪失した敗走者を無慈悲に切り捨てていった。鋼の刃が振り下ろされるたびに、血煙が舞い芝を赤く染め上げた。
誰もがおのれの身を守ろうと逃げ惑った。
だが、その背を追う蹄音は途絶えることなく迫り、振り返った時にはすでに刃が背中を貫いた。
断末魔の呻きが河畔を覆い尽くしていた。
この一方的な戦闘は後に「倭寇潰敗、斬殺無數」と碑文に刻まれることになる。
***
太田郷の農民、タニグクが逃げ込んだ辺りにも、矢が雨のように降り注いだ。頭上で唸りをあげ、背後から悲鳴が響くたびに、タニグクは思わず肩をすくめ、ただでさえ小柄なその身を縮こまらせた。
木盾を掲げても、次の矢がどこから飛来するのかは分からない。握りしめていたはずの鉾は、いつの間にか手元から消えていた。
すぐそばで、同郷の仲間が矢に射抜かれて倒れこんだ。飛び散る血がつぶれた曼珠沙華の花弁に重なり、赤と赤が泥の上で混ざり合う。
「もたもたすんな。タニグク、おめは逃げろ。はやく飛んでけ」
倒れた男が、強い東国訛りで叫んだ。だが、退くべき方角すら分からない。どちらへ走っても、背後から蹄の地響きだけが追ってくる。泥濘なのか血だまりなのか、どろどろした地面が足を捉え、足裏がずるりと滑った。
ただ、生き延びたい――。
その思いだけが、タニグクの胸を焦がした。
重騎兵の影が迫っていた。槍の穂先がこちらを狙っているのが見える。逃げたいのに、両足が地面に縫い止められたように動かない。隣の兵が槍で突き倒され、鮮血が顔に飛び散った瞬間、ようやく足が勝手に前へ出た。
だが、走り出した先にも歩兵の刃が待ち構えていた。仲間が斧に叩き割られる光景が、視界の端に焼きつく。
戦場は、断末魔の呻き声と馬蹄の響きで満ちていた。
どれほど走っても、後方から迫る蹄音は途絶えない。泥濘に足が沈み、泥が跳ね、ゼイゼイと荒い息が漏れた。
追われ、追いつかれ、倒れ、踏みつけられ――逃げた者は皆、同じ末路を迎えていった。
敗北の現実は、もう誰の目にも明らかだった。
「押っぺすな。左だべ、左さ逃げろ!」
叫びながらも、どの方向も安全ではないことは分かっていた。
背後に迫る馬の影。倒れ伏す仲間を飛び越えた、その瞬間、鋭い矢が肩をかすめる。痛みが全身に走り、鮮血が熱く滴り落ちた。
もはや、逃げ場はなかった。呼吸は荒く、足は震え、恐怖で思考は霞んでいく。振り返ると、槍の穂先が迫り、刃の閃光が目に焼き付いた。
「こけなおっかねえとこ、もうたくさんだ……」
心のなかで呟いたその瞬間、タニグクは膝から崩れ落ちた。背中に致命傷を受けていた。血の混じった泥の匂い。ぬかるんだ地面の冷たさが、なぜか心地よかった。
最後に見上げた空は、どこまでも澄み渡って広がっていた。
この空は毛野につづいているのだろうか。
視界の端に映る赤色は兵士たちの流した血なのか、曼珠沙華の花弁なのかもはやぼんやりとして分からなかった。
周囲の喧騒はまだタニグクの耳に届くが、それもだんだんと遠くなり、まるで夢のように遠ざかっていく。
荒い息が途切れ、身体が動かなくなった。
戦禍のただなかでタニグクの意識は静かに消えていった。
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