東風、地を翔ける 序章 帯方④
【前回までのあらすじ】
誉田別大王の後継争いが燻る倭国で、荒田別と鹿我別は大王の密命を受け半島へ渡る。東国の古兵である彼らは、王権への複雑な思いを抱えつつ進軍するが、作戦の裏では幾つもの思惑が交錯していた。そして、彼らは帯方遺民の脱出劇を成功させるための囮に過ぎぬのだった。
→帯方への道をたどる……
ここで、楽浪郡・帯方郡の歴史を、さらりと紐解いておこう。
まずは前史から――。
太古の昔、朝鮮側の伝承によれば、天帝と人間に化生した熊女とのあいだに生まれ、白頭山に降臨した檀君こそ、韓族・濊族すべての始祖王であり、民族統合の象徴である。
過去のみならず現代に至るまで――。
彼が創ったとされる国家を檀君朝鮮という。
一方、中国側の史書では、殷の系譜を引く箕子が建てた箕子朝鮮こそ最初の国家とされる。
ここまでは、韓・漢双方の建国神話である。
史実として確実なのは、紀元前二世紀、燕からの亡命者・衛満が秦末漢初の動乱を逃れた漢人流民を率い、朝鮮半島北部に衛氏朝鮮を建てたことである。
この三つの王朝を総じて古朝鮮と呼ぶ。
衛氏朝鮮は紀元前一〇八年、漢の武帝に滅ぼされ、その故地には漢四郡が設置された。
四郡のひとつ楽浪郡は、漢城から平壌を含む要衝に位置し、他郡が短命に終わったのとは対照的に、中原文化の拠点として長く機能しつづけた。
太守など上級官僚は中央から派遣されたものの、漢人入植者は大地に根を張り、紀元前四五年には人口二十八万に達したともいわれている。
この頃、半島の土着勢力も建国の揺籃期を迎えていた。
紀元前一世紀には白頭山を源流として黄海へと注ぐ鴨緑江流域を故地として濊族系の高句麗が興り、半島南部には紀元前二世紀から四世紀にかけて、韓族の馬韓・辰韓・弁韓の三つの小国家連合が並存した。
のちに馬韓は百済、辰韓は新羅、弁韓は伽耶諸国へと発展していくことになる。
やがて三国志の時代、遼東の地方勢力・公孫氏が楽浪郡を実効支配し、南部が帯方郡として分割される。
公孫氏は二三八年に魏により滅ぼされ、両郡は再び中原王朝の直轄地となったが、華北で五胡十六国の動乱が始まると、それに連動した高句麗の侵攻により滅亡した。楽浪郡は三一三年、帯方郡は翌三一四年のことである。
四百年におよぶ漢人植民地の歴史はここに幕を閉じた。
千余世帯が鮮卑の支配する遼西へ亡命したが、多くは逃げ遅れ、二千余人が高句麗に捕えられ連れ去られた。
孤立無援の彼らに、江南へ逃れた東晋から救いの手が差し伸べられることはついになかった。
倭国から見れば両郡は中原の出先機関にすぎなかったが、韓族や濊族にとっては唾棄すべき侵略者の象徴であった。
ただ、帯方太守との婚姻関係があったと伝えられる百済、あるいはその前身の伯済だけは漢人遺民に同情的であったのであろうか。百済建国の初期段階には漢系の人々の登用が垣間見られるのである。
***
さて、微視的に一地方の興亡を説いてもやはり限界がある。ゆえに、読者諸氏には冗漫かもしれぬが、いったん朝鮮半島を離れ、大陸の情勢を俯瞰してみたい。
紀元三世紀から顕在化した寒冷化は民族の大規模な流動を招き、ユーラシア大陸の東西にカタストロフィックな混乱をもたらした。
中国では、二九一年の「八王の乱」が引き金となり、北方民族を傭兵として動員したことが、逆に永嘉の乱を招いて西晋を破滅へ導いた。三一六年、西晋は滅亡し、華北は五胡と呼ばれる諸民族の支配下に入り、多くの王朝が興亡する五胡十六国時代が幕を開く。
西晋の王族や遺臣は南へ逃れ東晋を建て、四二〇年には宋が台頭し、四三九年に北魏が華北を統一して南北朝時代が始まる。
ローマでもまた、皇帝の乱立と異民族の侵入が重なり、「三世紀の危機」と呼ばれる混乱に陥った。帝国の東西分裂後、西ローマは四七六年、ゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによって最後の皇帝が廃され滅亡する。
漢人植民地の最期は、植民者と在地の民の融合の度合いこそ異なるが、その百年後にブリテン島のローマ系住民が辿った運命にも似ているかもしれない。
四〇九年、ローマ軍が撤退するとその間隙を縫うようにゲルマン人が上陸した。フン族の進攻を端緒とする民族大移動が始まっていたのである。以後、滅亡の危機に瀕したローマ本国はブリテンの救援に応じることはなかった。
大陸東西の帝国は、いずれも内部分裂と異民族傭兵の反乱が崩壊の要因となった。
一方で、乱世に救済を求める人々の間に、民族を超えて慈悲や愛を説く世界宗教が浸透した。――東には仏教、西にはキリスト教が国家レベルで受容され、さらには異民族へと伝播したことは特筆すべき現象であろう。
人間の精神世界は死後の救いを求める新たな段階へと進み、現世は祈りに満ちた。これをもって、古代はひとつの終わりを迎えたと言ってよい。
倭国に目を向けると、三世紀半ばの邪馬台国から五世紀の倭の五王に至るまで、混乱極まる中原王朝の史書から倭国の記事が途絶する。いわゆる「空白の四世紀」である。
当時の倭国は「古墳寒冷期」と呼ばれる低温湿潤期にあり、ここでも気候変動に伴う民族の玉突き現象が起きていた。このことについては、また別の機会に触れることとしよう。
***
さて、再び朝鮮半島情勢に目を転じよう。
西暦三七一年、百済の近肖古王は高句麗の首都平壌を陥落させ、高句麗の故国原王を討ち取るという快進撃をみせる。
楽浪・帯方の故地も百済の保護下に置かれた。倭国に推定三六九年製作の七支刀が送られたのもこの頃である。
だが、広開土王こと永楽大王の反転攻勢により百済はじりじりと退敗。
三九六年には水陸両面からの進撃で都の慰礼城が陥落し、漢江以北を高句麗に奪還される。
誉田別大王が、古参の将である毛野の荒田別、鹿我別兄弟に高句麗進攻と漢人遺民救出の密命をくだしたのはこのように百済、高句麗両国が相克し合う緊迫した情勢下であった。
「兄上、もう戻ってもよいじゃろ。百済で補充した兵糧も尽きる。見知らぬ土地で深追いは無用じゃ」
「いや、わしは馬とやらの戦を見てみたい。あのヒョコヒョコした生き物が、ただの飾りとは思えぬ」
「あんな角のない鹿のようなもの、我が軍自慢の長鉾で突けば一息よ」
張蔚と名乗る漢人将軍は、横幅のある体躯に八字髭をたくわえ、荒田別らを一瞥すると、短く言い残した。
「当心馬」
――馬に用心せよ。
倭語にも漢語にも通じる百済の通詞は、跳ねるような仕草で手綱を操りながら、その言葉の意味を伝えた。
そもそも「ウマ」という呼び名自体が、漢語の馬(mǎ)に由来する古い借用語である。
名は知っていても、その正体を見た者はほとんどいなかった。
荒田別らにとって、馬は未知の獣だった。
角も牙もなく、蹄だけを備えた細身の体躯。だが、その脚は風のように地を蹴り、人の足では到底追いつけぬ速さで駆けるという。
古墳時代以前の倭国に、馬がいた確かな証はない。
文献に姿を現すのも、応神朝に百済王が番の馬を献じたという記事が初出とされる。
それ以前の倭人にとって、戦争とは徒歩(かち)で行うもあり、獣は狩猟の対象であって、人が乗りこなすものではなかった。
かつて北米大陸の大平原で速さを極める進化を遂げたこの獣は、氷期の終わりに故郷の大陸で絶滅し、ユーラシア大陸に渡った群れのみが生き延びた。
やがて馬は、遥か西方の草原で人と結びついた。人の手によって馴らされた彼らは、戦争と移動の概念そのものを変えていく。
馬は軍事史において決定的な役割を果たしてきたが、その起用は段階的であった。
紀元前二千年頃、まず戦車を牽く輓獣として戦場に登場した。だが、人馬一体となった弓騎兵の登場は、紀元前八世紀、ポントス草原で興ったスキタイを待たねばならない。
彼らの高速機動と騎射戦術は、戦争の様相を一変させた。
騎射は長らく、幼少期から馬とともに生きる遊牧民の専売特許であったが、鞍と鐙の発明によってこの前提は覆される。
これらの馬具の登場により農耕民でも安定した騎乗が可能となり、戦場の主役は戦車から、より柔軟で機動力に富む騎兵へと移行していった。
二十一世紀において、野生馬はすでに地上から姿を消している。例外は、神の乗獣として聖別されてきたモンゴルのタヒ(蒙古野馬)のみである。
そのタヒですら、一度は故郷の草原で絶滅した。現在の野生群は、動物園による種の保存運動の成功例である。
ユーラシア北方を東西に貫く草原の道――ステップロードは、シルクロードより遥か以前から東西交流の場であった。
そこではスキタイ、匈奴、フン、モンゴルといった遊牧勢力が興亡を繰り返し、略奪と交易、衝突と融合を通じて独自の文明圏を形づくってきた。
この草原世界は、東西文明の十字路であると同時に、軍事と文化の革新を生み出す揺籃でもあった。
そして、扶余や高句麗は、そのステップロードの東端に位置していた。
パルティアンショットを繰り出す騎乗狩猟の場面や、アトラスのごとく天井を支える西方風の顔立ちの力士像――高句麗古墳群には、墓主たる王侯貴族の肖像画とともに、往時の高句麗の風俗や想像上の霊獣が鮮やかな色彩で描き残されている。
きらめく王冠やイヤリング、金具つきのベルトなどの華やかな金銀装飾に加え、現代の洋装の原型ともいえる左衽筒袖の胡服、さらには天帝と水神の娘から始祖が生まれるというスキタイ型の降臨神話まで――。
韓族や倭国の支配層は、漢文化を受容する以前には、高句麗を経由して遥かユーラシア・ステップの文化から強い影響を受けていた。
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