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東風、地を翔ける 序章 帯方③

【前回までのあらすじ】
 西暦404年、荒田別率いる東国兵は密命を帯び臨津江を北上した。新羅の黄金を夢見た兵たちは帯方の地で疲弊し、農民兵タニグクは家族のため生還を誓う。だが霧の奥で彼らを待っていたのは、高句麗の弓騎兵だった。

→帯方への道をたどる……


「先般、わしらが迎えに行った王仁博士じゃが、もともとは楽浪の漢人貴族の出身だったそうじゃ。
 十中八九、今回の作戦は王仁博士の入れ知恵じゃろうのう。菟道稚郎子皇子の献策もあるかもしれんが」
 荒田別はなにやら思案げに語り始めた。

 誉田別大王の末子・菟道稚郎子は、大王のたっての希望で渡来系知識人による英才教育を受けており、この時代の倭国の支配層としては珍しく漢籍に通じていた。

「菟道稚郎子皇子は目から鼻に抜けるほど聡いお子だそうな。
 大王は愛らしくも聡明な皇子を溺愛して、何かにつけて特別扱いされておるが、代替わりはすんなりといくかのう。
 大鷦鷯皇子(後の仁徳天皇)、大山守皇子、隼別皇子、挙げればきりがないが、くせ者揃いの兄上たちがあっさりと皇位を諦めるとは思えんが……」

 もはや恒例行事となりつつある皇位継承をめぐるゴタゴタは、地方勢力にとっても無関心ではいられなかった。

「誉田別大王の跡目争いなぞ、わしらがとうに死んだ後の話よ。
 先代のお子、麛坂皇子と忍熊皇子は気の毒であったがな。戦上手で神がかった気長足姫には勝てんよ」
 鹿我別は先帝足仲彦大王(仲哀天皇)の継承戦争を持ち出して、話の穂を継いだ。

 先帝亡き後に誕生した誉田別大王と異母兄である麛坂皇子と忍熊皇子が皇位を巡って争った戦いである。
 無論、誕生間もない誉田別大王の代理人として、実際に二皇子と対峙したのは母后である気長足姫であった。

「なに、気の毒なのは東国勢を率いて負け戦に乗った胸刺の五十狭茅宿禰であろうよ。
 勝敗を見誤ると大概なことになるのう」
 荒田別は嘆息とともにそう吐き捨てた。

 胸刺国の国造であったとされる五十狭茅宿禰は忍熊皇子らの側につき、東国兵を率いると、三韓征伐から凱旋した気長足姫を迎え撃った。
 不吉なことに、麛坂皇子は勝敗を占う誓約(うけい)の狩りで猪に襲われて落命してしまう。
 五十狭茅宿禰は皇后軍の術中にはまり、偽りの和平で武装解除したところを急襲され、命運尽きた忍熊皇子ともども入水し果てた。

「それにしても、大王はなんでまた事あるごとにわしらに難儀なお役目を押しつけるのかのう?」
 鹿我別は怪訝そうに尋ねた。
「わざわざ東の果てからわしらを呼びつけなくとも、西国のやつらで事足りる話じゃろ。大和から支給された鉾先や鏃を武器に仕上げるのに一年かかったわ。
 そもそも毛野は鋤の刃先すらも満足に手に入らんし、柄にするのにちょうどいい軽くて強いイチイガシも生えておらぬ。アカガシの柄は重うて敵わん」

***

 さて、話は少しばかり過去に、始祖王ハツクニシラスの亦の名を持つ御間城入彦大王(崇神天皇)の御代に遡る。
 その皇子、豊城入彦命は、夢見ひとつで運命を選び取ったという。――皇位ではなく、東国という広大かつ未踏のフロンティアを。
 荒田別と鹿我別はこの皇子の四世孫に当たる。

 彼らは、果たして在地勢力なのか、皇別氏族なのか――。

 史料批判という現代の知性で伝承を訛伝と決めつけるのは容易かろう。
 だが、この貴種流離譚の残像ともいえる皇子を始祖と仰ぐ彼らは、今となっては知る術もない独自の神話と系譜を語り継いできたことだろう。
 ――夏には雷鳴がとどろき、冬にはからっ風が吹きすさぶ天空と、活火山が咆哮し、暴れ川がのたうつ大地のあいだで、並みいる暴神が遍在する北関東の風土に抱かれながら。

 彼らは対蝦夷戦の先鋒でありながら、朝鮮半島との外交・外征に早くから携わり、東国一の豪姓大族として北関東に蟠踞したのみならず、後に上毛野氏を筆頭とする東国六腹朝臣として中央貴族としても活躍した。
 一見矛盾するその属性が、そのまま王権に対する彼らのアンヴィバレンスにつながったことは想像に難くない。

***

「畿内や西国は密かに新羅に通じておるから信用ならぬ、と大王はお考えなのじゃ」
 荒田別は苦虫を噛み潰したような顔で答えた。
「もっとも、我らが信頼されている訳ではなかろうよ。
 無骨な東国人には大和と新羅を天秤にかけるような駆け引きなぞできぬと見下されておるだけじゃ」

 国策としての渡来人の大規模な受け入れはこれが初めてではなかった。
 弓月君の率いる百済百二十県(あがた)の民の先例があった。
 畿内の有力者である葛城襲津彦は、誉田別大王の命を受けて、弓月君の民の来朝を妨害する新羅を誅するために渡海した。
 にもかかわらず、当の新羅に懐柔されて、噂ではあてがわれた二人の美女に籠絡されて、あろうことか弓月君の民を保護していた伽耶地方の盟主、伽耶を攻めて国際問題となったばかりであった。

 弓月君の民が百済人なのか、新羅人なのか、あるいは漢人なのかについては諸説あるが、彼らは後に渡来系氏族である秦氏を形成し、秦の始皇帝の末裔を自称した。

 気長足姫の進攻当時、血気にはやる若者だった荒田別と鹿我別ももはや老年の域に達しており、大きく結われたみずらにもたっぷりとしたあご髭にも白いものが混じっていた。
 古代を通して毛野は対蝦夷戦の前哨でありつづけた。荒田別と鹿我別は百戦錬磨の古強者だった。

***

 獰猛、もとい勇猛果敢な倭軍が海を越えて、半島北部の帯方郡の故地に攻め込む。

 この突然の進攻は、時に中原王朝とも干戈を交える軍事大国、高句麗に相当のインパクトをもって受け止められたはずである。
 そしてまた、友軍である百済の協力なしにはありえない軍事作戦であった。
 荒田別らは国境近くの漢江河口で旧知の百済の将軍、木羅斤資と顔を合わせた。老将軍は第一線を引退し、息子の木満致の時代になっていた。

 だが、この作戦は百済主導ではなく、張将軍と呼ばれる漢人の指揮下にあった。
 その張とその配下百名足らずの精鋭はすでに高句麗支配地域に潜伏し、この時点で荒田別率る倭軍とは別行動を取っていた。

 倭軍が高句麗軍を惹きつけている間に、張たちは秘密裏に取り残された漢人たちを引き連れて滅悪山を水源として北上する載寧江を船でくだり、黄海に出て海路から百済に脱出するという壮大な計画であった。
 倭軍はこの陽動作戦のいわば囮――なのである。


→次回、決戦前に歴史を俯瞰する……

←物語の始まりへ……

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