陰翳礼讃の空間に息づくものたち
ウチとソトが極めて近い。性質の異なる異空間を物理的に繋ぎつつ、緩衝領域を内包するバウンダリーオブジェクト。それが個人的に「古民家」に抱く印象である。
最近、巷ではグランピングなるものが流行っているようだが、それは古くから存在する日本家屋を拠点にその庭や周辺の里山環境を楽しむことができる「古民家」を横文字に言い換えただけのような気がしている。

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そして都会であっても里山であっても、キャンプ場であっても古民家であっても、そこでの「暮らし」の基本は衣食住である。
暮らしの衣
特に古民家仕様の衣類(和装?)は持ち合わせていないが、土間と居室との行き来には段差の昇降や下履きの脱ぎ履きが伴うし、炊事、洗濯、掃除をするにも基本的には動きやすい格好が良い。
私は普段からそのまま山を歩いたりキャンプを始められそうな格好をしていることが多く、それは『里山文庫』の古民家滞在中も特に変わらない。

手拭いは入浴、汗拭き、手拭きなど生活のあらゆるシチュエーションで使えて便利
穴あきやほつれを繕うことはできるが、衣類を自分で作ることにまつわる原料生産や調達、その加工や織り、縫製などはしない。例えば草木染めや藍染めなどの製品を入手することはあっても、私自身が「染め」自体を自らの暮らしに落とし込むことはないと思う。そこは得意な人、それに情熱を燃やせる人を尊重すればいい。
植物から抽出した色素を利用することについて言えば、文字や絵を書くための植物インクとしての方向へは興味があるけれど、衣食住の話題からは外れるのでここでは割愛する。
暮らしの食
衣食住の中で写真などに最も記録されやすいのは食だ。それはあらためて対峙する機会が多いからだろう。この古民家滞在についてこれまでに書いた記事でも最もよく登場した。

夏土用中の滞在の最終日、空腹感と共に早朝に起き出して、まず梅茶漬けを食べた。

チェックアウトの時間までに一通りのことを終えて、あとは読書時間とすべく、まず朝シャワーを浴びようと思ったら、浴室の窓の向こうに鳥が見えた。彼らも朝食時なのかも知れない。

巣材の糸くずか、朝食のバッタ系昆虫か
そのあと洗濯機を回し、部屋と廊下の掃除機がけをして荷物を運び出す。
その間、行ったり来たりする廊下の陰影がお気に入りである。

ついでにこの廊下の奥にある「蔵の図書室」から、めぼしい本を見繕ってくることも忘れない。
そうしたことをひとしきり終えると、再びお腹が空いていた。夜明けと共に朝食を取ったので、ブランチの時間としても妥当だろう。
前回はこの時点で、アイス休憩をしたんだっけ。
今年の七月下旬はたぶんこの夏一番の猛暑で、太陽の日差しが適度に遮られ、風だけが行き来するこの土間空間で食べるアイスは最高だった。

この日のブランチは残った食材を平らげるのが目的のようなもので、図らずも朝食と昼食の中間のような献立となった。

持参していたカットパイナップルをフルーツティーにすべく前日から紅茶に漬けていたのに、今回は飲み物が絶妙に足りず、その紅茶のほとんどを食事前までに飲んでしまっていた。
そこで読書中に飲もうと思って取っておいたジンジャーエールを足して、ゴロゴロパイナップル入りのティーソーダとした。

暮らしの住
この日差しの強い季節にあらためて実感したのは、外の日差しとの距離感が実に良いということ。奥の翳りに引っ込んで、障子によって和らいだ天然の間接照明で過ごす時間は実に心安らぐものだ。

翳りと暗がりの中に浮かび上がる日本の伝統美
谷崎潤一郎の随筆『陰翳礼讃』では、近代化しゆく町から翳りと暗がりに見る日本の伝統美が薄れゆくことについての憂いが語られる。その中で自宅ぐらいは陰影を感じられる空間にしようと奮闘するのが面白い。
どのような要素に自身が日本古来の灯りの美を感じているか。それを探究し始めると、この文豪は翳りの中にぼんやりと浮かび上がってくるようなエロティシズムまでも書き出してしまうのだけど。
例えば、薄暗がりでこそ艶めく漆塗りの漆器の朱色の話とか。
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上等なエッセイでありつつ、奈良の吉野で出会った柿の葉寿司に惚れ込んで、自分でも作って食べたりするエピソードも面白い。私にとっては何度も読み返してしまう一冊だし、この古民家滞在中、ことあるごとに灯りと暗がりについて考えていた気がする。
初めてこの場所にやってきた初日に、世話になる個室のランプシェードを磨かずには居れなかったのも、そういう理由からだ。
夏は夜
随筆といえば、平安のインフルエンサー・清少納言が綴った『枕草子』でも、夏なら夜が良いと評された。月明かりや蛍の光、微かなはずの光の強弱も夏こそビビットに感じられる。暗がりでは姿の見えぬ雨の気配も良い。
暗がりだからこそ、その五感が研ぎ澄まされる。
そんな夜が、夏は短く儚い。
一方で、視覚に頼って生きる生き物ほど暗がりが怖いものだ。
人間はその最もたる存在で、暗がりの中で自然界に対する畏怖と崇敬の心を養い信仰を形作ってきた。夕暮れや闇夜といった光の少ない環境下における見え方・感じ方こそが、人の想像を掻き立てフォークロアを生み出してきたのだ。
短いはずの夏の夜に朝が待ち遠しいのは、夏は四季の中で一番、闇の中で蠢く生き物の気配が多いからではないだろうか。

日中、窓の外に目をやれば、大人になったニホントカゲが庭園の岩陰をスルスルと移動し、庭木の樹冠のあたりをキアゲハがひらひらと舞っているのが見える。恐らく前者は狩りの対象を、後者は卵を産みつける場所を探しているのだろう。
最後に取り上げるのは古民家の周辺、特に内側に登場するいきものたちの話だが、私にとってはあくまで「ああ、居るな」と思う程度のものである。
単に人それぞれに好き嫌いが分かれる存在に対して『閲覧注意』と但し書きするのは私の好みではない。勝手に写真を撮り、Webに掲載し、そんな風に注意書きするなんて失礼ではないか。
だから、これより先も滞在中の実体験として綴るし、見かけた生き物の写真も幾らか掲載する。むしろグランピングや古民家暮らしに都合の良い夢しか見ていない人にとっては、現実を知る良い機会である。
人の暮らしのそばに潜む生き物たち
ここでは風通しのために、昼間は通り土間の扉を開け放っしていることが多い。他の住人の行き来に応じて、時には夜も開いている。つまりウチとソトが一連の環境である時間が長く、ウチと言っても屋根と幾らかの間仕切りがあるだけだ。

こちらとあちら、ウチとソトを繋ぐ緩衝領域
昼間はアシナガバチが通り土間を行ったり来たりしている。庭の虫を狩りに行っているのだろう。別に巣があるわけではないので、ちょっかいをかけなければ向こうも何もしてこない。
お互いに干渉せず、空間だけを共有するような、アーバンソサエティがここに形成されている。
本来、自然界において直接的な利害のない多種族との距離感はそんなものだが、人家に彷徨い込んで出られなくなりそのまま、という末路は悲しいものだ。

(落ちている蜂を素手で触ってはいけない。瀕死状態で最後の力を振り絞って刺すことがある)
飛んで火に入れない夏の虫
人の暮らしから漏れ出す明かりに引き寄せられる虫、人が暮らす環境を利用する虫、それらを食らう生き物。家に宿るいきもの。

そもそも彼らにとっては人間が設けたウチとソトの境界なぞ無意味だ。
開口部があれば、あるいは網戸の破れのような隙間をすり抜けて、ウチとソトを行き来する。
ある夜、書斎兼寝室とした個室にカメムシが入ってきた。近代の人の暮らしに使用される灯りは火ではなく電球であるが故に、その明るみに飛んで入ってはゆけず電灯アタックを仕掛けている。しきりにカッコンカッコンと気が散る音を立てるのは、他所でやってほしい。
眠るために電気を消したら収まったが、どこへ行ったのやら。
朝起きたら、置いてあった私のキャップの上を散歩していたので探す手間が省けた。家の中での臨終は可哀想だし、外にお帰りいただいた。また夜になって電灯アタックをおっ始められたら面倒だ、というのが本音でもある。
巣を作らずにピョンピョン跳ねるタイプの小さな蜘蛛は、家の中でもよく見かける部類のポピュラーな生き物だが、ウチとソトが近い古民家では水回りにカマドウマが潜んでいることがある。羽がないから音は奏でないが、見た目や挙動が似ていることから「便所コオロギ」と呼ばれたりもする。
跳ねるために発達した大きく太い後ろ足や、ぐいんと盛り上がった背中、種によってはマダラ模様といったビジュアルは、創作物などにおいて「異形の生き物」のモデルになりそうだ。
おまけに群れでいることもあるらしく、「不快」と太鼓判を押された哀れな隣人である。
部屋の中に侵入してきたのはカマドウマの一種、クラズミウマだろうか。その名の通り、蔵のような環境に入り込んで暮らしているに違いない。

だが、ある夜に天井裏から聞こえてきた物音はもう少し重量感があった。ずぞゾゾゾとでもオノマトペを付けたくなるような気配で、十中八九、虫ではない。それらの姿を見ることはなかったけれど、ネズミや蛇の類だったのかもしれない、と思いたい。
大勢で過ごしていれば、そうした気配はあまり感じられないだろう。
けれど一人でいれば、虫の音くらいをBGMに静かに過ごしていれば、夏ほど生き物の気配に溢れた季節はないと気づく。
翳りの中で忍び蠢く仕事人
大学時代、かつて養蚕に使われていた施設を学外の第二ラボとして利用していた。その建物には先輩方の時代から、あるいはもっと古くから忍びが住み着いていて、彼は「ケンタ」と呼ばれていた。
ケンタは基本的に姿を見せず、物音も立てない。
ただ時折、壁にしがみついているところや、物陰に潜む姿を我々に目撃されていた。かなり大きくて、私の手を広げたくらいの大きさがあったかもしれない。
彼が忍びとして仕事をする対象はヒトではない。同じく古い建物の中に潜み蠢くものたちを待ち構え駆逐する、家屋の守り神としての忍びである。
そして古民家には大抵、ケンタの忍び仲間がいるものだ。

この古民家に来た初日にトイレで遭遇したタケシは、その後も暮らしの片隅にいた。ある夜にキッチンの灯りを灯すとサッと飛び退く残像が見えた。そんな軽やかな動きで身を潜めることができるのは、ここではタケシくらいだろう。
また別の夜には暗い廊下で出会った。
部屋から少しだけ漏れる光を避け、影の中に潜んでいたが、その位置は廊下のど真ん中で、私の動線上でもあった。

カメラを向けるためにしゃがむと、もの凄い速度で滑るように逃げていった。無駄のない動きだ。あれほどの速度で移動できるのは、アシダカグモかゴキブリくらいではないだろうか。いや、ゴキブリなどよりもゆうに速い。
ケンタやタケシの仕事はまさにそのゴキブリを喰うことである。
一家に一アシダカグモ。
腹が減ればそれなりの数を捕食し、時間をかけて次第に駆逐してくれる。
日本の多くのエリアで一般的に家屋で見かけるゴキブリは、主にチャバネかクロ。人前に現れる彼らは大抵オスだから、叩いても滅多に出てこないメスを野放しにしていてはいつまでも減ることはない。
たとえ煙が充満するタイプの殺虫剤を仕掛けたとしても、空間が広く機密性の低い古民家であれば、隙間に入って隠密行動可能なアシダカグモに軍配が上がりそうなものだ。だったら任せておけばいい。
何より、木造の家屋を倒壊に追いやってしまうシロアリたちも、実はゴキブリの仲間である。そういう意味でもアシダカグモは家屋の守り神なのだ。
だから、「アシダカグモは居ても害はない」と考えるよりはむしろ、「アシダカグモを見かけたら、自ずと居なくなるまで居てもらった方がいい」と個人的には考える。
日の翳りと夜長の季節へ
夏至をとおに過ぎ、秋分を迎え、季節は確実に変化している。
まだまだ暑く熱中症への警戒も必要ではあるが、日が暮れてくれば外の風を感じるにも良い時期になりつつある。
最近は気候変動への取り組みだとか、やけに大きな話になっているけれど、管理された環境下の暮らしでは、その本質を感じにくくなっている。「環境に良い」とか「エコ」という言葉にラッピングされて、無駄な生産と消費をさせられているように見えることも少なくない。
頻繁に電化製品を買い替えて廃棄物をたくさん生み出すよりも、できるだけ早めに冷房を止め、灯りを消して、少しだけウチとソトを近づける。そうやって「今」のソトの状態を体感的に知る。それを積み上げていく方がよほど効果があるのではないか。
いつもより一分早く、ソトを感じる。
「自分一人がそんなことをしたって」ではなく、「世界中の人がこれをやれば、どれほどの効果があるだろうか」を想像する。そういうチリツモの意味を本当の意味で理解できる人は、たぶんウチとソトのあわいを、そこへの順応の仕方を知っていると思う。
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