蔵の図書室に入り浸るリトリートな日々
奈良の西から東へ、日帰りで行って帰って来れる距離の場所へとわざわざ赴いて数日間滞在する。巡り歩く旅行ではなく、特別なことのない「ただの暮らし」のために。
それは非日常的な場所に「泊まる」というよりは、「住む」ことで日常を拡張するリトリート(静養)である。

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蔵の図書室(食と農のアーカイブ)
滞在先の『里山文庫』という名称は、主宰者の探究の中で蒐集した蔵書に由来するものだろう。ここでの滞在中、私は書庫である『蔵の図書室(食と農のアーカイブ)』の隣の個室を自らの書斎とした。

そもそもが、ここにある民族植物学関連の蔵書の山を目当てにクラウドファンディング『里山暮らしの研究室』の支援をしたようなものである。
こうした趣旨特化型の蔵書は公営の図書館とは違った価値があるし、万人向けの読み物でない専門書などは、時が経つとともに手に入りにくくなる。
一般的な書店や図書館では目移りしてあれもこれもと視野が広がりがちな私にとって、滞在中はこの分野に集中しようと腰を据えるにも良い。
食べ物とは情報である
例えば今回、『食の文化地理』という書籍が目に留まって手に取ってみた。
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サブタイトルは「舌のフィールドワーク」とある。
食べることは体に栄養を取り込むだけではなく、知的好奇心を満足させる手段足りうるのだ。食べ物を食べることは、情報を食べることでもある。
ああ。これ、まさしく。
未知なるものを口にすることは、単に生きるためだけでなく、知と可能性の探求に他ならない。けれど、こうもある。
だが、そのためには、ささやかな冒険心を必要とする。
ご尤も。面白そうだからと言って、そこにあるものを手当たり次第に口に放り込むわけにはいかない。毒ではないか、衛生的な問題はないか。未知に対する保守的な態度は、地球上のすべての生き物に備わる自己防衛機能でもあるはずだ。
何気なく口にするものの中にも、「これをはじめに食べてみようと口にした人は凄い……」と我に返ることもある。だがその知的好奇心こそが、それを経験知として共有する術を持つことこそが人類の強みだろう。
日常がほんの少しチャレンジングになる
先日、『万葉吃草|里山暮らしの研究室』で調理した野草の肉味噌和えを翌日の朝食にする。
野草とはいえ、これはすでに誰かが試して、食べられる、茶になると分かっているものをいただいているに過ぎない。
けれど普段は市場にあるものを金銭と交換して食べている身であれば、自分の手で野から摘み取ったものを口にすること自体が、日常をほんの少しだけチャレンジングにする。

(玄米入り香り米、味噌汁、野草の肉味噌和え、ズッキーニと紫オニオンのチーズオムレツ、セイロンティー)
その時その時で、飲み物も烏龍茶だったり柿の葉茶だったり。普段ルーティンでたくさん作る麦茶とは違ったものを口にしてみるのも面白い。
そういったことについての思索に耽る上で、『里山文庫』はもってこいの環境なのだ。

知見は実践的に伝達されてこそ生きる
食べられる、旨いといった知見の共有だけでなく、身近に食す人間が居たり、子供の頃から親に与えられて育ったりと人から人へ実践的に伝承する。それが未知なる食材に対する心理的なハードルを限りなく下げる。
例えば私自身は、エビやカニなど海の甲殻類は食べられるが、陸の甲殻類は「食べられる、美味い、栄養価も高い」と散々言われたところで到底食べる気にはなれない。「騙されたと思って食べてみろ」と言われても騙されはしない。
身近に食べる者もいないから尚更だが、不思議なものだ。
磯の香りに包まれているものは、古い時代から口にしてきたものとして、情報が遺伝子に刻まれているのかもしれない。
納豆は日本の食卓では一般的な発酵食品の一種だが、両親共に食べないどころか嫌悪感すら示すため、子供の頃に「食べるに値しないもの」という印象が強く刻み込まれた。当然、家の中で見たことも、その香りを実際に嗅いだ経験もなかった。
だからか知らん、学校給食で供されても食べることができなかった唯一の献立だったかもしれない。クラスメイトに委ねると喜ばれたが、当時の私の中では「納豆を食べる人=物好き」という図式が成立していた。
そんな納豆が好物に変わったキッカケは実にシンプルだった。
引き気味の姿勢が前のめりに変わるとき
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