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息子は、神社で1時間ペダルを回し続けていた


夕方の神社で、
息子はずっと自転車のペダルを回していた。

車輪がぐるぐると回る。
それだけを、ひたすら見ていた。

普通なら「そろそろ帰るよ」と言う場面だった。
でも私は言いたくなかった。
その時間を、途中で切りたくなかった。

だから待った。
ただ見守っているだけじゃない。

息子が回っている車輪に、
手を伸ばすかもしれない。
自転車が倒れるかもしれない。

怪我をしないように、
私はずっとブレーキに手を添えていた。

1時間くらい。

正直、しんどかった。

どんどん蚊に刺されて、かゆみは増すし、
疲れたし。

もう帰りたい。まだ待つの?

そう思うこともあった。 

でも、
そこを優先させるより
もっと遠くて大事なことがある、
と思って、ずっと息子を見ていた。

その間に、息子はいろんなことに気づいていった。
前回しだとこう回る。
後ろ回しだとどうなるんだろう。
スピードが落ちていく。
手を離すとどうなる?

そんな日が、何日も続いた。
ある日、反対側から車輪を見ていた息子が、
急に「え?」という顔をした。

ペダルが今までとは違う、
逆回転しないと回らなことに、
気づいた瞬間だった。

私はその瞬間を見ていた。

ああ、今この子、世界を発見している。

私自身が、そうやって育った人だった。
子どもの頃、庭でずっとアリを見ていた。
モジャモジャの草の中で、
アリンコをひたすら観察して。
石をひっくり返してアリの卵を見つけて、
アリたちが慌てて卵を巣に運び始める瞬間を、
ずーっと見ていた。

虫を捕まえたり、外遊びをしたり、
好きなことをひたすらやって育った。

勉強勉強という家じゃなかった。
だから思っていた。

勉強ができなくたって、人は生きていける、と。
息子にも、本当の興味関心で生きてほしかった。


モンテッソーリ教育には、
【子どもの心に従う】
という考え方がある。

私はその哲学を、ロンドンで学んだ。
だから息子のことを、
最初から「小さな大人」として見ていた。

話すときは必ずしゃがんで、
視線の位置を合わせた。
思う存分にハイハイができるよう、
ソファも撤去した。
ハイハイで私の膝の上に
自分の意思でそのまま乗ってこられるように、
ビーズクッションに変えた。

周りからどう見られるかは、考えなかった。
私の子育てが、
自分の信じるものに沿っているかどうか。
それだけが基準だった。

幼児期は今しかない、とずっと思っていた。

キャリアは後でいくらでも取り返せる。

でも息子が世界を発見していく、
この時間は戻らない。

人間が自分の興味から世界と繋がっていく瞬間を、
急かしたくなかった。

没頭しているその時間に横槍を入れて、
台無しにしたくなかった。

集中して没頭して、
自分の人生を満たしていける感覚を、
一生ものとして育てたかった。

でも正直に言うと、待つのはしんどかった。

もう帰りたい。まだ待つの?
そう思いながら、ブレーキに手を添えていた。

それでも、息子が
「え?」という顔をした瞬間を、私は見ていた。

その顔が見たくて、待っていたんだと思う。


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「軸へ戻るまで」シリーズです。
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