仕事か、家庭か、じゃなかった
流産後、一週間ほど入院して、
すぐに仕事に戻った。
当時、私は学習塾を経営していた。
実家からテナントまでは徒歩10分。
自転車を漕いで、塾の扉を開け、
入口のソファーに、なし崩しに倒れた。
30分ぐらい、そこから動けない日々が続いた。
ご飯は食べられるようになっていた。
でも、少し動くと、すぐにふらつく生活で、
体が戻るまで、一ヶ月以上かかった。
次の桜が散る頃、再び赤ちゃんを授かった。
片道30分。
妊娠初期の頃、仕事を終えて夜10時に帰る道が、
だんだんきつくなっていった。
途中のファミレスで一度休まないと、
家まで歩けなかった。
コーンスープを一杯飲んで、
しばらく座って、それからまた歩く。
昨年の別れを思い出しながら、
お腹の子の心拍が確認できての場所はどうなるんだろう。
テナントの家賃は、
入院していても払い続けなければならない。
そのことを、ぼんやり考えていた。
安定期に入り、
塾を自宅マンションの一室に移すことにした。
むしろ、そこから作り直そうと思った。
駅からは山を登って徒歩10分。
駅周辺には塾が40件近くある。
その全部を通り抜けて、坂を上ってくる人が、
いったいどれだけいるだろう。
通えなくなる生徒には、近くの塾を一緒に探した。「あなたには大きい塾で揉まれた方がいい」と
思う子には、そう伝えた。
自宅マンションへ移してからは、
塾の形そのものも変えた。
大人数を集める場所ではなく、
本当に少人数だけを見る場所へ。
どこにも行けなかった子が、ここでだけ変わる。
その事実が、値段になった。
月謝を上げることにした。
2万5千円だったものを、7万、そして13万へ。
私のところに来る生徒は、
いろんな塾を回ってダメだった子が多かった。
親の言うことは聞かないけど、
私の言うことは聞く。
そういう子たちが、
少しずつ変わっていくのを何度も見ていた。
わからなくて、自信をなくして、
もう自分はバカなんだと心を閉じてしまった子の、
目の輝きが変わっていく瞬間を。
来てもらうまでが、一番難しかった。
やがて、強羅から、
半年以上通い続けてくれる人が現れた。
口コミで、少しずつ人が来るようになった。
息子が生まれてから、また働き方を変えた。
出産の一ヶ月後に入試があった。
合格可能性10%だった。
産後の体で、県内最高峰の進学校へ、
なんとか合格させた。
息子を夜7時に寝かしつけて、
そのあと隣の部屋で授業をした。
見守りカメラで様子を確認しながら、
別室で仕事をする。
幼稚園の預かり保育は週3回、4時まで。
塾の準備は夜。
体力的にも、精神的にも、きつくなってきた。
夫の仕事が落ち着いてきたこともあり、
一度やめた。
小学校に上がってからも、
息子は毎朝なかなか登校できなかった。
二年間、一緒に付き添い登校をした。
息子には、時間がかかる部分があった。
漢字も、普通の覚え方では難しかった。
机の上で何度も書かせても、入らなかった。
「公園」を何度教えても「校園」と書いた。
だから私は、
「公園の"公"は、ハムだよ」
と言って、ハムを持って公園へ行って、
二人で食べながら覚えた。
息子の歯磨きが、40分かかる夜があった。
魂がどこかへ行ってしまったみたいに、
ぼーっとして、動けなくなる。
さすがに四十分も経つと、私も余裕がなくなる。
「魂戻ってきて。終わらせよう、終わらせよう」
そう言いながら、半分笑って、
半分イライラしていた。
この子に必要な速度が、だんだんわかってきた。
今職場は、家から歩いて十三分の場所にある。
息子の学校からも近い。
行きしぶりがある日は、
一緒に登校してからでも間に合う。
フルタイムで働いて、七時に帰宅する。
ご飯を作って、勉強を見て、九時に寝かせる。
その生活では、たぶん、この子は回らない。
私もイライラして、怒鳴ってしまう。
そういう未来が、はっきり見えた。
今の職場は、家から歩いて十三分の場所にある。
今日も息子は帰ってくる。
私はたぶん、また「おかえり」と言う
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昔、モンテッソーリの先生をしていました。
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