「誰のおかげで飯が食えると思ってる。」
台所の換気扇が回っていた。
夜10時半、生徒を見送って鍵を閉めた。
徒歩10分、電車30分、
それからスーパーに寄って自転車を漕ぎ出した。
夏の蒸し暑い日だった。
玄関を開けると、
予約した炊飯器から湯気が立っていた。
冷蔵庫を開け、残っている野菜と、
買ってきた豚肉を並べる。
献立は、電車の中で決めた。
生姜焼きと、味噌汁と、ほうれん草のおひたし。
火にかけたフライパンから、脂の匂いが立つ。
味噌汁の鍋を、木べらでかき混ぜる。
いつもの音、
いつもの匂い、
いつもの手順。
夫がただいまと台所に入ってきて、
テーブルの椅子を引いた。
何かのニュースの話をしていた。
声のトーンが少しずつ上がっていく。
私は生姜焼きをひっくり返しながら、
相槌だけを打っていた。
そのとき、その一言が落ちてきた。
「誰のおかげで飯が食えると思ってる。」
フライパンの音だけが続いた。
何かが体の奥で、すっと冷えていくのがわかった。
私は火を弱めて、フライパンを置いた。
「私のおかげだよ。」
声を荒げたつもりはなかった。
「スーパーへ行ったのは私。」
「献立を考えたのも私。」
「買ったのも私。」
「今、ここで焼いているのも私。」
一つずつ、事実だけを置いていった。
積み木のように、静かに。
彼は何も言わなかった。
私はまな板の上の味見用の一切れを箸でつまんで、彼の口元へ差し出し、
まっすぐ彼の目を見つめて、言った。
「食べたい? 」
湯気が、二人の間でゆっくり立ちのぼっていた。
「さあ、召し上がれ。」
私はニヤリと笑い、換気扇を止めた。
📚 前の記事
結婚すれば、暮らしはもっと楽になると思っていました。 でも、小さな違和感は少しずつ積み重なっていきました。
⏬️
📚 次の記事
▶️ 私は、料理が嫌いだったんじゃない。
この出来事から何年も経って、私はようやく、料理が苦しくなった本当の理由に気づきました。
7/21 21:00 公開予定
📚 関連記事
▶️ 仕事か、家庭か、選ぶものではない。全部まとめて叶えるお話
いいなと思ったら応援しよう!
記事を読んで応援したいと思っていただけたら、とても励みになります。いただいたチップは執筆活動に大切に使わせていただきます。