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【小説・ヴィーナス症候群】(73)オッサンの幻想に付き合うお仕事

矢野恵麻は、もう歌を忘れることにした。

あのストリートライブの時の憐れむような、乞食でも見るような視線から逃げるように「トルソーさん」の仕事をどんどん入れていった。ステージに立つ自分を想像することが、まるで他人の記憶のようになっていた。
今ではただ「飾られるもの」として立つだけの自分の方が、ずっと現実的だった。

ある日、見知らぬメールが届いた。差出人の名も曖昧で、内容も簡素だったが、一文だけ目を引いた。「北海道での撮影モデルをお願いしたい」。交通費・宿泊費すべて支給、高めのギャラ、条件は悪くない。だが、わざわざそんな遠方の仕事を、腕のない自分に依頼してくる時点で、何かしらの“幻想”が込められているのは明白だった。

(何の幻想かは知らないけど、驚くようなことじゃない)

恵麻は淡々と返信を済ませ、荷造りをした。羽田空港で依頼主と落ち合うと、そこに現れたのは白髪混じりのジャケット姿、どこか古びた雰囲気をまとった初老の男だった。西片真彦。名刺には「報道写真家」とあった。

飛行機が滑走路を離れるころには、彼の話はもう止まらなかった。

やれ函館がどう、稚内がどう、「硝子のジョニー 野獣のように見えて」という映画はそれまで清純派であった芦川いづみの新境地であり云々……。彼が語るのは、大昔の白黒映画と、芦川いづみという女優の話ばかりだった。熱を込めて喋り続けるその様子は、もはや講義のようで、恵麻は窓の外に目をやったまま、ただ曖昧にうなずいていた。

「で、その芦川何ちゃらという人は、両手が無かったんですか?」

ふいに口に出た言葉が、機内に小さな静寂を生んだ。西片は、わずかに眉をひそめ、視線を横に逸らした。まるで「一緒にするなよ」とでも言いたげな沈黙だった。

「……そうじゃない。けどね」と呟くように言葉を続ける。「いづみ様演じる“みふね”は、ちょっとおつむが足りない女なんだ。君は両腕を欠損している。まったく違う。でも、どちらにも、“欠けている美”ってものがあると僕は思ってるんだ」

(思いませんけど)

函館に着いた翌朝、彼の指示は過剰だった。函館朝市でうずくまれ、競輪場でヘルメットを被って「一本書きのジョー様だよ!」と叫べ――。観光客のざわめきの中、恵麻は無表情のまま、それらをひとつひとつこなしていった。羞恥よりも先に来るのは、ただの疲労だった。これは労働だと割り切れば、心の奥までは擦り切れない。

撮影が終わった昼過ぎ、西片は言った。

「次は長万部に行こう。あの“ジョニー!”と叫んで海に入る名シーン、あれは稚内じゃなくて、実は長万部で撮影されたんだ。実際、稚内にはあんな静かな海はない」

自分の博識をひけらかすように語るその口ぶりに、恵麻はうんともすんとも言わなかった。知識の披露には興味がないし、その海に何の感慨もなかった。自分には何の関係もない、ただの次のロケ地にすぎない。

レンタカーの助手席に沈み込み、恵麻は目を閉じた。国道5号線を北上する間、彼女はひととき泥のように眠った。

長万部の海は、曇っていた。濁った空に沈むような海岸で、冷たい風が足元の砂を巻き上げる。その風景のなかで、恵麻は海に向かって叫んだ。

「ジョニー!」

「もっと間抜けな声で!」「感情を抜いて!」「いや、今度は逆に情熱的に!」

何度もやり直しを命じられた。恵麻はただ黙って従った。ギャラ分の仕事をする、それだけの話だった。


その帰り道、西片はご満悦だった。撮れた写真の出来に満足したのか、饒舌さを少し取り戻していたが、恵麻はもう何も聞いていなかった。

助手席の窓にもたれながら、ふと頭に浮かんだのは、かつての専門学校の同級生たちのことだった。夜職で働いていた子も何人かいた。「男の幻想に付き合って、金をもらってるだけだよ」と笑っていた彼女たちの声が思い出された。

(私も、やってることは同じかもね)

男の幻想に付き合い、その代価を受け取る。ただそれだけの、シンプルな構図。差異はあれど、本質的には変わらないのかもしれない。

函館空港。羽田行きの便を待つロビーで、スマートフォンが震えた。表示された名前は、紗奈。

画面を開くと、LINEに名刺の画像が一枚届いていた。

「恵麻! いますぐこの番号に電話して!」

恵麻はスマホを手にしたまま、しばらくじっとその文字列を見つめていた。どこか遠くで、また次の何かが動き始めているような、そんな気配だけが、胸の奥をわずかに騒がせていた。

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