【小説・ヴィーナス症候群】(30)枕営業すらさせてもらえない
Confeitoの屋上スタジオ。
午後の光に照らされて、青いタイルのプールサイドが眩しく輝いていた。
フリーで「トルソーさん」をしている恵麻はスクール水着を着て立っていた。ピンクのウィッグ。大きすぎるリボン。
いまだに続いていたこのシリーズ──かつてトルソーさん専用SNS「トルコミ」で酷評された水着企画──の撮影だった。
だけど、笑う。仕事だから。

カメラのファインダーの向こうで、誰かが「もうちょい顎引いて」と言う。
恵麻は無言で応える。腕がない身体で、バランスを調整するのはちょっとした技術が要る。もう慣れた。
撮影を終えて控室に戻ると、Confeito専属フィッティングモデルの大里ひかりが声をかけてきた。
ひかりもヴィーナス児つまり「トルソーさん」だった。無袖の服から、同じように腕のない肩が見えている。
「エマちゃん、あのスクール水着の仕事……受けちゃったんだ?」
恵麻は、ピンクのウィッグを外しながら小さく笑った。
「はい。余裕ないので、仕事は選べません」
「そっか……エマちゃん、歌手目指してるもんね」
「ええ、まぁ……夢のため、です」
この世界では、ヴィーナス児がアパレル会社や義肢メーカーで「トルソーさん」をすることは珍しくない。
むしろ、そういう仕事があるからこそ、生活が成り立っている。
誰も特別扱いしないし、されようとも思っていない。
「すみません、これからボイトレがあるので、お先に失礼します」
「うん、お疲れさま」
ウィッグを袋にしまいながら立ち上がる恵麻に、ひかりがそっと笑みを返した。
矢野恵麻は、徳島県の南の端、高知県境にほど近い小さな町の出身だ。
父・矢野正太は、京都の大学を出たあと、地元に戻って家業の建設会社「青織組」を継いだ。今では町議会の議長を務める名士である。
だが、その“インテリ”ぶりは、単なる詭弁の使い手でしかなかった。
女性の発言をことごとく論破しようとするその姿勢は、家でも議会でも変わらない。業者からも議員仲間からも、「また始まった」と煙たがられていた。
娘の恵麻は、生まれつき両腕のないヴィーナス児として生まれた。
地元では、誰もが父・正太と関わりたくない。そのため、娘の恵麻にも過剰に気を使い、距離を置いた。
それは、ある意味で彼女を守ってくれたとも言える。だが、それが“守られていた”などと感じたことは一度もなかった。
むしろ。
──お父さんこそが、矢野家の恥。
──こんな田舎、さっさと出てやる。
そう思ったのは、高校の文化祭だった。
義手を外し、ボーカルとしてガールズバンドのステージに立ったとき、客席がざわめき、歓声が上がった。
あの一瞬。あれが、恵麻のすべてだった。
鬼池詩織のようなプロのソプラノにはなれないかもしれない。
でも、歌いたい。歌って、生きていきたい。
──とはいえ、どうやって生活していくか。
そんなとき、ヴィーナス児の当事者団体「コルチカムの会」のサマーキャンプで知り合った先輩のことを思い出した。
先輩は現在、服飾メーカーでトルソーの仕事をしているという。
恵麻は軽い気持ちで聞いてみた。
「でも、私なんか……顔もスタイルも、取り柄ないし。いけるもんなんですかね?」
すると、先輩は笑って答えた。
「いけるって。エマちゃんなら大丈夫。今ほんとに人手足りないし、どこでもウェルカムよ」
それなら、やってみようと思った。
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旅立ちの日、徳島港のフェリーターミナル。
「じゃ、行ってくる」
「体に気ぃつけてな」
「スター歌手になって、あんな父さんの離婚費用稼いで帰ってくるけん!」
「何言ってるん」
母は笑ったが、目の奥が少し赤かった。
ヴィーナス児にとって、飛行機は面倒だった。
義手を外す必要があるかもしれないし、金属探知機で何か言われるのも嫌だった。
だから恵麻は、フェリーを選んだ。
船のデッキに出ると、海風が強かった。
夜の海は真っ黒で、風だけが前へと流れていく。
──もう戻らんけんな。
誰に言うでもなく、そうつぶやいた。
⸻
東京での暮らしは、時間が経つのがとにかく早かった。
午前中は専門学校。授業が終わると、そのまま現場に直行。トルソーとして服を着て立ち、夕方から夜はボイストレーニング。
寝る前に、翌日の撮影の資料を確認する。スケジュールはいつもギリギリ。
でも、同級生と話していると、意外なことに気づいた。
「え、トルソーって時給いくらくらい? コンビニよりは全然いいでしょ?」
「うちはキャバで夜入ってるけど、昼は寝たいから無理~」
皆、それぞれのやり方で夢と生活を両立していた。
トルソーが特別なことではないこの世界で、恵麻もその一人だった。ただ、それだけだった。
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ある日、廊下で聞いた噂が、少し胸に残った。
「先輩、もうすぐデビューするんだって。結構仲のいい人に気に入られたらしくて」
それは、枕営業を匂わせる話だった。
そういう世界があるのかもしれない。
そう思っていた矢先、飲み会の話が降ってきた。
「テレビ局の人来るってよ。女の子なら誰でも食うって有名だけど、逆にチャンスって話もある」
「私は行かない。夜、無事に帰れる気しないし」
「じゃ、私行こうか?」
思わず言っていた。
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六本木のバー。髪も服も整えて、言葉選びにも気を遣った。
「エマちゃん、家はどこ?」
「蒲田です」
「そっか……じゃ、終電前に帰ったほうがいいね」
「……あ、はい」
言われるがまま店を出て、交差点を渡るとき、後ろを振り返った。
さっきまで同じテーブルにいた子が、彼の肩に寄りかかってタクシーに乗るのが見えた。
⸻
撮影の合間、控室。
恵麻がぽつりとつぶやく。
「信じられますか? あの人、すごく女食いで有名な人なんですよ。
でも私、“帰っていいよ”って言われただけで……」
ひかりは何も言わなかった。
ただ、記憶の中の一場面が浮かんでいた。
高校の修学旅行で行った広島。
展示映像の中で、「原爆乙女」と呼ばれた女性が泣きながら語っていた。
「私は……レイプすらしてもらえないの……」
誰にもどうしようもない、あまりにも深い絶望の言葉だった。
ひかりはその時と同じように、ただ黙って、隣に寄り添うしかなかった。
