【小説・ヴィーナス症候群】(21)よくわからない撮影現場
プールサイドに立つ大里ひかりの肩に、濃紺のスクール水着の細いストラップがかかっていた。両腕のないその姿は、いつも通り、清潔で、静かだった。
「もうちょい笑顔キープお願いしまーす!」
カメラマンの声が、明るく響く。
照明スタッフは黙々と光の角度を微調整し、アシスタントの若い男の子はバスタオルを手に立ち位置を確認している。誰もが淡々と、いつも通りの撮影をしていた。撮影内容がどんな水着であっても、目の前に立っているのがヴィーナス児の試着モデル「トルソーさん」であっても――そこに特別な感情や違和感を口にする者はいなかった。
「水、ちょっと撒きますねー。濡れ感、もう少し出したいんで」
そう言ってアシスタントがじょうろでプールサイドに水を撒くと、足元に小さな水たまりができ、ひかりのつま先がそれを踏む。光が反射して、彼女の脚線に艶が生まれた。

「バッチリっす。じゃあ、そのまま一周ターンお願いします」
もちろん、ひかりはこの水着の意図を考えないわけではなかった。
今どき、こんな露出の多いスクール水着を着る子どもがいるのか。親だって学校だって許可しないだろうし、子ども自身も嫌がるはず――。
だけど、スタッフは誰一人としてその話題を口にしない。ただ、無言で、笑顔で、「今日の撮影メニュー」をこなしている。
「……そういうもんか」
ひかりは小さく息を吐いた。「トルソーさん」として現場に立つ以上、自分の考えを出す場面ではないことは理解している。撮られることに徹し、求められたポーズをこなす。それが、彼女の仕事だった。
夕方。駅近くのカフェの窓際席。
木目のテーブルを挟んで、武隈莉子が先に席についていた。
莉子もまた、原因不明の第2サリドマイド事件で生まれつき両腕のない「ヴィーナス児」であり、トルソーさんである。
彼女はウェディングドレスのブランドに所属する「トルソーさん」で、トルコミ内でも落ち着いた言葉選びと、一定の距離感をもった現場観察で知られている。
仕事として割り切っている部分もあるが、目の前にいるモデル――とりわけヴィーナス児の在り方には、芯のあるまなざしを向けていた。
ひかりはバッグを椅子にかけて座り、義手の指でカップの取っ手を丁寧につまんでホットのカフェオレを一口すする。
「お疲れ。今日、Confeitoでしょ?」
「うん。現場は、まあ……相変わらず。
スタッフみんな、ほんとに“何も思ってない”って感じだった」
「それが一番くるよね。“これ、どう思う?”って誰かが聞いてくれたら違うのに。
“はい、今日の撮影これね”って、何も考えずに水着を渡されるあの感じ」
ひかりは、小さくため息をついた。
莉子がスマホを取り出して画面を見せる。
ふたりが日常的にチェックしているのは、ヴィーナス児の「トルソーさん」専用SNS――トルコミ。
参加者の多くは各社のモデルやフリーのトルソーさんで、撮影現場の雰囲気、仕事の条件、さらにはブラックな会社やセクハラスタッフの情報までが匿名で率直に共有されている。
画面にはすでに今日の話題が上がっていた。
《Confeitoの旧スク、また出てたね》《あそこ、前に一度だけ呼ばれたことある。二度目は断った》《私は登録してないけど、昔フリーでやってたときに一回やった。しんどかったなあ》
「やっぱり。専属じゃない人でも、あそこから声かかることあるんだね」
「うん。うちは専属契約あるけど、Confeitoはフリーの子にも結構声かけてるみたい。
短期の撮影要員って感じで。知らずに受けたって子も結構いるよ」
ひかりは左義手の指でストローを軽くつまみ、くるくると回した。氷が小さく音を立てる。
「“ヴィーナス児”って、今や通称として定着してるのに、
現場の扱いは昔と変わらない。立って笑えばそれでいいっていう、あの空気」
「でも、そうじゃない見せ方を選んでる人もいる。
Riaの綾音ちゃんとか」
「うん。わたし、あの子の投稿、ほんと好き。
ノースリーブのドレス、すごくきれいだった。
見せてるのに、押しつけがましくない。自然で、強くて」
莉子がスマホで写真を開いて見せると、家久綾音がまっすぐこちらを見つめていた。
両腕のない肩を隠すことなく写し出しながらも、どこか凛とした静けさが画面越しに伝わってくる。
それはただの美しさではなく、「こう見せたい」と自分で決めた人の眼差しだった。
「“ヴィーナス児”って言葉に、ちゃんと意味を持たせてるよね、綾音ちゃんは」
「……そういえば、この前コルチの懇親会で、
綾音ちゃんと同じ大学だったって人に会ったんだけど」
「ほんと?」
「その人が言ってた。
“あの子、学生のころはレポート全然出さなかった”って。
でも、“何書いても届かない気がしてたんじゃないかな”って」
ひかりは少し驚いたように目を見開いた。
「……綾音ちゃんが、そんな時期あったんだ」
「うん。でも、今はちゃんと立ってる。
ああやって、自分の立ち方を決めてる。
それって、すごいことだと思う」
ひかりは、義手の指先でカップをそっとテーブルに戻しながらつぶやいた。
「……ちょっとだけ、救われる。
今日の撮影で立ってて、“このままでいいのかな”って思ったんだ。
でも、変われるなら、少しずつでも前に進めるのかなって」
「変えていいんだよ。
堂々としてなくてもいいから、自分の立ち方を選べばいいんだよ、ちゃんと」
カップの中で静かに氷が溶けていく。
その音は、ふたりの沈黙と重なって、なにか小さな決意のように響いていた。
