【小説・ヴィーナス症候群】(15)トルソーさんの春
私は今、「トルソーさん」と呼ばれている。
それはニックネームではない。大手アパレルブランド「Ria」社内で与えられた、“象徴としての肩書”だ。
本名は、家久綾音(いえひさ・あやね)。けれどこの職場でそう呼ぶ人はいない。
名前よりも“シルエット”が記憶され、両肩が語る何かが、いつの間にか私の名札になった。
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大学では、私は「ろくにレポートも出さない子」と思われていた。
就活もしなかった。エントリーシートもゼミ面接も、どれも自分に関係のない世界に思えた。
そんな私に届いたのが、「Ria」のディレクターからのDMだった。
“あなたを、次のシーズンの顔にしたい。面接は必要ありません”
私がインスタに載せていた1枚の写真。義手もつけず、肩を見せて、空を見上げているだけのもの。
その1枚が、社会にとって“意味のある存在”としての私を決定づけた。
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「おはようございます、トルソーさん!」
エレベーターの中で声をかけられる。
企画部のスタッフがスマホをこちらに向け、「インスタ用に1枚、もらっていいですか?」と笑う。
撮影用じゃなく、ふとした日常の延長で撮られたその写真が、すぐに「Ria公式」のアカウントに投稿される。
『今日のトルソーさん。午後の光が似合いすぎてる…』

そんな一文とともにアップされた写真には、数時間で数千の“いいね”がついた。
コメント欄には、「美しい」「今の時代のアイコン」「光そのもの」などの言葉が並ぶ。
でも――その中に「綾音」という名前はなかった。
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その日、社内ロビーですれ違った女性がいた。
大手広告代理店・鎮貪舎の入館証を首に下げ、静かに歩くその人は、黒い義手の指先をスーツの袖からのぞかせていた。
私は一目で気づいた。彼女もまた、“ヴィーナス児”。
そして、私と同じ大学にいた、舘合翠(たてあい・みどり)という名前の女性。
直接話したことはない。でも、努力家で知られた人だった。
私が“レポートすらろくに出さなかった子”として記憶されているなら、彼女はその真逆。
義手を丁寧に使いこなし、言葉で戦う道――広告代理店という舞台を選んだ人。
私たちはまったく違う姿勢で、同じ社会に立っていた。
すれ違いざま、翠はほんの一瞬だけ私に視線をよこし、それから何も言わず去っていった。
その目の奥にあったのは、尊重でも敵意でもなく――たぶん、迷いだった。
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「さっきの子、見かけた?」
撮影の合間に声をかけてきたのは、先輩の“元・トルソーさん”だった。
今は外部アドバイザーとして社に関わっているが、以前は私と同じポジションにいた、もうひとりのヴィーナス児。
「S社の舘合翠ちゃん。親同士が“コルチカムの会”で知り合いだったから、名前だけは知ってた」
「…面識はないです。でも、大学ではたまに見かけてました」
私は少し迷って言った。
「私は、たぶん大学では“やる気のない子”でした。レポートも出さないで、就活もしてなくて。
それでもSNSでバズっただけで就職決まったって、たぶん影で思われてたと思います」
先輩は苦笑した。
「うん、そう言ってた子もいたね。“あの子、腕がないだけで有名ブランドに行ったらしいよ”って」
「……」
「でもさ、それでいいと思ってる? あんた自身は」
私は黙って、目線を落とした。
「ねえ綾音。
私たちは“ヴィーナス児”って言葉に、最初から社会的な意味をくっつけられてきた。でもさ、意味って、もともと自分で決めるもんでしょ?」
「…意味を、決める」
「そう。
私も昔は、“象徴にされる側”でいるのが怖かった。
でもある日、ふと気づいたんだよね。『象徴を利用する側』に回るほうが楽だなって。
私たちは“見せられる”んじゃなくて、“見せる”を選べる立場にいるんだよ」
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その夜、会社のインスタには、また新しい写真が上がっていた。
スタッフが休憩中にスマホで撮った、私が窓辺でぼんやり空を見上げている一枚。
『この静けさ、強さ。うちのトルソーさんってやっぱり特別』
数千の「いいね」がすぐについて、コメント欄はまた称賛で埋め尽くされていく。
でも私はその夜、自分の個人アカウントにそっと別の写真を投稿した。
何のタグもなく。誰の名前もなく。ただ、自分の言葉で。
家久綾音。私は、私の名前でここにいる。
画面の向こうで、翠がそれを目にするかはわからない。
でも、春の光の中で――それぞれの“名前”が始まろうとしていた。
