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【小説・ヴィーナス症候群】(84)フリー歌手からの転機

第1章 フリーの日々

みなとみらいホールの舞台袖。
矢野恵麻は、静かに両腕の義手を外してケースに収めた。
照明の音が遠くで鳴るたび、歌の時間が近づいてくる。
義手を外すと、不思議と呼吸が深くなる気がする。
この姿が、自分にとっての「歌手」なのだと思う。

超大物歌手・鈴明美の40周年記念コンサート
そのバックコーラスに、恵麻は“代役”として抜擢された。
高齢で引退した小野寺睦子の代わりだと聞いたときは、嬉しさより先にプレッシャーが押し寄せた。

ステージの照明が落ち、音が流れ、鈴が歌い出す。
恵麻の声は、その背後に寄り添うように重なった。
誰にも気づかれないほどの音で、けれど誰かの胸に届くようにと願いながら。

けれど――
その舞台に立ったからといって、何かが劇的に変わるわけではなかった。

動画の再生数は、いまだ二桁のまま。
DMも来るには来るが、「見ました」だけで終わる。
仮歌の依頼も、名前は出ず、交通費も出ない。
ギャラは封筒に千円札が数枚。スタジオからの帰り道、コンビニで消えた。

「道ばたで歌ってみたら?」
そう言ってくる人もいたが、それだけは、どうしてもできなかった。
通行人の視線の中で義手を外すことが、恵麻にはまだ怖かった。
それは歌じゃなくて、見世物になってしまう気がした。
歌をやめようとすら思ったあの時のトラウマから逃れられないでいた。

恵麻は日常の中では、義手をつけていた。
レジで財布を開け、電車で吊り革をつかみ、スーパーで袋を持つ。
“歌手・矢野恵麻”ではない時間は、全部、義手のある日常だった。

でも、歌うときだけは外した。
その時だけは、自分の身体そのもので音を届けたかった。

そんな日々が、静かに繰り返されていた。

ある日、駅前のロータリーを歩いていると、背後から声をかけられた。

「……すみません、矢野恵麻さんですよね?」

振り向くと、グレーのスーツを着た中年の男が立っていた。
巻き髪気味の髪と、少し緩んだ笑顔。
でも、どこか芯のある目をしていた。

「みなとみらいの公演、観てました。あと、動画もいくつか拝見しています。よかったら、これを」

差し出されたのは名刺。

《日本芸能総合開発研究所 マネージャー 長居紳助》

“研究所?”と一瞬だけ思った。
だが、その肩書に対して何も言わず、恵麻は名刺を受け取った。

「うちは大きな事務所じゃありません。テレビにも強くない。でも、あなたのような人を、ちゃんと見せ場に出す自信はあるんです。もしよければ、一度お話できませんか?」

営業っぽくはなかった。
どちらかと言えば、頼まれて声をかけに来たような口調だった。

「……考えます」

短く、けれど自分の意思で返したその言葉は、きっと誰にも届かない。
でも、確かに心の中で小さく音を立てた。

帰宅して、恵麻は義手を付け直した。
生活に戻る、いつもの動作。
だがその夜、鏡に映った自分の顔が、ほんの少しだけ明るく見えた。

第2章 表参道の裏通り

表参道の裏通り、雑居ビルの二階。
「日本芸能総合開発研究所」のプレートは、マジックで手書きされたようなフォントだった。

中に入ると、奥の部屋から「ちょっと待っててね!」と軽い声が飛んできた。
数秒後、グレーのスーツを着た男が姿を見せる。
巻き髪ぎみの髪に、足元はやたら尖った革靴。営業というより、どこか“軽業師”のような雰囲気だった。

「どうもどうも、矢野さん。来てくれてうれしいです。はい、これがうちの契約書ね。読み物としては地味だけど、大事なやつです」

差し出された紙には、「専属マネジメント契約書」とある。
厚みのある紙だが、コピー機で刷ったものらしく、角がややカールしていた。

「えーと、うちは“全部面倒見ます”ってスタンスじゃないです。どちらかといえば、“とりあえずうちを踏み台にしてみて”って感じ。もちろん、長くいてくれても大歓迎」

話しぶりは軽い。
だが、提示された契約条件は現実的だった。出演料の割合も、配信の分配も、意外なほど明朗。

「変な話だけど、うち、売れない子ばっかり集めてるんです。そういう子がぽっと一瞬光ったときに、“あそこにいたからじゃない?”って言われると、こっちはちょっとニヤッとできるでしょ?」

胡散臭い。たしかに胡散臭い。
でも、どこかで“この人、ちゃんと見てたんだな”と思わせる瞬間がある。
何より、恵麻の「義手」について、同情も無理解もなかった。

「私は、歌うときだけ義手を外します。理由は、自分の身体で声を届けたいから。それが変に“感動エピソード”として売られたくない」

「うんうん、わかる。そういうの、一度でもやると、もうそこから先は“いい話しか求められなくなる”んですよね。うちは、もっと雑に扱います。いい意味で」

まるで冗談みたいな真顔だった。

契約書にサインを入れる。
義手の右腕を机に置き、左肩をすこしひねりながら、名前を書く。
筆跡は少し歪むが、それがいつものかたちだった。


長居も、自分の名前を書き込むと、満足げに頷いた。

「じゃ、これで今日からうちは“おたくの事務所”ね。大したもんじゃないけど」

「……よろしくお願いします」

握手を求める手に、恵麻はほんのわずか戸惑ってから、自分の義手を差し出した。
金属の指が当たるのを気にせず、長居はその手を軽く叩いて笑った。

「いやー、いいですね。俺、こういう“インパクトのある新人”大好きなんだよ」

“インパクト”という言葉の使い方には、明らかに悪意はなかった。
でもそのぶん、彼の“見世物としての距離感”が、妙にリアルに思えた。

それでも、恵麻は契約を後悔しなかった。
この人の軽さと、自分の声が交わったとき、きっと何かが動き出すと、どこかで信じていた。

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