【小説・ヴィーナス症候群】(11)午後の3着
展示会が終わった午後、檜皮谷奈緒(ひわだに なお)は私服のまま試作室の前に立った。
白いワンピースに淡いベージュのカーディガン。肩からはショルダーバッグ。
いつも通り、義手をつけたまま、右の義手の指先でドアをコンコンとノックする。
「どうぞー」
中から声がして、奈緒はドアを開けた。
「お疲れさま。午前中、綺麗だったよ。さすがトルソーさん」
デザイン部の八代が、笑いながら資料を確認していた。
「ありがとうございます。午後は、3着ですよね?」
「うん。ウェディングラインの試作で、動き見るのが2着、仮縫いが1着。軽めだけど、肩の確認をちゃんとしたいから」
「了解です。すぐ着替えますね」
奈緒は部屋の奥にある更衣スペースへと向かった。
カーテンを引き、椅子に腰をかけて義手を外す。肩の装着部から、マグネットが外れる音が「カチッ」と静かに響いた。
両方の義手を外し、ショルダーバッグの中にあるクロスに包んでそっと置く。
上着を脱ぎ、袖のないインナーに着替えると、肩先がすっと露出した。
鏡に映る、自分の“素の体”。両腕のないその肩。
ヴィーナス児として生まれてきて、この体とずっと向き合ってきたけれど、今はもう、驚きも戸惑いもない。
それどころか――この体だからこそ、できる仕事があるのだと実感している。
控えめにカーテンを開けると、ラックにかけられた3着のドレスが並んでいた。
「最初はこれね」
八代が手に取ったのは、ショート丈のセパレートドレス。軽やかで、フロントに花の刺繍が入っている。
「かわいいですね」
「でしょ? ちょっと若めの層向け。でも実際に着てもらって、腰のラインと背中の開き具合を確認したくて」
奈緒は頷いてドレスに腕を通さず、肩から引っかけるように着た。
八代が背中のファスナーを締め、裾を整える。
「じゃ、まっすぐ立ってみて」
奈緒は姿勢を正し、鏡の前に立った。
布が自然に落ち、肩先から背中にかけての曲線が、レースの模様と滑らかにつながっている。
「うん、やっぱりライン綺麗だな。動いてみて」
3歩、前に出て、ターンする。止まる。
それだけで、布の揺れ方が変わり、ドレスが生きて動いているように見える。
「ありがとう、次行こうか」
2着目は、クラシカルなフルレースのウェディングドレスだった。
ウエストは細め、胸元はハートカットで、コルセット風のボーン入り。
「これ、仮縫いだから、採寸入るね」

奈緒がドレスを着ると、スタッフが静かに近づき、巻き尺を肩に沿わせる。
両腕のない体に、道具が滑らかに沿っていく。何度も経験している光景だったが、やはり背筋が伸びる。
「少し緊張しますね、これ」
「うん、でもすごく綺麗だよ。ラインがすとんと落ちてて、パターン修正いらなさそう」
スタッフの手が腰に回り、ボーンの張りを確かめていく。
「ごめんね、ちょっとだけ背筋伸ばして」
「はい」
鏡に映る自分の姿は、まるで本物の花嫁のようだった。
でもこれは、演技でも夢でもない。
ヴィーナス児の体で立っている、それだけのこと。
「はい、じゃあ3着目いこっか」
最後の1着は、袖のありなしを比較するデザインだった。
「義手、つけた状態でまず見たいんだけど、いい?」
「大丈夫です」
奈緒は控えめにうなずき、鏡の前で義手を装着する。
白い布地に合わせた、スリムな義手。袖を通すと、ふわりと肩を包む形が整う。
「……やっぱり、袖ない方がいいな」
「私もそう思いました。なんか、布が余って見える」
「だよね。じゃあなしの方で進めます」
義手を外して再び私服に着替える頃には、陽の光が傾き始めていた。
肩に戻る磁力の感触。
義手を装着すると、仕事が一区切りついたような感覚があった。
奈緒はワンピースの袖を通し、カーディガンを羽織った。
鏡の前で髪を整え、立ち姿を確かめる。
この瞬間、ようやく「素の私」に戻れる気がする。
「お疲れさま。また火曜、お願いね」
「了解です」
「うちのドレス、やっぱり奈緒ちゃんが着ると締まるなあ。ありがと」
「こちらこそ、ありがとうございました」
バッグを肩にかけ、義手の指で軽くドアノブを引いた。
夕方の光が差し込む廊下を一歩踏み出す。
制服も名札もない。
でも、肩から義手を外してドレスをまとっていた数時間は、たしかに“トルソーさん”としての仕事だった。
ヴィーナス児としての身体で、そのまま立って、見せて、着る。
それが今日の私の仕事であり、誇れる日常だった。
