【小説・ヴィーナス症候群】(42)健常者ごっこ
第一章:ボニンの島
瀬堀イザベラが自分のルーツについて話すことは、あまりなかった。
「ハーフ?」「キラキラネーム?」と聞かれれば、「まあ、そんな感じです」と曖昧に笑って済ませる。答えになっているようで、なっていない。話せば長くなるからだ。だけど、ときどきふと思い出す。島の青、クジラの潮吹き、そして——英語訛りの日本語を喋っていた、あの白い肌のひいおじいちゃんのことを。
彼の名はエドワード・セイヴォリー。Savory——それが、瀬堀という姓のもともとの姿だった。
1968年まで、イザベラが育った小笠原・父島はアメリカだった。アメリカの軍人と軍属たちが暮らす、青い海と軍政下の島。返還にともない、日本国籍を取得することを選んだ欧米系住民は、そのまま島に残った。名前も変えずに。セイヴォリー家も、そうやってイザベラに繋がる血を残した。
イザベラの母は北海道・釧路出身。クジラに惹かれ、ボニンブルーに恋をして、居酒屋のバイトをしながら父島に住み着いた女性だった。そして、都庁の支庁に勤めていたジョシュアと、聖ジョージ教会で結婚した。そんなふたりのあいだに生まれたのがイザベラだった。
名前だけは立派に「イザベラ」。けれど、姿かたちは、純日本人と言われてもわからないくらい「普通」だった。
それでも、島の子として生きた日々には何の曇りもなかった。島の警察署が開いていた柔道教室で、正月に行われる武道始の大会。試合前、名士たちが居並ぶ中で、マイク越しに紹介されたあの日のことは今でも覚えている。
「六年生、瀬堀イザベラ選手。将来の夢は——ファッションデザイナーになることです!」
その夢は、揺るがなかった。
島の高校でも、お土産屋のバイトをしながらオリジナルTシャツを作った。観光客にひとつでも売れると、胸が高鳴った。やっぱり自分は、これがやりたい。ずっとこのまま夢を見ていたい。
そして、高校卒業の春。級友たちと一緒に、三月のおがさわら丸に乗った。竹芝桟橋のコンクリートが、初めて踏んだ「東京」だった。そこから始まる、新しい日々。
専門学校を出て、イザベラは中堅ブランド「Ria」に就職した。ガーリーファッションで名を売る、ちょっとだけ名の知れたブランドだった。最初は撮影係や備品係。先輩の陰で走り回りながら、深夜まで働いて、少しずつ仕事を覚えた。
アシスタントデザイナーという肩書がついても、生活はほとんど変わらなかった。体力勝負のこの業界では、後輩はすぐに辞めていく。だから、イザベラはいつまでたっても最年少。名前だけの「下っ端」だった。
だけど、そんな日々の中にも、かけがえのない出会いがあった。
家久綾音。生まれつき両腕がなく、義手はつけているが、フィッティングの現場では外すのが通例だった。そうしたモデルたちは、ファッション業界では「トルソーさん」と呼ばれていた。マネキンのように、着せ替え可能な人体として扱いやすいこと、そして企業にとっては障害者雇用の枠を満たす存在でもあることから、多くのブランドが一定数の「トルソーさん」を抱えるようになっていた。
綾音もその一人で、Riaに所属していた。
同い年だったから、すぐに打ち解けた。仕事終わりにお茶をしながら、くだらない愚痴を言い合った。
「私はプラスチックのトルソーと違って、自分で歩くから持ち運びの必要がないんだよね」
そう笑う綾音に、イザベラは素直な気持ちを口にした。
「そんなことないよ。綾音ちゃんが着てくれるから、服が生きるんだよ。いつか、綾音ちゃんに私のデザインを着てもらいたい」
「ベラちゃんが一本立ちする頃には、私おばあちゃんになってるかも。Riaの服、似合うかな?」
ベラちゃん——この名前も、東京に来てからついたあだ名だった。島では「イザベラ」としか呼ばれなかったから、なんだか不思議な感じがした。ああ、ここは「内地」なんだな、と。
仕事の合間には、スケッチブックを開いた。いつか自分のデザインで勝負する日を夢見て、何冊も何冊も描き続けた。けれど、道は遠く、壁は高い。先輩デザイナーに見せても、「自分の好きなデザインってだけじゃなくて、売れることを考えな」と返ってくる。
センスだけじゃダメ。世の中を見ろ。ニュースを見ろ。テレビを見ろ。流行を追え。それが「売れる」ための仕事。
専門学校の仲間たちは、雑誌に載るようになってきた。SNSでフォロワーが増え、デザイナー名が独り歩きする。なのにこちらはいつまで経っても下っ端でデザインの勉強をする暇もない。焦りばかりが募って、イザベラの心を少しずつ蝕んでいった。
第二章:不気味の谷
その夜、イザベラは何もする気が起きなかった。
終電間際のバスに揺られて、築年数だけは長いアパートにたどり着くと、かろうじて冷えていたコンビニのハンバーグ弁当を電子レンジに放り込む。それをつつき終えると、なぜか割り箸を手に取り、無意識にテーブルを叩いていた。
コッコロ コッコロ コッコロ コッコロ…
リズムを刻むと、自然と足が動き出す。
レフト ライト レフト ライト
ふいに口からこぼれたのは、懐かしい旋律だった。
〽️ウラメウ ウルリイイウメ エファンリイイトゴ オシマアアアア ワガンリ イヤウェアウェアウイ…
南洋踊り。島の小学校では三年生から習う。島のヤシで作った腰蓑を翻しながら踊った、あの白い砂浜の記憶。何もかもが遠くなった。
「いっそ、もう辞めてしまおうか」
ぽつりと呟いて、スマホを開いた。ブックマークの一番上にあるのは、小笠原海運のページ。おがさわら丸、竹芝発の次の便。何時に出港して、いつ父島に着くのか。
もう、東京には用はない。あの島に帰れば、やることはいくらでもある。おが丸の清掃、飲み屋のバイト、ダイビングガイドの受付——何でもいい。何もかもが軽く思えた。冷蔵庫も洗濯機も捨ててしまえばいい。島に送ったって送料だけで赤字だし、実家なら要らない。
心がふっと軽くなるのを感じた。思考が宙に浮くような、あの感覚。
「もうテレビもニュースもいらない」
閉じたスマホの画面に、自分の顔が映った。少しやつれて見えるその顔が、ひどく他人のようだった。
翌日。
いつものようにスタジオに行くと、フィッティングのモデルは綾音だった。Riaではトルソーさんが日替わりで来ることも多いが、最近は綾音がほとんどだった。着せやすいし、何より現場の人間関係がスムーズだ。
作業が終わった後、またふたりで近所のカフェに入る。いつものアイスカフェラテ。泡の下に浮かぶ氷をかき混ぜながら、綾音はぽつりと呟いた。
「もうすぐ誕生日なんだ」
「あ、忘れてた!私も何かお祝いしなきゃね」
「ううん、もし祝ってくれるなら——やってみたいことがあってさ」
その目は、真剣だった。いつもより、ほんの少しだけ。
話を最後まで聞いたイザベラの胸は、きゅっと締め付けられるようだった。
——その日までに準備しよう。あれが必要だ。ループバンド。カーテンフック。裁縫道具。頭の中で手順を反芻しながら、閉店間際の手芸店に駆け込んだ。
綾音の誕生日。アトリエは残業の空気が漂っていた。
「ベラ、どうしたの? ヒラゴムと……カーテンフック?」
パタンナーの史恵が、眉をひそめた。
イザベラは、自分がデザインした半袖のピンクのワンピースを見せながら、ぽつぽつと事情を話した。
「今日、綾音ちゃんの誕生日なんです。だから……一度だけ、『腕のある綾音ちゃん』を写真に残したいって、言われたんです」
「……トルソーさんに?」
「はい。マネキンの腕を外して、半袖の服に吊るして。ちゃんと腕を通してるように見えるようにしたくて」
史恵はそれ以上、何も言わなかった。ただ頷いて、作業台の前に戻った。
その夜。すべての仕事が終わったあと、静まり返ったアトリエでイザベラはワンピースを整え、平ゴムで巻いたマネキンの腕をカーテンフックで吊るした。
完成した“五体満足な綾音”は、腕が動きもしないし、表情も変わらない。ただ、そこに立っているだけ。
けれど、どこか違和感があった。腕は黄ばんだマネキンの肌。どこか人工的で、生々しい。ふんわりした綾音と、無機質な腕の不自然さが不気味ですらあった。
専門学校で習った言葉を、ふと思い出す。
——不気味の谷。
人間に似せれば似せるほど、ある一線を越えると、かえって気持ち悪くなる。その谷間に落ちたような、妙なざらつき。
それでも、綾音には言わなかった。
iPhoneで何枚か撮影する。パタンナーの史恵も、デザイナーの愛子も、最後まで残っていた。

「わあ! 腕のあるバージョンの私って、こんな風になるんだ!」
無邪気に笑う綾音は、不気味さを微塵も感じていないようだった。動かないマネキンの腕をぶら下げながら、何度も写真を見返す。
「今LINEで送るね」
「ありがとう。一生の宝物にする」
「……何よ、そんなことで、いちいち喜んで……」
ぼそりと呟いたのはデザイナーの愛子だった。その声を聞いて、イザベラはすぐに彼女を睨みつけた。
愛子の目は、真っ赤だった。
「綾音ちゃん、すごく辛かったんだね……」
五十がらみの目尻から、大粒の涙が落ちた。そして愛子は綾音を、ぎゅっと抱きしめた。
「え。いや。別に、つらいことなんてないですよ」
綾音は、少し困ったように笑った。
「みんないい人ですし。この体のおかげで大学でろくに勉強しなくてもすぐに内定取れちゃいましたし。1級障害者なので給料の他に国から毎月いいお金もらって、たまに贅沢なご飯屋さん行ったりしてますし」
「ねえ。綾音ちゃん。いつか私とミラノに行こうね」
愛子がそう言って、綾音の肩を強く握った瞬間——吊るされた“腕”がもげた。
「……あ」
史恵が思わずズッコケそうになる。
「綾音ちゃん、私Riaやめるのやめる。小笠原に帰らない」
「え? ベラちゃん、辞めようとしてたの? なんで?」
「綾音ちゃんが、ずっと背負ってきたものに比べたら、私の悩みなんてちっぽけなもんなんだもん。綾音ちゃんに恥ずかしいよ」
夜のアトリエの窓に、誰かの涙が映っていた。
青く澄んだボニンブルーも、あの夜だけは霞んで見えた。
第三章:健常者ごっこ
週明けの現場は、驚くほど普通だった。
いつもと同じスタジオ、いつもと同じ撮影機材。イザベラも、綾音も、史恵も、そして愛子も、みんな何事もなかったように振る舞っていた。
けれど、それぞれの胸の奥には、先週の夜の記憶が静かに残っていた。
「綾音ちゃん。あの写真……本当に、大丈夫だった?」
スタジオの隅でこっそり聞いたイザベラに、綾音は笑って首を傾げた。
「うん、ぜんぜん。すごくうれしかった。あれ、見てるだけで元気出るの。あたしにも“健常者ごっこ”できたなって」
——健常者ごっこ。
綾音が口にした言葉に、イザベラはハッとした。
そうか。
あの夜のあれは、ただの記念撮影なんかじゃなかった。
綾音は、一度だけでも“健常な身体”を纏ってみたかったのだ。
半袖のワンピースを着て、両腕があって、普通の“女の子”としてシャッターを切られる——それが、綾音のささやかな夢だった。
それを叶えたのが、自分だったということ。
そして、その夢が“ごっこ”でしか叶わない現実もまた、イザベラの胸にずしりと沈んだ。
「ベラちゃん」
ふいに名前を呼ばれ、顔を上げると、綾音が真剣な目でこちらを見ていた。
「わたしね、ほんとは“ちゃんとした”モデルになれると思ってたの。大学のとき、“ヴィーナス児”は特別だって、持ち上げられて、内定も早かったし。だけど、現場に入ったらすぐ分かった」
「……なにが?」
「トルソーは、“持ち運びの要らないマネキン”って思われてるだけなんだよ」
綾音の声は、ひどく淡々としていた。怒っているわけでも、悲しんでいるわけでもない。ただ、事実として語る口調だった。
「もちろんね、会社のみんなはいい人だし、無理に重いもの持たされたりもしない。でも、誰も“綾音ちゃんは女優になれる”とか“パリコレに出そう”とか言わない」
イザベラは、返す言葉がなかった。
「わたし、“腕がないからこそ映える”って言われる。服のラインが出やすいからって。それってさ、逆に言えば、“腕があったら普通のモデルにもなれない”ってことじゃん」
それでも綾音は、笑っていた。
「でも、ベラちゃんが“着てほしい”って言ってくれるから、うれしいよ」
その言葉が、イザベラの胸をじんわりと温めた。
「……ねえ、綾音ちゃん」
「ん?」
「いずれ、Riaじゃなくて、あたしがブランド立ち上げたらさ。トルソーじゃない綾音ちゃんで、ポスターのメイン張ってもらうから」
「えっ、わたしが主役?」
「うん。腕の有無とか関係なしに、“その服を一番きれいに着こなせる人”として」
綾音は口を開けたまま、少し考えるような顔をして、それから笑った。
「じゃあ、そのときまでには……ほんとの“モデルごっこ”じゃなくて、“モデル”になれるようにしておくね」
イザベラも笑った。
“健常者ごっこ”じゃなく、“本物”になる日。
そのときは、自分も“アシスタントごっこ”じゃなくなっているだろうか。
島に帰るのは、もう少し先にしよう。
いつか帰るとしても、いまじゃない。
まだ、ここでやるべきことがある。
そう思いながら、イザベラはスケッチブックを開いた。
新しいデザインが、静かにそのページに生まれていく。
それは、両腕のあるワンピースでも、袖のないタンクトップでもなかった。
それは、綾音のための——世界でたった一つの、ドレスだった。
