【小説・ヴィーナス症候群】(64)逃げるように鹿児島へ
海の底に沈めるようにして、恵麻はスマホのスケジュールアプリに「鹿児島」と打ち込んだ。
撮影日一日、拘束二泊三日。トルソーさんの単発仕事。衣装点数は不明だが、ドレス中心と書かれていた。
「歌うの、やめるつもりなん?」
羽田空港のベンチで、芽衣にそう聞かれた。
トルソーの仕事でここまで遠くに行くのは初めてだ。冬場の九州は意外と寒いらしい。ベンチの隣でフリースを羽織った芽衣は、いつもよりも静かだった。
「やめるっていうか、ちょっと離れるだけ。…本気でやるつもりだったら、こんな仕事入れてないよ」
恵麻は笑ってみせたが、芽衣は目をそらした。
「でも、今のほうが稼げてるし」と続けると、彼女は何も返さなかった。
*
鹿児島空港からさらに南へ。
クライアントは指宿温泉でリゾート施設を運営する会社だった。バリアフリーを前面に押し出した新施設のPR用に、「ヴィーナス児のトルソーさんを起用したい」と打診が来たという。ギャラは決して高くなかったが、恵麻は断らなかった。
露天風呂つきの離れ。化粧は最小限で、髪は後ろでまとめられた。
「左肩のライン、見せてもらえますか?」
スタッフの一人がそう言ったとき、恵麻は自然に義手を外していた。
地元の作家が染めたという淡いグリーンのドレス。温泉の湯気と硫黄の匂いのなか、照明が点いた。
視線の先、カメラがまっすぐにこちらを捉えている。

「じゃ、お願いしまーす!」
シャッター音。遠くに波の音。
歌じゃない。マイクもない。声もいらない。
でも、今この瞬間、見られている。レンズ越しに。
――あたしは歌から降りた。ほんとはまだ好きだけど、それでも、もういい。
撮影が終わったあと、スタッフが勧めてくれた黒酢のソーダを飲んだ。冷たくて、酸っぱかった。
このあとひとりで砂むし温泉に行こうか、と考えたが、それもやめた。誰とも喋らずに部屋に戻った。
夜、ベッドに寝転んで、撮ったばかりの写真をスマホで確認する。
「あー、ちょっと太ったかも…」
そう呟いてから、削除ボタンに指をかけて、やめた。
スクリーンのなかの自分が、笑っていない。
それでいい。今はそれで、いい。
