【小説・ヴィーナス症候群】[155]悲しみの風景
アパレルのデザイン室。仮縫いのシルエットを確認する作業が終わり、ピンが抜かれ、反物が巻き直されてゆく。スタッフたちの間で交わされる声は、静かながら、日常業務のリズムを刻んでいた。
そして、照明の中央に、まだ衣装を身に着けたまま佇んでいるのは、弓張渚ただひとりだった。
このブランドでは、かつてはプラスチックのマネキンが使われていた。だが数年前から、両腕のない女性を「トルソーさん」として雇うようになった。服の構造線が布の上にきれいに現れ、ピン打ちも正確にできる。なにより、「布に干渉しない身体」という、衣装のための理想的な条件を満たしていた。そこに、厚生労働省の障害者雇用助成制度が加わり、業界の一定の流れが生まれた。
「お疲れ様でしたー。あ、渚さんは後片付けは結構ですから。お気をつけてお帰りくださいね」
「……あ、いいんですか? すみません」
渚は、肩の磁気インターフェースに義手を接続した。カチッと短く音がして、黒くなめらかな義手がぴたりと肩に吸いつく。手首を小さく動かして通電と可動を確かめると、スタッフに衣装のファスナーを下ろしてもらい、白いチュニックに着替えてスタジオを出た。
千代田線のホーム。向ヶ丘遊園行きの電車が滑り込んでくる。代々木上原止まりでも成城学園前止まりでもない――これなら、乗り換えなしで狛江まで帰れる。
義手の指先で吊り革に掴まりながら、渚は車内の窓に映る自分をぼんやりと見つめた。
――私の人生、ずっと「対象外」だったよな。
渚が生まれたのは、長崎県北部、海と山に囲まれた静かな町だった。原因不明の「第2サリドマイド病」により、彼女は肩から先の両腕がまったくないかたちで生を受けた。医者は「上腕の形成そのものが起こらなかった」と説明した。
だが地元の人々には、ただ「手のない子」と呼ばれた。いわゆる「ヴィーナス児」。
同じように生まれる子は全国におよそ1万人に1人と言われている。けれど、渚が生まれた頃にはまだ、統計も制度も整ってはいなかった。
曽祖父は100歳を過ぎても生きていた。戦時中、徴兵検査で「丙種合格」となり、兵隊には取られなかった。そのことを、戦後何十年経っても悔やみ続けていたという。
ある日、渚は父に尋ねた。
「行かんで済んだなら、よかったとじゃなかと?」
父は湯呑みを見つめたまま、ぽつりと語った。
「そいは、ナギはそう思うかもしれんばってん、昔は違うとさ。兵隊に取られんちゅうのは、男として恥やったとよ。……昔な、岡山の八つ墓村ていうとこで大きな事件があったとばってん、あれもな、兵隊の試験に落ちた男がヤケくさになって、あんなこと起こしたっちゅう話のあるとよ」
子どもの頃はまったく理解できなかったが、今ならよくわかる。
――はじかれた人間が、どんなふうに、裂けていくのか。
渚は、小学校の頃から「対象外」だった。運動会のリレーも、図工の共同制作も、家庭科の調理実習も、いつも補助や見学といった“安全な枠”の中に閉じ込められていた。
ある日、ガキ大将にからかわれた。翌日、その子は目も鼻もわからないほど顔を腫らして登校してきた。
父親に殴られたらしい。
「きさん! 弱いもんいじめばして、何ば考えとっとか!」
その一件のあと、渚はよりいっそう、腫れもののように扱われるようになった。「渚ちゃんは何もしなくていいからね」。それは優しさというより、逃げ腰の配慮だった。
東京に出て、服飾の専門学校に通うようになっても状況は変わらなかった。厳しいと評判の先生ですら、なぜか自分にだけは妙に優しかった。
就職活動らしいこともしなかった。なんとなく、社会に自分の居場所があるような気がしなかったからだ。
そんなときだった。
「渚ちゃん、綺麗だね。ちょっと、トルソーやってみない?」
アパレル、ジュエリー、義肢メーカーなど、各業界の撮影や展示に呼ばれる存在。“動かない身体”として服を着せられ、撮られ、脱がされる。――トルソーという、あらたな生き方。
同じように生まれつき両腕がないという境遇で生まれてきたトルソーさんたちの横のつながりは強く、匿名掲示板「トルコミ」では、現場の情報共有や愚痴のやり取りが盛んだった。
「セクハラ気味のスタッフが、自分にだけ“ちょっとどいて”って言ってくるよ」
「“誰でも食う”で有名なプロデューサーに飲みに誘われたけど、終電前に解散だった。障害者って、そういう意味でも対象外なんだね」
“綺麗だね”――その言葉の先には、誰も触れてこなかった。
だから渚は思った。
だったら、もっとあけすけな“見世物”になってやる。観賞用でも同情の対象でもない、「エロ」としての身体になってみせる。
この週末、湾岸のイベント会場で開催される大型のコスプレイベントに出ることに決めた。
キャミィ。
ストリートファイターⅡのキャラクター。緑のハイレグレオタードに赤いベレー帽。あの衣装は、よほどスタイルに自信があるか、あるいは――よほどの痴女か。
――どっちでもいい。
見せてやる。この身体で、何が悪い。
イベント当日の朝、渚は狛江の自宅でキャミィの衣装を広げていた。緑のハイレグレオタード、金髪のお下げのウィッグ、赤いベレー帽、指なしグローブ、そして膝まである編み上げブーツ。
本来、体のラインがはっきり出るこのコスチュームを選ぶのは、相応の覚悟がいる。
鏡に自分の姿を映す。両肩は丸く、なめらかに肌が切り揃えられていた。両腕が生えてこなかった身体は、そのまま衣装に包まれている。レオタードのストラップは、肩口で浮き上がらないように軽く縫い留めてある。
「見せものになってやる」。
そう決めたはずなのに、ほんの少しだけ喉の奥が渇いていた。
湾岸の巨大イベントホール。更衣室にはすでに多くのコスプレイヤーたちが詰めかけていた。着替え、ウィッグの装着、メイク直し、そして自撮り。各々が自分の「なりたい姿」を仕上げる空間。
渚もその一角に入り、静かに着替えを進めた。
隣のブースでは、「キルラキル」の纏流子に扮した女性が、布のスカーフを胸元に巻き直していた。彼女の衣装は露出が高く、肩やお腹が大胆に出ている。渚がベレー帽をかぶるのを見て、彼女が笑顔で話しかけてきた。
「キャミィですか? スタイルいいですね! 頑張ってくださいね!」
その言葉は、まっすぐな好意に聞こえた。けれど、彼女の視線が一瞬、渚の肩に止まったことを、渚は見逃さなかった。
――きっと、あの人にとって、私は「腕がなくても頑張っている障害者」なのだ。
励ましでも、同情でも、どちらでも構わない。
でも、その視線は私を“対象内”に入れてはくれない。
開場。朝の陽光がガラス張りの天井から差し込む。ブースが並び、カメラを携えた男たち――通称「カメコ」たちが、目を輝かせて通路を行き交っていた。

やがて、渚の姿を見た何人かのカメコが足を止める。
「キャミィだ!」
彼らの目が、緑のレオタード、長い脚線、ブーツ、そして肩へと移る。
――その瞬間、彼らの表情が変わる。
まるで間違いを見たかのように。
眉がわずかに寄り、口元がすっと閉じる。
そして、カメラを下ろす。
「……え?」と、渚の胸の内で誰かが言う。
ひとりが去り、ふたりが立ち止まり、また去る。撮られることも、話しかけられることもなく、彼らは次の「見たいもの」を探して歩き去っていった。
――何が不満なんだろう。肌の露出か? 筋肉のラインか? それとも、腕がないということ自体?
彼らにとって私は、「抜ける存在」ではなかったのだ。
本当は、見てほしかった。
いやらしい意味でも、性的な意味でも、侮辱でも――そのどれでもいいから、「対象」として扱ってほしかった。
でも、そのどれにもなれなかった。
1時間ほどして、渚は着替え室に戻った。義手を付けてレオタードを脱ぎ、チュニックに袖を通すとき、ウィッグを外した頭がひどく軽く感じた。
会場をあとにしても、今日のイベントについて検索する気にもなれなかった。SNSのトレンドに「キャミィ」が入っていても、そこに自分の姿はないだろう。カメラにも記憶にも、きっと残っていない。
帰りの電車で窓の外を見ながら、ふと思った。
――次は全裸で出てやろうか。
だれかの「抜ける存在」になれるなら、そんな手段にさえ頼ってしまいそうだった。
だが、そんな勇気すら持てない自分が、滑稽で、情けなくて、そして哀しかった。
私はまた明日も、「対象外」として、生きていく。
誰のものにもならず、誰の記憶にも残らず。
そうして、またひとつ、悲しみの風景を通り過ぎるのだ。
