【小説・ヴィーナス症候群】(163)乳牛の牛舎で歌う歌手
第1章 沼宮内乗換
東北新幹線の札幌行き「おおとり」は、午前の冷たい陽射しを受けながら、北へと進んでいた。
黒いロングスカートに黒のタンクトップ。腕のない肩をすらりと晒したその姿で、矢野恵麻は車窓に寄り添うように座っている。
車内は空いていた。けれど、彼女は何も期待していない。目的地は札幌ではない。
──途中下車、いわて沼宮内。
そこからは、久慈行きのJRバスに乗り換える。地方自治体と連携して運行している自動運転の地方幹線。
運転手はいない。それはもう、この時代の“田舎の当たり前”だった。
恵麻は、スマートフォンの画面を点ける。
そこには、事務所から送られてきた簡素な業務指示の一文が表示されていた。
《葛巻町にて、牛舎内での歌唱。曲指定あり。「ザマアザマア」のフレーズを中心に1曲ぶん。15分程度。》
読んだ瞬間、恵麻は画面を伏せた。
忘れたかった案件だ。渋谷の狭いスタジオで、あの声を出した日のことは。
──『おつぼね課長の裏アカがバズって人生終了〜マジで女って怖くね?〜』
内容はどうでもいい。
そのエンディングだけが、“スカッとする”という理由で繰り返されていた。
「ザマア、ザマア、ザマア……♪」
それを、今度は──牛に聴かせろ、と言うのだ。
いわて沼宮内駅に着くと、プラットホームの風が冷たくて、思わず目を細めた。
改札を出ると、ロータリーの奥に、小型の白い自動運転バスが停まっていた。
「おう、おつかれさん。乗るぞ」
長居紳助──所属事務所「日芸研」の社長にしてマネージャー、営業、スケジュール係すべてを一人でこなす男が、相変わらずの風体で声をかけてきた。
その声も風に混じって、ガラス越しにややくぐもっていた。
恵麻は軽く会釈し、無言でバスに乗り込む。
車内にはUSBポートと液晶案内パネル。座席は体温でやわらかく沈み、揺れは少ない。
AIの音声が、次の停留所を告げる。
「──次は、陸中板橋」
車窓の外には、杉林と風の通り道。まだ春は浅い。
「……牛、増えるんだとよ。あの声で」
長居が、ポケットに手を突っ込んだまま言う。
それが冗談なのか本気なのかは、もう分からない。
「乳、ね。……そうですか」
恵麻はそれだけ返して、目を閉じた。
──牛に“ザマア”なんて分かるわけない。
それでも彼女は向かっていた。
条件が整っていれば、応じるだけだ。
第2章 ザマアの歌手を連れてきたよ
AIの女声が「葛巻駅です」と告げたとき、恵麻は目を開けた。
停まったのは、電車が来ない“駅”──JRバス葛巻駅。
ロータリーには古びたベンチ、手書きの案内板。「牛乳まつり」「ふるさと風力体験会」といった貼り紙が風にはためいている。
新幹線を降りて、久慈行きの自動運転バスに揺られること一時間あまり。
無人のハンドルが静かに回るのにも、もう何の違和感もなかった。
「歩いて10分ってとこだな。ほら、いくぞ」
先にバスを降りた長居紳助が、ふてぶてしい口調で言う。
ウィンドブレーカーのジッパーは開いたまま、手ぶらでずんずん歩いていく。
恵麻は無言でついて行く。
舗装の浅い道を下って、また少し登ると、牛舎が見えた。
建ててから数年は経っているだろうが、しっかりと手入れされた建物だった。
木造の骨組みに、パネル張りの壁。屋根には太陽光パネルがいくつも並び、脇にはドローンの離着陸用パッドと簡易気象観測機器。
それは、地方の酪農というより──個人の理想が詰め込まれた研究施設のようだった。
その前に立っていたのが、法領田瑞紀だった。
作業着に長靴、タブレット片手に待っていたその青年は、思ったより若かった。
年齢は恵麻とほとんど変わらない。目は落ち着いていて、真っ直ぐだった。
近づくより早く──
「──ザマアの歌手を連れてきたよ!」
長居が声を張り上げた。
両手を広げ、なぜか牛舎の方向を見ながら。
(……おっさん、なんで牛の方に向かって言ってんのよ)

恵麻は心の中で突っ込みつつ、無表情で隣に立った。
法領田の顔に、ほんの一瞬だけ反応が出た。
肩に視線が引っかかって、それから目が少し泳いだ。
──あ、知らなかったんだな。
そういう顔だった。
でも、動揺はすぐに引っ込んで、いつもの顔に戻った。
なんというか、「おぉ、そういう人なんすね」って感じで、妙に納得したような顔だった。
「……どうも、ありがとうございます。本当に来てくれたんですね。自分、法領田っていいます」
盛岡訛りが、少しだけ言葉の端に残っていた。
「地元は盛岡で、岩手大学出ました。農学部です。学生の頃、葛巻チーズを食べて……感動しちゃって。
そっから、“理想の酪農”ってのを自分でやりたくなって。今はここで、牛13頭飼ってます」
タブレットを持ち上げ、画面を指さす。
「で、これ──乳量ログです。全部取ってるんですけど、“ザマアザマア”流したとこだけ、こいつらの乳腺、反応がまるで違うんですよ。数字で出てます」
「音楽の周波数でも、テンポでもない。たぶん、“勝った声”なんすよ。負けてない、って牛が感じる声」
勝った声。
恵麻は、過去に何度か言われたことのある言葉を思い出していた。
けれど、それが牛に効くなんて、誰が思うだろう。
……ただ、歌えばいい。
条件は整っている。ギャラも出る。交通費も前払い。
それでいい。
彼女は一歩、牛舎の中へと踏み出した。
第3章 生ザマア
牛舎の中は、ほんのりと暖かかった。
外気を遮る断熱材と、足元に敷かれた藁のせいだろう。
木と草と、すこしだけ発酵の匂いが混じっている。
恵麻は、入口で一度だけ立ち止まった。
黒いタンクトップの肩に冷気を感じながら、視線を奥へ送る。
13頭の牛たちが、柵の中でこちらを見ている。
というより、反応を探るような目つきだった。
──牛に、勝ち負けなんて分かるわけない。
そう思っていたが、どこかで少しだけ、自分も試されているような気がした。
「このあたりで……マイクなしで大丈夫です。
牛は、耳だけはけっこういいんで」
法領田が言って、給餌台の横を示す。
そこにはスピーカーも設置されているが、今日は使わない。
「録音じゃなく、生がいい」という話だったから。
「音源用意しようかと思ったんですけど……やっぱ、生じゃないと、って思って」
恵麻はうなずき、静かに足元を確かめる。
滑りやすい床にバランスをとりながら、義手のない両肩をそのままさらして立つ。
「じゃあ、お願いします」
その言葉にうなずいて──
恵麻は、息を吸い込んだ。
「……ザマア、ザマア、ザマア……♪」
澄んだ声が、牛舎に響く。
揺れるように、流れるように。
あの日、渋谷の狭いスタジオで録ったあのフレーズ。
でも今日は、誰も笑わない。
ディレクターもいない。スタッフもいない。
──ただ、牛たちだけが、じっと聞いていた。
法領田は、タブレットを操作していた。
モニタリング画面には、搾乳機から送られてくる毎分の乳流量グラフがリアルタイムで表示されている。
「……出てる。ほんとに、出てる……!」
口に出すのも忘れていたように、ぽつりとこぼした。
「“ふじこ”と“つばき”、どっちも上がってる。しかも一分以内に反応出てる……」
「……ザマア、ザマア、ザマア……♪」
二度目のサビ。テンポをわずかに落とし、声の尾を長く伸ばす。
その場にあったのは、ただの歌声だった。
だが、牛たちは誰も逃げず、そっと首を伸ばして彼女を見ていた。
歌い終えると、少しだけ空気が静かになった。
法領田が、息を飲んだままタブレットを見つめている。
「……これ、記録に残します。
でも、これはもう──記録っていうより、感謝っすね」
恵麻は何も言わない。
ただ、牛のひとつが近づいてきて、鼻を鳴らした。
ふじこ、だろうか。つばき、だろうか。
彼女はその顔をまっすぐ見て、ほんの少しだけ、目を細めた。
第4章 ミルクのあと
歌い終えた恵麻は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
牛たちは反応を見せるでもなく、ゆっくりと反芻を始めている。
まるで何事もなかったような顔をして──それでも、たしかに少しだけ、空気は違っていた。
法領田は、タブレットを胸に抱えて深くうなずいていた。
「……いや、ほんと、来てもらってよかったっす。
数値だけじゃないです。牛、落ち着いてます。なんか、空気が……馴染んでるというか」
「……空気でミルク出るんですか?」
恵麻がぽつりと言うと、法領田は笑った。
「いや、たぶん“この空気”じゃなきゃ出ないんすよ。
録音じゃダメって思ってたんすけど、当たってました。……ありがとうございます」
恵麻はそれ以上、何も言わなかった。
自分が“当たってた”かどうか、考える気にもなれなかった。
ただ、声を出して、それが届いて──仕事として完了した。それだけ。
牛舎を出ると、午後の光が山の稜線を撫でていた。
太陽が傾き始めている。風はまだ冷たいが、どこかやわらいでいた。
長居紳助は、牛舎の外の柵にもたれてタバコを吸っていた。
白い煙を細く吐き出し、笑いながらこちらに顔を向ける。
「乳出たか?」
「出たらしいですよ。記録に残ってるって」
「……だろうな」
長居は、ポケットから交通費の封筒を取り出して恵麻に渡す。
その動作が妙に手慣れていて、何十件とこういう地方案件をさばいてきたのだと感じさせた。
「ほんと、助かりました」
法領田が、深く頭を下げた。
「ザマアの人って、ほんとに実在してるんだって……。
あの牛たち、今日、すごい顔してたっすよ。マジで。なんか、“あーこれだわ”って顔で」
「……牛の顔、分かるんですか?」
「だいたい、分かるようになりました。酪農って、ほら、表情読み合いっすから」
恵麻は「へえ」とだけ言って、柵の向こうを見た。
遠くで、風車が一基、ゆっくり回っていた。
長居がぽつりとつぶやく。
「……歌で乳が出る時代か。まあ、悪くないな」
その声を聞きながら、恵麻は心の中で思った。
(“悪くない”のは、牛のほうかもしれないですね)
もうすぐバスの時間だ。
牛舎に背を向けて、山の道を歩き出す。
次の仕事のことは、まだ何も聞いていない。
でも、また何か変な依頼が来るのだろう。
そのときも──きっと、こうやって受けるのだ。
音の残らない場所で、声だけを置いていく。
それが、今の彼女のやり方だった。
(了)
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