【小説・ヴィーナス症候群】(151)深夜番組に呼ばれる
第1章 スタジオ導入
火曜の深夜、午前2時。
渋谷の坂を少し上った場所にある、「TOKYO FOCUS RADIO」第3スタジオ。
ドアの向こうに赤いランプが灯り、ガラス越しのディレクターが指を立てた。オンエア中。
マイクの前に座るのは、芸歴20年の深夜ラジオパーソナリティ――五味 翔右衛門(ごみ・しょうえもん)。
少し捻った声でいつもより静かに語り始める。
「深夜2時を回りました。皆さん、まだ起きてるってことは……たぶん、今日うまく寝られてない人ですね。
『夜ふかしミュージック・ラウンジ』、今夜もゆるく、でも真面目に、音楽の話をしていきますよ」
机の上には、ゲスト紹介の紙と、少しだけ古びたヘッドフォン。
「さて。今夜のゲストは――“歌うために、義手を外す人”。
元トルソーモデル、現・駆け出しの歌手。
その声に、“痛みの線がある”と評価された――矢野恵麻さんです」
小さくBGMがフェードアウトし、ガラス越しのサインを見てから、彼女は静かに頭を下げる。
「こんばんは」
「よろしくお願いします。矢野さん、こんな時間に引っ張り出してごめんなさいね。
いやでも、緊張してます? してるでしょ」
「……はい。してます」

「その“はい”がすごくいいですね。緊張感ごと伝わる感じ。ラジオって、そういう空気が聴いてる人のところにも届くんです」
ブース内の灯りはやや落とされ、マイクのスポットだけが彼女の肩のラインを浮かび上がらせていた。義手は外してある。
「じゃあまずは、ベタですけど出身地の話からいきましょうか。徳島、ですよね?」
「はい。高知との県境のほうです。海のある小さい町で、家は……代々、町議やってる家系でした」
「へえ、じゃあお父さん……議長さん?」
「はい。でも、上京するときはすごく揉めました。『歌手になりたい』って言ったら、“公務員以外は職業と認めん”って。
たぶん、今もそれ、変わってないと思います」
「なるほど……」
五味は、原稿にない言葉をしばし探してから、微笑んだ。
「でもね、今、あなたはこのスタジオにいる。僕らの前で声を出している。それがすべてですよ。
――矢野恵麻、その声が生まれた場所から、今日はゆっくりと聞かせてください」
第2章 歌を逃げ道に選んだ日
「……さて、ここから少し時を戻しましょう。
僕が個人的に気になってるのは、やっぱり“歌”っていう選択肢に、どうして行き着いたのかってとこなんですよ」
五味翔右衛門の声は、低く、静かにマイクへと落ちる。スタジオ内の空調音すら拾いそうな、深夜2時半の空白。
「正直に言ってしまうと……ギターを弾けるわけでも、ピアノをやってたわけでもないです。
私、両腕が生まれつきなかったので。子どもの頃から、“音楽って触れられないもの”だったんです」
恵麻の言葉は、決して重くはならない。淡々としている。でも、温度がある。
「徳島では、“ヴィーナス児”って言葉すら聞いたことがなくて。病院でも、“原因は不明です”ってそれだけ。
町ではちょっとした有名人でした。議長の娘で、腕がない子。合唱の発表会で譜面がめくれなくて、父に“ちゃんとしろ”って怒鳴られたの、今も忘れてません」
五味は、小さく息を呑んだような間を挟む。
「それでも、歌はできたんですね」
「そうです。声だけは、誰にも止められなかった。楽器を弾けなくても、マイクを握れなくても、歌うことだけはできた。
……だから、歌手になろうと思ったんです。逃げ場所でもあり、唯一、自分で選べる場所だったから」
「高校を出て、東京へ」
「フェリーで出ました。ギターも持ってないのに、ヴォーカルの専門学校に入って。
昼はレッスン、夜は“トルソーさん”のバイトに出る毎日でした」
「トルソーさん……ここ、説明しておきましょうかね」
「はい。いわゆる、アパレル業界のフィッティングモデルです。私は“両腕がない”っていう身体のかたちが、ドレスや衣装の構造を邪魔しないって理由で、ある意味“採用された側”でした。
プラスチック製のマネキンの代わりに、立ってる人間。肩で着せられて、静止している仕事。私の場合、それが“初めての収入”でした」
「最初はどうでしたか?」
「しんどかったです。ドレスって、ピンを打たれるんですよ。腕がない分、動いたら針が刺さる。くしゃみもできない。笑ったら、胸元がずれるって言われて、抑える手もないから謝るしかなかった」
五味は、ペンの先でメモを押さえながら、静かにうなずく。
「でも、服を着せられると、“自分の身体”じゃないみたいになるんです。布の中に隠れるというか、身体が“道具”に近づくというか。そうなると、逆に楽でした。誰も、“声”を求めてこなかったから」
「そこから、“声”を求められる場に出ていく。次は……あの、高円寺のストリートライブ、ですね」
「はい。オーディションに落ちたあと、ギターの子に誘われて。最初はただの代打のつもりでした。
でも、あの夜……千円札が入ったときに気づいてしまったんです。“誰も、歌を聴いていない”って。
“腕がない”ってだけで、お金が落ちる。私の“声”じゃなく、“肩”を見て、同情して札を投げてた」
五味は、それ以上の言葉を差し挟まなかった。ただ、その空気が放つものすべてを、スタジオが吸い取っていた。
「……だから、一度、歌うのをやめようと思いました」
「それでも、戻ってきた」
「“戻れ”って言われたんです。鈴明美さんに。“この子の声には、痛みの線がある”って」
「“痛みの線”……いい言葉ですね」
「救われました。あの夜、誰にも届かないと思ってた声を、“そこにある”って、見つけてくれたから」
スタジオの照明が少しだけ落ちる。ガラスの向こうでディレクターが静かに指を上げる。次の曲の準備サイン。
「ここで一曲、いきましょう。
矢野恵麻さん、最新の配信シングル……じゃなくて、実は、ある深夜ドラマのエンディングでこっそり流れてるやつ。タイトルは――」
恵麻が、マイクにゆっくりと向かう。
「『ザマア〜』ってやつです。“スカッと系”ドラマのEDコーラス。
自分の声が、“罰を受けた女”を見て笑う人たちのBGMになったとき、正直、つらかったです。
でも、生活だから。完璧な音程で、完璧な仕事をして、それで2万5千円もらう。それが現実だから」
「では、その“現実の音”を、聴いていただきましょう」
【BGM:『ザマア〜ザマア〜♪』(インストゥルメンタル)】
第3章 痛みの線が導いたステージ
「……歌をやめようと思った。でも、やめきれなかった。
このあと、矢野恵麻さんは、“ある人”に声をかけられます。名前を聞いたとき、僕も本当にびっくりしました」
DJ・五味翔右衛門の声が、わずかに震えていた。
番組スタッフが用意したメモには、こう記されていた。
――鈴明美。40周年記念公演。バックコーラスに、矢野恵麻。
「高円寺のストリート映像が、ネットでたまたま拡散されたらしいんです。と言っても、バズったわけじゃない。再生数は、いまだ三桁。
でも、深夜にその映像を観たひとりのレジェンドが、こう言った」
“この子の声には、痛みの線がある”
「……びっくりしましたよ、ほんと。鈴明美さんですからね。歌謡界で“声を生き延びてきた”人です。その人が、“この声を使いたい”って」
「……なんか、夢の話みたいで。今でも信じきれてないです」
恵麻の声は、いつも通り淡々としている。だが、かすかに笑みが滲む。
「レッスン室に呼ばれて、初めて“音の輪郭”を褒められました。
“痛みの線”って言われたとき、自分の中の何かが、やっと“見つけられた”ような気がしたんです。誰にも届かなかった声が、“そこにあった”って言われた」
「ステージに立つとき、義手は……?」
「外しました。両腕がないまま、袖を垂らして立ちました。
最初は正直、怖かったです。照明の中に立ったとき、“見世物”に戻るんじゃないかって。でも、そこにいたのは“聴く人たち”でした。目じゃなくて、耳が向いてた。
……やっと、“声だけ”で届いたって思えたんです」
「鈴さんが、本番終わりに言ったそうですね。“あなたの声がなかったら、この曲、もう歌えなかったと思う”って」
「はい。……その言葉で、初めて“歌手”って呼ばれていいのかもしれない、って思いました」
五味はうなずく。そして、台本のページをめくりながら、ふと声のトーンを変える。
「この後、恵麻さんは、“トルソー”というお仕事を卒業します。
腕のない身体で、衣装を着て“立つ”仕事。――それが、生活のすべてだった。
けど、その仕事を“辞める”決意をした。理由は……?」
「事務所に、声をかけられたんです。“日本芸能総合開発研究所”っていう、怪しい名前のところから。
でも、社長の長居さんが言ってくれた。“感動ポルノにはしない。雑に扱うけど、舞台に出す”って。
……その“雑”って言葉が、逆に信用できたんですよね」
「これまで、ずっと完璧な姿勢で立って、完璧な音程で歌って、名前も出ないまま、商品や番組の“背景”だった。
でも、今ようやく、“矢野恵麻”という名前が、“少しずつ届いていく”――そんな段階に来ている気がします」
「はい。だから、今日ここで話せているのが、不思議で。でも、ありがたくて」
「それでは、ここで一曲」
五味が手元のCDジャケットを指さす。画面には、先月から始まったケーブルドラマのロゴが浮かぶ。
「話題の“スカッと系”深夜ドラマ、エンディングで流れているこの曲。
“勝手にバズって、勝手に落ちていく人々”に、“ザマア”と歌うコーラス……
その声が、矢野恵麻さんです」
「……はい。完璧な音程で、完璧な冷たさで歌いました。“自分を消して”歌うって、今でもできますから」
五味が目を細める。
「では、聴いてください。
EDテーマ『ザマア〜』より、矢野恵麻――声だけの出演です」
【BGM:『ザマア〜ザマア〜♪』(ヴォーカルver.)】
第4章 うさぎの目くそ、音になる
「さあ、後半戦です」
五味翔右衛門が言葉を整えるようにマイクに寄る。番組はすでに放送開始から90分が経過していたが、リスナーの投稿数はむしろ増えていた。SNSには《#痛みの線》《#ザマアの声》《#トルソー卒業》など、奇妙なハッシュタグが静かに溢れ始めている。
「ここで、矢野さんの“最近の仕事”について、ちょっと変化球な話題を」
「……来ましたか」
恵麻は苦笑する。その笑いには、ほんのりと白あんと黒あんの風味が混じっていた。
「曲名をどう紹介すればいいのか、これ本当に困ったんですけど……
“うさぎの目くそ鼻くそ”。――これ、曲名でも商品名でも、間違ってません」
「はい、事実です。広島の菓子屋さんのCMです。正式には“みなと庵”さんの地方限定CMで、ケーブルテレビだけの放映なんですけど」
「僕、関係者から映像データ見せてもらいました。すごいんですよね、あれ。
小さな町の集会所みたいなホールで、矢野さんが、真顔で“うさぎの〜目くそ〜鼻くそ〜”って歌ってるんです。
しかも一発録りだったって聞きました」
「はい。リハなし、譜面なし。オルガンは保育園から借りてきた黄ばんだ電子のやつで、ピアノの先生が“適当に弾くわね”って。
コード進行もなくて、ただ“空気”に合わせて歌っただけでした。でも、あれだけは、今でも忘れられません」
「忘れられない?」
「はい。“誰も期待してなかった”現場で、逆に私の声だけが“そのままでよかった”って初めて言われたんです。
腕も名前も何もいらなくて、ただ“その声で”って。なんだか、居場所を見つけた気がしたんです」
五味は頷きながら、ディレクターに目配せする。スタジオの天井灯が少し落ちる。BGMが静かにフェードインする。
「SNSでも、あの曲、じわじわ広がってます。“ローカルCMにしか聞こえないのに、なぜか泣ける”って。
“ふざけた言葉を、真顔で歌うことで、逆に音楽になってしまった”という感想も多い。
それって、たぶん矢野さんの“距離感”なんですよね」
「……ふざけないって、決めてるだけです。
どんな曲でも、どんな言葉でも、誠実に歌ったら“その場の空気”は変わるって、信じてるんです」
五味は深くうなずいたあと、ゆっくりと紹介する。
「では、聴いていただきましょう。
合名会社みなと庵提供、瀬戸内のご当地CM曲――
矢野恵麻さんで、『うさぎの目くそ鼻くそ〜』」
【BGM:『うさぎの〜目くそ〜鼻くそ〜』 (広島ローカルCM ver.)】
(※ここで実際にはラジオに乗る形で、電子オルガンと淡々とした女声ソロが重なる。不思議と静けさが染みるような短いワンフレーズ)
放送室の中、音が終わるとわずかに沈黙が落ちた。
それを破ったのは、五味のつぶやきだった。
「……これ、たぶん“笑いものにできない”曲ですよね」
「はい。ふざけてたら、逆に“嘘になる”。
そういう空気って、現場に行ったらわかるんです。だから、どこでも真剣に歌うって決めてます」
「……そのスタンスがあるから、“痛みの線”って言葉が生きるんですね」
「そうだったら、嬉しいです」
第5章 痛みの線を聴いたひとたち
「さて、番組もそろそろ後半戦の山場。ここでですね、実は今夜、ちょっと特別なリアクションが届いておりまして……」
DJ五味翔右衛門がそう口にした瞬間、ガラス越しのディレクターが「いくぞ」の指を挙げた。スタジオには空調の音とマイクの呼吸だけが静かに流れている。
「矢野さん。あなたの“うさぎの目くそ”を、さっき聴いたって人から、FAXでメッセージが来ました。しかも……これ、地元徳島からです」
恵麻の眉がわずかに動いた。
「差出人は――“矢野の町の議員の者です”」
手元の紙を見つめながら、五味がゆっくりと読み上げる。
『……数年前まで、矢野議長という男が町におりました。
その娘さんが、腕がないまま東京へ出て、“歌手になる”と言っていたと聞いていました。
正直、町では“うまくいくはずがない”と、冷ややかに見る声も多かった。
私自身、議会の休憩中にテレビで見かけるまで、彼女の声に触れることはありませんでした。
“きこえていますか”という一言で、私は画面の前で泣きました。
あの声には、たしかに“線”がありました。
これは、謝罪ではありません。
でも、敬意として、このFAXを送ります。
これからも、歌ってください。』
読み終えた五味は、受話器の上に紙をそっと置いた。
「……どうですか、矢野さん」
「……正直に言うと、驚いてます。
父の名前、ああして出されたことも。
たぶん、あの人のことを“議長”と呼んでくれるのも、町の中じゃもう数えるほどしかいないのに」
「でも、届いたんですね。声が」
「はい。今、少しだけ信じられそうな気がしました。自分の“声”ってやつが、ちゃんと誰かに触れたんだって」
モニターの向こうでは、タイムラインに新たな投稿がいくつも流れ始めていた。
《#きこえていますか》《#痛みの線》《#うさぎの目くそで泣く夜》《#トルソー卒業》
――深夜3時前。誰かの生活の中に、矢野恵麻の声が差し込んでいる。
「……あと、もうひとつ」
五味が苦笑しながら言った。
「SNSで、こんなのも見つけました。“ザマア〜”のコーラスの正体、矢野さんだったのかって。
“あのEDで泣き笑いしてたのに、今日になって刺さった”って。――いやあ、これが深夜ラジオの魔法ですよね」
恵麻も小さく笑う。
「ほんとは言いたくなかったんです。“あれ私です”って。でも、誰かがそうやって気づいてくれると……嬉しいです。
“私の声”が、ただの“効果音”じゃなかったって、ちょっとだけ信じられるから」
「そういうこと、たくさん重ねていきましょう。
ライブとか、舞台とか、小さいところからでも」
五味はそう言って、手元のフリップに目をやる。
「……というわけで! 次回の配信ライブ、“原宿ステーションシアター”での出演、決まったそうですね」
「はい……小劇場で歌います。“痛みの線”が、今度は誰に届くか、楽しみにしてます」
「素晴らしい」
スタジオのガラス越しで、カウントのサインが出る。
「それでは最後にもう一曲。
矢野恵麻さんが、自分の“歌”を取り戻したあの夜――鈴明美さんの横浜公演で披露された一曲。
『七月の雨』、コーラスバージョンです。
この夜が、誰かにとっての“始まり”になりますように」
【BGM:『七月の雨』(横浜ホールLive ver.)】
最終章 声だけが、夜を抜けていく
深夜3時を回ったスタジオ。
「七月の雨」が静かにフェードアウトしていくと、ガラス越しのディレクターが両手で大きく「OK」のサインを出した。
オンエアは続いているが、スタジオ内の空気には、どこかひとつの章が閉じたような静けさがあった。
「……というわけで、今夜は矢野恵麻さんをお迎えしてお送りしました。
いやあ、最後まで聴いてくれたリスナー、君たちもたいしたもんだ」
五味翔右衛門は軽やかに締めに入りつつも、どこか惜しむような声音を混ぜていた。
「矢野さん、今夜は本当にありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとうございました。
……ラジオって、ずっとしゃべってるようで、実はすごく聴いてる時間のほうが長いんですね。
“聴いてもらうこと”と、“誰かを聴くこと”が、同じ場所にあるんだなって、今日初めて思いました」
五味は嬉しそうに笑った。
「それ、めっちゃラジオDJが言ってほしいやつですよ。
……いい声でした。間違いなく、今夜の“痛みの線”は、届いてます」
そして、エンディングジングルが流れ出す。
「では、また来週。
眠れない君の、音の隙間に――
TOKYO FOCUS RADIO、『夜ふかしミュージック・ラウンジ』、
お相手は、五味翔右衛門でした」
ブースの赤いランプが、ぽつんと消えた。
――
数分後。
ガラス越しのドアが開いて、スタッフたちが小さな拍手を送った。
「お疲れさまでした」と声が飛び交うなか、恵麻はマイクの前にしばらく座っていた。
「ねえ、これ……どうやって家まで帰るの?」
「タクシー出ますよ」
ディレクターが笑いながら言った。
「五味さん、送ってってあげたら?」
「うーん、僕これから焼きそばパン買いに行かないと……」
スタジオにふっと笑いが生まれた。
でも、恵麻は立ち上がった。
細い肩にジャケットを羽織り、ICレコーダーとスマホをしまう。
「歩いて帰ります。夜の道、けっこう好きなんで」
「気をつけて」
「はい。……あと」
「ん?」
「この番組、たぶん忘れません。
“声しか出せない私”が、初めて“声だけで生きていい”って思えた夜でした」
五味は言葉を探しながら、うなずいた。
「またおいで。
売れても、売れなくても。
その“痛みの線”が、ラジオには一番よく響くから」
—
明け方。
電車もまだ動かない東京の街。
高円寺の住宅地を抜ける坂道を、義手を外したままの恵麻が歩いていく。
タンクトップに軽いアウター。
静かに、でもまっすぐに。
スマホの通知はない。
トレンドにも載っていない。
でも、タグには確かにこうあった。
《#夜ふかしミュージックラウンジ》《#矢野恵麻》《#痛みの線が届いた夜》
そのすべてを、彼女は見ていなかった。
ただ、歩いていた。
――声だけを残して。
