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【小説・ヴィーナス症候群】(80)私だけの卒業写真

浦安の結婚式場「Felice」。

式場としての「Felice」(フェリーチェ)は、その貸衣装部門が発展・独立する形で、現在のドレスブランド「Feliceが生まれたという経緯がある。今でも展示会や撮影会などのたびに、この式場「Felice」が使われるのはその名残であり、両者の関係は深い。
ちなみに“Felice”とは、イタリア語で「祝福」を意味する。

この日の展示会は、春先に行われるはずだった撮影会の“午前の部”の仕切り直しだった。
あの日――五条という国会議員が東西線早稲田駅で飛び込み自殺を図った朝、控室のテレビから速報が流れ、現場は一時騒然となった。
議員本人が、ヴィーナス児の障害等級の見直しを強硬に主張していたこともあり、関係者たちはみな顔を曇らせた。
撮影は午後からなんとか再開されたものの、午前予定だったウェディングドレス姿の展示は延期となり、今日がその仕切り直しだった。

「どうしたの?最近、恵麻ちゃんレアキャラじゃん」

柔らかくまとめた髪に小さな白い花飾りを揺らしながら、夜久野由美が控室の一角で声をかけてくる。
ウェディングドレスに身を包んだ六人の「トルソーさん」たちが、撮影前の調整をしていた。

バックコーラスの仕事が入って、それから、ちょこちょこ歌の仕事も増えてきて……」

恵麻は、すこし照れたように身体を揺らしながら微笑んだ。
恵麻と同じフリーの「トルソーさん」戸頭紬が目を丸くする。

「歌の仕事? 誰のバックコーラスよ」

「……鈴明美」

その名を口にした瞬間、控室の空気が跳ねる。

「えーっ!? 鈴明美!? あの鈴明美!?」

「待って、うそでしょ!? いつの公演!?」

「横浜で……記念ツアーのサプライズゲストって形で、一曲だけ。でも、そこから地方のイベントとか、ラジオの生歌とか、声かけてもらえるようになって」

「すごすぎない!? 鈴明美のバックやった人が、こんな所でウェディングドレス着てトルソーって!」

檜皮谷奈緒が肩をすくめて笑った。けれど、恵麻は静かに言う。

「うん。この仕事で、最後にしようと思って」

由美が、ふっと顔色を変える。

「……“卒業”ってこと?」

「うん。まだ正式じゃないけど、事務所から声がかかってて。たぶん、所属すると思う。
フリーでこういう仕事を受けられるのも、これが最後かなって」

横浜の舞台袖で名前を呼ばれ、あのマイクの前で声を重ねたとき、自分の足が震えていたのを覚えている。
録音スタジオからの帰り道、夜の電車の車内で目を閉じて、「やった」とつぶやいた。
それが、今の恵麻にとってのガッツポーズだった。

「よかったじゃーん! じゃあ、これでみんなで写真撮ってもらおうよ」

「恵麻ちゃんの、卒業写真だね」

「……はい!」

六人の「トルソーさん」――武隈莉子、夜久野由美、檜皮谷奈緒、戸頭紬、呼続芽衣、そして矢野恵麻が並ぶ。


スタッフたちも、「え、本当にあの鈴明美の?」と耳をそばだてていた。そのたびに恵麻は、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じていた。

シャッター音が響く。純白のドレスをまとった六人の肩が、少しずつ寄り添っていく。
腕のないその姿は、通行人には異様に映ったかもしれない。

でも――

恵麻は知っている。この中の誰もが、かつて「腕がない」ことを理由に夢を引き算でしか語れなかったことを。
けれど今の自分は違う。歌で、拍手で、声の輪郭で、少しずつ世界に名前を刻んでいく。

この笑顔が、今の自分のすべてだ。

この写真は、たった一度きりの「私だけの卒業写真」だった。

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