【小説・ヴィーナス症候群】(54)人身事故の朝
早稲田駅、朝7時42分
東京メトロ東西線・車内。
議員辞職した若手議員・五条誠司の「あんなんと結婚」発言の当事者の一人、つまり生まれつき両腕のないヴィーナス児である戸頭紬は、フィッティングモデル、いわゆる「トルソーさん」の今日の現場である浦安の結婚式場に向かっていた。
皮肉にも、ウェディングドレスの展示会の仕事を「あんなん」の一人である紬も務めるのだ。でもそれが仕事だから。
西船橋行きの電車の中で立ったまま、その義手で吊革を握っていた。周囲にチラチラ見られることも何とも思わなくなった。
足元には衣装バッグと私物の小さな鞄。薄手のコートの下には、すぐ着替えられるようスリップドレス。
(あともう少し……)
落合を出て、高田馬場まであと1駅。
その時だった。
キィィィッ——。
鋭いブレーキ音とともに車体が大きく揺れ、乗客たちの体が一斉に前へ傾いた。
軽く悲鳴も上がる。
直後、車内スピーカーからアナウンスが流れた。
「お客様にご案内いたします。前方駅構内で安全確認を行っており、列車はただいま緊急停止しております。
詳細が分かり次第、あらためてご案内いたします。ご迷惑をおかけいたしますが、そのままでお待ちください」
紬は車窓の外に目をやる。
しかし、そこに広がっていたのは無機質な闇だけだった。
ホームでもない、トンネルの途中。壁のラインがうっすらと流れていた。
(……何かあった?)
スマートフォンを取り出す。が、圏内にもかかわらずネットは繋がらない。
電車の静寂の中、誰もが同じように画面を見つめていた。
同時刻、浦安にて
同時刻。
千葉県浦安市の結婚式場「フェリーチェ」控室。
あの一連の五条発言で話題になったヴィーナス児の「トルソーさん」たち3人は、それぞれドレス姿で控えソファに腰をかけていた。
鏡の前にはメイク道具、テーブルには水のペットボトルとお菓子の小袋。
そして、それぞれの義手が、自然に肩から延びている。
彼女たちは今、撮影ではなく休憩中。
それで、本番とは違って義手を装着したまま自由に身を動かしている。

「紬さん、来ないね」
ユミがそう言って、肩の義手を軽く調整した。
「LINE来てたよ。“早稲田で何かあった”って」
莉子がスマホを見ながら答える。
「ニュース見てみようか」
奈緒が壁際のテレビをつけた。朝の情報番組が音を立てて流れ出す。
《速報です。東京メトロ東西線・早稲田駅で人身事故があり——》
室内の空気が、わずかに止まる。
《——跳ねられたのは、元国会議員の五条誠司氏とみられ——》
ユミが眉をしかめた。
「……あの五条?」
「たぶん……本人だと思う」
奈緒が画面に見入っている。
莉子は鏡の前で静かに姿勢を正しながら、ぽつりとつぶやいた。
「……結婚、できなかったんだね」
控室には、ドライヤーの風音と、遠くからかすかに聞こえる海の音が混じっていた。
進行予定の変更
結婚式場「フェリーチェ」 控室
午前9時半。
控室のドアが軽くノックされ、撮影スタッフの藤井が顔を覗かせた。
ジャケットの袖をまくって、首からストップウォッチをぶら下げている。
何度も一緒に現場をやってきた顔だ。
「おつかれさまです、みんな。今、ちょっと変更入ったからお知らせに来た」
「あー、やっぱり何かあった?」
莉子が先に口を開いた。
「うん、さっきのニュース……見たよね? 東西線の人身、あれで移動めっちゃ乱れてるみたいで」
藤井は言いながら、控えめにテレビのほうへ視線を流した。
まだ画面では、白布で覆われた現場と「五条誠司」のテロップが映っていた。
「午前の屋外撮影は一旦ナシ。午後の館内カットだけにしよってことになった」
「紬さんは?」
「今電車止まってるって。本人からLINE来た。『遅れますけど、行きます』ってさ」
「それなら、よかった……」
ユミが小さくつぶやく。
「午後の撮影、13時からホールのとこ。順番とポーズは変更なしで、SNSは今回は出さない方向」
「てことは、クライアント向けの資料用って感じ?」
「そうそう。お披露目はまた別のタイミングでって話になってるから、今日は淡々とやるだけ」
奈緒が義手のバンドを調整しながら、ぽつり。
「空気読んだのね」
「まぁね。でも、こっちはこっちでちゃんと撮らなきゃいけないし」
藤井が肩をすくめる。
「お弁当は正午くらいに持ってくるから、それまでちょっとゆっくりしてて。何かあったらLINEして」
「あいよー」
藤井はドアを閉め、バタバタと廊下を去っていった。
室内には少し沈黙が落ちた。
ユミが口を開く。
「紬さん……あの電車、同じ路線だったよね」
「うん。でもあの子、遅れるときは絶対連絡入れる子だから」
奈緒が応じる。
莉子は、自分の義手を撫でながら、鏡越しに口を開いた。
「……あの人が死んでも、ドレスは着なきゃいけないんだね、私たち」
それは皮肉でも批判でもなく、ただの事実の確認だった。
それ以上、誰も何も言わなかった。
空き時間
結婚式場「フェリーチェ」 控室(午前10時すぎ)
午前の撮影がキャンセルになったことで、控室にはぽっかりと時間ができていた。
3人ともドレス姿のまま、義手をつけた状態でリラックスモード。
奈緒はペットボトルの水を口に運び、ユミは備え付けのスピーカーから流れる音楽に合わせて指を動かしていた。
莉子は、スマホを両膝の上に置いたまま、少し前のめりに画面を眺めていた。
「……出てるよ」
「ん?」
「遺書。五条の」
ユミと奈緒が顔を上げた。
莉子はスマホの画面を傾けて、二人にも見せる。
改革、結局僕には無理だったみたいです。
いろいろとご迷惑をおかけしました。
一足お先にこの世界から退場します。
それではみなさん、お世話になりました。
さようなら!
五条誠司
「これ……ほんとに本人?」
「アカウントは公式。事務所スタッフも認めてるっぽい」
奈緒が自分のスマホで確認し、Twitterのトレンド欄を眺める。
「“#五条誠司”“#ヴィーナス児”“#あんなの”……すごい勢いで上がってる」
「テレビでも『発言の録音が拡散された』って言ってたしね」
「ほんの一言だったのにね」
ユミがぽつりとつぶやいた。
「たった一言で、全部終わるなんて」
莉子は黙ったまま、画面をスクロールしていた。
「“最初は応援してたけど、なんか違和感あった”って投稿、めちゃくちゃ多い。
今さら何言ってんだって感じだけど」
「手のひら返しは早いよ。ネットなんてそんなもん」
「……でも、死ぬことなかったのにね」
奈緒が小さく言った。
室内には、また少しだけ沈黙が落ちた。
そしてユミが、静かに口を開いた。
「ねぇ。あたしたち、午後……笑えるのかな」
莉子は答えなかった。
ただ、画面を伏せて、両手で義手の肘の部分を軽く押さえた。
「……着るだけだよ。笑わなくてもいい。ドレスは、ただ着るだけ」
それが、彼女たちにとっての“撮影”だった。
