見出し画像

【小説・ヴィーナス症候群】(22)他人の金で豪華フランス旅行

第1章 白羽の矢

あのウェディングドレス展示会で、夜久野由美はいつも通りアパレルブランド「Felice」の試着モデル、いわゆる「トルソーさん」としてステージに立っていた。まるで彫刻のように静かに、花嫁の夢を纏うようなドレスを着て。

それは、ユミにとって特別なことではなかった。義手を外し、ノースリーブのドレスに身を包み、観客の視線のなかでただ“作品の一部”として佇む。それが、自分に課された役割だった。

だが、会場の片隅で一人の男がユミを見上げていた。その目だけが異質だった。服を見るでもなく、舞台を見るでもなく、ただ彼女そのものを“見つけた”という眼差しで。

そして数日後――ユミのスマホに突然届いた一件の連絡。

「社長が、“ユミさんにミロのヴィーナス像の前で実際にポーズしてもらえたら、すごく意義深い企画になるんじゃないか”って言ってて……ご検討いただくことって可能ですか?」

送り主は、彼の会社の秘書室のキラキラ女子。完璧な巻き髪、清潔な白のブラウス、そして“ガクチカ頑張って内定取りました感”のある話しぶり。

ただ、ユミは一瞬信じられなかった。ルーヴル美術館? ミロのヴィーナスと同じポーズ? そんな光栄なことが現実に起こるなんて…

「やります!」

即答だった。美容院の予約を入れ、トリートメント中も頭の中はそればかり。「このボブ、パリに連れていくんだ…」と胸を弾ませた。

けれど、その胸の高鳴りは、まだこの先に訪れる異常な旅の始まりに過ぎなかった。

第2章 渋谷の社長室

「このたびはお引き受けいただきありがとうございます。では、日程の調整をさせていただいても大丈夫ですか?」

電話の向こうから聞こえてきた声は、どこまでも丁寧で、どこまでも“意識が高い”雰囲気をまとっていた。スパークスタッフ株式会社・秘書室の吉良という女性。
名刺をもらったときのことを思い出す。巻き髪に白のブラウス、きれいめな爪、清潔な笑顔――あの、社長室の空気に溶け込んだような存在。

「社長の方でですね、ユミさんにどうしてもお願いしたいっていう話になってまして…。
あの、ミロのヴィーナス像の前で、同じポーズを取っていただけたらっていうのがご希望なんですよね」

(……“ご希望”って、何様)
ユミの脳裏に一抹の違和感が駆け抜ける。

「やっぱり、ユミさんの雰囲気って唯一無二じゃないですか? 社長も“あの静かさがいいんだよね”ってずっと言ってて。
私も見てて、なんか“凛とした存在感”っていうんですかね? そういうの、すごい伝わってきたんですよ」

(コピーライターでもやってるのかな)

「あと、渡航に関してはすべてこちらでご用意しますので、そこはご安心いただければと思います。
ファーストクラスでのご移動になりますし、現地も五つ星のホテルで、完全にプライベートな空間をご用意しています。
やっぱり、ユミさんのこと、大事にしたいっていう“想い”があるじゃないですか?」

(いやそれ絶対私じゃなくて社長の“想い”だよね)

電話を切ったあと、ユミは無言でスマホを見つめた。
送られてきたPDFファイルには、成田発パリ行きの航空券情報、宿泊先、現地スタッフの連絡先、そしてルーヴル美術館での撮影予定時刻まで、すべてが記載されていた。

それでも、ユミの頭の中にあったのは旅程ではなく、社名だった。

《スパークスタッフ株式会社》。

「……あれ、『トルコミ』でちょっと話題になってた気がする……」

ヴィーナス児の「トルソーさん」たちが集まる掲示板《トルコミ》で、数週間前に交わされた書き込みがふと頭に蘇った。

「スパークスタッフって会社、最近トルソーにも手を広げようとしてるらしいよ」
「展示会の写真、無断で使ってたって話なかった?」
「でも社長がやばいんだよな。あの“障害は武器”って言って燃えた人」

そう、そのとき貼られていたSNSのリンクを開いたら出てきたのが――

村岡翔太。

中卒起業、木更津出身、年商12億。
SNSには《努力してる人間は俺に共感する》《オタクとフェミは無視》といった挑発的な言葉が並び、案の定たびたび炎上していた。

控室で莉子がタブレットを見ながら言っていたのを思い出す。

「この人さ、トルソーの子に“障害は武器”ってリプ送って燃えてた人じゃない?」
「ああ~いたね、そういう人」
「なんか中卒から社長になった成功物語らしいけど、ウケ狙いなのかガチなのか分かんない」

そのときユミは、曖昧に笑って流した。
まさか、その人とフランスに行く日が来るとは思わなかった。



スパークスタッフ株式会社・渋谷本社。
セルリアンタワー高層階の社長室は、妙にがらんとしていて、壁には本人のSNS投稿が額装されていた。

「ようこそ!いや~、展示会のときの髪型、マジで良かったよね。うなじがさあ」

現れた男は、期待を裏切らないほど“そのまま”だった。ブランド物で固めたスーツ、きっちり整えられた眉、自己評価の高そうな声。

「……あれ、ウィッグなんです。普段はボブで」

「あ、そうなんだ。でもさ、あの雰囲気良かったよ。ミロのヴィーナスと並べたら、やっぱ映えるからさ~」

ソファに座るよう促され、ユミが腰を下ろすと、社長の目が一瞬だけ義手に向かった。
確認するような視線。そしてすぐに、得意げな顔。

「いや、ほんと俺、そういうの全然気にしないタイプだから!」

声が跳ね上がった。

「差別とか、一番嫌い。俺、常に人は中身で見るって決めてるからさ!
ヴィーナス児とか、逆にすごいと思うよ? オーラあるし、“努力してきた人”って感じするし!」

(ああ、来た来た……)

「俺、前にも言ったじゃん? “障害は武器”ってさ? あれ、結構賛否あったけど、俺の本心なんだよね。なんか、強いって思ったから言っただけで」

(むしろ今、そのセリフ思い出したくなかったけどな……)

社長はユミが黙っているのを「共感」と誤解したらしく、さらにスイッチが入った。

「俺ね、高校中退してさ、木更津でドカタやってたのよ。
で、その現場でさ、手配師の親父に“お前、仕切れるな”って言われたの。そこからさ、人を回す立場になって、
“現場を仕切る”ってこと覚えたのが、今の人材派遣の基礎なんだよね」

(ほらまた始まった……)

「日雇いの手配から独立して、最初は電話一本の小さい事務所。そっから拡大してさ、今や社員150人。年商12億。マジで人生変わったよ。
SNSで叩かれてもビビらねぇし、炎上しても止まらない。だって俺、本物だから」

(自分で“本物”って言う人ほど……)

それでも、ここで不機嫌な顔を見せたら、パリには行けない。ルーヴルにも立てない。
ユミはいつもの「トルソーさん」の顔を思い出すようにして、静かに微笑んだ。

「……わたし、がんばります」

社長は満足げに笑い、手を軽く叩いた。

第3章 ヴィーナス像の隣で

成田空港の保安検査場。ユミは案の定、いつも通り金属探知機に引っかかった。
義手が反応するのはわかっていた。別室に通され、検査官の女性に優しく、だが慣れた手つきで義手を外される。これはもう日常だった。

「お手数おかけします」

無意識にそう口にした瞬間、背後から村岡社長の声が飛んできた。

「そういうの、マジで申し訳ないって思うよなあ。社会の方が対応遅れてんのよ」

(……どうせSNSでまた言うんだろうな)

出発ゲートで待っていた吉良が「お手続き、スムーズでしたか?」と聞いてきたのに対して、村岡はなぜか得意げに「うちの子、よく頑張ってるよ」と言った。

(うちの子? いつから私、社員になったの)

搭乗したのはANAのパリ行きファーストクラス。
ユミにとって、生まれて初めての空の上のラグジュアリーだった。

座席はほぼ個室。メニューにはフレンチのコースが並び、シャンパンは「銘柄をお選びください」と言われた。

でも。

「でさ、俺が何で今、こんなところにいるかっていうとさ――」

隣では、村岡が話し続けていた。

「やっぱ“信用”って、コツコツ作るもんじゃない? SNSだって、俺ずっと見てるの。“見せ方”が大事。てか、本音を見せてる方が共感されるのよ」

「……そうですね」

「この間もね、“炎上してよかったこと”ってnoteにまとめたんだけど、めっちゃバズったの。読んだ? 見せようか?」

ユミは首を横に振った。けれど社長はスマホを取り出して、自分のnote記事を読み上げはじめた。

「“真実を語る者は、いつだって叩かれる”。これ俺の言葉だからね?」

(……もういい加減にして)

機内の照明が落ち、ユミはそっとアイマスクを取り出した。
目を閉じようとすると、また声が飛んできた。

「え、寝んの? まだ話途中なんだけど。聞いてる?」

「……はい。聞いてます」



パリ・シャルル・ド・ゴール空港に着いたとき、ユミの体内時計はぐちゃぐちゃだった。
機内で一睡もできなかった。目はぼんやり、肌は乾き、義手の装着部が少しだけ痛んだ。

それでも、ユミはプロだった。
ルーヴル美術館に着いた瞬間、スイッチが入る。

「このあたりで撮ってもらえますかね?」

社長が現地カメラマンに指示を出している間、ユミはコートを脱いだ。
ノースリーブのワンピース。義手はすでに外してある。

前に立つのは、世界で最も有名な、両腕を失った女神――ミロのヴィーナス。

ユミはその像の前に立ち、同じ角度、同じ視線、同じ身体の傾きでポーズを取った。
周囲のざわめきが止まり、空気がすっと静かになる。フランス語で何かがささやかれ、シャッターが切られる。

(大丈夫。わたしは、わたしでいい)

モデルとしての本能がすべてを包み、ユミの身体から「ユミ」が消える。
そこにいるのは、ただのシルエット。ただの造形。ただの「一枚の絵」だった。

「OKです! ありがとうございます!」

カメラマンが手を上げ、社長が拍手する。

「完璧だったね! SNSとかには載せないけどさ、これぜったい社内プレゼンに使うから! もう感動!」

「わかってます。社外には出しません」

「マジでこのシーン、俺の人生で五本の指に入るわ。やっぱ本物ってさ、世界に通じるんだな」

ユミは微笑んでうなずいた。言いたいことはたくさんあったけど、もう言う気力はなかった。



車でホテルへ向かう途中、ユミは後部座席で眠りに落ちた。
義手をはずした左肩が、じんわりと重かった。



そして、夜。

高級フレンチレストラン。ドレスコード必須。
ユミは社長に連れられて、重い扉をくぐった。

背筋を伸ばし、呼吸を整える。店内の空気がすでに違う。
義手のない指先が、わずかに震えていた。

メニューを手にしてから、ユミは気づいた。向かいの社長――

ナイフとフォークの持ち方がまるでなっていなかった。

スープは音を立ててすする。パンは指でちぎってソースに浸す。
けれど彼は堂々としていた。むしろ「俺流」と言わんばかりだった。

(こういう人が社長になるんだな……)

見回せば、ウェイターも他の客もチラチラと視線を送ってくる。
そして、ふと、ユミは気づいてしまった。

こんな場所に、こんな空気で、2人きりで来たということは。

ホテルには戻れるのだろうか。無傷で。

第4章 事件の夜

目が覚めたのは、朝の10時過ぎだった。

カーテンの隙間から差し込む白い光が、ぼんやりとした意識をゆさぶってくる。
ユミはゆっくりと体を起こした。ベッドの端に座って、まずドアチェーンと内鍵を確認した。どちらも昨夜のまま。誰も入ってきた形跡はなかった。

胃の奥がまだ重たく、むかむかとした違和感が残っていた。
けれど、寝る前よりはずいぶんマシだった。

スマホには、村岡からの簡単なメッセージが届いていた。

《体調、大丈夫? 予定切り上げて今朝の便で戻ります。お疲れさまでした。》

つづいて、吉良から。

《今朝ちょっとだけお顔拝見して大丈夫そうだったので、私も社長と一緒に帰国しました!
ホテルの人に何かあれば聞いてみてくださいね~。ホテル英語、通じますよ!》

ユミは一瞬、画面を見つめたまま固まった。

(……え?)

パリに、自分ひとり。
あの広いスイートに、ぽつんと取り残されたことを初めて実感した。



海外旅行といっても、これが2度目だった。
最初は数年前、東京から新幹線で博多へ行き、そこから高速船のビートルで釜山に渡った。それだけ。
飛行機は避けた。義手が金属探知機に反応して、何度も検査で外させられるのが嫌だったから。

そのときは母と一緒だった。予約も通訳も、全部任せきり。

今回は違う。パリに一人。しかも、体調不良の翌朝に、社長も秘書も置いていかれるなんて――

けれど、不思議と怒りは湧いてこなかった。
代わりに、ひたすら静かな諦めが降りてきた。

(……せめて、エッフェル塔くらいは見ておこう)

自分にそう言い聞かせて、ユミは義手をしっかり装着し、軽く身支度を整えて部屋を出た。



結果から言うと、観光は大失敗だった。

まず、メトロの切符の買い方が分からなかった。
観光客用の一日券を買ったはいいが、どうやって改札に通すのか分からず、後ろの人に舌打ちされた。
自動改札は動きが早くて、義手で通すのに時間がかかると戸惑った。

エスカレーターは止まっていて、階段ばかり。手すりはあるが、慣れない高さにバランスを崩しそうになる。

ようやく目的地の駅に着いても、出口を間違えて何度も遠回り。
スマホの地図は回転し続け、方向がつかめない。

それでもなんとか、エッフェル塔を見上げる場所までたどり着いた。

高くそびえる鉄骨の塔。その迫力に、ユミはほんの少しだけ、救われたような気がした。

だが、すぐに観光客目当てのミサンガ売りが近づいてくる。

「こんにちは!友達にプレゼント!」
「これ無料だよ、ギフト!つけるだけ!」

義手の上から無理やり手首にミサンガを巻こうとする手を、ユミは「あ、いらないです」と笑顔でかわした。
けれど、相手はなかなか引き下がらない。

義手を見て何か言おうとしたのか、ひるんだのか、そのまま別の観光客の方へ移っていった。
ほっとした反面、心に薄い膜のような疲労が広がった。

展望台に上ろうかとチケット売り場に向かったが、機械がカードを読み込まなかった。
現金も足りず、両替の場所もわからない。
結局、ユミは塔の下でしばらく座り込み、景色を眺めるだけで終わった。



夕方、ホテルに戻ったときには、足の裏がじんじんと痛み、肩の装着部がかすかに擦れていた。

観光というにはほど遠い時間。
でも、エッフェル塔を見たという事実だけが、ほんの少しだけ救いだった。



翌朝、空港へ向かうタクシーの中。
ユミは窓の外のパリの街並みに、何の感情も湧かなかった。

期待も、感動も、悔しさも、怒りも。すべては、もう過ぎたことだった。

第5章 競合の炎上と控室の午後

「……ユミさん、あのSNSの件、ご存知ですか?」

応接室に通されたユミの前で、総務課の女性は静かに切り出した。
机の上にはA4でプリントアウトされたSNSの投稿。見覚えのある、あの角度――あの衣装――あのポーズ。

背景にあるのは、ルーヴルの白い壁と、ミロのヴィーナス。
その手前に立つのは――自分だった。

“俺が撮ったこの瞬間が、ミロのヴィーナスを超えたと思ってる。”

投稿主はもちろん、村岡翔太。
コメント欄は案の定、ざわついていた。

「モデルの女の子すごい…誰?」
「ヴィーナスって言うより、現代のミューズだな」
「え、でもこの人って前に“障害は武器”って言って燃えてた人じゃ…」

「うちのブランド、彼らとは明確に“競合”なんですよ」

総務課の女性は、しばらく沈黙してから言葉を継いだ。

「トルソーさんの派遣、あちらも始めようとしているのは知っています。社内でも注意喚起していました。
なのに、その相手に“うちのモデル”が登場している。しかも、あちらのSNSで“俺が撮った”とまで言われてる」

ユミは、黙ってうなずいた。

「もちろん、あなたが無断で写真を提供したとは思っていません。
ただ……事前に社に相談してくれていたら、こちらで契約調整もできたのではないかと」

(相談なんて、できる空気じゃなかったけど)

「一応、今後はご自身の外部活動について、ブランド側への事前報告を必ずお願いしたいんです。
あなたの出演範囲は、私たちが守りますので」

「……すみません」

「大丈夫です。ご理解いただければ。今日は、これで」

ユミは頭を下げ、部屋を出た。
背筋を伸ばして歩きながら、心の中で息を吐いた。



控室に戻ると、いつもの空気が広がっていた。
鏡の前では莉子が自分の後れ毛を整え、奈緒が靴を履き替えていた。

「おかえりー。ねえ、ほんとにフランス行ってたの? うらやましすぎ!」

「エッフェル塔、見た?」

「お土産は?」

ユミはロッカーにカバンを置きながら、小さく笑った。

「……あの社長、ヤバかったよ。マジで」

「えー、やっぱり? トルコミでも言われてたよね、“障害は武器”の人だって」

「うん、それ。現地でもずっと話してた。俺すごいでしょ、って。
ファーストクラスで隣だったんだけど、着くまでずっと“俺語り”されてた」

「地獄じゃんそれ」

「それでいて、ディナー連れてって、私が腹痛になって寝込んだら、翌朝勝手に帰ってるの。しかもSNSで“俺が撮った”とか言って炎上してるし」

莉子がスマホを取り出し、さっそく検索を始めた。

「え、ほんとだ、あった……うわ……
“現代のヴィーナス”ってタグまでついてる。
これもう、トルコミに貼っていいよね?」

「なんか競合他社にうちの名前出された感じするしね。黙ってる方が変だよ」

ユミは鏡に映った自分と目が合った。
そこにいたのは、パリの白い大理石の前に立っていた自分とは、どこか違う表情だった。

「……貼るなら、あんまり煽りすぎないでね。事実だけでいいから」

莉子と奈緒はうなずいた。

「わかってる。
でも“トルソーさんを“俺の作品”扱いする奴がいた”ってのは、ちゃんと残しておかないとね」

第6章 トルコミに火がついた日

【速報】あの「障害は武器」社長、今度は“俺のヴィーナス”発言で燃えてる

トルコミにそのスレッドが立ったのは、午後3時すぎ。
莉子がスクショを投稿してから、わずか数十分で返信が次々とついていった。

「え、これってユミさんじゃない? ミロのヴィーナスの前のやつ」
「やっぱそうか。控室でもフランス行ってたって言ってた」
「それを“俺が撮った”とか、何様……」
「え、てか“うちの”じゃないよね? この人スパークの社長でしょ?」

反応はすぐに拡散した。SNSにも同じような文脈で引用され、あっという間にトルソーさんたちの間に広がっていく。

そして、やや遅れて投下された長文の書き込み。

【ユミです】
あまりこういうところに書くのは得意ではないのですが、事情を知ってほしいと思って投稿します。
フランスには、あの社長の依頼で1泊だけで連れて行かれました。
撮影はルーヴルで、ミロのヴィーナスの前でポーズを取りました。
SNSに写真を出さない約束だったのに、帰国したら炎上していて、うちの総務課にも呼ばれました。
撮影や旅費は向こう持ちでしたが、現地ではかなり一方的に振り回されて、
ディナーのあと腹痛を起こしてホテルで寝ていたら、翌朝には勝手に帰ってました。

SNSで「俺の作品」みたいに言われたこと、正直かなり傷つきました。
それでも、できるだけ静かに済ませたいと思っています。
ただ、今後他の人が同じような目に遭わないように、記録だけは残したいと思いました。

トルコミにこの投稿が載った瞬間、反応が変わった。

「ユミさん、ありがとう。勇気あると思う」
「SNSで“ミューズ”とか“女神”とか言われてたけど、本人に何も言わず勝手に使ってたんでしょ?」
「こういうの、ちゃんと企業側が守ってくれないとだめだよね」

しばらく沈黙していたユーザーの1人が、こう書き込んだ。

「私も1年前に、展示会の写真が無断でパンフに載ってたことある」
「私も。でもうちは“確認取ったことにして”って言われた」
「結局、“トルソーさん”って名前もないから、使われるだけなんだよね……」

だんだんと、ユミ個人の問題ではなくなっていった。
“わたしも”“わたしも”と、声が連鎖していく。静かに、しかし確実に。



その日の夕方、スパークスタッフの公式X(旧Twitter)が何の前触れもなく、こう投稿した。

【ご報告】先日話題となった投稿について、モデルの方との認識に齟齬があったため削除しました。
関係者の皆様にご迷惑をおかけしたことをお詫びいたします。

コメント欄は封鎖されていた。



ユミはその夜、トルコミの画面をスクロールしながら、静かにソファに背を預けた。

あの日、ルーヴルの前で感じた誇らしさ。
あの塔を見上げたときの、ほんの少しの勇気。
そして、誰にも知られずにひとりで帰国した、その夜の重さ。

どれも消えない。
でも、こうして誰かの中で言葉になったことで、ほんの少しだけ、意味を持った気がした。

第7章 あなたは商品じゃない

「……責任者会議、けっこうピリついてたって」

控室に入ってきた奈緒が、スニーカーを脱ぎながらぽつりとつぶやいた。

「例の件? スパークの?」

「うん。広報が“知らない間にブランドの価値が毀損されかねなかった”ってかなり怒ってたみたい。
でも逆に、ユミちゃんが責められるような流れじゃなかったって」

莉子がユミの方をちらっと見て、「そりゃそうでしょ」と笑った。

「だって完全に被害者だもん。あんな“俺が育てた”みたいなノリで使われてさ」

ユミは返す言葉もなく、鏡の前で静かに髪をまとめ直していた。
ピンの角度が少しズレただけで、なぜか呼吸が浅くなる。



その日の昼、ユミはブランドのマネージャーから呼び出されていた。

応接ブースにいたのは、総務課の担当者と広報チームの女性。そしてマネージャーの佐久間。

「ユミさん、まずはお疲れさまでした。今回の件、こちらでもあらためて整理を進めています」

広報の女性が資料を広げた。

「SNSに掲載された画像、そして“競合関係にある企業アカウントによる発信”という事実。
これについては、明確にブランドの管理不備と認識しています」

ユミは驚いた。てっきりまた釘を刺されるのかと思っていた。

「あなたが写真を提供したわけでも、炎上を誘ったわけでもない。
むしろよくぞ、一人で帰ってこられました。
ご自身の立場を守ってくださったこと、心から感謝しています」

(……守ったなんて、言えるかな)

佐久間が、少し声を落として言った。

「ユミさん。あなたは“商品”じゃありません。
もちろん“トルソーさん”として、ブランドを着ていただく以上、管理や契約の話はあります。
でも、その前に“人”ですから。今回のような使われ方をされて、黙っていろとは言いません」

「……ありがとうございます」

「社としても、スパークスタッフには正式に抗議文を送ります。
ただ、いまのところ相手側からは、“行き違い”“善意による掲載”という回答のみで。
おそらく、直接の謝罪は……」

広報の女性が、わずかに眉をひそめた。

「……期待しない方がいいでしょうね。ああいうタイプの方は、“俺は悪くない”から始まりますから」



控室に戻ると、莉子がスマホを手にニヤニヤしていた。

「ねえ、トルコミ見た? スパークの社長、note出してた」

「え、まだ出すの?」

「タイトル、“誰かのために立ち上がったら叩かれた話”」

ユミは思わず吹き出してしまった。

「なにそれ……」

「しかも本文、めっちゃ長い。
“今回のパリ撮影は、社会的弱者に希望を届けたかった。
炎上に屈せずに発信し続ける勇気こそ、いま求められている”だって」

「え、読みたい。読ませて」

『誰かのために立ち上がったら叩かれた話。あと、ルーブル美術館のこと』

先日のパリ出張を巡って、色んなご意見を頂いています。
中には「炎上」という言葉で煽るメディアやアカウントもあり、
正直、心外です。

でも、ぼくは今、あえてこのタイミングで、
この出来事を自分の言葉で書き残しておこうと思います。

■ ドレスの展示会で見た光景

ある展示会で、ぼくは衝撃的な出会いをしました。
ウェディングドレスの試着モデルとして登壇していた女性。
彼女は、両腕がなかった。

いや、“なかった”というより、**“そのままで立っていた”**ことに、ぼくは打たれた。

美しいって、装飾じゃない。
作られた物語じゃない。
“その人自身が、そこにいる”っていう強さが、芸術になる瞬間がある。

あの時、会場の空気が一瞬で変わったのを、ぼくは今でも覚えています。

■ ヴィーナス像との共鳴

ぼくの頭に浮かんだのは、ミロのヴィーナスでした。
両腕がない彫像が、今なお“美の象徴”として立ち続けていること。

だったら、現代のヴィーナスもまた、ここにいるじゃないかと――そう思った。

ルーヴル美術館で、
“あの像の隣で、今のこの子がポーズを取ったら、何が起きるんだろう”。

ぼくは、そう考えずにはいられなかった。

■ 想いと炎上

現地での撮影は、奇跡のような瞬間でした。
ヴィーナス像の前に立つ彼女の姿は、“欠損”なんて言葉では括れない、完全な存在感を放っていた。

だから、ぼくはその写真を投稿した。
“この瞬間を、伝えたい”という気持ちだけで。

でも、そのあと、SNSで炎上しました。
「無断掲載だ」「搾取だ」「表現者気取りか」……いろいろ言われました。

でも、言わせてください。

ぼくは、“差別”はしません。

これはずっと信念としてあります。
ぼくは、ハンディキャップがある人を“守る対象”じゃなく、“表現の主体”だと考えています。

■ 発信する責任

「発信し続けることが勇気だ」と思っています。

沈黙は、正しさではない。
たとえ叩かれても、自分の目で見て、自分の心で感じたことを言葉にする責任がある。

あの一枚の写真が、“誰か”に届いたと信じたい。

最後に

ぼくはまだ、表現者として未熟です。
noteの書き方も、伝え方も、きっと下手くそかもしれません。

でもそれでも、今回のことであらためて思ったことがあります。

“違い”は誇りだ。
そして、現代にもヴィーナスは生きている。
その瞬間を見た者として、ぼくはこれからも発信していきます。


※このnoteは、関係者の了承を得たものではありません。
※写真はすでに削除済みです。
※誹謗中傷目的の引用はお控えください。

「完全に自己陶酔モードじゃん」

「てか、“社会的弱者”って、あんた自分で言ってるんだよね……」

奈緒が苦笑まじりに言い、ユミもやれやれと目を閉じた。

「私、何も言ってないのに。
写真は削除しますって言ってたくせに、“言葉で戦う姿勢”とか、誰と戦ってるつもりなんだろ」



控室の空気は、静かにあたたかかった。

誰かが名前を出して利用しようとしても、
それに対して「おかしい」と声をあげてくれる人がいる。
その事実が、ユミの中に小さな安心を灯していた。

第8章 note考察合戦

【考察】ユミさんの件、村岡のnoteを“言葉の暴力”と捉えるか“社会的発信”と捉えるか

スレッドタイトルが立ったのは夜9時を回ったころ。
スパークスタッフ社長・村岡翔太の長文noteが話題を呼び、**「トルソーさんは商品か表現か」**という論点が、トルコミ内でも静かに火をつけた。

「“誰かのために立ち上がったら叩かれた”って、いやいや、誰も頼んでないんだが」
「そもそもあのポスト、“社会的弱者に希望を与える撮影”とか言ってたけど、
トルソーさんって希望を与えるために存在してるんじゃなくて、仕事してるだけだよね?」

「私はあの文面、“作品”とか“象徴”とか、全部が寒かった。
人を勝手に“表現”にしないでって思った」

一方で、こんな書き込みも。

「でも、あえて言うけど、私、あのnote読んで励まされた過去ある」
「えっ」
「“誰でも一度は負けて、それでも立ち上がる”ってやつ。あの頃、トルソーの研修で心折れてたから、少し救われた」
「それは別に“障害者のミューズ”として使う話とは関係なくない?」
「……たしかに、そうかも」

そして、しばらく沈黙していたあるIDが、淡々とした長文を投稿した。

【“作品”として消費されていく現場にいた者です】

モデルとして撮影に立つこと、それ自体は誇りに思っています。
でも、知らない場所で勝手に“象徴”にされたり、“癒された”とか“勇気をもらった”と言われるたびに、
わたしの“生活”は置いていかれるような感覚になります。

ルーヴルで撮った写真を“俺の人生のベストショット”と表現されたとき、
わたしはその裏で胃薬を探していたし、シャワーを浴びる体力もありませんでした。

その写真は、わたしの“成果”ではあるけれど、“表現”という言葉で他人に所有されるのは違うと思っています。

トルソーさんは、静かに立つだけじゃなく、“違和感”を言葉にしていい。
そのことだけは、伝えたかったです。

(by ユミ)

これを境に、スレッドは一気に静まり返った。
それまで皮肉を飛ばしていたIDたちが、ぽつぽつと頷くような返信を返す。

「“作品として消費”って言葉、すごくわかる」
「展示会の写真がSNSで勝手に加工されて“勇気をくれる存在”ってバズってた時の気持ち、思い出した」
「“癒された”って言う人って、こっちの生活とか、努力とか見てないよね。
でも、ユミさんの書き方って、そういう人たちを責めてないから刺さる」

そして別のスレッドでは、村岡noteの全文を“検証”する流れが始まっていた。

【検証スレ】社長noteの全用語をメタ視点で考える
・“社会的弱者”=語ることで自分の優位性を無意識に強調している?
・“俺は差別しない”=それを強調する人は差別を前提にしている?
・“ヴィーナス児は希望”=当事者の意志ではなく、外部が担わせた“意味づけ”?

トルコミ史上、これほど“文章”を巡って考察が盛り上がったことはあまりなかった。



ユミは、静かにスレッドを読みながら、何も書き込まずに画面を閉じた。
この議論の場に、もう自分の言葉は必要ない気がした。

彼女が発したひとつの文章が、
たしかに他の誰かの記憶や経験を引っ張り出し、
静かに、“語っていい”という許可を生んでいた。

第9章 それぞれの場所から(翠)

画面の中で、誰かのnoteがまた引用されていた。
添えられたコメントは、皮肉まじりのものから、真剣な考察までさまざまだった。

「“俺が撮ったヴィーナス”、さすがに言い過ぎでしょ」
「note削除したってことは、図星だったんじゃないの」
「逆にああいう自己陶酔こそ“男社会”の縮図って感じがした」

同じヴィーナス児である舘合翠は、スマホの画面をスクロールしながら、ふと息をついた。

(トルソーさんの話題、また燃えてるんだ……)

大学の図書館で見かけた、あの後ろ姿を思い出す。
Riaのショールックで固められたモデル。すらりとしたノースリーブのワンピース姿。
試着でもないのに、異様なほどにシルエットが決まっていた。

そのとき、彼女の名前は知らなかった。
あとになって「あれが家久綾音だった」と知った。

(でも、わたしは……怖かったんだと思う)

怖いというのは、嫉妬とも違う。
ただ、あまりにも「完成されていて」、そこに並ぶには自分があまりにも未完成で、
義手のことだって、人前に出すなんて想像もしていなかった。

大学に呼ばれた義肢メーカーの説明会で、トルソーさんのリクルート案内を手渡されたとき、
結局その場で断って帰った。

(あのとき立ってたら、トルコミにいたのかな)
(逆に言えば、わたしは、今もずっと“外”のままだ)

画面のnoteをタップして開く。
そこには、ルーヴル美術館の話、ミロのヴィーナスの前で撮られた写真、
そして「作品じゃなくて生活であること」を綴った、ユミという名前のトルソーさんの文章があった。

派手な言葉ではなかった。
怒ってもいなかった。
ただ、「そうじゃなかった」とだけ、ていねいに書いてあった。

(ああ、この人……本当に言葉を選んだんだ)

“ありがとう”とも“許せない”とも書かず、ただ「違う」と言ったこと。
それがどれほどの勇気だったのか、外にいる自分にもわかった気がした。

広告代理店に入れば、
今度はユミたちが着ている服を、「伝える側」に立つことになる。
それを思うと、今のうちに“知っておかなくてはならないこと”がある気がして、
翠はnoteの文章をもう一度、最初からゆっくり読み返した。

第10章 それぞれの場所から(綾音と結菜)

「あの子、翠ちゃんっていうんだっけ?」

控室のベンチに腰かけながら、綾音がぼそっとつぶやく。
義手をつけたままスマホを操作する結菜が、ちらりと目を上げた。

「ん? 大学の後輩さん?」

「うん。私の学科じゃなかったけど、なんかよく見られてた気がする。
声かけられたことは一度もなかったけど」

「あるある。こっちは何もしてないのに、“なんかすごい人”みたいに距離置かれるやつ」

綾音はかすかに笑って、カーディガンの袖を指先でいじった。

「いま、あの子がユミちゃんのnote読んでるっぽくて。
フォローしてる友達経由でRT回ってきたの見えた」

「へえ。やっぱ、来るんだね」

「……私、ああいうnote、書けないなって思った」

「ユミちゃんの?」

「うん。あんなふうに、ちゃんと“違う”って言えるの、すごい。
私、いつも“仕方ない”とか、“まあそういうもん”で済ませちゃうから」

「でも、それでトルソーさんの仕事ずっと続けてきたんでしょ? それはそれでぇー、すごいよ」

「続けてるけど……
いつも、誰かが“ありがとう”“希望になった”って言ってくれると、
ちょっとだけ、背中のどこかが冷たくなる」

結菜は、スマホを伏せて綾音の方へ身体を向けた。

「冷たくなるって、どういう?」

「なんか、わたしは“その人の物語の中に放り込まれた”って感じるの。
たとえば、自分の意思じゃないところで“癒された存在”にされる感じ」

「あー……あるね」

「でも、あれに怒ったら、“感謝できない人”ってなるじゃん。
“障害を受け入れて前向きに生きてる”って思われてる前提、裏切っちゃうから」

「そういうとこだよね、ユミちゃんのnoteが刺さったのって」

ふたりの間に、少しだけ沈黙が流れた。
誰も何も言わなくても、この空気は、ちゃんとわかり合えていた。



「……“ミロのヴィーナスの隣に立った”って、ほんとすごいことだけど」

「うん。でもユミちゃんにとっては、あれも仕事だったんだよね。
モデルとしての」

「うん。“仕事”だったんだと思う。
“作品”じゃなくて、“生活”。
そう書いてあった」

綾音がふっと笑った。

「じゃあ、私も今度どこかに書こうかな。“トルソーさんの休憩時間”って」

「いいじゃん。読みたいわ、それ」

その夜、舘合翠はひとり部屋で、ユミのnoteをもう一度開いた。
画面の中の文字は変わらないのに、二度目は少しだけ違う響きに読めた。

「作品として消費されていく現場にいた者です」

その一文の重さを、外からの立場でどう受け止めればいいのか。
答えは出ない。ただ、これから出会う誰かのために、忘れてはいけない気がした。



同じころ、綾音は控室の隅で手帳を開いていた。
そこには、走り書きのような文字が並んでいる。

「“誰かの象徴”になったあと、残るのは私の生活だけ」
「“ありがとう”に震えるのは、きっと私の中のどこか」

結菜は黙ってそれを見守りながら、
(ああ、この人もやっぱり、“ちゃんと語れる人”だったんだ)
と、小さくうなずいた。



ユミのnoteは、特別に拡散されたわけではない。
メディアに取り上げられたわけでもない。

でも、届くべきところには、確かに届いていた。
それが今、誰かの中で小さな言葉を生み、
あるいはまだ言葉にできないまま、じっと胸の奥で温められていた。

語る人も、語らない人も。
沈黙すらも、確かにそのひとりの人生の一部だった。

いいなと思ったら応援しよう!