【小説・ヴィーナス症候群】(139)ローカルCMソングの仕事
第1章 鼻歌
瀬戸内の小さな港町、朝の陽射しが瓦屋根をつたって、みなと庵の中庭に降りていた。
畳の縁側に寝そべるように座っている男がひとり。白いTシャツにジャージのズボン、ぼんやりとした目つきで、左手には和菓子、右手にはアイスコーヒー。
「うさぎの〜……目くそ〜……鼻くそ〜……」
それを聞いた者は、十中八九「やめなさい」と言うだろう。だが、彼の父親であり〈合名会社みなと庵〉の代表を務める沖本修三だけは、縁側の柱に背を預けたまま、しばらく黙っていた。
隆史。三十を目前にして、一度も定職に就いたことがない。だが、幼い頃から音だけには鋭かった。勝手に覚えたカラオケのメロディ、変な替え歌、それだけが日々の断片だった。
修三は、息子の口ずさむ鼻歌を聞いて、ぽつりと呟いた。
「……それ、ええのう」
「なにが」
「歌じゃ。CMに使えそうじゃ」
隆史は答えない。甘い白餡を口に入れ、冷たいコーヒーで流し込むだけ。
試作中の求肥菓子――白と黒、二つの餡が詰まった一口サイズのもの。それはその色と形から、仮で「うさぎの目くそ」と呼ばれていた。
「おまえ、今の歌、忘れるなよ。“うさぎの目くそ鼻くそ〜”。メモしとけ」
「……はあ」
「東京の人に歌わせて、CMにするけえ」
「……はあ」
隆史はわかっていなかった。だが修三は、本気だった。
第2章 反対と紹介
その翌朝、沖本修三は〈藤田印刷〉を訪ねた。
小さな観光地図を刷ってもらうついでに、新商品「うさぎの目くそ」の販促相談を持ちかける。
「チラシはまあ、いつものフォーマットでええ。問題は、CMじゃ」
「テレビですか?」
「地元のケーブルテレビじゃ。例の“潮まつりのポスター募集”の枠、観光協会に頼んで押さえてもらえるかと思うての」
「……はあ。で、内容は?」
「うちの隆史が歌いよった。“うさぎの目くそ鼻くそ〜”。あれを、ほんまに歌にする」
「……」
「で、歌ってくれる子を東京から呼びたい。ちゃんと歌える子にな」
藤田はコーヒーをすするふりをして、間を取った。
「社長。東京の事務所って、どこかあてがあるんですか?」
「ない。けど、ちゃんとギャラは払う。交通費も宿代も出す。そりゃ断られんじゃろ」
「……ひとり、思い当たる先があります。大学のときの先輩で、今は東京の制作会社にいて。たまに地方のCMソングの相談とかも受けてるらしいです。向こうに知ってる歌手や事務所があるかもしれません」
「それでええ。間口は広い方がええ。頼む」
その夜、藤田は制作会社〈トマリギ映像工房〉のディレクター・佐竹に連絡を取った。
電話口の佐竹は、商品名を聞いた瞬間こそ少し笑ったが、すぐに真面目な声に戻った。
「はい、ええと、“うさぎの目くそ”……ですか。なるほど。ふざけてるようで、逆に覚えやすいですね。
地方の食品系CMなら、うちもちょくちょくやってます。歌のほうも、実はちょうど合いそうな歌手がいます」
「歌手……ですか」
「はい。矢野恵麻さん。まだ駆け出しですけど、歌はしっかりしてます。演出過剰にならず、真面目に歌ってくれるタイプですね」
「それなら助かります。社長さんも“よう歌える子がええ”言うてますんで」
「じゃあ、事務所に確認してみます。たぶん、条件が合えば問題ないかと」
第3章 東京の事務所
東京都渋谷区。JRの線路沿いに建つ築古の雑居ビルの一室。
部屋の入口には貼り紙ひとつ、《日本芸能総合開発研究所》と印刷されたA4用紙がマグネットで止めてある。
電話が鳴ったのは午前11時を少し過ぎたころだった。受話器を取った長居紳助は、相手が自己紹介するのを聞くなり、椅子にもたれて足を組んだ。
「はいはい、ええ、トマリギ映像の佐竹さん……うん、はい、あー、なるほど、はい。……うさぎの?」
目の前のノートにメモを取りながら、彼はひとり笑った。
「“うさぎの目くそ”。ええ、ええ、ギャラ三十で。交通費別、宿泊費も別で。交通手段はANAの株主優待券送ってくれるって? へえ……なんか、そういう筋通すとこは嫌いじゃないなあ」
そのまま電話を切ると、奥のソファに座ってスマホを見ていた恵麻に声をかけた。
「今度の仕事、広島」
恵麻はスマホから目を上げる。
「……何をやらされるんですか」
「CM。“うさぎの目くそ鼻くそ〜”っていう曲。歌って、映像にも出る。商品名が“うさぎの目くそ”。白あんと黒あんのセット菓子らしい。地元の菓子屋の息子が風呂で鼻歌うたってたのが原型」
恵麻は少しだけ眉を上げて、「ふうん」と言った。
「出演料は?」
「三十。交通費と宿別。ANAの株主優待券ついてくる。送迎も出すってよ」
「……行きます」
「曲は、メロディラインだけ仮で送ってくるってさ。現地で合わせながらやる感じになるかもしれん」
「オルガンですか?」
「たぶん。なんか、地元の音楽教室の先生が弾くらしいよ」
「……ふうん」
恵麻は立ち上がって、自分のロッカーから薄手のジャケットとICカードケースを取り出した。
荷物は少ない。義手は普段使いのまま。肩口の接続部を覆う袖は着替え用にもう一着。
歌うときは義手を外す予定だったが、それは現地に着いてからでいい。
「歌詞は、“うさぎの目くそ鼻くそ〜”の繰り返し?」
「それしかない。でも、たぶんそれで正解」
「……了解しました」
第4章 飛行機
羽田空港第2ターミナル、午前9時前。
人の波の中に混じって、矢野恵麻は静かに歩いていた。髪は後ろでひとつにまとめ、黒の薄手のジャケットの下に黒タンクトップ。下はGパン。足元は白いサンダル。
左肩には薄いナイロン製のボストンバッグ。中には替えの服と洗面用具、そして義手のメンテナンス用品がひとそろい入っていた。
チェックインは株主優待券指定便。送られてきたのは、ビジネス客用のANA優待搭乗パック。みなと庵の社長・沖本修三の名で手配されていた。
保安検査で立ち止まるのは、いつものことだった。
「お客様、少しだけ……お身体のこちら側、よろしいでしょうか」
担当の女性係員が、低い声で訊ねる。
「生活用の義手です。構造はチタンと樹脂。外せますが、今日はこのままでお願いします」
恵麻は慣れた調子で答え、少しだけ肩を傾けてスキャンしやすい姿勢を取った。係員は金属探知器を動かしながら、目礼だけして深く詮索することはなかった。
ゲートを抜けると、恵麻は小さくひと息吐いて、スマホのメモを見返した。
【“うさぎの目くそ鼻くそ〜”/B♭〜G→E♭→D】
簡単なメロディ譜。送られてきた仮音源は、ピアノで弾かれた単旋律のmp3だった。
「曲」と呼べるほどの構造はない。だが、それが逆に気楽だった。
搭乗口では、係員が封筒を確認しながら「お預かりします」と頭を下げた。
「合名会社みなと庵様より、ご搭乗の手配を承っております。座席は前方をご用意しています」
機内に乗り込むと、窓側。すぐに手元のベルトを留めて、背をもたれに預けた。
離陸までの時間、恵麻は目を閉じる。
誰にも気づかれないように、小さく鼻歌を口にした。
「……うさぎの、目くそ……鼻くそ……」
第5章 到着と紹介
広島空港を出て、1時間強。
送迎車は海沿いの旧道を抜けて、小さな漁港に面した会館へたどり着いた。
空はうっすらと曇りがかっていたが、瀬戸内の海は相変わらず穏やかで、遠くの島々が雲の影の下に連なっていた。
機材を搬入していた撮影クルーの若いスタッフが、軽バンのドアが開くのを見て、声を張り上げた。
「なんでもやってくれる歌手を連れてきたよ!」
その声に釣られて、何人かが振り向く。
黒いタンクトップにジーンズ、髪は低めにまとめ、表情はほとんど動かさないまま、恵麻が車を降りる。
(ドサクサに紛れて腰に手ェ回してんじゃねえよ……キモいおっさんやな)

「……あれ?」
すぐにひとりが呟いた。
「あれ、腕……」
彼女の両肩には、義手もなにも装着されていなかった。肩から先は、滑らかに整った断端で止まっていた。
それを見た年配のカメラマンが一歩近づき、気まずそうに言葉を探した。
「……あー、えっと、恵麻さん、機材運ぶの手伝ってもらおう思うたけど……無理よね、はは」
恵麻は特に反応もせず、海に背を向けたまま、会館の方へ歩き出す。
その後ろから、さきほどの若いスタッフ――妙にテンションが高く、黒いポロシャツ姿の男が駆け寄ってきた。
「いやー、でもほんま、来てくれて助かりました! なんか、地元じゃよう歌ってくれる子がおらんで……」
誰も何も言わなかったが、近くで見ていた音楽教室の先生が小さく眉をひそめた。
「……ほんまにこの子が歌うん?」
「たぶん、まあ、軽く合わせてみたらわかるっしょ」
スタッフの誰かがそう言ったとき、準備中のオルガンからひとつ音が鳴った。
試し弾きのような音。ド、ソ、シ♭、ファ。
そして、何の合図もなく、恵麻がその旋律に声を乗せた。
「うさぎの〜……目くそ〜……鼻くそ〜……」
風が一瞬止んだように感じられた。
言葉は冗談のようなのに、声だけは冗談にならなかった。
その場にいた全員が、少しずつ姿勢を正していった。
第6章 収録
会館の一角。かつて演歌カラオケ大会が開かれていたという舞台の上に、スチールの折りたたみ脚と合板で組んだ仮設ステージが立っていた。
床にガムテープでマーキング。正面にはケーブルテレビ局の業務用ハンディカムが三脚で据えられている。
舞台下手には、保育園から借りてきた電子オルガン。鍵盤は一部黄ばんでおり、譜面台も割れていた。
椅子に座るのは、町の音楽教室でピアノを教えている田口先生。年季の入ったカーディガン姿で、メロディ譜のない旋律を小さく口ずさむ。
「……じゃあ、A♭あたりでいってみようか。転調も……まあ適当に」
「先生、それ、録れるんですかね」
「録れるもなにも、これしかないでしょ。カメラのマイクしかないんだし」
「一応、ZOOMのレコーダーは持ってきてますけど……どっちがきれいに録れるんかな」
「どっちでもいけるようにしといて。恵麻さん、立ち位置、そこ」
舞台中央、ガムテープで「×」が記された足元に、恵麻は何も言わず立った。
黒タンクトップとジーンズ。両肩から先は何もついていない。両腕がまるごと存在しないはずなのに、彼女の姿には欠落という印象がなかった。
「では、テイクワン……よーい、スタート」
カメラの赤いランプが点灯した。
オルガンの音が、か細く、しかし芯のある調子で鳴り始めた。
リズムも構成も曖昧なコード進行に、恵麻の声がすっと重なる。
「うさぎの〜……目くそ〜……鼻くそ〜……」
その瞬間、空気が変わった。
音楽というよりも、景色が鳴っているような錯覚。
メロディは簡素なのに、声の奥に感情がないのに、なぜか聞き入ってしまう。
客席側に座っていた沖本修三は、息を止めるようにして見ていた。
隣のスタッフが、無言でOKのサインを出す。
ワンコーラス終わる頃、鍵盤の音が余韻を残して消えた。
「はい、カットー。……えっと……今の、で、いけますね」
「うん、いけると思う」
「うん。……いける、と思う」
誰の声も大きくはならなかったが、全員の意見が一致していた。
録音は、一発で済んだ。
⸻
必要以上に盛り上げず、かといって茶化しもせず。
「うさぎの目くそ鼻くそ〜」というふざけたフレーズに、本当に音楽としての命を通した瞬間――それだけを、恵麻はやってのけた。
終章 帰り道
午後の海風が舞台の幕を揺らした。
撤収作業は淡々と進み、ケーブルテレビの機材はすぐにワゴンに積まれていく。スタッフの声も、さきほどよりいくらか落ち着いていた。
「……あの、ありがとうございました」
オルガンをカバーに収めながら、田口先生が恵麻に声をかける。
「声、ほんまにきれいでした」
「……ありがとうございます」
恵麻は少しだけ頭を下げた。動作はぎこちなくない。義手を外した肩口から、風がすっと抜けていった。
「……じゃあ、そろそろ空港向かいます」
迎えのワゴンのドアが開く。長居紳助の姿はない。現地対応は撮影班に任されていた。
恵麻は黙って車に乗り込み、海沿いの道を静かに離れていった。
島々が遠ざかる。
その中で彼女のスマホには、何の通知もなかった。
⸻
数日後――みなと庵にて
⸻
木の引き戸を開けて入ってきた常連の老人が、箱を手にして言った。
「これが“目くそ”かいのう」
「はい。白あんが目、黒あんが鼻でございます」
奥から応対に出たのは沖本修三。
CMの放映はすでに始まっていた。地元のケーブルテレビ、週に3回、ニュースの間に15秒。
観たという声は多くなかったが、観た者は口を揃えて言った。
「なんか……歌が、よう歌っとったねえ」
誰も、ふざけてるとも言わなかった。
ただ、「あの子、よう歌うとった」とだけ残した。
菓子は、地元土産としてそこそこ売れた。
味がいいとか、珍しいとかいう話ではない。「あのCMのやつ」という認知だけが、静かに背中を押していた。
息子・隆史は、その後も変わらず縁側で寝そべっている。
が、たまに耳にする。「あの歌、また流れとるで」と。
それに対して、彼はだいたいこう言う。
「ふーん。……恵麻、すごかったなあ」
【完】
