【小説・ヴィーナス症候群】(101)スカッと系ドラマ
「エマちゃん!仕事だよ!」
社長兼マネージャー・長居紳助の声が、事務所のガラス越しに響いた。矢野恵麻は、卓上の温くなったお茶を見つめたまま動かない。あの口調の時は、たいてい、地雷。
「空いてたよね、来週水曜。午後、渋谷。コーラス録り。3時間。ギャラ、2万5千円。交通費出るよ」
「どんなやつです?」
「タイトルがな……『おつぼね課長の裏アカがバズって人生終了〜マジで女って怖くね?〜』」
恵麻はまぶたをゆっくり閉じた。
「ザマア系?」
「そう。ザマア系。正義の味方も出てこない。勝手にバズって勝手に崩れてく。で、視聴者が“スカッと”するやつ」
「コーラス?」
「そう。EDで“ザマアザマア”ってリフレイン入れるらしい。あと本編中に小ネタ的に挿し込まれるBGMも」
「そうですか……」
即答はしない。ただ、断る理由もない。名前も出ない。声だけが使われる。そんな仕事なら、いくつもやってきた。
録音当日。渋谷のスタジオは、元はカラオケ屋だったビルを改装した簡素な作り。スタジオスタッフもディレクターも、恵麻の義手を外した姿には何の反応も示さない。
「じゃあ、1パターン目。テンション高めで、“会社で嫌われて当然な女が勝手に落ちていく爽快感”を表現してもらえると」
「はい」
恵麻はマイク前に立つと、息を吸い込む。
「ザマア、ザマア、ザマア……♪」
2テイク、3テイク、少しテンポを変え、音程を崩さず、ディレクターの表情を読んでバリエーションを重ねる。

「いいっすね。声が清潔なのに、棘がある感じ。陰キャ殴る陽キャの音っていうか」
誰かが笑った。誰かがうなずいた。恵麻は笑わなかった。ただ、次の曲へ向けて立ち位置を直しただけだった。
その夜、高円寺のカフェ。閉店前の薄暗い空間で、恵麻はいつもの角席に腰を下ろしていた。レジ横の壁掛けテレビから流れてくる音に、息を止める。
ドラマのOP。スーツ姿の課長が、後輩の席に当たり前のように腰掛け、缶コーヒーを飲んでいる。そのシーンを、若い女性社員たちが無言で見つめている。
場面が切り替わり、SNS画面が拡大される。
『社内の椅子事情、地獄』というツイート。
そこから始まる、課長の転落。
ED。
「ザマア〜ザマア〜♪」
それは自分の声だった。自分の喉から出た音。
隣の席で、大学生らしき若者たちが笑っていた。
「こういう女、いるよな〜」「勝手に自滅してく感じ、マジで気持ちいいよね」
恵麻は、カップを持つ義手の指をわずかに強く握った。テレビ画面の下に流れる文字テロップが、ゆっくりと滲んで見えた。
(徳島の家族がこれ見たらどう思うだろう……
同級生が偶然つけたテレビで、私の声が“ザマア”って流れたら……
笑えるか? 胸張って言えるか?)
数日後、事務所からLINE。
『今度は“復讐される女の叫び”ってドラマの仮歌。いける?』
恵麻はスマホの画面を見つめたまま、少しだけ笑った。
そして無言でキーボードを打った。
『時間は?』
また、生活が続いていく。
完璧な音程で、完璧な仕事をして、誰にも知られず声だけがテレビに流れる。
画面の向こうで、誰かが“スカッと”している。
でも、少なくとも自分は――気持ちよくなってなどいない。
