【小説・ヴィーナス症候群】(218)モロッコで乞食
あの食人事件で殺された迷惑YouTuber「ぱんつっち」の追悼配信が終わって、あの場にいた四人――旅行系「はたご」、キャンプ系「てんてん」、料理系「輝羅」、そして私――それぞれが、元の日常に戻っていった。
戻った、ように見えた。
輝羅はキッチン動画を再開したが、肉を一切使わなくなっていた。てんてんは、焚き火動画の寝入りにランタンを消さなくなった。はたごも、カメラの向こうで明らかに怯えたように視線を泳がせていた。
じゃあ、私は。
――何もできていなかった。
わかってはいた。そろそろ、動画を一本くらいあげなきゃ。カメラの前で笑わなきゃ。わかってる。
でも、体が、動かなかった。
ノートPCは開きっぱなしで、編集途中のまま。スマホにはネタ帳アプリがいくつもあるのに、開く気になれない。
ぱんつっちとは、ほとんど関わりなんか無かったはずだ。ただ、DMで声をかけられただけ。それなのに――。
冷蔵庫の奥に、封も切っていないチューハイの缶が三本あった。
飲まなかったんじゃない。飲む気になれなかった。
自分の発言がきっかけで、半年も行方不明だった人間の“場所”が特定され、結果として“あの姿”で見つかった。
警察にも、メディアにも責任を問われたわけじゃない。けれど、胸の奥に冷たい鉛のようなものが沈んでいた。
「なにしてんだろ、わたし……」
そうつぶやいた時、指が止まったのは、スマホに流れてきた海外ニュースだった。
「ドバイで乞食を一掃」。
バクシーシという文化、プロ乞食の存在――。どこか現実感のない記事だった。でも、不思議なことに、胸のどこかがぴくりと反応した。
そういえば、私、施しを受けやすい体なんだった。両腕のない「ヴィーナス児」。
そして何より、今は何か――“別の現実”に触れたかった。
検索履歴はすぐに乞食まみれになった。
「海外 乞食 女性」「乞食 合法 国」「モロッコ 障害者 施し」――。
そんな調べ方、まともじゃないのは分かってた。でも、まともでいたって、何も変わらなかった。
数日後、私は成田空港からカタール航空でドーハへ飛び、そこからモロッコのマラケシュへ乗り継いだ。
街は赤茶けた土壁と、絨毯のようなスーク、濃密な空気と香辛料の匂いで満ちていた。
早朝、ジャマエルフナ広場に降り立ち、私は地べたに座った。
白いワンピースに、ノーメイク。両腕はない。ポーチに小銭入れを忍ばせただけ。

最初に目が合ったのは、バブーシュを履いた白い髭のじいさんだった。
次に、ツーリストっぽいカップルがこっちを見て何か話していた。
ほどなくして、誰かがポケットから紙幣を取り出して置いていった。
……え、ほんとにくれるの? これだけで?
呆気に取られる間にも、数人がそっと硬貨を置いていった。
たしかに、“できる”んだ。言葉も、看板も、パフォーマンスもいらない。ただ、私はここにいるだけでよかった。
だが――。
日が昇るにつれ、熱が容赦なく肌を焼きはじめた。
路面の照り返しが足裏を炙る。髪を結い直すこともできない。
水筒の水は、まだ朝のうちに飲み干してしまっていた。
額に汗がにじむ。視界が滲む。
どれだけ稼いだかなんて、もうどうでもよくなっていた。
誰かが呼ぶ声がする。
「麻帆ちゃん、もう来たの?」
……え、ぱんつっち? うそ、なにこれ。
まさか――私、今、死んでないよね?
その瞬間、視界が真っ白になり、私は地べたに倒れこんだ。
目が覚めたとき、私は広場の隅の日陰にいた。
通りがかりの学生が、心配そうに水を差し出してくれた。
無理だ。ここにいたら死ぬ。
命あっての物種だ。すぐに撤収を決めた。
もらった紙幣を握りしめて、私はクーラーの効いたカフェに駆け込んだ。
それから数時間後。
エアコンの吹き出し口を背に、麻帆はスマホを三脚に固定した。
「はい。というわけで、モロッコで乞食、やってみたんですが……」
ほんの一瞬、言葉に詰まる。
でも、言わなきゃ。
「おすすめできません。マジで死ぬかと思いました」
投稿ボタンを押した。
画面の向こうで、誰かが「行くわけねーだろバカ」と突っ込んでくれたら、それでよかった。
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