【小説・ヴィーナス症候群】(134)思わぬ珍客
Feliceは、婚礼や式典向けのドレスを専門とするブランドだ。サテンやチュール、レースといった構築的な布を使い、身体に沿うラインや布の落ち方そのものがデザインの一部とされる。そのため、ドレスの制作段階から仮縫い、展示、撮影に至るまで、服の美しさを正確に見せる“動かない身体”――いわゆる「トルソーさん」の存在が重宝されている。
生まれつき両腕のない女性――ヴィーナス児たちが、その身体的特徴を活かして働く仕事のひとつだ。着用したときに布に余計な干渉をせず、ズレも動きも最小限で済むため、樹脂製のマネキンよりも布の挙動がリアルに見える。中でも、夜久野由美はFeliceの専属として、長年ブランドの現場に立ってきたトルソーさんのひとりだった。
この日も都内の百貨店で開かれていたFeliceの展示会。彼女は、生成りのサテンを使ったストラップレスのドレスを着て、ステージ中央に静かに立っていた。肩から下、腕はまったく存在しない。その滑らかなラインに、ドレスの光沢が自然と沿い、構造の美しさを際立たせている。
「すみません、それ、レースは外せるんですか?」
声をかけてきたのは、30代くらいの女性。由美はそっと振り向き、微笑みを浮かべながら答える。
「はい、肩口のレース部分はスナップで着脱できます。お式と披露宴で印象を変えたい方に人気ですね」
この程度のやりとりは慣れている。トルソーはただ黙って立っているだけの存在ではない。質問に応じ、ドレスの仕様を伝えることも業務の一環だった。
続いて近づいてきたのは、やや雰囲気の違う女性だった。年の頃は四十代前後、ベージュのトレンチに黒髪のセンターパート、落ち着いた身なり。けれど発音には少し外国語の調子が混じっていた。
「スミマセン……ウチ、ハヌル。ハヌルで、トルソ……ヤトイタイです」
由美は一瞬、目を瞬いた。

(ハヌル……? あの、韓国フェミニンのハヌル? “恋に勝つ”とか言って、露出の多い服ばっかり出してる、あのハヌル?)
名前だけはよく聞く。ピタッとしたミニ丈、オフショル、極細ストラップ。強い女、男を落とす女、そういう服を前面に押し出すブランドだった。トルソーを雇いたいと言うその口調も真剣だったが、あまりに場違いな響きに感じられて、由美は思わず小さく首をすくめる。
「アナタ……トルソ、キレイ。ウチの、トルソ、ナッテクダサイ」
「え……いやいやいや、それは……ムリです、ムリですって!」
声が裏返った。つい口が滑って、逃げ台詞が出る。
「ノー、ノー、アイ・アム・ノット・ビューティフル! プリーズ・スカウト・モア・ビューティフル・ガール!」
その瞬間、Feliceの営業スタッフ――平野が、展示卓の陰から割って入ってきた。
「すみません、こちら、うちの専属でして……」
韓国人女性――ハン・ミンジは困ったように、けれど真面目な目で言った。
「ウチ……ハヌル。トルソ、ホシイ。でも……ニホン、ドコ、サガスカ、ワカラナイ」
平野は「あー……」と少し考えてから、やや気まずそうに笑って言った。
「あー……トルソーさんを新規に雇いたい……? いや、私じゃちょっと分からないんで、採用の方かな……たしか障害者採用とかで求人出してた気がしますので……。あ、一応お名刺だけいただけますか?」
名刺を受け取りながら、自分の名刺も差し出す。
「はい、ハヌルさんの……ハンさん、ですね。承りました。Feliceの平野と申しますので」
何度も頭を下げて礼を述べたミンジは、名刺を握りしめるようにして、展示会場を後にした。
由美はひとつ、深く息を吐く。
そしてまた何事もなかったかのように、真正面へと姿勢を戻した。
静止する身体、語らぬ存在――けれどそこに、布はもっとも美しく寄り添う。
