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まことだより連載:本と考える③

第3回 お題「深い悲しみの先に」
今回の本:「悲しみとともにどう生きるか」編著・入江杏                                           (集英社)


「世田谷事件」という凄惨な事件で妹家族を奪われた入江杏は、様々な人が集い、つらい喪失経験、悲しみ、苦しみと向き合うグリーフケアの場である「ミシュカの森」を主宰しています。本書は、ミシュカの森で2008年〜2019年に行われた5名の講演を中心にまとめた一冊です。
 
 入江はまえがきで「悲しみから目をそむけようとする社会は、実は生きることを大切にしていない社会なのではないか」と問いかけます。そして、「『悲しみ』は『愛しみ』であることとの出逢い」がある、とも書いています。ここだけ抜き出すと、瞬時に理解するのが難しいフレーズです。しかし私が読了後に感じたのは、確かに「希望」であり「愛」でした。

 それはなぜでしょうか。
 読み進めると、登壇者がそれぞれの喪失体験を抱えていることに気づきます。そこで語られる言葉は確かに重くソリッドです。それゆえに真摯であり、悲しみとともに生きたその先を知ったうえで、読み手(私やあなた)に寄り添ってくれるからだと感じました。
 そのことについて、端的に語っているのが、批評家の若松英輔の講演と、それに続くトークセッションの章です。私はクリスチャンである若松が語る言葉に深い慰めを与えられました。
 
 若松は「誤解を生むかも」と前置きしながら、彼自身の配偶者や近しい人たちとの死別で、その人たちと近づけた実感があると言います。この感覚は、おぼろげながら私にもわかりますし、そう感じてもよいのだと教えてくれました。
 そして、「悲しみが極まった時、希望を失ったように感じますが、それは、これまでとは別の方法で光が存在することを強烈に教えてくれ」るし(P76)、さらに一歩進んで「悲しみこそ光」(P86)なのではないか、とまで言います。
 若松も触れている「悲しむ人々は幸いである」というイエス・キリストの言葉(マタイによる福音書)。これは、悲しみを知る人が持つ幸せになる・幸せにする力のことを指しているのでしょう。翻って生を肯定する、冒頭で引用した入江の文章との確かな響き合いも感じます。
 
 本書で若松が語るように、悲しみは人と比べられない、固有の経験です。だから、人生を変えてしまうような喪失の出来事だけではなく、日々のくらしの中で感じる悲しさ、つらさのそばにも必ず光があるはずです。その光を信じてみると、「いま」が生きやすくなるのかもしれません。

(まこと保育園・渡邉)

「悲しみとともにどう生きるか」編著・入江杏                                           (集英社)

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