ジャン・ド・メス-聖女の奇跡に投資した男
1、ジャンヌの最初の仲間
ジャンヌ・ダルクの物語において、ジャン・ド・メスは「彼女に心打たれ、私財を投じてシノンまで彼女を護送した忠義の騎士」として表現されることが多いです。
彼はヴォークルール近郊の小貴族出身で、身分は「準騎士(エキュイエ)」。1429年当時、30歳前後の彼は、現場の戦闘と実務を同時にこなすプロフェッショナルであり、守備隊長ロベール・ド・ボードリクールの命を受け、現場を動かす「現場の差配役(さはいやく)」の筆頭というべき立ち位置にありました。
今回は、そのジャン・ド・メスが、ジャンヌといかにして出会い、行動を共にし、自らの人生を賭けてどのようなリターンを得たのか。その生涯を通じた「投資と決算」の足跡を辿ってみたいと思います。なおシノンまでの具体的な突破行については別稿に譲りたいと思います。

本論に入る前に、まず今回スポットを当てるこの人物の素顔を整理しておきましょう。
人物紹介】ジャン・ド・メス(Jean de Metz)
項目内容本名:ジャン・ド・ヌイヨンポン(Jean de Nouillonpont)
身分:小貴族:(準騎士 / エキュイエ)。実務・軍務のプロフェッショナル。
出自:ヌイヨンポン(ヴォークルール近郊)。地元の利害に明るい中堅層。
年齢:1429年当時、30歳〜35歳前後。
役割:チームを率いる現場責任者。
ジャンヌとの同行歴:ヴォークルールからロレーヌ公国(トゥールまで)と、その後のシノン行、そしてランスでの戴冠式まで行動を共にする。
2、ボードリクールの慎重な見極め
1429年初頭、フランスは王太子派とブルゴーニュ派との内乱状態に加え、イギリス軍との戦闘も劣勢にありました。軍事的に瓦解の淵にあり、存亡の危機といっても過言ではありません。
東方の孤立拠点ヴォークルール(ヴォークルールは何故ジャンヌの出発地となり得たのか?)を守るボードリクールにとって、ジャンヌは「毒」にも「薬」にもなる存在でした。この頃既にジャンヌの名声はヴォークルール内で高まっていました。しかし、このボードリクールは2重3重にも慎重な行動を重ねています。
①腹心のジャン・ド・メスによる接触(人柄・精神状態の検分) まず、今回の主役であるジャン・ド・メスによる接触です。ヴォークルールの街の中で一定の名声を得つつあったジャンヌの人柄や目的を見る物だったと私は考えます。例えば、唯の狂信者やお金目的の人物であれば、ここで接触を断たれていた事でしょう。
②ロレーヌ公への派遣(外交的な検分) ジャンヌを一度、管轄外であるロレーヌ公のもとへ送り出しました。これは彼女が「高位の貴族に対しても臆せず、具体的な意見を述べる事が出来るか?信頼に足るのか?」を測る目的もあったろうと考えます。
③司祭による悪魔払い(宗教的な検分) ボードリクールは司祭ジャン・フルニエを伴い、ジャンヌが「悪霊に憑かれた者」でないかを確認させました。最後に霊的な保険をかける事で念には念を入れたのでしょう。
ジャン・ド・メスはこの①現実をみて今後の接触をしても良い相手かどうかの見極めの部分をボードリクールから任されたとみるべきでしょう。
何故なら、この後ボードリクールの部下であるジャン・ド・メスはロレーヌ、シノン、その後の戦いと、ジャンヌと行動を共にしていきます。ジャン・ド・メスの独断というよりはボードリクールから事前に指示があった可能性は高いと思います。
【ジャンヌとジャン・ド・メスの出会い】
『復権裁判』において、メスはジャンヌへの最初の問いかけを次のように回顧しています。
「娘さん、ここで何をしようというんだね。王様は国から追い出され、俺達はイギリス人にならなければならないのかね?」
この唐突な問いには、私はジャン・ド・メス個人の声掛けや好奇心ではなく、ボードリクールら上層部の意向を汲んだ「組織としての査定」の空気を感じます。彼は、ジャンヌが主観的な「神の声」に閉じこもる狂信者なのか、それとも政治的・軍事的な苦境を理解しているのかを試したのではないでしょうか?
これに対し、ジャンヌは「四旬節の中日までに」と期限を付けて行動を提示しています。期限をつけて行動を描いてみせた事は(あっているかどうかは別にして)この先にある程度のビジョンがあり、主体として動く覚悟があると映ったと考えます。実務家・現実を生きてきたメスは、彼女に「乗ってみる価値」を見出したのでしょう。
2.ロレーヌ公国への同行
関連記事:ジャンヌ・ダルクのロレーヌ公訪問について
ジャンヌがロレーヌ公に会うためにヴォークルールを発った際、メスは途中のトゥール(Thoul)まで同行します。そこから先、ロレーヌ公国側の迎えがあったのか、それとも叔父のデュラン・ラクサールとふたりでナンシーまで移動したのか、そこははっきりしていません。
ジャン・ド・メスが同行しなかったのは、ロレーヌ公国が他国であり、そこを通る事に外交的な遠慮を感じたのかもしれません。
しかし、トゥールまでの同行でジャンヌがどういった人物か把握する事も出来たでしょうし、シノンまでの移動が可能かどうか、その事前演習としても働いたはずです。
3.経費精算からみるジャン・ド・メスの公認任務
ジャン・ド・メスがジャンヌを連れてシノンまで同行した事が「公認の任務」であった最大の証拠は、経費精算の動きに現れています。
デュラン・ラクサール(叔父)への馬の購入費用の精算(12フラン)
ボードリクールは、叔父ラクサールに対し、馬の代金12フランを払い戻しています(高山一彦訳『復権裁判』111頁)。これはデュランの持ち出しを「公的債務」として事後処理したものです。
ジャン・ド・メスへの成功報酬(100フラン)
一方で、シノン到着からわずか一か月後、王室会計はジャン・ド・メスに対し325フラン(プーランジーと合わせ425フラン)を支払いました。これらは王室会計官エモン・ラギエの会計帳簿に残っており、ジュール・キシュラ編の『ジャンヌ・ダルク処刑裁判・復権裁判記録』の中にも記述があります。

内訳は以下の通りです。
①ジャン・ド・メス(準騎士)に対し、彼自身および「乙女」の一行に加わったその他の人々の諸経費として、100リーヴル(フランとここでは同価値とします)を支払う。
②ジャン・ド・メスとベルトラン・プーランジーに対し、乙女の諸経費(despence de la Pucelle)として、200リーヴル・トゥルノワ。
③ジャン・ド・メスとその仲間に対し、彼ら自身が武装し、乙女の一行に加わるための武具を整えるのを助けるため、125リーヴル・トゥルノワ
ここで注目したいのは受取人としてジャン・ド・メスの名前が挙がっていることです。ジャン・ド・メスが一行の中で実務面や出納を取り仕切っていたであろうことが解ります。
これらの支払いの名目は経費の精算ですが、果たして彼らはどのくらい経費をかけてシノンまでの突破行を成し遂げたのでしょうか。
まず、記録に残っている間違いない経費があります。
ジャンヌの馬代:約16フラン(復権裁判でのメスの証言に基づきます。)
ジャンヌの旅の準備(男の服装、靴、剣、拍車、脚絆、その他)はヴォークルールの住民に助けて貰いながら揃えたというベルトランの証言もあります。しかし、馬以上の出費があれば裁判で言及しそうなものです。推測ですが10フラン程度と仮定します。
旅の準備:10フラン(推定)
また、旅費もかかります。証言には野営の記録もありますが、遠回りや安全の為の出費もあったことでしょう。ただ、これも記録がありません。
当時の熟練の石工が3~4か月ほど働いてようやく20フランが得られるという記録を見たことがあります。30フランくらいとしてみましょう。
旅費:7名+7頭の食費・宿泊費・飼料代:約30フラン(大胆目の推定)
かなり推定が混じりますが、実費としては50フランくらいと思われます。
ジャン・ド・メスとベルトランの2人で分担するなら25~30フランずつといった所では無いでしょうか?
また、ジャン・ド・メスにはジャン・ド・オヌクールという従者の人件費や武装費なども、彼の懐から賄われていたはずです。
従者への人件費・武装などの経費: 約10フラン(推定)
先程までのベルトランと分け合った経費を足して、経費総額は約40フランと想定します。命の危険は大きいですが実費を差し引いても『粗利』は十分な額でした。これは単なる経費の払い戻しではなく、王太子派が彼の働きを高く評価し、次の戦いへの準備と期待も含んだ金額と言えるでしょう。
叔父への支払いは「実費精算」でしたが、メスへの支払いはジャンヌを王太子に無事届けたことに対する「成功報酬」と見るべきでしょう。②の200リーヴルは二人分(一人100)であるため、メス個人の受領分は100。これに運営費①の100と、二人の装備代③の125を加えると、メスが責任者として決済した総額は325リーヴル(フラン)に達します。これは単なる随行員の枠を超えた、特権的な予算規模でした。この格差は、彼が単なる旅の仲間ではなく、王太子派から報酬を得た特別な実務家でもあったことを物語っています。
4. 働きの報酬としての「叙爵」
ジャン・ド・メスは、ランスで王太子が戴冠した後、ジャンヌとは行動を別にします。任務を完了し、ヴォークルールの防衛に戻ったのでしょう。
そしてジャンヌの刑死後17年たった1448年にシャルル7世によって正式に叙爵(貴族への昇進)を受けます。叙爵特許状(Lettres d'anoblissement)によれば、ジャン・ド・メスは戦争中の功績を認められ、子孫に至るまでの貴族特権を与えられます。
1448年はシャルル7世が「勅令隊」や「自由弓兵」の創設といった軍制改革を強力に推進していた時期です。王家は戦功のあった実務家を適切に評価し、免税特権を伴う叙爵を与えることで、王権の基盤を固めていたのでしょう。なお、特許状原文にジャンヌの記載がない点は、復権裁判前という政治的状況を鑑みたものであったのかもしれません。
ジャン・ド・メスはヴォークルールのあの日、ジャンヌに声をかけ、大きなリスクを支払った結果、見事その任務をやりとげて大きな報酬を得たのです。
5. 歴史への最終報告
ジャン・ド・メスが貴族としての地位を固めてから数年後、1455年に始まった復権裁判で、彼は証言を残します。 当時彼は57歳前後の老貴族となっています。彼は法廷に立ち、四半世紀前の記憶を呼び覚まします。
証言は大変重要視され、調査員達はその証言を聞くことに1日を費やします。彼はヴォークルールでジャンヌに出会った日の事を事細かく覚えていて、彼女の言葉を25年後に蘇らせます。その言葉には誇りが宿り、ジャンヌへの肯定し続けます。
ジャン・ド・メスはプロフェッショナルとしてその任務を全うしました。しかし、証言から滲み出る彼の想いは、それだけには留まりません。彼は彼女に私財と命を賭け、シノンの後も共に戦い抜きました。それは彼にとって、人生で最も輝かしい栄光の日々だったに違いないのです。
出典・根拠
一次史料:高山一彦訳『復権裁判』(白水社)
一次史料:J. キシュラ編『ジャンヌ・ダルク処刑・復権裁判記録』第5巻256-258頁
