一生ボロアパートでよかった【39】
あらすじ
自慢だった新築の白い家が、ゴミ屋敷に変貌していく。父はアル中になり、母は蒸発し、私は孤独になった。
ーーー1人の女性が過去を振り返っていく。
↓前話
↓本編
ピン、ポーン。
私にとって、その音は転機でした。
6月の終わりのある朝のことでした。父は相変わらず一日中お酒を飲んで、そのままリビングのソファで寝ていました。私も不登校を続けていて、すっかり昼夜のリズムはなくなっていました。でもその日は珍しく、夜間一度も起きませんでした。熟睡感を得られた心地のよい朝でした。天啓だったのか、私はあの玄関の呼び鈴が鳴らされるちょうど少し前に、目を覚ましていました。
最初は呼び鈴に出る気はなかったのです。私は布団の中で生温い安らぎを味わっていました。しかし、あまりにしつこく呼び鈴が鳴らされるので、私は我慢ならずにリビングに降りました。ソファで寝ている父を横目に通り過ぎ、リビングにあるインターホンへ向かいました。当時の我が家のインターホンは、今主流のモニター付きとは違い、音声のやりとりでしか訪問者を確認する術がありませんでした。私は、一体誰がこんな朝っぱらからしつこく呼び鈴を鳴らすのかと、腹立たしい気持ちで犯人を確認しに行きました。たぶん、私がインターホンに出るまで、20分以上呼び鈴は鳴らされていたと思います。私はいびきをかいている父に、よく寝続けられるなと感心しました。
私がインターホンに出て、無愛想に「はい」と答えると、突き刺すような明瞭な声が聞こえました。
「アオイです、橋本アオイ」
私ははっと息を飲みました。呼び鈴を鳴らしていたのは、アオイちゃんでした。私は予想外の訪問者に思考が止まりました。
「その声、ユイちゃんでしょ。ちょっとでいいからさ、出てきてよ」
私は反応ができませんでした。無言でいました。でも、インターホンの会話を切る勇気もありませんでした。
「ユイちゃんが学校に来てないの、坂ティーが私のせいじゃないかって勘繰ってるんだよね。私、迷惑してるの。もし私に悪いことしてると思うなら、玄関くらい開けてよ」
3年生になり吹奏楽部の部長がすっかり板についたアオイちゃんの話し方には、有無を言わせぬ力強さがありました。
私はその言葉を聞いてすぐに、始業式の日のアオイちゃんを思い出しました。そしてあの日、私を突き刺したアオイちゃんの言葉達がフラッシュバックしました。
『私さぁ、一番ムカつくのは、自分で何も行動しないやつなんだよね』
『ユイちゃんはさ、自分で努力してるの?』
『ユイちゃんはずっと、誰かになんとかしてもらえるのを待ってるだけなんだよ。』
『ユイちゃん、そんなんだから孤立するんだよ』
『ちゃんと自分に必要なことを考えて、自分から行動しなよ』
『待ってちゃ何も変わらないよ』
インターホンから聞こえるアオイちゃんの声色から、あの日に向けられた怒りは、きっと今も私に向けられていると感じました。私はインターホンを介して、アオイちゃんが心に忍ばせているナイフが見えた気がしました。
「ユイちゃん、始業式の日に私が言ったことも忘れちゃったの?ねえ、私、可哀想じゃない?ちょっとだけでいいからさ、元気かどうかくらい、顔見せて教えてよ」
あの日私がアオイちゃんに対して抱いた罪悪感も思い出されました。これまでアオイちゃんはずっと、私と友達でいるための努力を惜しみなくしてくれました。それを裏切ったのは、他でもない、私自身でした。私はただ友情を享受するだけで、見返りの行動さえ起こさなかったのです。結果、私は自らアオイちゃんとの友達関係を断ち切りました。少なくとも、私がそうしてアオイちゃんを傷つけた事実はひっくり返りようがありませんでした。だって、傷つけられたアオイちゃんがそう言っていたのですから。あの始業式の日にアオイちゃんに言われるまで無自覚でいたことが、なおさら私の罪悪感を増幅させました。そして、今も私の知らないところでアオイちゃんに迷惑をかけている。私の不登校のせいで、坂ティーにアオイちゃんが目をつけられている。流石に鈍い私でも、罪悪感で胸が締め付けられました。
アオイちゃんの言葉には、引きこもりの私を動かす力がありました。いや、というよりあの状況は、アオイちゃんが私の罪悪感の首元にナイフを当ててがい、人質にしている状態でした。今思えば、私は脅されているようなものでした。
私はあの始業式の日以来、アオイちゃんが怖いと思っていました。正直、玄関に出てアオイちゃんと顔を合わせるなんてことはしたくありませんでした。でも、私の罪悪感が、アオイちゃんにナイフを突きつけられながら「アオイちゃんの言う通りにしろ!」と叫んでいました。私はアオイちゃんの言う通りにせざるを得ませんでした。
私はインターホンを切りました。すると、すぐさま玄関の呼び鈴がまた鳴り響き始めました。ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン。アオイちゃんはきっと、私が玄関に出てくるまで呼び鈴を鳴らし続けるのだろうと思いました。
私はゴミだらけの廊下を掻き分けて玄関へ向かいました。鳴り続ける呼び鈴が私に焦燥感を与え、ゴミを掻き分ける力に自動的に変換されました。
玄関の鍵を開け、静かにゆっくりと、扉を開けました。腕一本ほどしか扉を開けていないのに、目いっぱいに光が差し込みました。外は、晴れていました。日の光が思ったより強くて、目が眩みました。アオイちゃんがちょうどドアの前に立っていたので、一瞬まるで後光がさしているかのように見えました。
「やっと出てきた」
でも、アオイちゃんの顔は笑っていませんでした。仏や菩薩なら微笑んでいてもいいものを、アオイちゃんは真顔でした。目を細めて目が光に慣れてくると、後光は消えて無くなりました。隙をつくようにして、アオイちゃんは玄関のドアが閉まらないようにすかさずドアの端を握りました。アオイちゃんの指は細く、怖いほど色白く見えました。
「閉めないでよね」
アオイちゃんの言葉は相変わらず鋭利でした。私は言葉が出ませんでした。何を喋っても、アオイちゃんに怒られそうな気がしたからです。
「ユイちゃん、このまま1学期来ない気?」
私はビクッとして怯えました。
「正直、私は別にどうでも良いんだけどさ。さっきも言ったけど、ユイちゃんが学校に来てないの、坂ティーが私のせいじゃないかって疑ってんの。私、めっちゃ迷惑してんだよね」
アオイちゃんのナイフは私の罪悪感の首元に少しずつその切先を埋めようとしていました。
「ユイちゃんが学校に来ればさ、その疑いも晴れるでしょ。私、今、大事な時期なの。受験もあるし、部活も夏のコンクールに向けて大詰めだしさ。私、今ユイちゃんのせいで学校生活乱されるの、嫌なんだよね」
アオイちゃんが持つナイフの切先は、私の罪悪感の首元に赤い粒を浮かび上がらせていました。そこには痛みがありました。
「ごめんね」
自然と私の口から出てきた言葉でした。身体は虚脱して、玄関のドアノブを持つ力さえ維持出来ませんでした。
瞬間、玄関の扉が力強く開けられました。私は驚きさえしましたが、争う力は湧きませんでした。全身に光が差し込むと、長細い白い何かが玄関に入り込んできました。
「捕まえた」
気づいた時には、アオイちゃんに手首を掴まれていました。アオイちゃんの腕が伸びてきた一瞬、私はアオイちゃんに刺されたのではないかと思いました。でも、アオイちゃんの手は、私の身体を突き刺すわけでもなく、私の手首に向かったのです。力強く、ギュッと、握られていました。続けて、アオイちゃんの鋭さを増した声が私に投げかけられました。
「ねぇ、
この手離して欲しかったらさ、
今すぐに制服を着てよ」
つづく
↓始業式の日のアオイちゃん回はコチラ
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