一生ボロアパートでよかった【40】
あらすじ
自慢だった新築の白い家が、ゴミ屋敷に変貌していく。父はアル中になり、母は蒸発し、私は孤独になった。
ーーー1人の女性が過去を振り返っていく。
↓前話
【前話要約】母から離婚届を投函されて以降、父は一日中お酒を飲むようになった。ユイも不登校を続けていた。6月の終わりのある朝、玄関の呼び鈴がしつこく鳴らされた。呼び鈴を鳴らしていたのは元親友・アオイちゃんだった。アオイちゃんはユイの罪悪感を利用して、今すぐに制服を着ろと脅す。
↓本編
「ねぇ、この手離して欲しかったらさ、今すぐに制服を着てよ」
私は呆気に取られました。瞬間、アオイちゃんは私の隙をついて玄関の扉に足を差し込み、扉の内側に身体を滑り込ませました。玄関から差し込んだ光が、私の全身を照らしていました。アオイちゃんは逃さないと言わんばかりにキッと私を睨んで、もう一度言いました。
「今、制服を着て」
私は外の眩しさに怖気付き、一歩後退りしました。でもアオイちゃんの手は、私の手首をきつく握りしめて離しませんでした。私は戸惑いながら答えました。
「で、でも、制服、自分の部屋だから。2階に行かないと。それに、」
アオイちゃんが私に制服を着せて何をさせたいのか、私はすぐに察しました。坂ティーに私の不登校の原因がアオイちゃんにあると思われているから、その疑惑を払拭するために私を学校に行かせたいのです。そう確信しても、私はもちろん学校には行きたくありませんでした。でも「嫌だ」と言ってアオイちゃんに強く抵抗することもできませんでした。アオイちゃんが怖かったからです。私は口ごもりながら言い訳を続けました。
「制服、皺だらけのままだし」
「昨日、お風呂入ってないし」
「宿題、全然やってないし」
「勉強、もう追いつけないだろうし」
「友達、全然いないし」
最後の「友達、全然いないし」はもう半泣きでした。アオイちゃんには聞き辛かったと思います。でも、アオイちゃんが私の言葉に耳を傾けてくれていたことはわかりました。始終睨まれていましたから。
「だから、なに」
アオイちゃんは語気を乗せるように、握りしめた私の手首をさらにギュッと握りました。私は「学校に行きたくない」の一言が、言葉にできませんでした。その勇気がありませんでした。察しのいいアオイちゃんなら絶対に私の言いたいことなどわかるだろうに、一貫して私の言葉を待っていました。私はなぜアオイちゃんがこんな肝心な場面で鈍感を装うのか理解できませんでした。僅かに怒りさえ湧きました。そのモヤモヤとした葛藤は、自然と涙になって表現されました。
「泣いたって、ちゃんと言わなきゃユイちゃんがどうしたいかなんて、私、わかんないから」
アオイちゃんはあの突き刺すような明瞭な声でそう言うと、玄関に上がり込んで、ゴミに埋もれた廊下を突き進み初めました。私の身体も思い切りグンっと引っ張られました。アオイちゃんは私の手首を離しませんでした。私は泣きながら、アオイちゃんの後ろを歩かされました。始業式の日と同じく、アオイちゃんのポニーテールが元気よく跳ねているのが見えました。ただただアオイちゃんに握りしめられた手首が痛かったです。
ゴミに埋もれた廊下を突き進みながら、私は一瞬昔のことを思い出しました。アオイちゃんが我が家に来て「なんか臭いね」と言った日のことです。今の我が家はあの日以上にゴミに溢れて臭いはずなのに、アオイちゃんは何も言いませんでした。ただまっすぐ前を見て、ガサガサとゴミをかき分け突き進んでいました。
リビングに入って父がいびきをかいて寝ているのが目に入ると、私は強烈な羞恥心が沸き起こりました。何よりもアオイちゃんに見られたくないものでした。アオイちゃんは父を一瞥したようでしたが、挨拶もせずに階段へ向かいました。
「2階なんでしょ、ユイちゃんの部屋」
階段を登りながら、アオイちゃんが声をかけてきました。返事はしませんでした。泣いていました。アオイちゃんに否応なく全てを晒されていくその状況下で、私はまだどうにか取り繕うことができないかと考えていました。でも、次々に恥部を晒され、晒されれば晒されるだけ取り繕うことができなくなっていました。そうして湧き起こる無念は、次々に涙となって頬を流れました。私は結局、抵抗することもなく、ただ情けなさを晒すことしかできませんでした。
「ねえ、ユイちゃんの部屋、どこ?全部のドア開けてもいいの?」
アオイちゃんは私が泣こうが関係なく、心のナイフを下ろしませんでした。2階の廊下で、変わらず私を脅すように誘導しました。私はアオイちゃんに握りしめられた腕の反側を力無く上げて、自分の部屋を指差しました。
「自分の部屋なんて、あったんだね」
アオイちゃんは背中を向けてボソリと呟きました。これまでアオイちゃんには自分の部屋が出来たことは伝えていませんでした。物置部屋を私の部屋にして約4年が経過していました。まさかこんな形でアオイちゃんに自分の部屋を紹介することになるとは思ってもいませんでした。
アオイちゃんは私の部屋のドアを開けて数歩中に入ると言いました。
「なにこれ、何もないじゃん」
アオイちゃんの言う通りでした。私の部屋には何もありませんでした。机もない、本棚もない、タンスもない、ベッドもない。全てが床に直置きされた殺風景な部屋でした。でも、当時の私にとっては、生活が成り立つほぼ全てがあの部屋にありました。
アオイちゃんは私の手首を離して、部屋を一周まじまじと見ていました。きっと変な部屋だと言われるに違いない。そう思うと、私は恐怖を感じました。アオイちゃんが放した私の手首が、スウっと冷めていくのを感じました。
「………え、ねぇ、ちょっと待って………。布団、カバン、教科書、制服。アイロンまではわかる。なんで………掃除機?その隣に………炊飯器と米?………まさか、ここで炊いてるの?」
ほら、やっぱり。言われると思った。
アオイちゃんが想定通りの反応をしたことで、私は不思議と恐怖が諦めに変わり、涙が止まりました。一方で、アオイちゃんは慎重な足取りで部屋の隅へ行き、掃除機を足で小突きました。
「いくらなんでも、掃除機の隣に炊飯器はないでしょ。ご飯ですよも床に直置きだし。これ、冷蔵庫に入れなくていいの?」
「ハナを蹴らないで!」
「………は?」
私は反射的にアオイちゃんを怒鳴りました。例えどんなにこの家や私の部屋を馬鹿にされても、今身近にある幸せを誰かに馬鹿にされたり蔑ろにされることは許せませんでした。そう、例えばハナ。この頃の私は、始業式の日に自分の部屋に持ち込んだ掃除機を、ハナの代わりのように大切に思っていました。なぜなら、あの掃除機はハナと共に私の人生の栄華の隣にあったからです。私はあの2ヶ月、過去の幸せに縋り付いていたのです。
あの2ヶ月。母がいなくなってからアオイちゃんが来るまでのあの2ヶ月は、まともな精神ではいられませんでした。足元の幸せさえ消え去った"母の蒸発"という出来事は、当時まだ子どもだった私に、しっかりと傷跡を残していました。たとえ一時的には父の前で冷静を保てたとしても、傷は決して治癒してはいませんでした。かさぶたになった後も、痒くなっては引っ掻いてを繰り返し、時には痛みをもたらして、傷は傷として存在し続けていました。そんな中、あの掃除機は私の人生の栄華を思い出させてくれました。それは痒みや痛みを和らげる薬になりました。それに掃除機なら、まず1人でどこかに行ってしまうことはありません。私の心の拠り所にするには、最も身近で便利な存在でした。一日数回、掃除機の電源を入れて、ご飯を食べさせるようにゴミを吸わせると「ああ、まだハナは生きてる、私の側から離れていったりしない」と思えました。そうして徐々に掃除機そのものがハナとして存在するようになりました。
私はアオイちゃんから庇うようにハナの前に膝をつき、ハナの首を撫でてやりました。
「…は、なるほど、こりゃ、意味わかんないわ」
私の懐古など知らぬアオイちゃんは、青ざめた顔でそう言いました。
つづく
【TALES】仕事・人間ドラマ部門で月間1位も取れました!ありがとうございました!

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