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「大丈夫」をやめる練習

自分の身を守るために、穏やかでいようとした。

それは単なる性格ではなく、家族という不安定なパズルのピースを繋ぎ止めるために必要な振る舞いだった。何かが起きても感情を抑え込み、涼しい顔をする。咄嗟に口から出るのは「大丈夫」。その裏で、飲み込まれた感情がたまっていく。

相手の目に映っていたのは、「クール」「打たれ強い」、はたまた「何を考えているかよく分からない」私だったかもしれない。本当は、そんなじゃなかったのに。

「大丈夫」に見せてしまった日は、いくつもあった。

例えば、単身赴任の父が赴任地へ戻る前夜。が大泣きする横で、私は黙って布団に潜った。寂しいなんて本音は言えなかった。自分は涙を見せてはいけないと思った。

大丈夫じゃない私を見せたら相手を困らせると思った。空気を乱したくなくて、感情をしまい込む。あの頃の私には、それが一番安全に感じられたのだと思う。

そうやって生きていたら、十代の頃から「落ち着いてる」「精神年齢が高い」「悩みがなさそう」などと言われ続けた。褒め言葉として受け取っても良さそうなのに、引っかかる。見られているのは、整えられたオモテの私だと分かっていたからだろう。

その生き方を変えようなんてちっとも思っていなかった私に、転機は突然訪れた。

数年前に娘が生まれて、右も左も分からないまま始まった育児。
ある育児書に、「転んだ子に『痛かったね』と共感すると、子供は安心する」と書いてあった。読みながら、無意識に自分のことを重ねる。

──共感を、先に示す。
私は自分に対して、それをしてこなかったのではないか?

泣きたいときに「泣いていいよ」。
傷ついたときに「つらいね」。

自分自身にそう言ってあげた場面が、一つも思い浮かばなかった。

そう気づいて以来、私は小さな練習を始めることにした。

慰めや解釈を自分に与える前に、まず、事実としての感情を一言でいう。悲しい」「寂しい」「悔しい」。それだけ。今の気持ちを、口にするだけ。

それは、外の世界でやっていくための日本語ではなく、私の内側を整えるための優しい日本語の使い道だった。

今でもまだ練習中の身だ。自分の感情に耳を澄ますことを優先するようにする。人にどう見られたいかではなく、自分が何を感じているかを基準にして動こうと努める。

かつての私は、「見抜いてほしい」と願うだけだった。けれど今は、オモテに出そうとしている。子どもに「痛かったね」と言えるように、私も私に共感の意を示す。


mari.

♢前編はこちら




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