見出し画像

明るい未来のためにやらなければいけないたった一つのこと

パソコンは時代に合わせてバージョンアップさせるというのに
人類の脳のOSは相変わらず旧式のままです。
この21世紀、科学時代に合わせてバージョンアップさせましょう!
そうすれば、世界はガラリと明るく美しい色に塗り替わります。

この21世紀の科学が言いました。
「世界を動かしているのは政治家ではありません!」

科学とは、自然界様の声を謙虚に聴き取ることのできる唯一の学問ですが、その科学が、自然界様の言葉を我々にわかる言葉に翻訳してくれたのでした。
「世界を動かしているのは政治家ではありません!
宇宙に存在するありとあらゆるものは、ビッグバンという小さなたねから
分化したからだです。まったく同じ素材でできている、分身同士です。
その分身たちの作っている《環境》が政治家を動かしているのです。
中でも、その身体が自分であるという “錯覚の自我” という重いよろいに身を固めている、今のあなた方人類が作る《環境》です」

自然界様は続けます。
「だけど、この宇宙こそ、分身であるあなた方の本当の姿(=全身)だったのですよ。
恐がらずに、その重い
“錯覚の自我” という鎧を脱ぎ捨て、あなた方の環境を “本当の自我” が作る世界に変えなさい。私としっかりと手をつないでいれば、あなた方を襲う敵などどこにもいませんよ。
それとも私の声に耳をふさぎ、固い鎧に閉じこもって、相変わらず自分で自分の身体を傷つけ合うなら、この21世紀、私はもうあなた方を見限りますよ!」

自然物である我々は、自然界様に見限られたらもう終わりです。それは人類の自滅**を意味します。この世界の環境が、錯覚の自我*****が作る「個人主義的環境」から、科学が教えてくれた本当の自我*****が作る「分身主義的環境」へ変われば、世界は一気に明るく生まれ変わります。

【この記事は、2021年6月~9月の間にnoteに投稿した22の記事を、2023年9月20日に一つにまとめたものです】

世界から戦争や対立をなくし、武器やお金に頼ることなく、みんなが仲良く助け合い分け合って生きれるようになるには、人類の脳のOSのバージョンアップが必要です。
そのために私は、「個人主義」に代わる概念として、「分身主義」という全く新しいパラダイムを提起するためにやってきました。

この記事は、2011年に、『*るいネット』に一般参加(応援会員)として寄稿させていたただきましたブログ『明るい未来のために‥‥』が元になっています。
そのブログは、全11記事で完結で、それ以降は、まったく更新をしていなかったのですが、嬉しいことに他の記事からのリンクをたどって、見てくださる方たちが後を絶たず、アクセス数が増え続けていました。(現在131.761アクセス)

元々、『*るいネット』に参加されている方たちに向けて書いたブログですが、内容は「世界平和」ですから、本来は世界に向けて発信していたわけです。それで、2021年6月~9月の4カ月かけてnoteに少しずつ移し替えました。
(*それを2023年9月20日に一つにまとめたのがこの記事です。ただし、るいネットは2023年6月に閉鎖されてしまったため、既にネット上から削除されている記述や、話の辻褄や前後が合わない部分があるかもしれませんが、大目に見て下さい)


*るいネット:
1972年創業の「株式会社るい設計室」が、事業拡大していく中で、2001年2月に社内記事投稿サイトとして開設。(*2023年6月閉鎖)
一般からも「応援会員」として広く公募していた。政治・経済から、生物史・人類史、原発・環境・医療まで多岐にわたる分野で、毎週10万人以上が訪れ、50万件もの投稿が蓄積されていた。


この記事の内容は以下の通りです。第4話までは無料で読めます。



第1話・人類の脳のOSのバージョンアップとは!? 

(この話は読むのに10~12分ほどです。【6.754文字】)

ここ『るいネット』では、個人主義やその核心を成す「自我(これが自分であると信じているところの意識)」が、どうやら社会を良くできない原因であると気づいている方たちが多いようです。

‥‥ところで、最近の言い逃れの様な「相手の尊重」という個人主義の言い分ですが、いったい大切なのは自分なのでしょうか? 相手なのでしょうか? それとも自分と相手がイコールの比重を持つのでしょうか? 
もし、自分と相手がイコールの比重を持つとすれば、その主体はもはや自我では在り得ず、(当然、個人という観念も消えて)全く新しい概念が必要になりますが、それは何なのでしょうか?(『るいネット』01/03/07 四方勢至)

私は、この四方勢至さんの記事を受ける形で、ここ『るいネット』に、「個人主義」に代わる概念として、「分身主義」という全く新しいパラダイムを提起するためにやってきました。

そのために、『るいネット』内に、このブログを開設させていただくことにしましたが、と言っても11回完結の予定です。その後は、皆さんの中に入って行って、いろいろと話し合いをさせていただこうと考えています。

実はそのための足場固めの意味でブログを作っておきたかったのです。私がいきなり皆さんの中に入っていろいろと常識を覆すような発言をしたところで、私の発言の背景を知っていただかなければ、上手く伝わらず誤解されるのが落ちですから。それで「私の発言の背景はこれこれです」ということをいつでも提示できるようにブログを作っておきたかったのです。

私は、これから皆さんに全力でお話ししていきたいと考えていますので、どうか皆さんも全力で聞いていただきたいと思います。そしてこの世界を‥‥くれぐれも「この日本を」ではなくて、「この世界を」ですよ‥‥明るい未来に変えて行きましょう。

そのためには、「人類の脳のOSをバージョンアップする」ことだと考えています。

ここ『るいネット』は、回り道をしてきた私がやっと見つけた素晴らしい場所です。こんな素晴らしい場所を作り上げた先人たちの発想と努力に敬服し、感謝すると共に、それを支えてきた皆さんの真剣さにも拍手を送りたいと思います。

私の探していた、世界を救済する最初の人たちは、間違いなくこの『るいネット』にいると確信しています。

「分身」である我々一つ一つのピースがつながっていけば、この壮大な宇宙というジグソーパズルの中で次第に姿を現してくるものこそ「全身」です。

私の願いは、そのパズルを完成させたいのです。

何故なら、それこそ科学が解明した「あなた」や「わたし」の真の姿だったからです。

自分の「真の姿」を知った人類には、もう争うための理由などどこにも見つかりません。嫉妬、恨み、怒り、不満、不公平感‥‥、などの争いを起こす元が綺麗に消えてなくなっているからです。その場所から始めるなら、何をやろうと自分たちの喜びにつながる事ばかりです。

その場所から始めた世界をイメージして書いた小説が、未来モデル小説『ブンシニズム・ドット・ネット』です。後でご紹介しますから、是非読んでみて下さい(もちろん無料です)。


さて、人類の脳のOSのバージョンアップということですが、それは、私は「大人の大人」になることだと考えています。

今の世界は「大人」の世界です。だから子どもを教育し、自分のようなちゃんとした******大人に育てようとします。大人と言っても、子どもと同じでまるで何もわかってもいないし、完成されているわけでもないのに、暗黙の了解のように、自分たちを完成品とみなし合い、教育からも解放されます。

大人になったら許されていることもたくさんあります。

それも大人の世界だからです。

大人たちは自分が子どもだった頃を振り返り、「あの頃は、サンタクロースなんかを本気で信じていて可愛かったなあ」と微笑ほほえましい気分になります。

これから目指さなければならない、人類の脳のOSのバージョンアップとは、その先の話で、「あの頃(=大人の頃)は、錯覚の自我なんかを本気で自分だと信じていて可愛かったなあ」とか、「自分の意志で行動しているなんて本気で信じて、威張っていた可愛い時期があったなあ」と、微笑ましい気分になることです。

そして、「あの頃は、その”錯覚の自分=分身”で争ったり、”本当の自分=全身”を互いに傷つけ合ったりして、なんて愚かだったんだろう」と述懐じゅっかいすることになります。

そんな「大人の大人」の人たちが作っている世界を小説にしてみました。

脳のOSのバージョンアップが完了し、「大人の大人」になった人たちが作っている世界をイメージして書いた、未来モデル小説『ブンシニズム・ドット・ネット』という小説です。

この小説の中には、「お金」や「武器」が登場しません。お金や武器に頼らなくてもやっていけるほどに成熟した「大人の大人」の世界だからです。

もしあなたが、「お金がなくなった世界なんてあり得ない。そんな世界など全く想像できないし、現実的じゃない」と一蹴いっしゅうしてしまえるなら、今のあなたは、固定観念や常識にがんじがらめに縛られています。

「お金がない世界」は決して夢物語なんかではありません。この約46億歳の地球の中で、たくさんの生物(動物・菌類・植物・藻類などの原生生物・古細菌・細菌など)が生息する中で、ヒトという種だけが「お金」を使っています。

この自然界では、むしろお金の世界こそ、人類が作り上げた仮想バーチャルの世界だったのです。


もう我々は、お金のない世界を作らなければ立ち行かなくなっていることはわかり切っています。お金はどうしても犯罪や争いや詐欺さぎ的文化を作ってしまいます。

だけどお金のない世界は、今までの脳のOSでは絶対に作れません。お金は、今までの我々の「個人vs個人」の脳が円滑にやっていくための工夫として生まれてきたものだからです。

今、我々がやらなければいけないことは、外ばかりに目を向けて批判をしたり抗議をしたりするのではなく、自分に目を向けることです。

外にばかり向けていた目を一旦閉じて、自分に目を向けることです。そして、この自然界としっかりと手をつないだ、科学が解明した本当の「自分」を知ることです。

そうすれば自ずとお金も武器もない社会は生まれます。自ずと嘘や犯罪や争いのない社会が生まれます。

誰も好き好んで、嘘をついたり罪を犯したり争ったりしていたわけでもありません。この「錯覚の自我」に縛られた我々が作る《環境》に、媒体ばいたいである我々が取らされていた行動です。

だとしたら、科学が解明した「本当の自分」を知った人々が作る《環境》からは、お金も武器も、嘘も、犯罪も、争いも、生まれるはずもないと考えても全く不思議ではありませんし、むしろその方が自然で、この自然界ではすんなりと馴染みやすいはずだったのです。

ちなみに、動物の世界には争いなんかありません。

追いかけたり逃げたり、メスをめぐって闘う姿を見て、我々が自分たちの行動パターンを彼らの中に投影して「争っている」と思い込んでしまっているだけなんです。

「争い」は自然界の中にはありません。「争い」は、言葉を持ったことで自然界から切り離されてしまった人間の、「言葉」が作っている現実の中だけで生きているものです! 

脳のOSがバージョンアップされれば、もちろん言葉の用法なども変化します。その辺のところも未来モデル小説『ブンシニズム・ドット・ネット』に描いています。


現代人は、携帯電話を使いこなしていますが、今からほんの数十年前の1990年頃にはこのような世界が来るなんて誰が想像したでしょうか!? 

会社からポケットベルを持たされて、それが鳴れば近くの公衆電話を探して走り回らなければならなかった時代があったことなど、若い人たちは知らないのです。

今ではその公衆電話もほとんど取り外され、それを探すことの方が困難になりました(市街地では500m四方に1台、その他では1㎞に1台設置されていた)。

世界が、分身主義ぶんしんしゅぎ的な《環境》に移行して、お金などが消え、法律やあらゆる制度が変化した世界を、誰も想像できないからと言って、あり得ない話だと笑い飛ばすのは、1990年頃に「電話をポケットに入れて持ち歩く時代が来るなんて、あり得ない」と笑い飛ばしているようなものです。

また、誰もが携帯電話を自分の身体の一部のように使いこなしていますが、その人たちがみんな携帯電話のメカニズムやシステムを理解しているわけではありません。

それと同じように、もし分身主義****を理解する人たちが現れ、そしてその人たちの中に影響力のある人が数人いたなら、まるで携帯電話のように、世界中の人が「新しい自我」を使いこなしている日が来るのも夢ではありません。

だから、世界を明るく塗り替えるためには、全ての人類が科学に精通しなければいけないということではありません!

「人類の脳のOSをバージョンアップさせるために必要な最初の数人」が現れれば十分だと考えています。

今、これを読んでくださっているあなたこそ、世界を明るく塗り替えてくれる一人かもしれません。そうであれば本当に嬉しいです。

絶えることなく続いてきた国と国の争いと対立、人間同士の不和や摩擦や確執、その流れを今こそ断ち切り、その流れの中でいつまでも迷走を続けていた我々人類を、今こそ救いだして下さいませんか。

ここから先は、私の力ではどうしても進めないのです。そのためには、大変だとは思いますが、分身主義****というものを知っていただかなくてはなりません。私の書いた7つの作品を読んでいただきたいのです。

私は今、大変な努力を要求していますが、私と同じように真剣にこの世界を明るくしたいと考えている方にとっては大した努力ではないと思います。

私がこれらの作品を書くために払った犠牲や努力と比べれば、7つの作品を読むくらい大した努力ではありません。恐ろしく遅筆な私は、1つの作品でも何度も何度も読み直し推敲すいこうに推敲を重ねて書いたので、1つの作品を少なくとも50回以上は読んでいるはずです。

それに、私がこれらの作品を書くために読んだ本は、200冊は優に超えています。読書ノートをつけて文章を抜き書きしているのですが、そのノートも18冊になりました。雑誌やテレビからも貪欲に情報を得ましたし、科学館のような場所に何度も足を運びました。

自分の趣味に当てる時間も休日も返上して、楽しいことも極力我慢して、昼食も100円以内に抑えて生活費を切り詰め、節約してできたお金を、世界を見てくるための旅費に充てたり、勉強のために、むしろ私とは違う考えの方の講演を聴講したりもしました。

それもすべて、世界を平和にするための、この執筆活動のためでした。一銭にもならないどころか出費ばかりの生活をこうして続けてこれたのも、真剣にこの世界をもっと明るくしたいと考えているからです。

そのようにして生まれたのが7つの作品です。

だから、これらの作品を生半可な飛ばし読みなんかしないで読んで下さい。命がけで世界を救おうと考えている人を探しています。

現在作成している7作品はこちらです。

まずは、先程ご紹介させていただいた、未来モデル小説『ブンシニズム・ドット・ネット』から読んでいただきたいと思います。これで分身主義****がイメージしている外観がわかっていただけると思います。


次に、一番新しい『宇宙に一つだけの目的(科学が解明した・・本当の自分)』ですが、この二つだけは絶対に読んでいただきたいと思います。


それで、もっと分身主義を知ってみたいと興味を持って下さったなら、執筆年代順に読んでいただければわかりやすいと思います。

最初に書いた作品が『人類の育てた果実(自分探しの旅の果てに)』です。これは「愛」というルートと「科学」というルートの、別々のルートで登り始めた二人が山の頂上で出会うという物語です。分身主義の元になる作品なので、ここには、まだ分身主義という言葉は出てきません。


次に書いた『分身主義宣言!』の途中くらいから分身主義という言葉が出てきます。(この3作品は一つとして数えています)


その次の『バラ色の素粒子(分身主義のお話)』というのは、中学生とのメールのやり取りで分身主義を説明しています。


次の二つ、『分身主義の森を抜けて‥‥』と、『自分という分身(不安を抱えて生きる全ての人へ)』ですが、これらは現代の精神医学関連に警鐘を鳴らすような内容です。

現代の精神医学は、脳が不具合を起こしている原因は、その個人の脳内にあるとして、個人的に大量の薬を投与したり、場合によっては隔離したりします。個人主義の大国アメリカが辿り着いたのは、こんな奇怪な結論でした。

精神科医が患者の抱えている問題を診断する際の指針を示したアメリカのDSMですが、これは元々は、アメリカで犯罪者の行動を理解しようとするところから発展し考えられてきたものです。その背後には、人格障害というものに対する恐怖や憎しみや差別があります。

つまり、恐怖や憎しみや差別という幻想に科学が利用されていただけのものです。

真の科学を実践するなら、「脳は個人の持ち物でもないし、個人の意識でどうにかなるものでもない。世界の脳やあらゆる情報とつながって機能しているものなので、ある脳が不具合を起こしているなら、つながっている《環境》に目を向けなければいけない」ということはすぐに気がつくことです。

分身主義****にしか精神の問題は解決できません。これから精神医学を志す方たちにこそ読んでいただきたい作品です。


最後に、「科学が解明した自分」とは、いったい今までとどう違っていたのかを書いておきます。

科学が解明した自分:

❶「自分」とはこの身体を覆っている皮膚の内側だけではなく、外側も全部である。つまり宇宙そのものだった。

❷今まで我々が「自分の意志」と呼んでいたものは、その脳を取り巻く外側(=環境)によって作られていく「記憶」と、その脳を取り巻く外側(=環境)からの「刺激(=情報)」との相互作用によって、その脳内に浮かび上がらせ・られていたもののことであった。
つまり、我々はその環境由来の「意志」に、思考させられ行動をとらされていたということである。


我々の身体はもちろん《環境》に作られ、また、思考も行動も《環境》に作られていたものでした。

例えば、あなたが肉体改造をしようと思い立ったとしたら、それも《環境》にそのような「意志」を持たされて、その「意志」に従って行為させ・られたのです。
そしてあなたの行為が作る《環境》に、身体が改造させ・られたというのが科学が解明した実際です。

世界中の人がその行動のメカニズムを知れば、我々の行動も徐々に(今までの高慢だった行動から謙虚な行動に)変化し、やがて、我々を取り巻くこの《環境》が「個人主義的な環境」から「分身主義的な環境」に移行します。

その《環境》に移行すれば、自ずとお金も武器もなくなり、様々な制度が変化し、今まで常識だったものが非常識となります。

しかしそれは、上から強制的に与えられる変化ではなく、自然発生的に生まれる変化なので、不安に思う必要はありません。今、我々は、お金や武器がなくなったり、まったく新しい制度が生まれたとして、そういうことにすんなりと馴染めるのか、不具合は起こらないのかなどという心配や議論は一切必要ありません。

と言うより、バージョンアップされていないOSの脳でそれらを話し合ってはいけません。それをしたところで、議論は水掛け論にしかなりませんし、むしろ混乱を招くばかりです。

だから、このブログのタイトルに戻ります。今我々が「明るく希望を持てる世界」を作るために「やらなければいけないこと」は、「たった一つ」。
「人類の脳のOSをバージョンアップさせる」そのことだけです。

明るい未来のためにやらなければいけないことは、人類の脳のOSをバージョンアップさせるという、たった一つのことだけです!


「明るく希望を持てる世界」は、遠い未来の夢物語ではありません。人類の脳のOSがバージョンアップされたなら電光石火のごとく変化するはずです。

まさに未来モデル小説『ブンシニズム・ドット・ネット』の描く世界のように、あらゆる苦悩から解放され、世界をお金なしで自由に行き来し、世界中の人が笑顔で交遊し、誰もが助け合って仲良く生き、そして喜びに包まれて死んでいける社会はすぐそこに来ています。

それなのに人類は相変わらず愚かなままで、上下左右を入れ替えてはその場をやり過ごしながら、この先も争いや、同じ過ちを何度も何度も繰り返していくつもりなのでしょうか!?



第2話・明るい未来のためにやらなければいけない、たった一つのこと

(この話は読むのに10~12分ほどです。【5.910文字】)

世界はどこまでも問題を山積みにさせたまま、自滅への道をひたすら突き進んでいます。追いつめられて崖から転落してしまう人たちも後を絶ちません。

もう悠長に構えてなどいられません。

明るく希望の持てる世界にするのは急を要することなので、結論から話をさせていただきます。

それには、人類の脳のOSをバージョンアップさせるしかありません!

自然界様に真偽しんぎのほどを判定してもらいながら、あらゆる脳に対応できる汎用はんようなOSを新たに開発し、それを全人類の脳に上書きするしかありません!


人類の歴史が始まって以来、一度としてバージョンアップされたことのない脳のOSをバージョンアップさせるわけですから、それなりの困難は伴うかもしれませんが、でも方法はいたって簡単です。

今までの「自分」という意識は、科学的に言えば、神経系が見ていた錯覚でした。人類は言葉を用いるようになって以来、実に長いこと、その錯覚の自我に縛られ続けてきました。しかし、今こそその呪縛から解き放たれるべき時が来たのです。

ちなみにあなたや私が、現在使用しているバージョンの脳でイメージする「自分」とは、次のようなものではないでしょうか?

我々が現在感じている自分:

❶「自分」とは、この身体を覆っている皮膚の内側のことである。

❷何かを為そうとする「意志」は、自分自身が自発的・主体的に作り出しているものであり、「自分」の行動は自分自身で選択し、決定できる。

この「自分」イメージは、今では、科学的に言えば、神経系(脳や脊髄せきずい中枢神経ちゅうすうしんけいと、全身に張り巡らされた感覚神経・運動神経・自律神経などの末梢神経まっしょうしんけいの総称)が見ていた全くの錯覚だったとわかっています。

現代科学が解明しているものをつなぎ合わせて整理していくと、「自分」とは、かっちりとした境界線を持って孤立的に存在できるようなものでは全くなく、また自由な意志で行動することなど一瞬たりとも******できる存在ではなかったことがわかってきます。

今までの「自分」イメージは神経系が見ていた錯覚であったと言っても、錯覚こそが人間の脳の特性であり宿命だから仕方ありません。
つまり人間が何かを認識するということは、何かを錯覚したということと同じ意味だったということです。

しかし我々の行動というのは、常に、その「錯覚」と「現実」とのフィードバックやフィードフォワードをしながら行う仕組みになっているので、両者(錯覚と現実)の食い違いが最小に保たれていたのです。

錯覚と現実がまだうまくかみ合わない状態が、赤ちゃんが、最初にマグカップやスプーンを使う状態です。

錯覚と現実がかみ合うようになることで、錯覚が「確信」に変わります。

しかも、人間は「言葉」によって、その確信に変化した錯覚**をさらに外側からギブスのように固めてしまっているから仕方ありません。そしてまさしくこの確信に変化した錯覚さっかくこそが、人類の現実を作っていたんです。

もし、この錯覚が変化させられれば、現実さえもガラリと変化させられてしまいます。

例えば自分に狐が憑依ひょういしたという錯覚にとらわれてしまった人がいるとします。その錯覚は確実に身体に変化をもたらしますし、家族や周囲の人たち、あるいは社会にも大きな影響を与えます。

しかし、「自分」や「自分の意志」という錯覚は、その程度のものではなく、いわば全世界の人たちに憑依してしまった錯覚です。


それが、言葉を覚えたことで自然界から迷い出てしまった人類が、今では新たに「人間界」というものを作り、そこで暮らしている動物である「人類」の《環境》を、ガラリと変えてしまったのは当たり前のことです。

意外に思われるかもしれませんが、家族や国家といった概念や、死や病気といった概念や、愛や憎しみなどの感情や、それにお金や戦争も、その錯覚の中から生まれていたもので、それが今までの我々の現実でした。

その証拠に、「本能の自我」しか持たない(つまり「自分」や「自分の意志」という錯覚を持たない)人間以外の動物たちには、家族も国家も死も病気も愛も憎しみも、それにお金も戦争もありません。

彼らにも家族や愛や権力闘争などがあると考える人は、それは、人間が勝手に自分たちの常識や価値観や感情を動物たちに当てはめて解釈してしまっていただけです。

人類は実に長いこと、その「錯覚の自我」のうたげの席で酩酊めいていさせられながらも、時に華やかな夢に酔いしれ、時に悪夢にうなされ、健気けなげに懸命に生きてきました。だけど、ついには崖っぷちのすぐきわまで来てしまって、今ではそこから落ちていく人たちが後を絶ちません。

この21世紀、科学が世界を席巻せっけんしている今こそ、我々は、長い長い錯覚から目を覚まさなければならない時にいます。


では、現代科学が解明した事実をつなぎ合わせて整理していくと、どのような「自分」というイメージが浮かび上がってくるでしょうか?

科学が解明した自分:

❶「自分」とはこの身体を覆っている皮膚の内側だけではなく、外側も全部である。つまり宇宙そのものだった。

❷今まで我々が「自分の意志」と呼んでいたものは、その脳を取り巻く外側(=環境)によって作られていく「記憶」と、その脳を取り巻く外側(=環境)からの「刺激(=情報)」との相互作用によって、その脳内に浮かび上がらせ・られていたもののことであった。
つまり、我々は自分由来ではなく、その環境由来の「意志」に、思考させられ行動をとらされていたということである。


科学が解明しているものを整理統合して見えてきた真実ほんとうの自分は「❶宇宙」だったということです。つまり、この宇宙の万物はビッグバンという小さなたねから分化して生まれていたもので、全てがつながっていてどこにも切れ目などなかったのです。

だから、それが我々の「全身」の姿です。(下の記事の『③ もう一度、「自分とはこの宇宙だった」の根拠』(➡リンク)に図解しています)

だけどこの宇宙万物の中で、ある日、人間だけが言葉を持ちました。それは物に名前を付けるところから始まりました。

名前とは、物に切れ目を入れることです。例えば人間の身体の部位にしても「頭部」「腕」「足」「目」「耳」「口」「心臓」「肺」と、名前は際限なく切り刻みます。科学的に言えばどこにも切れ目などなく、この宇宙の全てが連動して動いているわけです。

この宇宙は、人間だけが「銀河」「天体」「太陽」「月」「地球」「山」「海」「木」「草」「犬」「猫」などと、名前を付けて切れ目を入れてしまっているだけで、本当は全てが連動して一個の宇宙を作っているわけです。

言葉を持たない他の動物はそのような不自然な見方をしません。だから私は彼らのことを「自然界と地続き」と呼ぶことにしています。彼らには人間のような「自我=自分という意識」はありません。本能的な自我******があるだけです。

言葉を持った人間だけが「自我」という錯覚を持つのです。こちらは、「本能的な自我」が、言葉により、より補強された「観念的な自我」です。


❷を補足させていただきますと、我々の思考や行動の元になる力は、「自分」由来ではなく、その脳を取り巻く《環境》からやってきていた、ということです。

自発ではなくて他発だったということです。

今私はパソコンに文字を打ち込んでいますが、それをそうとする意志(will)は、私が自発的・主体的に作り出していたわけではなかったということです。

手短に説明します。
我々の脳には、この脳を取り巻く《環境》と神経細胞との相互作用によって「記憶」が作られます。言葉を持った人間は、その「記憶」をさらに強固なものにさせられたり、変形させられたりもします。

そこへ外部から何らかの情報が入力されると、記憶(言葉も含む)によって何らかの反応が生まれます。それが感情、意識、連想、意思、意志、想像‥‥、などと呼ばれているもののことです。そこから生まれる固有の行動様式が個性などと呼ばれているものです。

つまり、私は今、そのようにしてこの脳に受動的***に浮かび上がらせ・られた意志によって思考させられ、再び言葉に翻訳されたものをパソコンに打ち込まさせ・られていたのです。


私はこの意志のことを mirrored will と名づけました。今まで言われていた意志(will)と対比させるためです。

つまり、脳の中に映し出された(浮かび上がらせ・られた)意志のことです。

今まで私たちが、「自分の意志」と信じて疑わなかった「意志」など、どこにもなかったのです。

「本当の自分」とはこの身体を覆っている皮膚の内側ではないなら、その「本当の自分」ではない脳に浮かび上がる意志を「自分の意志」と呼ぶのもおかしなことだったわけですけどね。

むしろ、「本当の自分」とはこの「宇宙」であったのなら、今まで錯覚していた「自分の意志」とは、「宇宙の意志=環境が作る意志」というべきだったのです。
(*ただし、もちろん宇宙にも環境にも意志などありません。この地球上に人類が出現する前の環境は「宇宙(=自然界)」だけでしたが、人類が出現して言葉を持ったことで、環境と言葉との相互作用が我々の脳に意志を浮かび上がらせるようになったということです。ちなみに、言葉を持たない動物にあるのは意志ではなく刺激に対する反応です。もっとも人間も、刺激と言葉との相互作用による反応の仕方を、今まで自分の意志と呼んでいただけなのです)

・will : 今まで使われてきた意味の、自分由来の自発的な意志。自分とはこの皮膚で覆われている内側であると錯覚していた自分の脳に浮かび上がったものだから、自分の自発的なものだと錯覚していたに過ぎない。

・mirrored will : 科学が解明した本当の意味の意志。環境由来の意志。今まで信じていた「自分の意志」は、この「環境由来の意志」だったので、それを科学的な正確さで言い表すには、こちらの言葉を使うべきである。


科学がまだ不十分だった頃に、心は心臓に宿ると信じられていたことがあったようですが、その漠然と「心」と呼んでいたものを、現代の科学的な正確さで言い表すには、「脳の作用」とでも言うべきであるのと同じで、呼び方を変えるべきだからです。



さて、「この世界を明るく希望の持てるものにするためには、汎用なOSを新たに設定する必要がある」と言いましたが、それは既に作られていました。

「科学が解明していた自分」のことです。


たったこれだけを上書きするだけでいいんです。だけど、たったこれだけの上書きが正常に完了したなら、世界情勢は根底からガラリと変わり、今までの人類が経験したこともない明るく楽しく争いのない世界に変化します。(と言っても、今までの人類の歴史を全否定しているわけでは全くありませんよ。それがあったから分身主義****にたどり着けたんですから)

何故、起こってもいないのに、「世界情勢は根底からガラリと変わる」なんてことを確信を持って断言できるのでしょうか?

その理由は、繰り返しになりますが、我々は「自分の意志(will)」で考えたり行動したりしていたわけではなく、環境に作られていく「脳内の記憶」と、環境からの「刺激(=情報)」との相互作用によって、この脳に浮かび上がらせ・られた意志(mirrored will)に、思考や行動をさせ・られていた‥‥からです。


そしてここで大事なことは、それを解明したのは宗教でも哲学でもなく科学だということです。


宗教も哲学も結局は世界中の人々の心を一つにすることはできませんでしたが、この21世紀の科学なら、それができます。現代の科学は、それまで手付かずで、未知の領域だった「心」の解明(=脳の働きの解明)にまで至っているからです。

もう我々は、科学なしでは生きていけません。科学を信じないと言うなら、今日からは車や電車や飛行機に乗ることはあきらめて下さい。携帯だってパソコンだって捨てて下さい。テレビも冷蔵庫も粗大ゴミで出して下さい。

例えば、科学は、私たちの誰一人として目にしたことのない「電気」というものの存在を証明していて、世界中どこへ行っても、電気が供給されているところであれば、たとえ夜であっても明るい蛍光灯の下で本を読むことができます。

どんな宗教の人でも、どんな民族でも、どんな思想を持っている人でも、電気炊飯器に適量の水とお米を入れて人差し指でポンとスイッチを入れさえすれば、必ずおいしいご飯が炊けます。

ヒンズー教の人がスイッチを入れれば中からパンが飛び出してきたり、菜食主義の人がスイッチを入れればホカホカの焼き芋が出てくるなんてことは、万に一つも起こり得ません。必ず同じ一つの結論に至ります。

現在の「我々人間界の環境(=現実)」を作っていたのは、我々の錯覚でしたよね。

なかでも「自分という錯覚」が特に幅を利かせていました。

と言うことは、当然、科学が解明した「本当の自分」を知った人たちが作る《環境(=現実)》に変化すれば、その《環境》に取らされる我々の行動も変化させ・られるということです。

《環境》が変化すれば、我々の脳に浮かび上がる意志(mirrored will)もまた変化し、そしてその意志によって取らされる我々の思考や行動も変化し、そして我々の思考や行動が変化すれば、もう全世界の人が幸福になるしかないのは騎虎きこの勢いです。

*騎虎の勢い:「騎虎きこ」とはトラの背中に乗ることで、トラに乗って走り出すと、途中で降りたらトラに食い殺されてしまうので、仕方なく最後まで走り続けなければならないという意味です。


このようにして、自然界だけを師と仰ぐ科学に全面的な信頼をおいて我々が歩いて行けば、自然界で一切、軋轢や不具合の生じない好循環が生まれるわけです。


今までの我々の脳のOSのバージョンは、「自分」を内側に閉じたものと認識していました。

しかし新しい脳のOSのバージョンの「自分」は、外側に開かれたものとイメージするものです。

たったそれだけの違いです。たったそれだけの違いですが、その圧倒的な違いを想像してみて下さい。キーワードは「つながる」です。

あなたは全人類とつながるのです。



いいえ、その程度のものではありません。この宇宙とつながるのです。
迷子になっていた我々が、ついに自分本来の居場所を知るのです。

と言っても、これは宗教や哲学やスピリチュアルなどの話ではありません。科学の話です。それも生半可な科学ではなく「真の科学」の話です。

取り敢えず、慌てて結論だけ話をさせていただきました。

私の言う「真の科学」とは何か? 
今までの「自分」は錯覚だというのは本当に科学が解明しているのか? 
では科学が示している「本当の自分」とは何だったのか? 
今まで「自分の意志」と言われていたものは間違いだったのか? 
そして、我々はどのようなメカニズムで行動を取らされていたのか? 

といったことを、このブログを通して皆さんと一緒に「科学的に解明」して行きたいと思っています。
明るい未来のために‥‥。

よろしくお願いします。


第3話・人類の脳のOSをバージョンアップさせるために必要な最初の数人

(この話は読むのに8~10分ほどです。【4.572文字】)

他の動・植物たちと違って、言葉を用いるようになったことでやがて「自分」という意識を持つに至った人類のことを、よく「自我に目覚めた」と形容します。だけどその言い方はかなり我田引水がでんいんすい的です。

「自我に目覚めた」などと言うと、まるで「暗愚あんぐな他の動物たちと違って、聡明な我々人類だけが”自分”を知るに至った」と言わんばかりです。

しかし、実は、「自我という眠り(錯覚)に落ちて、自然界に背を向けて人間界に引きこもってしまった状態」だということがわかります。

自然界と一体となって生きている他のすべての生物(私は彼らのことを自然界と地続きと形容することにしていますが)と比べてみて下さい。

地球上の、人類以外のあらゆる物体も動植物も、自我を持たずに自然界と一体となって暮らしています。 食ったり食われたりする動物の世界でも、彼らには本能としての自我しかなく、別に他の動物を殺して食べているなどという自覚などもありません。「殺す」という概念は、言葉を持つ人間だけにあるものです。

それが自然界の自然な姿であり、食べる行動も食べられる行動も自然の一部です。

カマキリのオスは、交尾の最中にメスに食べられたからといって悔しがったり恨んだりしません。それに、オスを食べるメスだって残忍でも冷酷でもありません。もちろん人ではありませんが、“ひとでなし”でもありません。それも、自然の営みの一部なんです。

しかし遠い昔、人類の祖先は言葉を用いることになり、自然界の全ての現象や事物の一つ一つに対して名前を付けていきました。 それは、自然界の現象や事物を言葉という“おと”に置き換えるということです。名前という一つの音に、そのモノに対するイメージの全てを象徴させているわけです。

やがて、この身体の内側に張り巡らされている神経によって脳が錯覚させられた意識に、“自分”という名前をつけることになるわけです。

この神経系は、「怪我をした時に痛いと感じるのは他の身体ではなくこの身体だし、マッサージをしてもらって気持ち良いのは他の身体ではなくこの身体だ‥‥」そういった強烈な印象だけを重視して、この境界線を持って存在しているかに見える身体の内側が自分だと錯覚をします。

あなたも今、間違いなく「自分」という意識を持って生きていますよね。 自然界と一体となって生きている他のすべての生物と比べてみて下さい。 それは実は、自然界に背を向けて人間界に引きこもっている姿です。

現代科学が解明しているものを整理してつなぎ合わせてみると、「自分」という意識とは、神経系が連動することで見ていた錯覚のことだと、科学は既に解明していました。

だけど科学者たちは自分の専門に没頭してしまって視野が狭くなっていたり、自分にかんせられる栄誉に夢中だったりで、そのことに気づかないでいます。

神経系とは、脳と脊髄せきずいと全身に張り巡らされている神経の総称のことですが、それはこの境界線を持った身体の内側に閉じられたものではなく、外側からの刺激を受け変化したり、情報のやり取りをしている実に開かれたものです。

今までの神経系の錯覚による「自分意識」に縛られている我々人類が作っている環境を、「個人主義」的環境と呼ぶとすると、それに対して、現代科学が明らかにした新しい「自分」を脳に上書きした人類が作る環境を、私は「分身主義」的環境と名づけました。

ただし、「○○主義」と言っても、個人主義にならって「分身主義」と名づけただけの話で、別に主義でも主張でも、まして思想でも何でもありません。

個人主義という言葉だって別に主義でも主張でもなく、錯覚の「自分意識」に縛られた我々が取ってしまう行動パターンに対して名づけられただけであるし、たとえそれを自分の主義や主張として触れ歩く人がいたとしても、単に自分の利己的な行動パターンに対する正当化に過ぎないのです。

(ちなみに、私は、この身体が自分*******だと錯覚している現代人のことを、個人主義者と呼んでいます。だから、社会主義だろうが共産主義だろうが資本主義だろうが、全体主義だろうが民主主義だろうが、どんな社会体制であっても、一人一人はみんな「個人主義者」たちです)

それと同じで、分身主義は主義でも主張でもないという点に注意していただく必要があります

分身主義とは、あくまでも科学が解明した「事実」を整理していっただけのものです。しかし、科学が解明した事実をつなぎ合わせて整理して行ったその先に「自分」の真実ほんとうの姿が見えてきました。

今、我々はまったく新しい世界へと通じる扉の前に立っています。でも、私もその先へは行ったことがありません。私だけの力ではその扉を開くことができないからです。ちなみにその扉の先の世界を想像で描いてみた小説がこちらです。(もちろん無料)

さて、個人主義的な環境の特徴は、我々の母体でもある自然界に背を向けて抗ってしまっているせいで、当然、様々な軋轢あつれきが生じてしまうということです。


当たり前のことです。人間界という荒海に放り込まれて、何とか溺れまいと手足をバタバタさせているのが今の我々です。バタバタし過ぎて逆に水をたくさん飲んでしまう人もたくさんいます。

本当は、空気を一杯吸って、身体の力を抜いて水面に仰向あおむけに寝転べば、誰でも簡単に浮かぶことができるように、自然界という穏やかな海に抗わなければ気持ち良く浮かぶことができたはずなんです。

実は「お金」という便利な道具も、我々が何とか溺れまいともがいた上での発明でした。「個人vs個人」がうまくやっていくために必要とされたものでした。

今では我々の優秀な発明品だった「お金」は、世界中にたくさんの不協和音ふきょうわおん摩擦まさつをまき散らしています。

本来は人間の心にとても価値のあることでも、お金があるためにできないことがたくさん出てきました。それに、本来は人間にとってはどうでもいいようなことが、お金があるためにやらなければいけないことがたくさん出てきました。

そればかりか、お金を作ってしまったせいで我々は、それまで以上に自分の周りに敵を作り、恨みや妬みや怒りや不満や不公平感などといった争いを招くたねを育てながら生きねばならなくなりました。

それに比べて、「分身主義」的な環境の特徴は、常に自然界にお伺いを立てながら歩む科学だけ****を信頼しているので、最終的にはこの宇宙万物と手をつなぐことになります。

何故かと言うと、物体が引き起こす現象の因果関係をどこまでも解明していくのが科学ですから、最終的には一つに収束しゅうそくするのは当然の帰結です。

ある現象が起こった原因Aを解明したら、今度はその原因Aの原因である原因Bを解明し、そしたら今度はその原因Bの原因である原因Cを解明し、今度は‥‥とどこまでもたどっていけば、全ての原因がビッグバンにだどり着きます。

つまり、地球ができた原因も、あなたや私がここに存在する原因も、最終的にはビッグバンにたどり着くことになるという意味です。ということは、我々が一つになるという意味です。
元々は一つであったことを発見するという意味です。

それを知った科学が紡いでくれた物語が、分身主義です。
だから世界が分身主義的な環境に変化すると、そこから取らされる我々の行動や考え方が変化し、自分の周りから敵などいなくなり、世界中に蔓延まんえんしていた恨みや妬みや怒りや不満や不公平感も消滅します。

それどころか、病気や死の恐怖も完全に消滅します。もちろん、それは全人類の脳のOSをバージョンアップできた時のことですが‥‥。


人類の脳のOSをバージョンアップさせるためには、つまり、世界中の人類の脳に「科学が解明した自分」を上書きさせるためにはという意味ですが、それにはまず最初に、「科学が解明している自分」をしっかりと理解することができる影響力のある数人の人たちの出現が待たれます。

もしその人たちが現れれば、今はインターネットという頼れるツールがあるので、全人類の脳に上書きするのはそれほど困難なことではないと考えています。

「新たな共認形成は、屈することなく支配共認と対峙たいじして現実を直視(⇒事実を追求)し続け、それ故にいち早く滅亡の危機を捉えて、社会を根底から変革する新たな認識パラダイムを構築し得た者が、それを社会に提起することから始まる。
もし、その認識が人々の期待に応え得るものであり、とりあえず数%の共鳴を得ることが出来れば、それは共認上の乱を呼び起こし、共認闘争圧力を生み出すことが出来るだろう。‥‥実現論040506より」

私が、この「るいブログ」を開設させていただいた理由は、その最初の数人の人たちは、ここ「るいネット」のどこかに潜んでいるという強い予感に衝き動かされたからです。(*この記事を書いているのは2011年ですが、るいネットはその後、2023年6月に閉鎖となりました)

ちなみに、我々はまだ旧バージョンの脳で会話をするしかないので、私がここで、「私」とか「自分」とか「あなた」と記述する場合は、「この、境界線を持っているかのように見えている身体の内側」を意味しています。

また、ブログを開設したのはまるで「自分の意志」でそうしたかの様な記述になってしまっていますが(科学的に言えば、私の身体は、私の脳を取り巻く環境にこのブログを書かされている媒体ばいたいに過ぎないのですが)、この矛盾のせいで、少々、読んでくださる方を混乱させてしまうかもしれません。

だけど、それは現状では仕方ないのでご了承下さい。もし、全人類の脳に「科学が解明した自分」を上書きすることができた暁には、私のこのような矛盾したブログは不要になりますから、すぐに撤収いたします。その時まで我慢して下さい。

ただし、初めにお断りしておきますが、科学が解明している自分を知るということは、「この身体の内側が自分であるという観念を今の自分の中から完全に締め出さなければいけない!」などと無理難題を突き付けているわけではありません。

大事なことは、今までの「自我」は錯覚であったという科学的事実を、まずは自分の頭で理解し認識することです。

そして、我々は「錯覚の自分」を錯覚として知った上で、その錯覚を今まで通り用い続けていけばいいのです。

本当はサンタクロースなどいないと知ってしまった我々「大人」ですが、だからと言って、我々の心からサンタクロースを一度だって締め出したりしませんでしたよね。それと同じです。

だから、錯覚の自分意識を「消す」のではなく、私はそれを「薄める」と表現したいと思います。そして、あたかも光の三原色のように、時には他の色たちと重なり合って透明になったり他の色彩になったりする瞬間を、それぞれの脳が楽しめばいいのです。


問題なのは、今まで錯覚であることを知らずに、その「自分」を使用してきたことです。

そして、ありもしないのに、他の色と重なることのない自分だけの絶対的な色が存在すると思い込まされて、アイデンティティの確立***********などという強迫観念に追いたてられていたことです。

‥‥ああ、この世界は、今まで、なんて可哀想な「自分」たちで溢れていたことでしょう。



第4話・ずいぶんと、回り道をしてきました

(この話は読むのに13~15分ほどです。【6.974文字】)

『実現論』読ませていただきました。
私がここ「るいネット」に参加させていただこうと思った理由は、この『実現論』に大いに賛同したからです。賛同と言うより感動と言った方がもっと適切かもしれません。

(「実現論」は、「共同体・るい」の成員がその時々の経営問題や時事問題を分析する中から、改良・進化を繰り返して形を変えていくものらしく、この記事のこの時点での番号や内容は現在もそのままではありません。また、ルビや下線や太字は、この記事の著者徳永が加えたものです。(注:残念ながら、るいネットは2023年6月閉鎖となりました。従って『実現論』も現存しません))

以下に、その感動させられた部分を抜き書きさせていただきます。

「実現論は徹底した現実直視の姿勢につらぬかれており、またそうであるが故に、あらゆる固定観念(常識やイデオロギー)からの脱却を促す内容となっている。しかもるいはただの企業ではなく共同体(全員参加の合議体)である。だから、実現論は、皆で生産し経営し共同体を建設するという実践と一体になっている。実践の必要の中から皆で追求され、皆に共認されて生み出されてきたものだからこそ、現実離れした学会の権威やドグマ(教条)から逃れて自由に思考することが可能だったとも云えるだろう。だから、普通の人が(固定観念を取り払って)普通に読めば、簡単に理解できる内容になっている。おそらく、この生産体=共同体の実在なしには、この新理論は生まれなかっただろう。‥‥実現論000102」


「あらゆる固定観念(常識やイデオロギー)からの脱却」

まずはこの魅力的な言葉です。
「固定観念や常識にとらわれるな」というような言葉が、発信力のある人たちの口から発せられるのを、私は過去に何度も耳にしたことがあります。

しかし、彼らがその言葉を口にしたとしても、当の本人は本気で固定観念や常識から脱却しようなどとは思っていないように感じました。

この社会で発信力を持った偉い人でいられるためには、他の人たちの固定観念や常識に支えられているはずです。それがなくなったら、自分はもう偉い人でも何でもなくなってしまいます。

だから彼らにしてもどこかで常識などに頼っているわけで、この言葉を本当の意味で使っている人に私はまだ出会ったことがありませんでした。

しかし、『実現論』を読んで、ここでは本当の意味でこの言葉を使っていると初めて感じました。何よりそれをみんなで模索もさくしながら実践しているところが素晴らしいと思います。
感動させられた言葉はまだまだあります。

「実際、その欺瞞ぎまんの仮面を剥がせば、「自由」も「個人」も「権利」も、全てその正体は自我・私権を貫徹する為の思い込みであり、思い込みであるが故に、これほど無根拠で、排他はいた的で、暴力的な観念は他になく、これほど柔軟性のない(都合の悪いことは事実さえ受け入れない)救い様のない固定観念は他にない。‥‥実現論030105」

「全員の社会を、特定の思想に固まった集団が動かすというのは、大きな間違いである。万人の属する社会を導くことができるのは、万人が認める事のできる事実に基づく理論体系(=科学)だけであって、特定の思想などに社会を統合する資格はない。‥‥実現論000704」

「万人を導く統合理論も、志ある人々の協働によって、進化しつづけてゆくべきものであり、その為にはこの統合理論はあらゆるイデオロギーから脱却し、確かな事実だけに立脚した科学的な理論体系でなければならない。‥‥実現論000705」

「いま市場は行き詰まり、多くの経営者が先を読めないでいる。経営者だけではない。政治家も、官僚も、学者も、マスコミも、これまでこの社会を統合する役割を担ってきた者たちの誰一人として、明確な変革の方向を打ち出せないでいる。なぜか? それは時代が、これまで彼らのやってきた小手先の改革で済むようなレベルを遥かに超えた、根本的な変革を必要としているからである。‥‥実現論000201」(我々の意識改革)

「だが私権時代を通じて、国が滅亡することはあっても、人類が滅亡の危機に陥ったことは一度もない。とすれば、この滅亡の危機は、人類が私権時代三〇〇〇年をも超えた、もっと根底的なパラダイムの転換期を迎えた事を示唆している。つまり人類は今、自らが築いてきた全文明の見直しを迫られているのである。だが、一切の予断よだんを排して、人類の全文明を見直すとすれば、人類はその立脚点を自然の摂理せつりの中に、あるいは生き物の摂理の中に求めるしかない。‥‥実現論000302」


私がこの「るいネット」に分身主義****という新たなパラダイムを提起しに来た理由がこれらの中にあります。


「確かな事実だけに立脚した科学的な理論体系」

「その立脚点を自然の摂理の中に、あるいは生き物の摂理の中に求める」


まさに、そこから生まれたものが分身主義****です。

「しかし、学者やマスコミには、その様な徹底した原因分析に挑む姿勢あるいは追求力・創造力が、殆ど見られない。
現に、経済にしろ、教育にしろ、彼らが何十年にわたって唱えてきた講釈や方策では、何の効もないばかりか、事態は悪化する一方である。
とすれば、学者やマスコミの言ってきたことは、問題の上べをなぞっただけの誤魔化しor 綺麗言だったのだと言わざるを得ない。
それは彼らに染脳(脳を染め上げる)されてきた社会の構成員全員(つまり、私たち自身)にも云えることである。
人々は、私権規範や近代思想等の様々な常識にのっとって家庭生活を営み、経済生活を営んできた。しかし、その帰結が、社会の全面的な行き詰まりであり更には人類滅亡なのだとしたら、その常識の過半が(少なくとも、その根幹部が)根本的に誤っているからだと見るしかない。
もし、根幹部ではなく、枝葉部しようぶの誤り程度なら、こんな事態にはならないし、学者やマスコミをはじめ統合者たちの唱えてきた小手先の方策で済んだはずだからである。‥‥実現論000303」


私は、平和とは、戦争や犯罪を回避(あるいは抑止)している状態 のことではなくて、全世界 の人が不満や不公平感を持たずに助け合って仲良く生き、そして喜びと祝福に包まれて死んでいける社会のことだと考えています。

世界を平和にするために、私は文章を書いてきました。そして書いたものを、今まで学者の方たちやマスコミ(出版社)に送りつけたりしてきました。

また、(「彼らに脳を染め上げられてきた」と実現論に書かれている)社会の構成員たち(家族・友人・知人・ネット等で知り合った方たちなど)に見せたりもしてきました。

しかし、どこかでこんなことをやっても無駄だという気持ちはありました。その危惧きぐはことごとく的中してきました。


何故その先に進めないのかと言うと、一言で言ってしまえば、彼らは本当のところそれほど問題意識を持っていないからではないでしょうか? 自分に火の粉が降りかかって来ないことに対して、わざわざ自分から出向いて行くこともないということだと思います。

まして世界がどうなろうと、忙しい出勤時の隣りの部屋の夫婦喧嘩のように、もっとどうでもいいことなのかもしれません。

だからと言って、世界の情勢を全く知らないというのも無知で無責任な大人に見られるかもしれないので、たまにニュースなどを見て適当に怒ってみせたりするわけです。

本当は、たくさん火の粉が降りかかってきているというのに、そのことに気づかないだけなのですが‥‥。

そうかと言って、問題意識を持った人たち(例えば世界を平和にするための活動をしているような人たち)に分身主義****を聞いてもらっても、その後、「素晴らしいですね。お互いに頑張りましょう」のように突き放されて終わり。

そのように言ってくる人たちは、大概、自分の活動に酔っているのです。

彼らは自分が生きているという実感が味わえる場所が必要なだけで、本当に世界が平和になってしまったら、自分の出る幕がなくなってしまうからつまんなくなってしまうかもしれません。

何故私がこんな意地悪なことを言うのかというと、まるで、「お互いに自分が生きているという実感が味わえる方法で、人生をenjoyしましょう!」と突き放されたみたいで、なんともスッキリしないからです。

世界平和って、そんなに個人的なバラバラな感覚で成し遂げられるものなんでしょうか !?

しかしここ、るいネットには、本当の意味で問題意識を持った人たちが集まってきていると感じます。私は今まで、こんなに素晴らしい場所があることを知らないできました。何という回り道をしてきたことでしよう。
感動した言葉、続けさせて下さい。

「だが、宗教集団や政治集団はもちろん、マスコミも学会も国家(行政組織)も、夫々それぞれは単一の集団でしかない。ところが、集団というものは自己収束(もっと言えば自己閉鎖)性が強い。従って当然、彼ら官僚や学者やマスコミや政治家たちの、自集団の利益が第一になってしまう。そもそも、各集団を超えた次元にある社会を統合する組織が、実は単一の集団でしかないというのでは、社会を統合する資格などない。‥‥実現論000703」

「今や、日本人の大部分は不安と閉塞へいそく感にとらわれ、多かれ少なかれ滅亡の危機を感じ取っている。しかし、感じているだけで何もしようとはしない。誰もが滅亡の危機を感じているのに、誰も正面からこの問題を考えようとはしない。これは、実に奇妙な状態である。社会は、不気味な沈黙に押し包まれ、まるでその時が来るのを待ち望んでいるかの様である。いったい、どうしたと言うのか? なぜ誰も考えず、何もしようとしないのか?‥‥実現論030501」

「ただ人類は、動物的な生存圧力の場を超えて、超動物的な同類圧力=共認圧力の場へ移行する段階を迎えただけである。それは、共認動物が到達するべくして到達した必然的世界であり、実は滅亡の危機にひんした今こそ、動物的限界を引きずっていた前史が終わり、真の人類史が始まる、その起点となる時なのである。‥‥実現論040208」


極めつけは、ガツンと頭を殴られたような次の力強い言葉です。

「もちろん、恋愛や一対婚いっついこんをごく当然のものと信じ込んでいる自我女や迎合男たちの抵抗は、大きいだろう。だが、抵抗しても無駄である。そのままでは、人類は滅亡する。人類再生の可能性がそこ(性を集団の中に組み込んだ本源集団の再生)にしかない以上、人類はそこに収束してゆく。
人類の敵=性権力者や迎合男たちは、ただ絶滅してゆくだけである。現に、彼ら電源の切れかかったロボットたちは、何もしようとせず、ただ廃棄はいき処分される日をじっと待っているだけではないか。それが嫌なら、考えればいい、立ち上がればいい。共認闘争は、新たな活力源として、人類が待ち望むところである。‥‥実現論040707」


「自我女」や「迎合男」や「性を集団の中に組み込んだ本源集団の再生」という言葉が何を意味するのかは、まだ私にはよくわかりません。
にもかかわらず、私が感動したのは、固定観念や常識に疑問を投げかけるその姿勢です。

実現論は「完成された思想」なんかではなく、みんなで作って行くというその姿勢です。

いずれにしても疑問を投げかけなければ何も変わりません。そして「実現論」が訴えているように、何かを変えなければならない危機が来ていることは確かです。


やっと、皆さんのいるこの場所にたどり着くまでに、私はなんと回り道をしてきたことでしょう。今まで、聞く耳を持たない固定観念や常識に染まった人たちに向かって、一生懸命、念仏ねんぶつとなえて回っていたのです。

ここには、少なくとも私の話に耳を貸してくれる方たちがいると感じました。


先ほども言いましたが、特筆すべきことは、実現論は「完成された思想」なんかではないということです。完成された思想は、他の完成された思想との対立を生み、また時代が変われば新たに生まれた思想に駆逐くちくされてしまったりもします。

実現論は完成された思想なんかではなく、我々人類の正しい歩み方の方法論を示してくれているものです。それは、この自然界を師と仰ぐ、科学的事実*****だけを頼りに歩む正しい歩み方です。

そして我々が歩む足元を、つまずかないように照らしてくれています。

だけど「実現論」のすごいところはそれだけでなく、先を見通す確かな目で我々の未来を予言し希望を与えてくれていることです。希望がなければ我々は一歩も歩けません。希望さえあれば、我々はどんないばらの道でも手を取り助け合って歩いて行けます。

それが人間です。だからもし道に迷ったら、もう一度、「実現論」に戻ってみれば、必ずや正しい答えが見つかるはずです。

「そうしている間にも、当の市場自身の崩壊の危機が迫っている。
'70年、貧困の消滅によって、人々はこれ以上の物的な充足を得る為にもっと働こうとはしなくなり、物的欠乏が飽和限界に達したことによって、市場は拡大を停止するしかなくなった。
にもかかわらず、この社会を差配さはいする統合者(政・官・財および学者・マスコミ)たちは、自分たちの身分を守る為に市場の拡大を続行し、不足する需要を補うべく大量の国債を発行して、七〇〇兆を超える財政赤字(自治体を含む)を累積させてきた。
その結果、増刷された紙幣がダブつき、経済は必然的にバブル化する。既に世界中の経済は、アメリカやヨーロッパだけではなく、ロシア、中国までもがバブル化してしまっている。(注:アメリカの株価は、'75~'82年平均に対して、物価調整値で見ても、6倍以上にバブル化している。)今や市場は、バブル化することによって見かけの成長を維持するしかない袋小路ふくろこうじはまり込んでしまったのである。‥‥実現論000206」

「彼らに代わって、万人が参画さんかくして、社会を統合するための新しい組織が必要である。今や誰もが、行き詰まったこの社会を変える必要を、感じている。しかし社会の統合と改革という仕事は、それでメシを食っている政治家や官僚や学者やマスコミ等、統合階級の手に握られており、人々には社会を変革し、統合するという役割を担う場が与えられていない。従って、人々は殆ど行動できず、動けたのは、ごく一部の何やら難しそうな思想・信念に固まった政治集団(革命集団・市民集団)や宗教集団の人たちだけであった。‥‥実現論000702」

「だが、宗教集団や政治集団はもちろん、マスコミも学会も国家(行政組織)も、夫々それぞれ単一の集団でしかない。ところが、集団というものは自己収束(もっと言えば自己閉鎖)性が強い。従って当然、彼ら官僚や学者やマスコミや政治家たちの、自集団の利益が第一になってしまう。そもそも、各集団を超えた次元にある社会を統合する組織が、実は単一の集団でしかないというのでは、社会を統合する資格などない。
万人が属している社会を統合する仕事は、万人によって担われなければならない。それに本来、社会を変革し、統合してゆく仕事ほど、面白い、充実できる仕事は他にない。
その大切な社会統合の仕事を、国民に選ばれた訳でもないのに、官僚や学者やマスコミが独占し、自集団の利益を第一にして甘い汁を吸っているという仕組みが、根本的におかしいのだ。そうである以上、当然彼ら夫々の集団の利益第一となる方向に、社会は歪められてゆく。その結果が、どう仕様もないところまで行き詰まった(そして大破局が迫っているにも拘わらず、誰一人解決策を提示できない)この末期状態だったのである。‥‥実現論000703」

「個々の即自的な価値観念(頭の中に内在する本源価値を言葉化しただけの、古代宗教や近代思想)では、相互対立をはらんで統合できないことは明らかであり、諸々の思想=即自観念を超えた事実の体系こそが、万象を照らすかがみとなり、社会統合の要ともなる。
(注:現在、社会科学と称されているモノは、究極の所、ドグマを固める為のニセ科学に過ぎない。自由、個人、権利、市場原理等、学者やマスコミがって立つ根本の概念は、どれを取っても、それが生物史上あるいは人類史上の基底事実であると言える様な根拠が全くない、単に「そう思っていたほうが、都合が良い」というだけの欺瞞ぎまん観念であり、とうてい科学と呼べるような代物しろものではない。) ‥‥実現論000707」

(どうでしょうか? 力強い言葉だったでしょう!? いよいよ次回から、「分身主義」が始まります)

(注:残念ながら、るいネットは2023年6月閉鎖となりました。従って、ここで取り上げさせていただきました『実現論』も現存しません。これはある意味、貴重な記録かもしれません)



第5話【科学しか今の人類を救うことはできない(1)】

(この話は読むのに10~12分ほどです。【6.174文字】)

「全員の社会を、特定の思想に固まった集団が動かすというのは、大きな間違いである。万人の属する社会を導くことができるのは、万人が認める事のできる事実に基づく理論体系(=科学)だけであって、特定の思想などに社会を統合する資格はない。‥‥実現論000704」

科学時代と言われる現代でも、未だに科学を毛嫌いしている人たちがいます。

確かに今までの科学は、人間の心を無視して進んでいたようなところがありましたし、人間を殺戮さつりくする物騒な兵器や、原子力発電のような扱いに手を焼くものもたくさん作りました。公害をまき散らしたりもしました。

しかしそれは科学には一切罪はありません。

人間の「欲」や、不安や恐怖などといった「感情」が、科学を扱うことで生まれてきただけのものです。

ところが、近年になって、科学が棚上げにしてきた「心」を、科学は一生懸命解明しようとしてきました。

それを整理統合した結果、私は、科学こそ人類の「心」を最も安心できる場所に導いてくれるものであり、科学だけが、この混迷の時代の人類を救うことができるものであると確信しました。

今回は、とても大事なことなので、三回に渡って、「何故、科学でなければ今の人類を救えないのか」ということをお話していこうと思っています。

まずは、科学を行う上で「大前提」となる疑問。

「主観の認識は本当に客観と一致しているのだろうか?」



この疑問はあらゆる学問にとって大問題でした。もし我々の「認識」それ自体が当てにならないとすれば、困ったことになってしまいます。

哲学も科学もあらゆる学問もその主張の根拠をなくしてしまい、人の数だけ存在する主観は互いに対立するばかりで決して和解することはないでしょう。

我々はよく「客観的に見て、それは‥‥だ」というような言い方をしますが、そのようにおぎなわなければならないということは、そもそも主観と客観は一致しないからなのでしょうか? 

それに、「客観的に見て‥‥」とは言っていますが、その客観とは、実はその人の主観に過ぎないのではないでしょうか? 

もし本当に誰もが主観を持ち、その主観の中でものを考えていて、そこから外へ出られる人はいないと言うなら、自分の認識が「客観」に一致しているかどうかさえ「主観」には決して確かめようがないわけです。

しかし、多くの人を悩ましてきたこの疑問を、画期的な方法で一気に解決してしまった哲学者がいました。(でも私に言わせれば、これは、万人を見事にあざむいた巧たくみなマジックのようなものでした)

1859年~1938年を生きたフッサールさんという哲学者です。その方法論を現象学げんしょうがくと言います。まずその話から聞いていただきたいと思います。

「何故そんな古い哲学の話を?」と思われるかもしれませんが、「現象学」は、未だにそれを超える哲学が現れていないと賞賛する人たちがいて、その人たちは今の時代こそ「現象学」の方法論が必要であると主張しているからです。


フッサールさんは、主観には決して確かめようがないにもかかわらず「主観と客観の一致はあるか‥‥」という問いを立ててそこから考え始めること自体そもそも無理があると考え、この認識問題を解くためには「主観・客観」という図式を一旦取り払ってしまおうと考えました。

そこで、「客観それ自体が存在する」という前提を中止(これを「エポケー」と言います)して、論理上は *独我論的な主観の立場を出発点にしたらどうだろうと考えました。

*独我論(どくがろん)とは、
真に実在するのは自我とその所産だけであり、他我たがやその他すべてのものはただ自己の意識内容にすぎないとする立場」のことです。

現象学という方法論は、取り敢えず、この独我論的な主観の立場に立って、同時に、固定観念を含む一切の素朴な確信、科学その他の学問の知見(学説等)、神話や宗教上の世界像なども一旦中止します。

そのように準備した上で、主観に浮かぶ一つ一つの内容を完全に疑い得ないもの(不可疑性ふかぎせい)に到達するまで、疑っていくというのが、現象学という方法論の特徴です。

ところで、フッサールさんよりも260年ほど前に生きたデカルトさんも、疑い得るものをどこまでも疑って行った先に、今こうして疑ったり考えたりしている「私」の存在だけは疑い得ない、という発想に行き着いて、あの有名な「我思う、故に我あり」(コギト・エルゴ・スム)という言葉を残しましたね。


だけど、現代の科学では「我思う、故に我あり」はどうやら間違いだったとわかり始めています。

自分(自意識)とは、生まれた時から当然のように存在していたものではありませんよね。

我々が生まれた時は、自然界と地続きである他の動物たちと同じで本能的な自我しかありません。

人間だけに特有の「自分」という観念的な意識は、この身体の中に張り巡らされている神経系と、それが接している外界とのフィードバックと、さらにそれらに「言葉」がからみ合うことで作られていく「錯覚」です。

また、言葉というものを通して行われる「コミュニケーション」などから、我々の脳の中に徐々に作られていく「錯覚」である、ということもわかってきました。

だからデカルトさんは、脳の中に作られてしまった「錯覚である自分」を言い当てていただけなのです。

例えば映画というのは人間の目の錯覚を利用した娯楽、あるいは芸術ですが、そこにあるのは白い幕と光の粒子だけで、本当は高倉健さんがそこに実在しているわけではありません。

実際の高倉健さんは、今、自宅のトイレで用を足している最中かもしれないのに、デカルトさんは、銀幕の中の高倉健さんを見て「彼は確かにここにいるじゃないか」と言い張っていただけだったのです。
(*高倉健さんは、この記事を“るいネット”に投稿した2011年にはご存命でした)

「彼は確かにここにいて、我々に感動を与え涙まで流させてくれている。それこそ彼がいる証拠じゃないか」ということです。つまり「彼、感動を与える、故に彼あり」という理屈です。

もう一つ、デカルトさんは見落としているけれども、科学時代を生きる我々が気づかなければいけない点があります。

デカルトさんは「疑い得るものをどこまでも疑ってみよう」と発案したのは、「自発」的なものであり、つまり「自分自身の意志」であり、その自分の意志に従って実行していると思い込んでいたはずですが、その大前提こそ疑わなければいけないものだったのです。


このブログを読んで下さっている方を驚かせてしまうかもしれませんが、実は人間には今まで言われてきたような「意志(意思と言ってもいいです)」などというものは、どこを探しても存在していなかったのです。

下の記事に、私がそのように主張する根拠を書きました。


人類が、この科学的な事実を受け入れるかどうかに、平和への扉を開くことができるかどうかが、かかっています。

我々が、この科学的な事実を受け入れた時、人類の心の中から怒りや恨みや妬みや不満や不公平感など争いのもとになるものが、きれいに消失するからです。

これが「実現論」の言うところである「あらゆるイデオロギーから脱却し、確かな事実だけに立脚した科学的な理論体系」です。

「万人を導く統合理論も、志ある人々の協働によって、進化しつづけてゆくべきものであり、その為にはこの統合理論はあらゆるイデオロギーから脱却し、確かな事実だけに立脚した科学的な理論体系でなければならない。‥‥実現論000705」


そして、これこそ、私がこの「るいネット」に分身主義****という新たなパラダイムを提起しに来た理由です。

その話は、今はまだ少し脇に置いといて、取り敢えず話をフッサールさんに戻します。

「主観」をどこまでも疑ってみたフッサールさんの場合は、デカルトさんの「我」の存在証明なんかではなく、自分の認識において、これだけは疑い得ない不可疑性ふかぎせいというものに行き着きました。

例えば、目の前に赤くて丸いものが置かれていて我々は経験からそれをリンゴだと認識したとします。普通は、リンゴがあるから、自分にリンゴの像が見えると考えます。

つまり、「客観」があるから「主観」が生まれるわけです。

リンゴがある(原因=客観) 
だから 
➡ 自分にリンゴの像が見える(結果=主観

しかし彼の方法はそれを逆転させて、

自分にリンゴの像が見える(結果=主観) 
だから 
➡ そこにリンゴがある(原因=客観
という「確信が成立する」

‥‥と考えるものです。

自分にリンゴの像が見えると言っても、それはリンゴそっくりに作られた置物かもしれない。かじってみたら確かにリンゴの味がするが、それだってリンゴの味を人工的に誰かが作ったものかもしれない、とどこまでも疑うことは可能です。

だけど、齧った時に、自分が「みずみずしくて美味しい」と感じたり「苦くてしょっぱい」と感じたりしたら、その自分の<知覚>自体は「もしかしたらみずみずしく感じなかったかもしれない」、「もしかしたら苦くは感じなかったかもしれない」などと疑うことはできないということです。ちょっと「我思う、故に我あり」の感覚と似ていますよね。

それだけは疑い得ないものだと、彼は考えたのです。それは、「客観」の真の姿を明らかにしてくれるものでは全くありませんが、客観が存在する疑い得ない「確信」だけは間違いなく主観にもたらしてくれたと言うのです。

フッサールさんは、人間のこの知覚というものは、人間の意識の志向的な能力が作り出す他の作用、例えば、<想起>、<記憶>、<想像>などとは違って、疑うことができない「不可疑性ふかぎせい」を持っていると考え、その場所を、個々の主体が自分なりの現実の秩序を疑ったり確かめたりできる可能性の根拠に置こうと考えました。

(*彼は、人間の意識の志向的な能力が作り出す作用などと言っていますが、現在の科学は、意識は志向的な能力ではなく、受動的なものだとわかり始めてきました。受動的に浮かび上がらされた意識を、後付けで志向的と錯覚するのが我々の脳の特性だったのです)

要するに、哲学を含めて学問はすべてそこから出発すべきであると彼は主張したかったようです。

「現象学」の方法論をう~んとつまんで説明しましたが、実は現象学の成果はその先にあります。

フッサールさんは、人間の「主観」の中にある「疑い得ないもの」は、他人と共有せざるを得ないような構造を持っていると考えていたようです。

学問の死活にも関わる「主観・客観の一致」という難問を独自の着想で巧みにかわして、世界観や価値観が対立した場面での、「共通了解の可能性」の原理の問題へとすり替えたことが特筆すべきことです。

(補足:「共通了解の可能性」とは、価値観や判断における厳密な「一致」の「可能性」を追求するのではない)


本当に彼の理論通りに事がとんとん拍子に運ぶなら、これほど素晴らしいことはありません。

民族、宗教、思想、文化の違いなどを乗り越えて共通了解(=共認)されることが可能な世界が来るなら、私もここで安心して身を引くことができます。

しかし、フッサールさんは、主観だけでできている人間世界での和解の可能性を一生懸命考え抜いたという点では評価にあたいしますが、ひいき目に見積もっても、主観から出発している限りは共通了解(=共認)に落ち着く可能性はほとんどないと言うしかありません。


私に言わせていただければ、彼の間違いは、「誰もが主観を持ちその主観の中でものを考えている以上、その外側に出て、自分の認識が客観に一致しているかどうかを主観には決して確かめようがない」と最初にさじを投げてしまった点でした。

だから *独我論的な立場から入って行くしかないと結論づけてしまったのも当然の成り行きです。

*独我論(どくがろん)とは、
真に実在するのは自我とその所産だけであり、他我たがやその他すべてのものはただ自己の意識内容にすぎないとする立場」のことです。

フッサールさんやデカルトさんの時代には決定的に欠けているものがありました。
何だかわかりますか?

それこそ、科学‥‥です。

つまり、科学の解明がまだ追い付いていなかったんです。

デカルトさんの話をさせていただいた時、「科学時代を生きる我々が気づかなければいけない点がある」と言ったのを覚えていますか?

デカルトさんは「疑い得るものをどこまでも疑ってみよう」と発案したのは、「自発」的なものであり、つまり「自分自身の意志」であり、その自分の意志に従って実行していると思い込んでいたはずですが、その大前提こそ疑わなければいけないものだった、と言いました。

下の記事に、そのように主張する根拠を書きました。

同じことがフッサールさんにも言えます。彼は現象学を産んだのは「自分」だと信じているでしょうが、実は、彼を取り巻く《環境》が、彼の身体を媒体ばいたいとして産み落としたものだったのでした。

また、現象学の方法論に従って不可疑性を求めて思考しているのは自分の意志でやっていることだと信じていたはずですが、それも実は、彼の脳内にそのような意志を浮かび上がらせる力が、その時の彼を取り巻く《環境》にあったというだけの話です。

我々は皆、媒体ばいたいとして、《環境》から浮かび上がらせ・られた「意志」に従って表現させられていただけなのです。我々がこれに気づくことは、少しも残念なことでも悲しむことでもないんですよ。

実は、むしろ喜ばしいことなんです。今まで誰もが願っても叶えられなかった世界平和の幕開けを意味しているからです。

いずれにしても、彼らの時代には解明されていなかった、こういったことを現代の科学は解明しています。

そんなことを言うとあなたは反感を持たれるかもしれません。「そんな話、科学者の口から聞いたことはないし、科学者でもないあなたが、どうして科学者を差し置いて、科学が解明しているなどと偉そうなことを言うのですか?」と。

実は、有能な科学者ほど自分の研究にのめり込む必要があって、世界がどうなろうとそれほど関心がないし、研究にかかる莫大ばくだいなお金をどこからき集めるかということにも頭を使わなければいけないし、その研究が自分の利益や名声につながることばかり考えて、世界中の人の不満や不公平感や恨みや怒りを取り除こうなんて考える余裕などないからです。

いくら頭のいい科学者といえども、関心のないことに成果を出すことはできません。

それでも私の話には納得がいかないというのであれば、自分の頭で確かめて下さい。

ところで先程から「科学、科学」と言っていますが、多くの人が科学を勘違いしているので、ここでは「真の科学」と言っておきます。

科学に「真の科学」も「真じゃない科学」もあるわけないと思われる方もいるだろうけど、実は科学者と言われる人たちでさえ、本当の科学をやっているとは限りません。だから、敢えて「真の科学」という言葉を使わせていただきます。


実は「真の科学」でなければフッサールさんの発想を乗り越えることはできません。参考までに私の言う「真の科学」はこちらです。

ところで今、フッサールさんの「現象学げんしょうがく」の話をさせていただいている理由は、科学の必要性を説明するために必要だからです。

次回は、フッサールさんや今までの哲学者たちに決定的に欠けていたものとは何か?
そして「真の科学」では、この世界をどのように認識しているのか?
そのことを掘り下げてみたいと思います。



【科学しか今の人類を救うことはできない(2)】

(この話は読むのに11~12分ほどです。【7.118文字】)

前回からフッサールさんの「現象学げんしょうがく」の話をさせていただいています。科学の必要性を説明するために必要だからです。

フッサールさんは、1936年に『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』という著書の中で、科学に警鐘けいしょうを鳴らしています。

|

彼はその中で「生活世界」という言葉を用いています。彼の主張は次のようなものです。

「もともと、“学問”とは、人間の“生活世界”するためのものだった。例えば、測量術とは元来、この牧草地で羊を何匹くらい飼えるかとか、ここからあの町に行くのにどの道を通るのが近いか、といった必要から生まれたものだ。ところがそこから出てきた近代科学は、理念的・抽象的な仮説の世界を拡張し、これを完全な体系として打ち立てること自体を自己目的化してしまった」

言っていることはよくわかりますよね。

人間の世界は動物の世界とは違って、真・善・美といった独自の価値を編み上げていて、それらの価値の一番根本の出所は人間の生活という領域だから、本来はその領域から理論や学が出て来なくてはならないはずで、その逆は有り得ない‥‥という主張です。

つまり、「知」とは人間の生を豊かにするための技術であるはずなのに、現実はその逆の道をたどろうとしている。そう言って、ヨーロッパ諸学が危機に陥っていることを訴えたのです。

これは、客観の存在の確信を得るためには、「客観それ自体が存在する」という前提をエポケー(中止)して、論理上は *独我論的な主観の立場を出発点にするほかない、と考えるフッサールさんらしい視点です。

*独我論(どくがろん)とは、
「真に実在するのは自我とその所産しょさんだけであり、他我たがやその他すべてのものはただ自己の意識内容にすぎないとする立場」のことです。


しかしそのような警告を知ってか知らずか、人間の「生活世界」からかけ離れた場所で「客観」を探り続けた科学者たちはたくさんいました。

と言うことは、この人間世界には、フッサールさんが考えるように「生活の必要から学問を志す」という人たちばかりではなく、まったく生活や自分の利益などとは無関係に純粋なる「知」としての、この世界の “ホントウ” を知りたいという探求本能のようなものに駆り立てられて科学を志す、いわば変人へんじんたちもたくさんいたというあかしではないでしょうか。


フッサールさんの訴えは、大方の「学問」には当てはまります。例えば彼が例に挙げた牧草地の測量術等です。

しかし、実は、「科学」には当てはまりません。

「科学」とは、彼の言うような「人間の生活に資するもの」ではなく、その人間の願望や欲望や感情や思い込みなどを一旦排除して、自然界様****に「この自然界の成り立ち」などを謙虚けんきょに尋ねるものなのです。

フッサールさんは、「客観が確かに実在しているかどうかは主観には永遠に判断できない」という理由から、客観を一旦エポケー(停止)しましたよね。

しかし、「科学」に関して言えば、主観こそエポケーすべきで、客観だけを信じる謙虚さこそが「科学」のあるべき姿勢だったのです。

フッサールさんが亡くなった1938年というと、ウランの原子核分裂が発見された年ですが、もし、その現象が「客観的に確かに実在しているかどうかは主観には永遠に判断できない」と言い張るなら、その発見のおかげで、それから73年後の日本に起こった我々の主観が望みもしなかった「原発事故」は、どのように説明すればいいのでしょうか!?

そのことが、主観の預かり知らないところで客観は確かに実在しているという証明にならないでしょうか!? 

それとも「その事故のことを新聞やテレビで知る環境にいなかった人には、何も起こらなかったことと同じだ」と言い張るつもりでしょうか!? もしその人たちが知覚せずに大量の放射線を浴びていて、その後、確実に身体的な変化が引き起こされていても‥‥ですか!?

彼の時代には、主観を圧倒するほどの(真の)科学が、まだ薄弱だったのです。あるいは自分の主観の存在をおびやかし始めた科学に対して、脅威や反感を感じるような風潮が社会にあったのではないでしょうか。

そのような《環境》の中から、自然な流れとして、フッサールさんの身体を媒体ばいたいとして、『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』という書物が産み落とされたということです。

彼の生きた《環境》の中では、まだDNAが二重螺旋でできている(1953年・ワトソンとクリック)ことも解明されていませんでしたし、それよりも遺伝子がDNAである(1944年・エイブリー)ことも証明されていませんでした。

それに、ビッグバン理論(1948年・ガモフ)も、その証拠の一つである宇宙背景放射の発見(1965年・ペンジャスとウィルソン)もまだでした。

人類初の月着陸(1969年・アポロ11号)などは、ほとんどの人が夢にも考えなかった時代ではなかったかと思います。

脳の運動野や体性感覚野のマップ(1933年・ペンフィールド)が作られるのはギリギリ間に合ったかもしれませんが、てんかんの手術で脳梁のうりょうを切断したり、病気や怪我で脳の一部が損傷を受けたりした場合の行動の変化などから、脳の局在的な機能が解明されたり、神経細胞のメカニズムとその働きである「心」が解明されるようになったのは、ごく最近のことです。


フッサールさんは、元々、人間中心的な視点に偏っていますから、その彼が「人間の生活の必要から生まれた学問が、人間を置き去りにしてはいけない」という警告を発するのはごく自然の成り行きです。

かく言う私も、40歳くらいになるまで彼に近い感性で生きていました。興味は文学や音楽や絵画などで、むしろ科学とは対極の感性でした。

「人間とは何か?」、「自分とは何か?」を知るためには、「人はなぜ芸術を必要とするのか?」が解明できさえすれば、全てが理解できると考えていました。


そしてその解明に夢中で取り組んでいました。人間の心を置き去りにする科学に対して、あまり興味がなかったので、理系の勉強はしませんでした。

だけど、よく言われることですが、宇宙約140億年の歴史を1年に置き換えてみると、人類の出現は12月31日のまさに年が変わる7~8分前です。
言葉や感情が生まれ、人間の脳に自我や主観が生まれたのは、まさに年が変わる3~4分前と言ってもいいくらいかもしれません。

フッサールさんはこの数分前くらいかもしれない「自我や主観」に、いわば140億年の全権を委ねてしまったのです。それがどんなに傲慢ごうまんなことだったのかは、科学がここまで客観解明を成し遂げた今とならなければわからないことだったのかもしれません。

良い悪いは別にして彼の警告を無視して邁進まいしんした科学は、主観の預かり知らないところで起こっている客観の姿を、徐々に明らかにしてきました。その成果が、様々な分野で実っていることを否定する人は現代ではいないでしょう。その結果、今ではフッサールさんの方法論は大幅に変更されなければならない、と言わざるを得ません。

今では、「主観の認識は本当に客観と一致しているのだろうか?」という多くの学者を悩ましてきたこの「主観と客観の一致問題」は、完全に決着がつきました。主観(幻想)は、客観(実体)に作られていただけのものだったのです。

主観(幻想)は、客観(実体)に作られていただけのものだったのです!

年が変わろうとするわずか数分前に我々の脳に「主観という幻想」が生まれました。それ以前の長い長~い間、この世界は客観(実体)だけでできていました。

そしてその客観(実体)が、生物を作り、我々の脳を作り、そこに主観という幻想を生んだだけです。その長い下積み時代があったからこそ主観が生まれたと言い換えてもいいかもしれません。

人類は今まで、自分の中から湧き上がる「世界のホントウ****を知りたい」という欲求に駆り立てられ、自分の意志で実験や観察を何度も繰り返し、世界のホントウ****に迫ろうとしていたと信じてきました。

ところが、科学が置き去りにしてきた「心」に、科学が一生懸命追い付こうとした結果、見落とされていた新事実が明らかにされたのです。

実は、人間は自分の主観、あるいは自分の意志などで実験や観察をしていたのではなかったという事実です。ここへ来てどんでん返しが起こったのです。それを次のような ”たとえ話” で言い表してみようと思います。

科学は、暗い地中を自分の持っている懐中電灯の明かり********(意志の比喩です)を頼りに掘り進んでいました。
いつかはその暗く長いトンネルから出られることを夢見ながら。

そして何世代にも渡ってその懐中電灯(意志)をバトンしながら掘り進んで行った先に、やっと向こうにほのかな明かりが見えてきました。

科学はついに、客観の全貌をこの目にすることができる出口に到達したのです。
「バンザーイ! ついに全ての事実が明らかにされるぞ!」
そして暗いトンネルから外に顔を出したと思ったその瞬間‥‥今まで歩いてきた長いトンネルが、まるで長い袖の裏表をクルリとひっくり返すように反転しました。

「あれっ? 今まで内側を歩いていたはずなのに、それが外側に変わっている。それに、しっかりとこの手に持っていたはずの懐中電灯(意志)もどこかに消えちゃった‥‥。どうしたんだろう」

どうやら、科学が到達した客観の全貌とは、なんと今まで自分たちが掘り進んでいた内側そのものだったのです。今まで歩いていた自分の主観(内側)こそ、客観(外側)だったということに科学が気づいた瞬間です。


このたとえ話****で言いたいことは、人間は、「世界のホントウを知りたい」という自分の中から湧き上がる欲求に突き動かされ、自分の意志で実験や観察を繰り返してきたと信じてきたわけですが、その自分の中から湧き上がる欲求も、意志も、みんなみんな客観(=実体=環境)に作られていただけのものだったということです。

(*例えば、自分の探求本能のようなものに突き動かされているとしても、本能とは自分の意志で作ったものではありませんよね)

これほどの謙虚けんきょに到達できたのは、自然界だけを師と仰ぐ科学だからこそです。

この世界には、客観(実体)だけしかなかったということは、主観(幻想)とは、その実体同士が反応し合って生まれる現象に過ぎないという意味です。

現象とは、例えば、使い捨てカイロの内部で、鉄の粉と酸素という実体が反応して、鉄の粉が急激にさびて行く時に発生する「熱」のようなもののことです。

しかしもっと科学的な見方をすれば、もし使い捨てカイロを解剖して、鉄の粉とご対面したとしても、鉄の粉も「実体の見せる現象」に過ぎないとも言えます。

人間は、科学的な意味では決して鉄の粉という「実体」さえも、ありのままに認識することはできません。つまり、人間はいつも一時的な現象を見ているのです。

この理由は、人間の視覚がどのようなプロセスで物を見ているのかを科学が解明している事実を知ればわかるはずです。

実際に鉄の粉という実体が目の中に飛び込んできたら痛くてしょうがないですよね。人間ができることは、その現象から、確かに鉄の粉という実体が存在するという証拠を獲得することだけです。

そしてそのような証拠を見つけながら歩んでいるのが科学です。

元々客観(実体)だけしかなかったこの世界を扱えるのは唯一、科学だけです。

つまり、科学だけがこの世界に通じることができるということです。


霊や精神世界などを扱うスピリチュアルなものや宗教などに心酔しんすいしている方に、こんなことを言ったら反感を買うかもしれませんが、それらには、残念ながら元々客観(実体)だけしかなかったこの世界を扱うことは不可能です。

何故なら、それらは人間の主観から出発していたものだからです。

年が変わろうとするわずか数分前に我々の脳に生まれたものから出発して、その範囲の中でいくら考えてもそこからは永遠に出られません。厳しいことを言うようですが、主観から入っていく限り、一見整合性ある論理に聞こえても、どこまでいっても「こじつけ」や主観の「正当化」でしかありません。

そして主観(=錯覚)の数だけ存在する「こじつけ」や「正当化」のせいで、人類はいつまでたっても「共認(共通認識)」に至ることはできません。

それどころか、最近では、強い錯覚の持ち主(例えば教祖のような存在の人)に引きずられて、知らず知らずのうちに彼らの金儲けの手助けをしてしまっていたりすることもあります。騙されないで下さいね!

と言っても入信を勧める信者たちも騙されている(錯覚している)わけですから、誰かを騙して入信させている意識などないし、それどころか誰かを救おうという善意の気持ちから行動していると信じている場合がほとんどなので、ますます一筋縄ではいきません。

いかがわしい宗教かどうかの判断は、裏で特定の場所に大金が流れていないかどうか‥‥です。

だけど、金儲けで始めた教祖も、よく考えれば現代のお金社会の環境に浮かび上がらされた意志に行動させられているのですから、ある意味、現代社会の  * 犠牲者または被害者でもあったのです。

(*ちなみに、世界を平和にするには、この科学的な理解がとても大事です。例えばヒトラー率いるナチスはユダヤ人に対する加害者ですが、それと同時にその時代の《環境》の被害者でもあったのです。またユダヤ人は被害者であったと同時に、その時代の《環境》を作っていた加害者でもあったということです。それどころかその時代を作っていた全ての人類が、あの凶行の被害者であり加害者です。
人は《環境》に動かされていたというのは、そういう意味です。
この科学的な理解から今までの歴史観を書き換えて、新しい歴史への第一歩を踏み出さなければ、人類は同じ過ちを何度でも繰り返すばかりです。誰か一人やどこかの国に責任を押し付けて終わりにするのは、個人主義的環境の特徴です。この個人主義的環境から我々の脳に浮かび上がる意思に、思考や行動を取らされて、今まで戦争や犯罪をやらされてきてしまったのです)

宗教やスピリチュアルなものと言えば、無批判で何だか正しくて美しいもののようなイメージを持ってしまいますが、実は(真の)科学と比べて、人間の主観から出発する、人間中心のとても傲慢ごうまんなものだったということをわかっていただきたいのです。

確かにそれらは錯覚の自我を持った我々の脳をめちぎって、うっとりと快くさせてくれるものでした。だけどここから先は、もう人類はその「錯覚の自我」では乗り切れないところに来ているのですよ。


この自然界様からの声を聴き取れるものは、どこまでも謙虚になれる「真の科学」しかありません。

人間は自然界のもとにどこまでも謙虚になって初めて、この自然界という大海にゆったりと安心して浮かぶことができるようになり、そして自然界と共に生きていけるようになります。

何故なら、自然界(=宇宙)こそあなたであり、私であったからです。それが科学が解明した「自分」です。まだ人類はその「自分」を経験したことがありません。まだその扉は開かれていません。

このブログの『明るい未来のためにやらなければいけない、たった一つのこと』をここまで読んできていただきましたが、これで科学しか今の人類を救うことはできない‥‥と主張する理由が少しはわかっていただけましたでしょうか?

私が言う「真の科学」とはどういうものか、動画を作りましたので、参考に見ていただければ嬉しいです。2と3は、クイズ形式にしていますので、あなたも一緒に考えてみて下さい。



「真の科学」を実践するということは、本当はとても難しいことなんです。
「真の科学」を実践するためには、「自然界中心の視点」を持ち続けなければいけません。

ところが科学者も人の子です。ちょっとでも心にスキがあれば、自分中心・人間中心の視点で、自然界を解釈したり、自分の信念によって捻じ曲げて実験結果を解釈してしまいます。それは取りも直さず、「自我」という錯覚に縛られていて、その錯覚である自我というおりの中から見る世界が、彼の世界の全てだからです。

真の科学者になるということは、本当は、神経系が我々に作る「自我」という錯覚の壁をはっきりと意識し、それを乗り越えなければできないことなんです。

敢えて厳しいことを言いますが、自我を錯覚と知らない科学者は、現代ではもはや科学者とも呼べません! 


ところが、日々、修行をして、何とか自我の壁を乗り越えようとしているお坊さんはいますが、日々修行をして自我の壁を乗り越えようとしている科学者の話は、あまり聞いたことがありませんよね。

「真の科学」を実践するには、実験器具の取り扱いがうまくなったり、難しい理論を理解したり、直観力や想像力が優れていたりするだけでは駄目で、実は科学者であっても精神修養が大事だったんです。

だけど、お坊さんが何十年修行してもできないことが、「科学が解明している”自分”」を知れば一瞬にしてできるんですよ。

そのヒントは「自我の滅却」ではなくて「自我の拡大」です。

お坊さんは「自我」という煩悩ぼんのうを何とか取り去ろうと苦しい修行しゅぎょうをします。しかし、一瞬なら滅却できるかもしれませんが、生きている限り、それは絶対に不可能なことです。「自我」を完全に取り去るということは人間を辞めることを意味します。

ところが、「本当の自我」を知った分身主義では、「自我の滅却」ではなくて「自我を宇宙にまで拡大」させます。すると、今までの「自我」を一瞬にして消滅させるというパラドックスが起きるのです。

なんと、お坊さんが何十年修行してもできないことが、「科学が解明している”自分”」を知れば一瞬にしてできるんです。

それができた時、今まで我々を苦しめていたたくさんの煩悩からも解放されます!


次回は、まとめとして、あの偉大なお二人、アインシュタインさんとタゴールさんの大激論を聞いていただきます。

この激論は面白いですよ。

我々は「そこに月が存在するから月を見る」のでしょうか? 
それとも「我々が月を見るからそこに月が存在する」のでしょうか?


(追記)何百年、何千年も続いた宗教やスピリチュアルなものに対して批判的なことを語ってしまいましたが、それらは世界を一つにすることはできないし、世界を一つにできなければ世界を平和にはできないと言いたいだけで、冒涜ぼうとくするつもりはありません。
 
二つの視点を持っていただきたいのです。宗教やスピリチュアルを信じる非科学***的な気持ちは強すぎて捨てられないでしょうが、その教えと矛盾する科学的な視点も持ち合わせていただきたいのです。

(*宗教やスピリチュアルは、理論ではなく感情に訴える非科学***だからこそ、むしろ強いのです。だけど、それらは幻想の数だけ生まれ対立も生まれます。
「実体」はこの宇宙に一つです。それを扱えるのは科学だけなので、科学にしか世界を一つにすることはできません。

宗教やスピリチュアルが悪いと言っているのではなく、それらは個人的救済で、この21世紀、科学が世界を一つにしてしまった今では、もはや個人的救済では誰も一時的な救済しか受けられないと言っているのです。)

だから、サンタクロースを信じる気持ちは捨てなくても、矛盾なく生きている大人たちの目を持っていただきたいのです。

どんな宗教の人でも、今では科学が作った携帯やパソコンを使いこなし、車や飛行機を乗りまわして世界を行き来しています。つまり科学なら我々は一つになれるのです。



【科学しか今の人類を救うことはできない(3)】

(この話は読むのに13~14分です。【8.066文字】)

我々は「そこに月が存在するから月を見る」のでしょうか? それとも「我々が月を見るからそこに月が存在する」のでしょうか? 主観が先か客観が先か、まさにあの鶏と卵のような難問に、アインシュタイン分身さんとタゴール分身さんが挑みます。

アインシュタイン分身さんは誰もが知っている相対性理論などの産みの親である物理学者で、1921年にノーベル物理学賞を受賞しています。タゴール分身さんはインドの大詩人で、1913年にノーベル文学賞を受賞しています。かつて、このお二人(我らが誇るべき分身さんたち)が、とても興味深い話し合いをされています。

いろいろなところから抜き書きしてみました。ところどころに、私【徳永分身】の補足や意見を入れています。

まずは、1988年6月5日放送、NHK教育テレビ「こころの時代」より。

(アインシュタイン分身あなたは神を信じますか?

(タゴール分身もちろん、私は信じます。

(アインシュタイン分身あなたの神はどのような神ですか?

(タゴール分身それは人間と神との間における神です。あらゆる真理は、人間がいなくてはなりたたないものです。

(アインシュタイン分身いや、もしこの地上に人間が一人もいなくても、宇宙というものは存在するでしょう。

(タゴール分身人間がいなくて宇宙は存在するはずはありません。何故なら宇宙の存在を感じているのは人間です。その人間がいなかったら存在しようがしまいが、それを判断できる誰もいないじゃないですか。

【徳永分身】人間がいなかったら存在しようがしまいが、それを判断できる誰もいないから宇宙は存在するはずはないという理屈はおかしい。「それを判断できる誰もいないから宇宙の存在証明はできない」と言えるだけ。もちろん、その場合は、宇宙は存在しないという非在(非存在)証明もできない。


(アインシュタイン分身いや、それは違います。自分は宇宙の実在というものを信じます。その宇宙の実在がなければ科学というものも成り立たないじゃないですか。

(タゴール分身科学そのものも人間が生んでいるものじゃないですか。そして、この実在を感じるのも人間じゃないですか。もしも人間がいなければ、この世界そのものは無に等しい。
(ここまでは、1988年6月5日放送、NHK教育テレビ「こころの時代」より)

【徳永分身】確かに人間が生んだ科学によって自然界の探求の旅は始まった(と我々は信じていました)が、実は、現代、科学の解明が進んだことによってどんでん返しが起こったのです。

前回の記事に書きましたが、実は、人間を取り巻く環境(=自然界)に、人間が科学を生むように背中を押され、自然界の探求をさせられて*****いたという事実に科学が気づいたのです。

と言っても、自然界が「主」で人間は「従」の関係だったと言っているのではないので誤解のないようにお願いします。主従関係ではなく、不可分ふかぶんのイコールのようなイメージです。それを前回の記事では、長いトンネルの内側が外側にひっくり返った比喩ひゆで表現しました。

タゴール分身さんは、人間の心の中にブラフマン(梵)というものが宿ってこそ、この大宇宙のブラフマン(梵)というものは存在しうる、と考えているようです。
もしそれを宿し、それを感じ、それを愛する人間というものがこの世の中に存在しなかったら、宇宙はあるもないも、あるいは真理もあるもないも、何もないじゃないか、と言います。

「宿す」とか、「感じる」とか、「愛する」などという人間が心地良く感じる言葉で美化されていますが、しかし、これは見方によっては人間や自分を中心に据えた、ある意味、とても傲慢ごうまんな視点です。

現に約140億年のほとんど全部を人間がいない中で宇宙は存在していました。その140億年がなければ人間も出現していなかったはずです。自分が生まれたのは、自分の父になる人や母になる人がその以前に存在していたからです。

彼(タゴール分身さん)の理屈は、「もし自分が生まれていなければ、自分の父になる人や母になる人も無に等しい」とか、「自分の中に父や母を感じ、父や母を愛する心が存在しなければ、私の父や母は存在しないのと同じだ」などと言っているようなものです。

次は、インターネットから採取したお二人の議論です。(アインシュタイン分身さんのベルリン・カプートの別荘にて)


(アインシュタイン分身「美」は時間や空間と一緒であり人間とは無関係で、『独立して絶対的に存在するもの』です。

(タゴール分身「美」はそれを見る人間によって初めて実現化するものです。なぜなら、ベルヴェデーレのアポロも鑑賞する人間が全く存在しなければ、それは単なる石であり、もはや、美しくなくなってしまうのではないでしょうか。

【徳永分身】こちらはタゴール分身さんに軍配ぐんばいが上がりそうです。自然界の中に美や真理や真実があるのではなく、人間の錯覚が自然界の中に美や真理や真実を見出すだけです。

さて、ここからお二人の議論の最大の山場、あの有名な月の議論に入ります。

(タゴール分身)この世界は人間の世界です。世界についての科学理論も所詮は科学者の見方にすぎません。

(アインシュタイン分身しかし、真理は人間とは無関係に存在するものではないでしょうか? たとえば、私が見ていなくても、月は確かにあるのです。

(タゴール分身それはその通りです。しかし、月は、あなたの意識になくても、他の人間の意識にはあるのです。人間の意識の中にしか月が存在しないことは同じです。

【徳永分身】タゴール分身さんは、今、ハッキリと言いました。「この世界は人間の世界です」と。本当にそうなんでしょうか? やっぱりそれって、人間の傲慢ですよね。そもそもそこが徳永分身と根本的に違う点です。

ところで、ここでもアインシュタイン分身さんは「真理」という言葉を使っていますが、先程も言ったように、自然界の中に真理があるのではなく、人間の錯覚(=幻想)が自然界の中に真理を見出すだけです。自然界の中にあるのは「事実」だけです。

・事実:実際に起こった事柄、実際に存在する事柄(現場重視)
・真実:起こった事柄に対する解釈(解釈重視)
・真理:普遍的に正しいと認められる事柄(理論重視)

例えば、殺人事件があった場合、「事実」は、実際に人が死んでいることです。でも、殺人事件の「真実」は、故意だったのか過失だったのかは当事者にしかわかりません。そして「真理」とは、人はいつか必ず死ぬ、という普遍的な事柄です。

ここで注意していただきたいのは、「普遍的な事柄」と言っても、それを判定しているのは「人間の想像力や連想力や分析力」だということです。

自然界には「人が死んでいる」という「事実」があるだけです。
(例えば、心肺停止、瞳孔散大どうこうさんだい、という事実)

自然界の中には、「生物が死ぬのは環境に適応するため**である」というような目的や、人間の想像力が作る「真実」や、「人はいつか必ず死ぬ」などという「真理」はありません。

真理は人間とは無関係に存在する」とアインシュタイン分身さんは言っていますが、そうではなくて、真理とは人間の言葉が作る「解釈」や「理論」です。人間がいなければ「真実」も「真理」もありません。理論重視の理論物理学者、アインシュタイン分身さんらしき言葉ですね。


タゴール分身さんの「人間の意識の中にしか月は存在しない」というのはその通り。

たとえ今、月を見ている人間がいたとしても、実物の月がその人の目の中にそのまま飛び込んできているわけではないし、彼が今見ている月は約1.26秒前のものです。

しかも彼の見ている月は、彼の記憶などにゆがめられた幻想の月であり、実は、人間は人それぞれ、一人一人違う幻想の月を見ていたのです。それが科学が解明した、「人間が物を認識するメカニズム」だったのです。

その意味で月は人間の意識の中にしか存在しないことは確かです。しかし、アインシュタイン分身さんの言っている月はその幻想の月ではなくて、人間の意識を離れたところにある「科学が認識している月」のことだと思います。「科学が認識している月」の意味は後述します。


(アインシュタイン分身私は人間を越えた客観性が存在すると信じます。
*ピタゴラスの定理は、人間の存在とは関係なく存在する真実です。

(*ピタゴラスの定理:直角三角形の斜辺の長さをc、他の2辺の長さをa、bとすると、a²+b²=c²であるという定理。三平方の定理)


(タゴール分身しかし、科学は月も無数の原子が描く現象であることを証明したではありませんか。あの天体に光と闇の神秘を見るのか、それとも、無数の原子を見るのか。
もし、人間の意識が、月だと感じなくなれば、それは月ではなくなるのです。

徳永分身補足:わかりづらい部分ですが、彼(タゴール分身さん)は、「現象」を見ているという限りにおいては、それぞれの認識の違いによって、同じ月も違って見えるということが言いたいのではないのだろうか。

そしてそれと同じ意味において、もし人間の意識が月だと感じなくなれば、それは月ではなくなる、と言っているのだと思う。

明らかにこれは「人間の認識している月=幻想としての月」の話で、「科学の認識している月=実体としての月」ではないですよね

これらの議論は1930年になされたもののようですが、それから39年後に人類初の月着陸(1969年・アポロ11号)のライブ映像を見せられたり、そこから持ち帰った石を見せられた後なら、アインシュタイン分身さんの意見にも真実味が加わったのではないではないでしょうか? 


ところが、その頃には、お二人ともすでに亡くなっていました。(タゴール分身さんは1941年没、アインシュタイン分身さんは1955年没)
アポロ計画はその後も1972年のアポロ17号まで続けられ、全6回の月面着陸に成功し、人類は月からたくさんの岩石を持ち帰っています。

「放射年代測定によれば、月面で採集された岩石は地球上のものと比較して全体的にきわめて古い。その範囲は約32億年前(月の海の部分で採取された玄武岩)から、46億年前(高地で採取された地殻のサンプル)まで確認されている。したがって、これらは現在の地球上ではほとんど失われてしまった太陽系誕生初期の試料であると見られている。
(Wikipedia「アポロ計画」より)」


つまり、科学は、人類がこの宇宙に存在する以前にも月は存在していたことを証明しています。
また、人間が意識するしないにかかわらず、月は、地球の潮の満ち引きや生体に常に影響を与えて確実に存在している証拠を科学は見つけています。

世界初の月面歩行の様子は、私もライブで見ました。

もしタゴール分身さんもそれを見て、そこから実際に持ち帰った、人類が出現する以前の岩石を見せられたなら、もはや、見えていないからといって「月は存在しない」と言い張ることは難しいでしょう。

これが私が前述した「科学が認識している月」という意味です。科学はそのようにして有無をも言わせぬ証拠を提出します。頭の中だけであれこれと模索している哲学との違いです。

それでは最後に、『アインシュタインここに生きる』という本からの、二人の会話を抜き書きします。


(アインシュタイン
分身人間を離れた真理の存在に関するわれわれの自然な見解は説明したり、証明したりすることができませんが、それは誰もが‥‥原始人でさえ‥‥欠くことのできない信念です。

私たちは真理に人間を超越した客観性を与えます。それは私たちにとって不可欠です。それが何を意味するのかを言うことはできませんが、それはわれわれの存在、経験、精神などから独立であるような実在です。

(タゴール分身)真理の理解には普遍的人間精神と個人に制限された同様の精神の間の永遠の闘いがあります‥‥絶え間ない和解の過程も私たちの科学、哲学、倫理などで実行されています。

いずれの場合にせよ、もし人間とは完全に無関係な真理が存在するなら、それは私たちにとって完全に存在しないものです‥‥もし人間精神に対して感覚的なあるいは合理的な関係をもたないなんらかの真理が存在するなら、私たちが人間であり続ける限りそれは無としてあり続けるでしょう。

(アインシュタイン分身)そうなら私はあなたよりずっと宗教的ですよ。

(タゴール分身私の宗教は、私自身という個人的な存在において、個人を超越した人間の和解、つまり普遍的な人間精神の中にある‥‥科学においては私たちは個人的な精神の各人の制約を除外する訓練を経験し、こうして普遍的人間の精神の中にある真理の理解に到達するのです。
(『アインシュタインここに生きる』アブラハム・バイス著)


アインシュタイン分身さんは、後に、真理は人間の外にあるということを説明するために「客観的実在性」という用語を発明したそうですが、彼にとって「客観的実在性」とは、あたかも深い信仰における神のような存在と言ってもいいものだったと思います。

しかしそれは想像上の神ではなく、彼が長く科学に携わってきた中で驚嘆や感動を伴って何度も出会ってきた神だったのでしょう(例えば先程のピタゴラスの定理など)。

それが普通の信仰と決定的に違うところです。


ここで再び、言葉の確認をしておきたいと思いますが、アインシュタイン分身さんは「真理」という言葉を使っていますが、真理は人間の外になどありません。人間の外にあるのは「事実」だけです。それは、

1、人間の脳特有の主観的な思い込みによる「事実」や、
2、宗教的な「事実」や、
3、科学的「事実」

などに分けられます。

この中で科学的事実だけが客観性を持ちます。


アインシュタイン分身さんの言う「真理」という言葉が指すものは、単に、この中の科学的事実のことです。それは真理でもなんでもなく、あくまでも「科学的事実」です。

その点で、この件に関して言えば、「人間とは完全に無関係な真理は存在しない」と言うタゴール分身さんの方が正しいわけです。
「真理」とか「真実」などというものは、単なる「事実」が人間の想像力や分析力をくぐり抜けた先に立ち現れるものであって、そこまで行くと科学から離れて信仰の範疇はんちゅうになってしまいます。


そこは明確に線を引いておかなければ、科学があいまいになってしまいます。だから科学者の彼に、はからずも「そうなら私はあなたよりずっと宗教的です」と言わしめてしまったのでしょう。

しかし、科学的事実を知れば知るほど、人間は、人間の力の及ばない「神」のようなものの存在を感じてしまうのも、また事実です。

その先に立ち現れるものこそ、錯覚の自我を持ってしまったことでバラバラになってしまった全世界の人類の心を一つにつなげてくれる可能性を秘めた「神」と言えるのかもしれない、と今は言っておきます。

宗教の神には決してできなかったことが、今ここに起ころうとしています。

これこそ科学にしかできなかったことです。今、科学はそこに到達しています。後は我々がそのことに気づいて、新しい世界に続く扉をみんなの力で開くだけです。


3回に渡って、どうして科学しか今の人類を救うことはできないかということを聞いていただきました。

現在のように、人類のバラバラになってしまった心が救われるためには、どうしても「一つの共通の認識」を持つことが必要です。

主観(=錯覚の自我が見る世界)から入る限り、決して我々は一つにはなれません。

主観から入る限り、我々は永遠に対立し争いを繰り返すだけです。
主観の数だけ存在する「幻想」は、証明という作業をはぶいています。
だから万人を納得させることはできずに、様々な見識が行き交ってしまうのです。
しかし、「幻想」を一旦エポケー(中止)した「実体」だけを扱う科学、つまり客観から入る科学の方法論なら、我々は一つになれます。

月から採取してきた石を見せられ、放射年代測定によって我々が生まれるはるか以前の年代まで証拠として突き付けられたなら、自分が見ていない時にも、そして生まれるずっと以前にも、実体としての月が存在していたという事実を受け入れざるを得ません。

「それでも私は認めません」というのは、単なる分からず屋の子どもです。

これが科学の力です。

今では携帯電話を生活から切り離せない人もたくさんいるでしょう。

科学が作った携帯電話がこの自然界で間違いなく機能することで、科学は我々の目には見えない「電気」や「電波」というものの存在を間接的に証明しています。

さすがに現代は、子どもでも「僕は携帯を持ってないから、電気なんてものの存在は信じない!」とは言いませんよね。

と言っても、現代科学が解明していることを、全人類が理解する必要はありません!

我々はそのメカニズムやシステムはわからなくても誰もが普通に携帯電話を使いこなしてます。ちゃんと理解する人がいて、それを説明できる人がいれば、科学が解明した「自我」を普通に持ち歩き、使いこなせる時代が必ず来ます。


どんな宗教の人でも、どんな民族でも、どんな思想を持っている人でも、世界中どこであっても「電気」が供給されているところであれば、電気炊飯器に適量の水とお米を入れて人差し指でポンとスイッチを入れさえすれば、必ずおいしいご飯が炊けます。

ヒンズー教の人がスイッチを入れれば中からパンが飛び出してきたり、菜食主義の人がスイッチを入れればホカホカの焼き芋が出てくるなんてことは万に一つも起こり得ないことを、今では誰もが共通に認識することができるはずです。
この、今では万人を納得させることができる科学が、今までの我々の自我(=自分という意識)は錯覚であり、本当は我々は一つだったということを教えてくれているのですよ!

もう我々はそれを知らされるべきところに来ています。

そして、有無も言わずに受け入れざるを得ないところに来ているのです。

我々は、まだそれをちゃんと知らされていなかっただけなんです。知らせる人がまだいなかっただけなんです。

だけど、もしそれを知らされても、それに関心を示さなかったり、疑ったり、抵抗を感じたりする傾向が我々の中にはどうしてもあるようなのです。

それこそ未だに根強く残る我々の「錯覚の自我」の仕業です。それを乗り越えるためにこそ、「真の科学」というものを知っていただかなければならないのです‥‥。
次回からは、「分身主義の方法論」というテーマで聞いていただこうと思っています。

客観を一旦エポケー(中止)したところから入って行ったフッサール分身さんの方法とは真逆に、主観を一旦エポケーしたところから自分探しを始めたものです。

これこそが「真の科学」の方法論です。

今日のお二人の議論にたとえると、タゴール分身さんには一旦休んで(エポケーして)いただくという話です。

なぜ「真の」と断らなければいけないかと言うと、多くの科学者が主観をエポケー(一旦停止)することなしに科学をしているからです。それらは実体を扱う本当の科学ではなく、主観から見た、あるいは主観の求める科学でしかありません

*真の科学とは
人間の常識、価値観、偏見、欲望などを一旦排除して、自然界様に問いかけを繰り返す「唯一謙虚な学問」。
発見した法則や作ったモノがうまく機能しなければ、何度でも何度でも最初に戻って尋ね、いくらでも変更可能で、まだ余白はたっぷり残っている。
「真の科学」とは、自然界から唯一はぐれて迷子になってしまった我々人類が、この自然界の成り立ち、本当の自分を知るための方法論、ツールに過ぎない。


なぜ今、我々は、真の科学で学ぶ必要があるのかというと、それをしない限り人類は永遠に真実ほんとうの自分」にたどり着けないし、人々は永遠に共認に至れず、従って世界は永遠に平和にならないからです。


そして、世界が永遠に平和にならないということは、1億6千万年近くも栄えていた恐竜が絶滅したように、人類の滅亡を意味するからです。


第6話・【分身主義】その最初の一歩

(この話は読むのに12~14分ほどです。【6.677文字】)

前々回、現象学の方法論を確認しました。
何故、「現象学」の話なんて聞いていただいたかと言うと、分身主義の方法論(と言っても当たり前の科学の方法論のことなんですが)と対比していただきたかったからです。

フッサールさんの「現象学」の方法論の出発点は、

「誰もが主観を持ち、その主観の中でものを考えていてそこから外へ出られる人はいない限り、自分の認識が『客観』に一致しているかどうか『主観』にはけっして確かめようがない。そこで、『客観それ自体が存在する』という前提をエポケー(中止)して、論理上は独我論的な主観の立場を出発点にするほかない」

と彼が考えたからでしたね。

私が「現象学」を知ったのは2011年の5月に、白樺教育館の館長、武田康弘先生(私より五歳年上の方)と、彼のブログのコメントで会話をさせていただいた時でした。

この素晴らしい「るいネット」にたどり着くまでに、私が迷走を続けていた最中の出来事です。

世界を平和にしたい、未来をもっと明るく希望の持てるものにしたい、という一途の思いで、15年以上も、マスコミ、学者、平和活動家、友人、知人、掲示板、SNS‥‥と、様々なところに、私のたどり着いた分身主義****の話を聞いていただこうと働きかけてきたのですが、みなさん、それぞれご自分のことでお忙しいようで、あるいはご自分の立場を守ることで一生懸命なようで、私の話など聞く耳を貸してすらいただけないような状態でした。

それで若気の至りで(と言っても、私は当時、すでに若くはなかったのですが)面識もない武田先生に食ってかかるという無謀な行動に出てしまったのです。

武田先生にしてみれば、さぞかし「面倒くさい奴がコメントに書いてきたなあ」と思われたことでしょう。

「武田先生、それにもかかわらず、最後まで対応してくださってありがとうございました。
今さらながら感謝とお詫びを申し上げます」

その時の武田先生とのやり取りはこちらに残してくださっていますので、時間がある時にでも見ていただけたらと思います。(その時のコメント会話

(ただし、背景が緑で文字が白なので読んでいると目がチカチカして疲れてきます。読んでいただける方は、ワードやメモ帳などの白いバックのものにコピー&ペーストしてから読んだ方が読みやすいかもしれませんよ)

白樺教育館というのは、そのホームページの中で、「現象学的認識論の原理を踏まえ、日々の具体的経験を基に、さまざまな人間の営みについて自分の頭で考える力を身につけることを目的とした所」と紹介されていました。

それで「現象学」というのを調べてみようと思ったのが、私と「現象学」との出会いでした。

さて、それまで、現象学というものは知らなかったのですが、面白いことに私の自分探しの方法論は、フッサールさんとは真逆でした。

主観(=錯覚の自我が見る世界)から入る限り、決して我々は一つにはなれないと思っていたからです。

「現象学」では、「自分の認識が『客観』に一致しているかどうか『主観』にはけっして確かめようがない」と言いますが、確かめるまでもなく、現代科学では、もうはっきりと結論が出ていたのです。

「絶対に一致しない」という結論です。

それは近年になって脳の研究などが飛躍的に進んだことによって解明されました。

それを知るために、人間の五感(視・聴・嗅・味・触)はどのようにモノを捉えていたのかをまず見てみましょう。

まず最初に我々の視覚を考えてみます。

モノを見るというのはどういうことでしょうか? 

我々は真っ暗闇の中では当然モノを見ることができません。モノを見るとは、光源(太陽や電球など)から発せられた光の粒子がモノに当たり、その反射した光の粒子が我々の眼球の水晶体というレンズに到達するところから始まります。


それが眼球の網膜に映され、この網膜にある視細胞で光の情報が「電気信号」という全く別のものに変換されます。次にこの電気信号は視神経に送られ、脳の中央辺りにある視床ししょうという部分で情報の分析や整理が行われた後、後頭部に位置する大脳皮質の視覚野しかくやへと伝わります。


この視覚野で、情報が色や形、明るさ、動き、模様、位置などいろいろな面から分析され、連合野れんごうやと言われる部分に送られていきます。

連合野はその働きの違いによって五つの部分に分けられています。と言っても学問上、便宜的に五つに分けているだけで、本当はつながっていて各部が連携して働いているわけですが‥‥。


これらの場所に至ることで、単なる光の粒子という情報(=刺激)が、認識という高いレベルの精神的な働きにつながっていき、その後の行動や思考が生まれると考えられます。

モノから跳ね返った光の粒子は、全てが水晶体というレンズを通過するわけですが、我々は全てのモノを認識しているわけではありません。例えば私たちには、自分の鼻やメガネは常に視界には入っているわけですが、それを意識することなどありません。

その人の関心のないものは認識に至らない理由は、微弱な電気信号のため、この連合野に到達するまでに不要な情報としてカットされてしまうからです。逆に言えば、我々はその都度、自分の脳に届いた刺激の中で「最後まで残ることができた電気信号の強いもの」だけを見ているという言い方もできそうです。

これらのことからわかることは、我々が何かを見るということは、モノそのものが目の中にそのままの状態で飛び込んでくるわけではなく、電気信号に変換されたものが、記憶や言葉などと相互作用することで、初めてモノを認識したと言えるということです。

では、言葉を持たない動物が何かを「認識」するということはあるでしょうか? 

彼らは認識とは無縁で、ただモノに対して、そのつど記憶(遺伝子レベルの記憶を含め)を通過した反応をしているだけです。「*認識」とは人間だけが行うもので、必ず言葉を伴う行為になります。

*認識:
1 ある物事を知り、その本質・意義などを理解すること。また、そういう心の働き。「認識が甘い」「認識を新たにする」「認識を深める」「対象を認識する」
2 《cognition》哲学で、意欲・情緒とともに意識の基本的なはたらきの一で、事物・事柄の何であるかを知ること。また、知られた内容。
(weblio辞書より)


人は、同じ月を見ても、決して同じようには見ていません。例えば月を見た時に、かつて月を一緒に眺めた別れた恋人のことを思い出して泣いてしまったり、今日の月は寒々しいなあなどと感じたり、あるいは月を無機質な岩石の塊のような見方をする人もいるかもしれません。



あるいは、月を神様に見立てる宗教があるとすれば、その信者たちにとってみれば、月を見ると身体の芯から力がみなぎってくるかもしれません。
‥‥人それぞれの月を見ているわけです。

ただし、我々は同じ月を見ても、それぞれが違う月を見ていたということは、実はとんでもないことだったんです。

それが本当なら、恋人同士が愛し合うのは、一時的に魔法にかかってしまったようなものです。

アメリカの笑えないジョークに、「私たちは誤解して結婚しましたが、このたび理解し合えましたので離婚します」などというものがありますが、まんざら嘘でもありません。

人類は決して共通の認識を持つことができず、永遠に対立と争いの中で生きなければならないことになります。現に今までの、そして現在の我々の現実が、対立と争いそのものではないですか!?

あるいは対立と争いを避けるための工夫をしながら涙ぐましい努力を重ねて生きているだけではないのでしょうか!?

それをフッサールさんが解決したかに見えたわけです。(参照:『第5話【科学しか今の人類を救うことはできない(1)】』)


しかし、主観から始めている限り、彼の理想通りの「共通了解」には至ることはあり得ないと言わざるを得ません。


この「わかり合えなさ」から、我々の「自分という意識(=自我)」は、ますますこの境界線を持って存在しているかのように見えている身体の内側に閉じこもり、世界はますます個人主義的な方向に向かってしまうわけです。もう我々は明るい未来は決して描けないのでしょうか!?

しかし安心して下さい。
「真の科学」が我々を素晴らしい場所に導いてくれていました。
だけど、その場所に向かうためにも、もう一度確認しておきましょう。


五感が受け取る情報は以下のようなものです。

・目が受け取る情報(=刺激)は光の粒子という物質です。
・耳が受け取る情報(=刺激)は、空気という物質の振動です。
・舌が受け取る情報(=刺激)は、食べ物の中に含まれる化学物質です。
・鼻が受け取る情報(=刺激)は、匂いの分子、つまり空気中に漂う化学物質です。
・皮膚が受け取る情報(=刺激)は、何らかの物質の接触です。


そしてこれらの物質が各器官の感覚細胞で電気信号に変換され、微弱な情報はカットされたり、5つの連合野で記憶言葉などに影響を受けたりして、初めて、「何かを認識した」と言えるわけでした。その点ではどれも、前回調べた「視覚」と同じ経路をたどります。



ここまでの説明をもっと詳しく、ご自分で調べてみたい方は、ナツメ社の『図解雑学 脳のしくみ』という本を推奨致します。素人にもとてもわかりやすく、しかもとても詳しく書いてある良書だと思います。


これらのことから、我々が五感を通して受け取るものは、最終的には主観によってゆがめられたものであって、モノそのものではない(=客観そのものではない)‥‥ということです。

何故なら、何かを認識するために必要な、体験を通して脳内に記憶されているものは、その人の置かれた《環境》によってそれぞれ異なっているからです。

つまり、「主観」は絶対に「客観」と一致しない、と結論づけられるわけです。

そこで、私の自分探しは、まずこの宇宙のすべてのものを「実体」と「幻想」に分けるところから始めました。この「実体」と「幻想」は、私が勝手に付けた名前です。意味は次のようなものです。

・実体‥‥人間が意識しなくても存在する全ての物質、あるいは物体のこと。(ただし一定不変の物質も物体もあり得ないので、これらも一時的に見せている現象と言える)

・幻想
‥‥人間の脳内の記憶や言葉と外部からの刺激(=情報)との相互作用によって作り出される全ての現象。錯覚と言い換えてもいい。感情、意識、認識、連想、想像、思考、意思(意志)‥‥など。


フッサールさんとは言葉は違いますが、彼の「客観」が「実体」にあたり、彼の「主観」が「幻想」に当たります。


そしてその次に、フッサールさんとは真逆で、主観に当たる「幻想」を一時的にエポケー(中止)することにしました。客観をありのままに捉えられない主観にとらわれている限りは、科学は決して客観の真の姿に迫ることはできないと考えたからです。

しかし「幻想」を一旦エポケーしたことで、今まで濁って見えなかった水中が透明になったかのように、それまで見ようともしなかったものまでいろいろと見えてきたのです。



前回、タゴールさんが、「しかし、科学は月も無数の原子が描く現象であることを証明したではありませんか」と言っている通り、科学は、この宇宙に存在する全ての物は素粒子そりゅうしやそれが作る原子や分子の描く現象である‥‥という結論にたどり着いています。

天体も、海や川の水も、木や花や草も、動物や人間の身体も、この宇宙のありとあらゆるものはどこまでも分解すれば分子になり、それも分解すれば原子になり、もっと分解すれば素粒子そりゅうしになるということを突き止めています。もちろん実際に分解できるかどうかは別の話ですが‥‥。

ということは、次のような言い方も可能です。

「この宇宙は、素粒子たちが、ビッグバンの最初の一突きの時に作られたシナリオ(自然界の法則)に基づいて演じさせられている劇場である」

天体も、海や川の水も、木や花や草も、動物や人間の身体も‥‥ありとあらゆるものが素粒子という物質が演じて見せている仮の姿、つまり一時的に与えられている配役だったわけです。

このことを、わかりやすく提示するために、「分身主義の第1定理」と「分身主義の第2定理」としました。

つまり、人間というのは、この宇宙という劇場の中で与えられた配役の一つだったということです。

そして人間という配役にはもう一つ特別な役が割り当てられました。脳内に、感情、認識、連想、想像、思考、意思(意志)‥‥などという「現象=幻想」を浮かび上がらせ・られるという役です。

それもシナリオの中に書かれている以上、本当は、「人間の幻想」だけ特別扱いして切り離して考えるわけにはいかないわけです。

私は、本当は切り離すわけにはいかないものを、あえて、人間の脳内に浮かぶ現象(感情、認識、連想、想像、思考、意思(意志)‥‥など)だけを「幻想」と定義し、それ以外の全ての現象を「実体」と定義し、一旦、「幻想」を切り離して、「実体」をしっかりと見つめる、当たり前の科学を試みようとしたわけです。

何故そんなところから始めなければならないかと言うと、宇宙約140億年の歴史を1年に置き換えてみると、年が変わるわずか数分前と言ってもいいくらいに生まれたに過ぎない新参者の人間の「幻想」が、今ではあまりにも力を持ち過ぎてしまっているからです。

ぶんをわきまえずに、まるで釈迦如来しゃかにょらいに出会う前の、傲慢で高慢ちきなおのれを知らなかった孫悟空そんごくうのように、自然界で我が物顔に暴れまわっている状態です。

自分たち人間に似せて神を作ってみたり、優越感に浸りたいためにやたらと他人と勝ち負けを競い合ってみたり。なんだかんだと自画自賛して自分をおだてたり、まんまとうまい自分の存在理由を考え出したりして、一生懸命、良い気持ちになろうとしています。

そのような「幻想」を生きている人間たちが、その「幻想から見た科学」をやっても、人間の都合による科学であって、当たり前の科学などできるはずがないからです。

・実体‥‥人間が意識しなくても存在する全ての物質、あるいは物体のこと。(物質も物体も一時的に見せている現象と言える)

・幻想
‥‥人間の脳内の記憶言葉と外部からの刺激(=情報)との相互作用によって作り出される全ての現象。錯覚と言い換えてもいい。感情、意識、認識、連想、想像、思考、意思(意志)‥‥など。

ここで誤解しないでいただきたいのですが、「実体」という言葉で、目に見えるかっちりとした「物体」だけをイメージしないで下さい。実体とは、あくまでも「人間が“意識”しなくても存在するすべての物質、物体のこと」で、しかもそれは一時的に見せている現象のことです。

タゴールさんは「人間が意識しないなら、それは存在していないのと同じだ」と言いましたが、現在ではその考え方は変更されなければなりません。

私が意識しようが死んでしまおうが、人類が絶滅しようが、人間の知覚とは別に、この宇宙には電磁気や重力などの四つの力は確かに存在し、何十億光年も離れたところに確かに銀河が存在していることを科学は証明しているからです。

目に見えず、耳には聞こえず、においや味も感じず、肌にも感じなくても、確かに「ある場所にある状態」で存在しているモノを、人間の鈍感な知覚などには及びもつかない精度の高い検知器や測定器などを通して現代の科学はその存在を証明しているのです!

今回の「分身主義の方法論」などというタイトルですが、実は、当たり前の科学の方法論のことです。しかしその当たり前のことが、科学者にもなかなかできないから、このように「実体」と「幻想」に線引きをする作業が最初に必要となるわけです。

次回は、この「実体」と「幻想」をもう少し詳しく見て行くことにします。
それは、「真の科学」が我々を導いてくれていた素晴らしい場所に到達するために避けて通れないことだからです。

素粒子がこの宇宙という劇場の中で演じているあらゆる現象を、「実体」と「幻想」とに分けて、「幻想」を一旦エポケーしようとしてみたら、不思議なことに、むしろ「幻想」の姿がはっきり見えてきました。



第7話・【分身主義】実体と幻想

(この話は読むのに10~12分ほどです。【5.110文字】)

まずは、分身主義で用いる、「実体」と「幻想」の意味と、その簡単な見分け方をご説明します。

下記が、分身主義で用いる、「実体」と「幻想」の意味です。

・実体‥‥人間が意識しなくても存在する全ての物質、あるいは物体のこと。(物質も物体も一時的に見せている現象と言える)

・幻想‥‥人間の脳内の記憶言葉と外部からの刺激(=情報)との相互作用によって作り出される全ての現象。錯覚と言い換えてもいい。感情、意識、認識、連想、想像、思考、意思(意志)‥‥など。

次に、「実体」と「幻想」の簡単な見分け方をご説明します。

実体とは、「人間が意識しなくても存在しているこの宇宙の何でもかんでも」と覚えて下さい。

例えば、電信柱は実体です。人間が意識していなくても存在しているので、携帯電話のメールに夢中で歩いていると頭をぶつけることもあります。むしろ意識していないからぶつけてしまうわけですが。

また、太陽も実体です。人間が意識していなくても存在しているので、真夏に海水浴から帰ってから、熱いお風呂に入った時に飛び上がって気づくことになります。

携帯で使われる電波は実体です。ほとんど誰もが意識などしてはいませんが、確かに存在しているからこそ我々は遠く離れた相手とのコミュニケーションが可能なわけです。

ところで、この「人間が意識していなくても」という部分に注目して下さい。

もし、携帯電話のメールに夢中で歩いていて電信柱に頭をぶつけた人が、ハッと我に返って電信柱を意識した場合、それまで「実体」の領域にあった電信柱が、「幻想」の領域に移行します。その瞬間、その電信柱は、「蹴っ飛ばしてやりたいくらいに憎たらしい障害物」になります。

わかりますよね。電信柱は、別に「蹴っ飛ばしてやりたいくらいに憎たらしい障害物」としてそこに存在していたわけではないですから、人間の感情などから見た電信柱になってしまったということです。

・幻想‥‥人間の脳内の記憶言葉と外部からの刺激(=情報)との相互作用によって作り出される全ての現象。錯覚と言い換えてもいい。感情、意識、認識、連想、想像、思考、意思(意志)‥‥など。

ほら、こちらの領域ですよね。
ということは、人間はどんなことをしても実体を実体として認識することはできない存在であるということです。意識したその瞬間、「実体」は「幻想」の領域のものになってしまうわけですから‥‥。

これはすごく重要なことですからサラッと聞き流さないで下さいね。これが言葉を持ってしまった人間と、自然界と地続きで生きている他の動物との決定的な違いです。

もう一つ、例を挙げます。

私たちは空に燦々さんさんと輝く太陽を認識しますが、その認識したものは、決して太陽そのものではないですよね。私たちが見る太陽は、いつも8分19秒前の過去の姿だし、私たちが太陽の話をしていても、それは、お互いの記憶の中の太陽のイメージの話、つまり「幻想」の領域にある太陽の話をしているだけです。

太陽という実体そのものを扱おうとしたなら、私たちは瞬時にその灼熱しゃくねつに融けています。

ギリシャ神話にメデューサという魔物が登場します。


メデューサはもともとは美しい少女だったそうですが、海神ポセイドンと、女神アテナの神殿のひとつで交わったためにアテナの怒りをかい、怪物にされてしまったのです。
(まったく、ギリシャ神話というのは残酷だから嫌いです。神様のくせに、なんでこんなひどい仕打ちをするのですかね😠プンプン)

この怪物は、頭髪は無数の毒蛇で、イノシシの歯、青銅の手、黄金の翼をそなえ、目を合わせたものをみんな石に変えてしまったそうです。

どうしてこんな話を今持ち出したかと言うと、我々が何かと目を合わせる(認識する)ということは、目を合わせた(認識した)時点で、まったく違うものに変えてしまうメデューサの目のようなものだと言いたかったからです。

それが我々の「幻想」の正体でした。

こういったことは、「実体」と「幻想」を分けてみなければ、決してはっきりしなかった事実です。
他にもはっきりしてきたことがありました。

「幻想」とは、人間の脳の作用によって作り出される現象です(これは錯覚と言い換えてもいいものです)が、この幻想(あるいは錯覚)という言葉は、今までのイメージでは、「そんなの錯覚だよ。現実にはありもしないことだから、気にすんなよ」などと使われて、軽んじられてきました。

でも、実はそんなことでは済ますことができないものだった、のです。

例えば、アパートの天井の節目模様ふしめもようが無気味な顔のようなものに見えてきて、それを見るたびに嫌な気持ちになり、引越しという行動を余儀よぎなくされたとします。

嫌な気持ちという感情、いわゆる幻想(=錯覚)が発生するということは、その人の脳内に、ある種の模様を見たらそのような感情を引き起こす神経伝達物質やホルモンなどを喚起かんきする回路が作られてしまっているということです。(つまり神経回路という実体です)

神経伝達物質について、マンガでわかりやすく説明してくれている本を見つけました。よかったら勉強してみて下さい。

一旦作られてしまった回路は、「気にすんなよ」などで済ますわけにはいかず、その人の脳には、化学物質という「実体」となって確実に存在してしまったわけです。

しかも、そのことにより、「実体」であるその身体に「荷造り」をさせる影響力さえ持っています。もちろんその人が引越しすることで、周囲の人たちやモノにも多くの影響を与えるに違いありません。

これも「実体」と「幻想」に分けてみなければ、決してはっきりしなかった事実です。

「幻想(=錯覚)」とは実際にはありもしない物のことではなく、「実体」に変化を与える驚くべき力を内包して、確かに存在しているものである。

さてそこで、科学の話に戻ります。

メデューサの目を持つ我々は、「実体」を決してありのまま、そのままに受け取ることはできず、見た時点で違うものに変えてしまうなら、どうしたら実体のありのままに、より近づくことができるでしょうか? そこで科学のアプローチの方法が必要になります。


科学は、同じ実験や観察や観測を何度も何度も繰り返し、同じテーマでさらにそれを複数の人が、手を替え品を替えて実験や観察や観測を何度も何度も繰り返します。

何故そこまで疑い深いかと言うと、取りも直さず、自分の「幻想(思い込み、常識、感情、思想‥‥など)」に影響されて誤った解釈をしたくないからです。

科学とは、本来そのようにして自然界だけにお伺いを立てて歩む謙虚なものなので、より「実体」の本質に迫ることができます。だけど、そこで思い上がらないのが本当の科学です。

科学がより実体の本質に迫ったからといっても、最終的にそれを受け取るのは人間の幻想です。そのことをきちんと理解しているのが本当の科学者です。


科学は、そのモノがどのような状態でどこに存在しているかという証拠を見つけようとするわけですが、我々はその証拠を手掛かりに「それがそのような状態でそこに存在している」と「推測すいそく」することができます。

逆に言えば、科学ができることとは「おそらくそうであろう」と「推測」することだけなのです。推測という判断に留める視点こそ、実体を実体のまま捉えようとする正しい科学のスタンスです。

例えば、我々は、太陽の存在する証拠や現在の状態を数々の観測のデータをもとに次のように突き止めています。

「太陽とは、自ら熱と光を発する恒星こうせいで、地球からの距離は約1.5億キロ。直接見える部分を光球といい、外側には彩層さいそうやコロナがある。光球の半径は地球の109倍、質量は33万倍、平均密度は1.4。表面温度はセ氏約6000度。恒星としては大きさも明るさもふつうの星で、エネルギーは中心における水素の核融合かくゆうごう反応によってまかなわれている。地球上の万物を育てる光と熱の源となっている」

これは太陽そのものではなく、明らかに認識という「幻想」の領域の太陽の話です。

だから、我々が科学の方法論を通して得たものとは、正確に言うとすれば、「太陽が存在している証拠」であり、「その証拠によって太陽は存在していると推測できる」と言えるだけなのです。

これが科学流の「実体」へのアプローチの正攻法です。もちろん、そのように推測できるための証拠は、先ほど見たようにたくさん出揃でそろっているわけですけどね。

科学のすごいところはここです。

普通の人なら次のように考えて、その先には進まないでしょう。「太陽が存在しているなんて、当たり前のことじゃないか!? だってオレがこの目で見ているんだぜ! さあそんなくだらない話よりも、パチンコで稼がなきゃ今月は家賃払えないぞ!」

または、「宇宙人は絶対いるわよ! だって3年前の夏の夜、何気なく西の空を見ていたら変わった動きをする光る物体が現れて、しばらくして突然消えたのを見たんだもの!」

だけど、疑い深い科学はそのような短絡的な結論の出し方をしません。あくまでも証拠がなければ目に見えていてもそんなもの信じないのです。

そして自分の出した結論も、証拠を手掛かりにした「推測」に過ぎないと知っているからこそ、その推測に間違いがあれば、いつでも修正することも可能なわけです。どうですか!? 絶対に教理や信念を変えることができない宗教やスピリチュアルのようなものと違って、謙虚なものだということがわかっていただけましたか?

科学は「実体」に合わせて自分たちの「幻想」を訂正させるものですが、宗教やスピリチュアルのようなものは、人間の「幻想」から生まれていて、あわよくば自分たちの「幻想」に合わせて「実体」を変化させようとする傲慢なものだったからです。

しかし科学の本当にすごいところは、実はその先にあります。

その証拠から得た推測をもとにモノを作ることで「確信」に高めることができます。

モノを作りそれが自然界で機能することで、その推測を補強します。

例えば、証拠から得た推測をもとにソーラーエネルギーを利用したモノを作り、それが確かに自然界で機能するなら、「やっぱり太陽は確かに存在し、しかも我々が解釈したような状態で間違いなかった」と「確信」できるわけです。

ロケットやパソコンや携帯や医薬品なども、それがこの自然界でちゃんと機能してくれることが確かめられたことで、我々が自然界から得た解釈が間違っていなかったと「確信」できるわけです。

今、この混迷の時代に我々がやらなければいけないことは、神経系の錯覚の「自分(=自我)」にいつまでも縛られていないで、自然界だけを師と仰いで歩む科学に、この自然界でちゃんと機能してくれる、本当の「自分(=自我)」を教えてもらうことです。

たかだか年が変わる数分前に現れた「幻想」に全てをゆだねてしまったせいで、人間はこの宇宙の中で唯一、自然界に背を向けてひきこもってしまっています。

おぼれまいとやたらと手足をバタつかせて抵抗してしまうせいで、余計にこの自然界とも、たくさんの摩擦や軋轢あつれきが生まれてしまっているではないですか!?

人間は、自然界との摩擦や軋轢を最小のものにしようと、様々な工夫をするのですが、それは自然界との距離をさらに広げることになり、自然界の中で元々一つだった我々の心には、自・他という目に見えない意識が厚い壁となって立ち現れてしまいます。

当たり前の話です。考えまい、意識しまいと思うほど、その気持ちに囚われてむしろその存在を大きくしてしまうのが人間の脳の習性だからです。人間関係のズレに敏感な人も、そのズレを意識しまいと思うほどむしろ大きくしてしまうのです。

敏感な方たちは、今の社会で、「わかり合えなさ」や「生きづらさ」を感じているはずです。

今までの錯覚の「自分(=自我)」は、それなりにいい夢を見せてくれてもいましたが、もうこの先は、人類は、その錯覚の「自分(=自我)」では乗り切れない崖っぷちまで来てしまっています。

その崖からたくさんの人たちが突き落とされているというのに、あなたはそれを見て見ぬ振りができますか!?

だから今こそ、科学が解明している「本当の自分」を知る必要があるわけです。

しかし、せっかく自分の「幻想」を極力排除して、自然界中心に歩む科学の方法論を使って、この自然界の本質に迫ろうとしてきた科学者は、愚かにも、最後の瞬間にまた自分や人間中心の視点が出てしまって、台無しにしてしまっています。

それでは永遠に、錯覚の「自分(=自我)」に縛られたままで、我々が本当の自由を手にする日は来ません。

次回は、最後の瞬間に自分や人間中心の視点に戻ってしまった科学者たちの過ちについて聞いていただきたいと思います。

我々が、いかに「幻想」だけで生きていて、その「幻想」が作り上げた固定観念や偏見だけを使って話をしていたかということがわかるはずです。

閉塞へいそくしきった混迷のこの時代を乗り越えて、人類が「明るい未来」を作るためにも、いつまでも「事実」から目をそむけているわけにはいきません。



第8話・【分身主義】人間中心の科学の過ち

(この話は読むのに8~10分ほどです。【4.541文字】)

この宇宙は約140億年前のビッグバンに始まって、人類が出現するまでの長い長い間、「実体」と、その「実体」同士が作用し合うことで見せる「現象」だけの世界でした。
まだ人間の「幻想」が生まれていなかったので当たり前の話です。

ちなみに、どこまでが「実体」でどこからが「現象」かという問題ですが、それは元素と原子の関係のようなものだと理解していただければいいと思います。

元素と原子は同じものなのですが、質的概念で捉えたものが元素であり、量的概念で捉えると原子と呼ばれるように、「実体」と「現象」も、その時、着目ちゃくもくしている視点によってどちらかに決定される概念だと私は考えていて、その意味でこの言葉を使っています。

例えば、人間の体内のタンパク質は「実体」ですが、タンパク質とは、DNAを構成する4つの塩基(下図のA,T,G,C)によって作られる「現象」であるという見方もできます。

同じように、我々の身体は「実体」ですが、タンパク質という「実体」が作用し合って見せている一時的な「現象」であるという見方もできるわけです。

ちなみにこの4つの塩基は、「炭素、水素、窒素、酸素」の4つの原子の組み合わせでできています。もっと細かくすると、炭素は陽子6個と中性子6個でできています。

炭素をさらに細かく見ていくと、アップクォーク18個とダウンクォーク18個の「素粒子そりゅうし」からできていることになります。「素粒子」とは、それ以上分割できない、内部に構造を持たない点状粒子をイメージしたものという意味でそのように呼ばれています。

だから究極の「物質」はそれ以上分割できないとされる「素粒子」だけであって、それ以外は全て「現象」であるという言い方もできます。

「この宇宙は、素粒子たちが、ビッグバンの最初の一突きの時に作られたシナリオ(自然界の法則)に基づいて演じさせられている劇場である」でしたね。

ここまではいいですよね。

さて、この約140億年間を1年に縮めるとすると、年も変わろうとするわずか数分前くらいに人類の脳に「幻想」が生まれました。

幻想(感情、認識、連想、想像、思考、意思(意志)‥‥などのあらゆる精神活動)は、動物の中で言葉を使用するようになった人類の脳だけに浮かび上がるものです。

他の動物にも感情らしきものはあると感じる人もいるかもしれませんが、言葉によって増幅される人間の「感情」とは異なるもので、本能的な反応といったものです。

「幻想」と言っても、「実体」同士が作用し合うことで見せる「現象」の一つに過ぎないのですが、言葉を使用する人間の脳は、体内に張り巡らされている神経系と連動して「自分(=自我)」という錯覚を持つことになります。

それによって、人間は他の動物たちと違って、自然界に背を向けて自分たちだけの世界に閉じこもるようになってしまったのです。

言葉を使用する前の、まだ本能的な自我しか持っていなかった頃の人類は、他の動物たちと同じで「自然そのもの」であり、それを私は「自然界と地続き」と形容しています。

元々この自然界に、140億年という十分な準備期間をおいて産み落とされてきた人類ですが、今では自然界からはぐれて迷子になってしまっている状態です。そんな我々が、もう一度自然界とつながるためにはもはや言葉を持ってするしかありません。

それが科学だということです。

人間の「幻想」を排除して自然界とつながることができる謙虚な学問は、科学をおいて他にありません。

科学者はそのつど頭をもたげてくる自分の幻想と、まるで修行僧のように格闘をしながら、血のにじむような努力で何度も何度も実験や観察や観測を繰り返し、自然界に何度もお伺いを立てながら歩んで来ました。

ところが、最後の最後でほとんどの科学者は自分の幻想(思い込み、感情、思想、主観など)が顔を出してしまい、とんでもない結論を導き出してしまっています。

ではどんな間違った結論を導き出しているかと言うと‥‥。

ちょっとクイズ形式で6問出題してみますので、考えてみて下さい。
設問は、「次に挙げた文章は、科学者と言われる方たちの解釈ですが、これらの解釈は、自然界中心の謙虚な科学を実践したものと言えるでしょうか?」というものです。


1.カレハカマキリは、自分の体の色や形や動きを枯葉そっくりに似せているが、それは敵の捕食から身を守り、獲物の捕獲を有利にするための戦略である。


2.
オーストラリアのハンマーオーキッドという花は、「雌バチ」そっくりに擬態ぎたいした唇弁しんべんを持ち、それに飛びつく雄バチによって受粉を成功させる。これは種子植物が確実に受粉し、安定して子孫を残せるように工夫した結果である。


3.
そもそも宇宙は、知的生命(=人間)を生むようにデザインされていた。もし人間によって観測してもらわなければ、宇宙はその存在を誰にも認知されないで終わることになり、それでは宇宙の存在意義もないことになってしまうからである。


4.
生命発生の確率は、100万ドルの宝くじが100万回連続して当たったような信じられない幸運が重なった結果だ。あるいは生命発生の確率は、腕時計をバラバラにして箱の中に入れ、それを振っているうちに腕時計が完成するくらいの確率である。


5.
免疫系は、自己と非自己を区別して「わたし」の体を危険な外界の攻撃から守るために存在している。


6.
医学は誰もが認めるれっきとした科学であり、我々医学者とは病気の原因と治療法を研究する科学者のことである。


どれもどこかで耳にしたような解釈ではないでしょうか!? 

このような解釈がちまたにあふれかえっています。どうでしょうか? 取り立てて間違いを指摘するような部分はないように感じてしまいますか? 

だとしたらあなたは人の話を信じやすく騙されやすいタイプかもしれません。でも無理もありません。我々は、科学者という肩書の方たちの口から語られる言葉は、そのまま鵜呑うのみにしてしまいやすいのも事実ですから。

さて、答えは、どれも「自然界中心の謙虚な科学を実践したものとは言えない」です。
詳しい解説は、短い動画を作りましたので、そちらで見ていただきたいと思います。

ちなみに、こちらの動画は『第5話【科学しか今の人類を救うことはできない(2)】』で見ていただいた動画です。まだ見ていただいていない方はこちらでどうぞ。

現在の華々しい YouTuber の方たちと違って、動画の作り方もよくわからなかった昔に、ホームページビルダーを駆使して作った拙い動画ですが見ていただきましたか?

ここでは、最後の設問、「6.医学は誰もが認めるれっきとした科学であり、我々医学者とは病気の原因と治療法を研究する科学者のことである」だけを取り上げて、説明したいと思います。

医学は誰もが科学であると認めると思います。

だけど、医学が扱う「病気」という言葉にこもっている「感情」に注目してみて下さい。
「病気」という言葉には、恐れ、不安、憂え、怒り‥‥そういった負の感情が密接に結びついています。

そこから始める限り、人間の「幻想」を排除して自然界にお伺いを立てるという本来の科学の歩み方ではありません。
医学の現場に携わる科学者の姿は、自然界を唯一師と仰ぐ謙虚な科学者どころか、無謀にも自然界に反旗はんきをひるがえす姿です。

つまり医学者とは、人間中心の、‥‥もっと言えば人間の作り上げた物語に科学を利用しているだけの、似非えせ科学」に従事する人たちであったと言えます。

前回、次のように言ったのを覚えていますか?

(ビッグバンから始まった宇宙約140億年を1年とした場合)
「たかだか年が変わる数分前に現れた「幻想」に全てを委ねてしまったせいで、人間はこの宇宙の中で唯一、自然界に背を向けてひきこもってしまっています。
溺れまいとやたらと手足をバタつかせて抵抗してしまうせいで、余計にこの自然界ともたくさんの摩擦や軋轢あつれきが生まれてしまっているではないですか。敏感な方たちは、今の社会で、「わかり合えなさ」や「生きづらさ」を感じているはずです」

お金も我々が溺れまいと手足をバタつかせたことで生まれてきたものです。その証拠に人間以外の動物はお金を必要としていないではないですか。

しかし今ではそのお金に振り回されてしまっています。

テレビでも雑誌でもニュースでも、やたらと病気を怖がらせる話題ばかりです。我々は健康のためにたくさんのお金を使わされます。お金を儲けたいのはメディアや製薬会社だけでなく医学界も同じです。

科学的な目で見れば、我々が「病気」と呼んでいるものは、その身体がこの自然界にちゃんと「適応」している状態です。つまり「病気」などという忌避すべき感情を込めた名前を排して「適応症状」とでも名前を変えるべきなのです。

例えば、近年になって増えている「うつ病」なども、その身体がこの自然界(=環境)にちゃんと適応したから表れてきた症状です。

だから、うつ病などと病名で呼ぶのは、自然界に抵抗する似非えせ科学が無理やり作り上げてしまった病気と言えます。


自然界にお伺いを立てながら歩む本来の科学をすれば、このような「生きづらい」状態に陥るはずはなかったんです。それこそこのブログのテーマである「明るい世界」になるはずだったのです。

いいですか!? 

科学的に見れば、この宇宙の中のどんなふるまいも、すべて自然界に適応している状態です。

我々が病気と呼んでいるものも例外ではなく、その状態こそ宇宙の中で適応している姿です。この視点こそ真の科学の視点です。その上で、病気と呼ばれていた「適応」の仕組みを研究するのが真の科学のはずです。

つまり‥‥、現代の医学とは、人間の感情が作り上げた「病気」という忌避きひすべき物語に科学的方法論を利用しているだけだったと言えるわけです。

人間の作り上げた物語に科学を利用したものとして、他に真っ先に思い浮かぶものは何がありますか? 

そうです。

敵を殺すために作られた様々な武器や兵器などです。自然界を真の科学の視点でよく眺めてみれば「病気」というものも「敵」というものも人間の作った物語の中にしか存在しないことがわかります。

こんな大胆な発言は、今まであなたが聞いたこともないからと言って、常識的に私の言葉を早とちりしてすぐに反論をしないでいただきたいと思います。

病気は適応している状態だから治してはいけないとか、人間の作る物語を排除するのが科学の立場だ‥‥などと言っているのではありませんよ。

人類は言葉を使用するようになってから、「ものがたり」がなければ生きられない動物になってしまいました。だから物語を排除するのではなくて、人間主体で作られてきた今までの物語を、自然界から謙虚に学ぶ科学主体で作る物語に、つまり、科学時代に合わせた物語に書き換えるべきだと言っているのです。

この21世紀、科学が、やっと我々の心の解明に追い付いた今こそそれができる時代だからです。そして今こそそれが緊急に必要とされる時代だからです。

人類の間違いを軌道修正することができるのは科学だけです。科学こそ、全人類が寄りかかっても倒れない太い一本の大木です。



科学は今、我々に新しい物語を見せてくれています。
それが真の科学が導いてくれた「分身主義****」という物語です。

この21世紀、科学時代を生きる我々だけが到達することのできる、今まで誰も経験したことのない「明るい世界」が扉の向こうで我々を待ってくれています。しかし私だけの力ではその扉はとても開きません。

今私は、その扉を一緒に開けてくれる方たちをこのるいネットで探しています。



第9話・【分身主義】見えてきたもの

(この話は読むのに17~19分ほどです。【9.088文字】)

世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない
自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する
この方向は古い聖者の踏みまた教へた道ではないか
新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある
正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識して
これに応じて行くことである
(宮沢賢治『農民芸術概論 序論』より)

科学がもたらしてくれた最大の功績は、「物事には必ず原因がある」ということを身を持って示してくれたことだと私は考えています。

科学は、物事の原因(つながり)をひも解く学問と言い換えてもいいくらいに、物事の原因をことごとく解き明かしてきてくれました。このことに関しては否定する方はいないと思います。

「物事には必ず原因がある」ということは、我々の脳に浮かび上がる様々な「幻想」にしても、何らかの原因があって浮かび上がってくるわけで、それだけが例外なはずはありません。


我々は、全く何の原因もなく自然発生的に、あるものを認識したり、ある感情が起こったり、ある考えが浮かんだり、ある意志が浮かんだりは絶対にしないのです。

(例えば、急に何かの言葉が浮かんだりする場合がありますが、それは脳内に作られた記憶の回路が、他の回路と使い回しされていることで起こる現象です。回路にはタイトルのように言葉が張り付けられているので、それがたまたま触発させられたのです。よくあることなのですが、ほとんど気づかないうちに消えている現象です。脳内の記憶は環境に作られ、言葉も環境に作られています。その意味で、やはり我々は《環境》に動かされているのです)

以前、このブログで、宇宙のあらゆるものを「実体」と「幻想」に分けてみたことによって、いろいろと見えてきた物があるという話をしましたが、実は、ここから先が一番大事なことです。

哲学者も科学者も、「心」の解明に手こずっている理由は、実体と幻想を明確に分ける目を持っていなかったからなのです。

・実体‥‥人間が意識しなくても存在する全ての物質、あるいは物体のこと。(物質も物体も一時的に見せている現象とも言える)

・幻想‥‥人間の脳内の記憶や言葉と外部からの刺激(=情報)との相互作用****によって作り出される全ての現象。錯覚と言い換えてもいい。感情、意識、認識、連想、想像、思考、意思(意志)‥‥など。


我々が今まで勘違いしていたことは、幻想(つまり我々が漠然と“心”と呼んでいたもの)だけは、この自然界の中で特別な何かだと考えてしまう点です。


しかし、この宇宙のあらゆるものを「実体」と「幻想」に分けてみたことによって浮き彫りにされたのは、むしろ、これだけが特別なはずはないという事実でした。

と言うより、特別な何かだと考えなくても、十分、科学的に説明できるということがわかったのです。

哲学者も科学者も、特別な何かだという場所から今まで出発していたので、理解に至ることができなかったのです。

人間中心、自分中心の視点がどこかにあって、自分たちだけは特別でありたいという漠然とした「思い」のようなものが無意識にせよどこかにあって、「心」の本質を理解できないものにしてしまっていただけなんです。

何故、この宇宙のあらゆるものを「実体」と「幻想」に分ける必要があったかと言うと、「真の科学」の視点で「実体」の解明を試みるためには、人間が特別視している「幻想」をしっかりと見据え、それを一旦脇に置いて始める必要があったからです。

「真の科学」を実践するためには、自分の感情や偏見や思い込み、あるいは理想や願望などといった「幻想」を一旦シャットアウトする必要があります。

ややもすると、科学と言いながらも、実は個人や企業の「幻想」(=欲望や理想や利益など)に都合よく科学を利用しているだけということが多々あるからです。

以前、「現象とは、使い捨てカイロの内部で、鉄の粉と酸素という実体が反応して、鉄の粉が急激にさびて行く時に発生する「熱」のようなものである」と言いましたが、我々の脳に浮かび上がる「幻想」も、様々な現象が生まれる過程とまったく同じように、受動的にその脳に浮かび上がる現象に過ぎなかったわけです。

使い捨てカイロの説明なら我々はすぐに理解し納得できますよね。
それなのに「心も *実体同士の反応から生まれているという点においては、使い捨てカイロと全く同じだったのですよ」と言われても、どうして我々はこんなにも理解を拒むのでしょうか?

*実体同士の反応:外部からの刺激(=情報)というのは全て実体です。例えば文字という視覚情報は光の粒子という実体です。ニュースの声は空気という実体の振動です。それらの実体と脳内の神経細胞という実体とが相互作用して幻想(=心)という反応が生まれているのです。
他の動物と全く同じように外部の刺激に反応して行動させられいるのですが、唯一の違いは「言葉**」が介入している点です)

やはり、自分たちだけは特別でありたいという漠然とした「思い」のようなものがどこかにあるので受け入れを拒絶してしまっていたのです。

しつこいようですが、先ほど、「物事には必ず原因がある」ということは、全く何の原因もなく自然発生的に、あるものを認識したり、ある感情が起こったり、ある考えが浮かんだり、ある意志が浮かんだりは絶対にしない、と言いました。

ということは、我々の「幻想」とは、その脳を取り巻く《環境》に、受動的に浮かび上がらせ・られていたものだった

‥‥ということです。

* 幻想‥‥人間の脳内の記憶言葉と、外部からの刺激(=情報)との相互作用****によって作り出される全ての現象。錯覚と言い換えてもいい。感情、意識、認識、連想、想像、思考、意思(意志)‥‥など


ここでいう「人間の脳内の記憶言葉」というのは明らかに《環境》が作っているものですよね。我々は、《環境》にない何かを「記憶する」などとは言いません。ということは、やはり「幻想」はその脳を取り巻く《環境》に、受動的に浮かび上がらせ・られていたものだったとしか言えないのです。


わかりづらい部分かもしれませんが、
どうしても‥‥、
この科学的事実を理解していただきたいのです。

もし今まで読んでいただいても納得がいかないと言う方は、こちらを読んで自分の頭で確かめていただきたいです。中・高校生くらいでもわかるように頑張って書きました。

科学が解明している事実ですから、自分の専門分野のトンネルをひたすら掘り進んでいる科学者も、一度地上に戻って科学全体を俯瞰して見れば、誰でも気づくはずです。その人が人間中心の傲慢な科学ではなく、自然界中心の謙虚な真の科学****を実践している方ならば‥‥。

そして、この21世紀の科学者の方たちはそれぞれの垣根を取り払って、世界を平和にするために人類を導いてくださる義務があります。本来、科学者とは、我々を導いてくださる方たちではなかったのでしょうか!?

自分たちの分身を殺し合う殺人兵器などを夢中で作っている場合ではないのです。自然界様の言葉を翻訳してくれている真の科学は、この世界に敵などどこにもいないと教えてくれています。真の科学者ならその声が聴き取れるはずです。

この21世紀、崖っぷちに立たされている人類を導いてくださる人たちは、もはや僧侶ではなくて科学者の方たちです。

もちろんここで言う「真の科学者」とは、実際に研究に当たっている人や生徒に教えている人たちだけのことを指しているわけではありません。「真の科学とは何か」を理解している人たちです。ここ「るいネット」にこそ、真の科学を理解して下さる方がいるのではないかとすら考えています。

私が40~50歳代に書いた以下の7つは、どれも科学の垣根を取り払っています。(『第1話・人類の脳のOSのバージョンアップとは!?』で、リンクを貼って紹介させていただいています)

一足先にあなたにも、この科学的事実を、今までの固定観念や価値観や常識をなんとか乗り越えて、受け入れていただきたいのです。新しい情報を上書きしていただきたいのです。

常識とは、この社会を支えている大切な枠組みです。しかし今までの枠組みを変えなければ、世界はお先真っ暗‥‥というところに来ている、という話を私はしているのです。

人の心もどんどん自己中心的になり、利己的になり、加速度的にトゲトゲしてきているのを感じませんか!?

すべてに関して自分中心の考え方・生き方。30種類以上も作り上げてしまった○○ハラスメント。神経質なまでの個人情報の取り扱い。その秘匿ひとくされる個人情報の陰で行われるSNSの誹謗中傷。執拗しつようにつきまとうストーカー。うつ病の全盛。なくなるどころかますます巧妙になる詐欺。お金にまつわる悪行や犯罪の数々。


今までの我々の常識は、次のようなものでした。

1、「自分」とは、この身体を覆っている皮膚の内側のことである。

2、何かをそうとする「意志」は、自分自身が自発的・主体的に作り出しているものであり、「自分」の行動は自分自身で選択し、決定している。この、自分で選択し決定する行為こそ尊いものであり、だから自分の犯した過ちは個人の責任*****である。

全てこの錯覚から始まっていました。私はその錯覚が作る環境を「個人主義的環境」と呼ぶことにしています。もう、この個人主義的環境では人類は絶滅する寸前に来ています。世界に目を向けてみて下さい。日常に目を向けてみて下さい。
今の若い人たちは、目先に楽しいことがたくさんあって、そちらに気を取られていて気づかないのです。


個人vs個人、国vs国、が競ったり争ったり、また侵略したり奪い合ったりする時代も、もう終わりにしなければいけません。それらは、古い錯覚が作る個人主義的な《環境》から浮かび上がる意思に、我々が取らされていた行動であったと理解するべきです。

今までは、それによっていい思い****をする(させられる)人たちもいましたが、科学がここまで世界をつなげてしまった今は、これからはもう、甘い汁を吸っていた(吸わされていた)人たちも立ち行かなくなるでしょう。どこかの世界の不利益は、今まで以上に速やかに自分たちに降りかかってくるからです。


今までの学問(経済学、政治学、法律学、それに歴史学、心理学、言語学、物理学、化学‥‥など)もこの錯覚から出発していました。と言うより、個人主義的環境から必要とされ生まれてきた学問たちです。
(*その証拠に、本能的な自我しか持ち合わせず、錯覚の自我のない動物たちの環境はもちろん個人主義的環境ではなく、したがってそれらの学問も必要ありません)

あらゆる学問の基礎でもある「哲学」自体が、全ての論理の土台となる「自分」を見誤っていたせいで、私に言わせれば部分的に齟齬そごだらけでした。

科学がまだ追い付いていない時代に、直感と想像力だけでこの自然界をとらえようとしたので無理もないことでした。

しかし、人間中心、自分中心のこの錯覚から出発していては、どんな学問もこの自然界の真理に到達することはできません。(*自然界の真理とは、実体と人間の幻想との距離を最小に縮めた時に生まれる感情**である)

私は「我々の幻想とは、我々を取り巻く《環境》によってこの脳に浮かび上がらせ・られていた受動的なものだった」という事実を理解して受け入れてくれる人が必ずいると信じています。そしてその人たちが、必ず人類を絶滅から救い上げてくれると信じています。

錯覚の自我が作ってしまった「個人主義的環境」ですが、今まさに、全世界、全人類が、その環境から生まれた「お金」に絶滅させられる寸前にいるのですよ。

お金に魅了されている人たちには気づかないことだと思いますが、このことに気づく人が現れて欲しいと思います。


お金は、錯覚の「自分」に縛られて個人個人がバラバラになっている今の私たちが、互いにうまくやっていくために必要とされ、必然的に生まれてきたものです。

錯覚の「自分」同士がうまくやっていくためには、お金に頼るしか方法がなかったからです。

しかしもう人類は、この窮地をお金では乗り切っていけないところに来ています。

むしろ、現代では、ほとんどの窮地はお金によって生まれているとも言えます。

この危機から脱出するためには、まずは、科学が解明している「自分」を知ることです。

「科学」は、この自然界にしっかりと向き合って、そこから謙虚に学ぼうとする唯一の学問ですが、その「科学」が解明している「自分」を知ることです。

そして次に、「科学が解明している自分」を、固定観念や価値観や常識を乗り越えて受け入れることです。


我々の幻想(感情、認識、連想、想像、思考、意思(意志)‥‥など)とは、我々の脳を取り巻く《環境》に浮かび上がらせ・られていたものだった‥‥という意味をよく考えてみて下さい。

例えば、政治家が国会で激しく議論をしているのも、それも実は、互いに《環境》に議論をさせ・られていただけのものだったということを気づかせてくれます。

そして彼ら一人一人の発言も、《環境》に思考させ・られた結果が、言葉となって発せられていたということに気づかせてくれます。この事実をどうしてもわかっていただきたいのです。

それはテレビのMCやコメンテーターであっても、ニュース解説をしているどこかの教授であっても、はたまた芸人の一挙手一投足、スポーツ選手のあらゆる動作、アーティストのパフォーマンス‥‥、すべてが《環境》に思考させられ行動させらていたのです。

かく言う今の私も、140億年前に産声を上げてから今日まで連綿と続く、この宇宙が作っている《環境》の中から、ある日、日本という《環境》の中に人間として生まれ・させられて、子どもの頃から日本語を覚えさせ・られて、いろいろな体験を通して作られた記憶の回路に、日本語の言葉がタイトルのように張り付き、それが自分の「思考の枠組み」となって、そして現在の、この私の脳を取り巻く《環境》からひっきりなしに入力されてくる刺激(=情報)に背中を押されて、日本語で思考させ・られ、このような文章をパソコンに入力させ・られていたわけなんです。

「私」の存在とは、いわば、《環境》の中で生かされ、新たな《環境》に何かを引き継いでいく「媒体ばいたい」なのです。

例えば、有名なアーティストも、有名なスポーツ選手も、有名な映画俳優も、有名ではない政治家も、大金持ちも、貧しい人も、独裁者も、あるいは人を殺してしまった犯罪者も、それは実は、彼らを取り巻く《環境》が彼らにそのような行動をさせていただけだったのです。

原因と結果の原則から、順序よく考えてみれば、簡単にわかることです。

例えば、あなたが大好きな歌手を一人思い浮かべてみて下さい。

この世に言葉がなければ歌もなかったし、歌手という職業がなければ誰一人歌手にはならなかったでしょう。言葉を作ったのも、歌という表現活動を作ったのも、歌手という職業を作ったのも、その有名な歌手が一人で作り上げたわけではありません。

その人を有名な歌手にしたのも、その人自身ではありません。みんなで作っていることです。つまりあなたが大好きなその歌手は、その人を取り巻く《環境》が作っていたということがわかります。

そしてその歌手は、みんなで作っている《環境》から生まれたステージという一段高くなった舞台に立たされて、《環境》に作られた歌というものを、《環境》に歌わされていたのです。

《環境》を作っているのもまた我々です。

だとしたら、あなたが大好きなその歌手は、あなたが作ってもいたわけです。あなたも彼(彼女)の栄光に関与していたわけです。やはり、あなたも《環境》の中で生かされ、新たな《環境》に何かを引き継いでいく「媒体ばいたい」なのです。

私たちの一挙手一投足、あらゆる言動、それらは私たちを取り巻く《環境》にコントロールされて取らされている行動です。

もしあなたを取り巻く《環境》が(注:あなたの遺伝情報もあなたの姿かたちや性質を作り上げる、あなたを取り巻く《環境》の一部です)、その有名な歌手や、そのスポーツ選手や、その映画俳優や、その政治家や、その大金持ちや、その貧しい人や、その独裁者や、その殺人者と全く同じであったなら、あなたは、その歌手や、そのスポーツ選手や、その映画俳優や、その政治家や、その大金持ちや、その貧しい人や、その独裁者や、その殺人者と全く同じ人生を歩んでいたことでしょう。

当たり前です。彼らと全く同じ《環境》ということは、それは「彼ら自身」という意味ですから。

我々の姿かたち、性格、そしてあらゆる思考もあらゆる言動も、すべてが《環境》に作られていたということは、そういう意味ですから。

あなたが私の《環境》で生きていたなら(もちろん遺伝情報から何から何まで同じという意味ですから)、あなたは今の私と同じ姿かたちをして、私に代わって、今、この文章をパソコンに向かって打ち込んでいたということです。私があなたの《環境》で生きていたなら、今のあなたとしてこの文章を読んでいたでしょう。

人は、全ての《環境》で生きることはできません。だから私たちは他の人に代わってその《環境》を生きてあげている分身同士です。それが、科学が解明している事実をつなぎ合わせて行った先に見えてきた「分身主義」の視点です。

その事実にハッと気づいた時、我々はこの宇宙と一つになれます。

歌手もスポーツ選手も映画俳優も政治家も大金持ちも貧しい人も独裁者も殺人者もみんなつながります。

だから、分身主義は嫉妬や羨望、それに怒りや恨み‥‥などとは無縁の世界です。そこにあるのは互いを「誇り」に思う気持ちだけです。それは、自分の代わりにその《環境》で生きて下さっている、他人の姿をした「自分」に感謝する気持ちのことです。

もしその人が、犯罪を犯してしまったなら、自分たちの代わりにその《環境》の被害者となって犯罪を犯してしまった、とむしろ感謝し、彼を責めるのではなく、「救う」気持ちになります。それは、他人の姿をした「自分」を救うためです。

犯罪者に感謝なんて、あまりにも非常識に聞こえますか?

私たち人類は、言葉を持って自然界と対峙たいじしてしまってから、本来の居場所からあまりにも遠く離れて歩いてきてしまったので、そのように感じてしまうのです。

一人の人に責任を押し付ける「個人主義」の社会は、もう人類を破滅に追い込むだけです。その証拠に、彼を裁いて我々が救われたでしょうか? 罰則を強化することで、二度と犯罪が起こらない社会になりましたか?

ますます犯罪が巧妙になり過激になるばかりじゃないですか!?

犯罪すら無くせなかったのは「錯覚の自我」にがんじがらめに縛られて、とんでもない勘違いで今まで生きてきたからです。むしろその勘違いこそが犯罪を作っていたのです。


本当は、「錯覚の自我」に縛られた人類が作っている現在の個人主義的な《環境》の方が、自然界から見たら、あまりにも非常識だったことをわかっていただきたいのです。

私たちは、お金や武器などに頼らなくても生きることができるようになれば、この世界をもっと明るく喜びにあふれた世界に塗り替えることができます。


今、私たちは初めて見る大海を前にして、恐がって尻込みしている人類だとイメージしてみて下さい。

だけど身体の力を抜いて、静かに息を止めてその海に潜ってみれば、今まで感じたことのない、どこか懐かしささえ感じる世界が待っているかもしれません。(イメージなので本当に息を止める必要はないですよ)


あるフリーダイビングのホームページに、素晴らしい言葉を見つけました。
10年以上も前に見つけて書き写しておいたもので、どこの「ダイビング・スクール」のものなのか書いておくのを忘れてしまいました。検索しても、今ではどうしても探せませんでした。でもとても素晴らしい言葉なので黙って引用させていただきます。

フリーダイビング=閉息潜水=苦しい。
という結びつきをイメージされる方も多いかと思います。
しかし、閉息して海の中や水の中へ入ると、
今まで感じたことのない違う世界があるかもしれません。
どこまでも深い海の中は、青く大きな地球に全て包み込まれたかのような不思議な心地良さ‥‥。
身体の力を抜いて、その中へ溶け込んでいくような感覚。
お母さんのお腹の中にいた時を思い出す感覚。
心を落ち着かせ、水と一体になる感覚。
苦しさを忘れることではなく、心地良さを新しい感覚として感じること‥‥。


我らが *愛すべきモンスター、女優の益戸育江さん(高樹沙耶さん)は、2002年のフリーダイビング・ワールドカップで水深53メートルという日本新記録を樹立した人です。

*愛すべきモンスター
人間の行動は《環境》にコントロールされていると知った分身主義では、誰もが、他の人には経験できないその人だけの《環境》を、全人類を代表して生きてくださっている分身さんであるという意味において、お互いを「愛すべきモンスター」として誇り合います。


彼女の『マイ ブルー ヘブン』という自伝的な本に次のような素晴らしい言葉を見つけました。

「体が海と溶け合い、まるで自分が海の一部になってしまったかのようでした。安らかな青い世界に包まれて、自分という存在など消えてしまったような感じなのです」
「私にとってのフリーダイビングは‥‥、宇宙、地球、愛するものたちとの調和を感じるすべなのです」


これこそまさに、分身主義の見ている風景です。


今まさに、我々は、この自然界と一体となる心地良さを新しい感覚として体験しようとしています。
全人類が手をつなぐという新しい試みを始めようとしています。

恐がらずに、尻込みせずに、科学が解明している事実を、科学が解明している本当の「自分」を、受け入れてみましょうよ。

❶「自分」とは、この身体を覆っている皮膚の内側だけでなく外側も全部である。なぜなら、どことも切れ目などないからである。つまり、本当の自分は140億年前に産声を上げていたこの宇宙だった。

❷何かを為そうとする「意志」は、自分自身が自発的・主体的に作り出しているものではなく、《環境》に浮かび上がらせ・られた「意志」に思考させ・られ、行動させ・られていた。「意志」は自分由来ではなく環境由来だった。(そもそもこの身体が自分ではなかったので、それを「自分の意志」と呼ぶのもおかしなことだった)


世界中の人が、科学が解明している真実ほんとうの「自分」を受け入れた時、人類に奇跡が起こります!

短い「人の生」です。私が尊敬している安斎育郎あんざいいくろうさんのおっしゃる「科学的な輪廻転生りんねてんせい」の意味において、生まれ変わるまでの短い間、世界中のみんなで仲良く助け合って平和に楽しく生きる他に、一体何を望むというのですか?

そして世界中のみんなの祝福の中で喜びと共に死んでいく。一体、それ以外にやらなければならない大切な何があるというのですか?

どうして難しい議論や難しい駆け引きが必要だったのですか?

それをするための難しい学問は本当に必要だったのでしょうか?

争いを深め、争いに勝つために役立つための学問などいりません!



「仲良くすることを犠牲にしてまでもやらなければならないことは一つもない」
これだけを判断基準にすれば、今まで、何が無駄だったのか、何が不要だったのかがはっきり見えてきます。



そのために私たちがやらなければならないことは、たった一つです。

今まで一度としてバージョンアップされたことのない我々の脳のOSに、科学が解明した新事実を上書きさせるという、簡単なたった一つのことだけです!

そうすれば、環境から入力された情報と、新たな我々の記憶との相互作用によって受動的に生まれる思考や意志が変わり、行動が変化します。
それがまた環境を変化させるという好循環が生まれ、世界は平和になるしかなくなります。

世界中のみんなで、この世界をお金や武器なんかに頼らなくてすむ、美しい色に塗り替えましょうよ!


(完)


追記
この記事は、2011年に、『*るいネット』に一般参加(応援会員)として寄稿させていたただきましたブログ『明るい未来のために‥‥』を元にしてnote用に編集し直したものです。
元々は、るいネットの方たちへ向けて書いたものですが、残念ながら、るいネットは2023年6月に閉鎖になりました。
 
しかし、その理念はここに書き残しましたのでまだ生き続けています。

「確かな事実だけに立脚した科学的な理論体系」
「その立脚点を自然の摂理の中に、あるいは生き物の摂理の中に求める」

これこそ、まさに私が心掛けてきた方法論ですし、そうして辿り着いた「分身主義」は、るいネットに参加されている方たちに受け渡すことはできませんでした。だけど、これを読んで下さった方の中に「分身主義」を広めて下さる方が数人いれば、世界はいとも簡単に塗り替えられます。
 
我々は《環境》に動かされていた電気仕掛けのロボットです。《環境》が脳内に幻想(=錯覚)を浮かび上がらせ、その幻想に行動させられていたのです。
しかし、《環境》を作っているのもまた我々の幻想(=錯覚)です。ということは、幻想が変化すれば、つまり、人類の脳のOSが科学時代に合わせてバージョンアップされれば、《環境》が変化し、その《環境》から我々の脳に浮かび上がる幻想も変化します。この好循環が大事なのです。
 
今までの環境は、この身体が「自分」だという錯覚から作られていた「個人主義的環境」でした。その環境が我々に争いや対立をもたらしました。しかし、この脳に科学が解明している「自分」を上書きできれば、世界は武器もお金も必要としない「分身主義的環境」に変化します。
 
世界を平和にするには、抗議をしたり革命を起こしたりすることでは叶えられません。これまでの歴史を見てもわかるように、同じ「個人主義的環境」の中で上下左右を入れ替えるだけです。
 
世界はもう科学が一つにしてくれています。
後は、我々の心が追い付けばいいだけなのです。

パソコンだって時代に合わせて何度もバージョンアップさせるというのに、どうして人間の脳だけは、科学時代にもかかわらず、相変わらず旧式のままなのですか!?

みんなの脳のOSがバージョンアップされれば、あっという間に実現する平和な未来を想像して描いた小説です。⇩ (もちろん無料です)




画像3

★★★   関連記事(保存版) ★★★
📌分身主義とは(ジジイの遺言書-10-)
📌真の科学とは何か?(ジジイの遺言書-7-)
📌個人主義から分身主義へ(ジジイの遺言書-8-)

★★★   未来モデル小説   ★★★
ブンシニズム・ドット・ネット
人類が「科学的覚醒」を果たして、「個人主義の《環境》」から「分身主義の《環境》」に移行した未来の世界を感じてもらうために小説にしました。
お金も武器もなくなった世界なので、誰もがボランティアのように自由に働きながら世界を行き来して、行く先々で出会う人たちと交遊して人生を楽しみ、生だけでなく死も大切にする人たちの物語です。
実現可能な平和な世界。実現の願いを込めて描いた未来の世界です。

画像4



いいなと思ったら応援しよう!

Markey Toku 徳永真亜基 長い文章を読んでくださりありがとうございます。 noteの投稿は2021年9月27日の記事に書いたように終わりにしています。 でも、スキ、フォロー、コメントなどしていただいた方の記事は読ませていただいていますので、これからもよろしくお願いします。