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宇宙に一つだけの目的(科学が解明した‥本当の自分)2011年制作

(表紙絵 / 文章:徳永真亜基 分身)
この作品は2010年~2011年に『個人主義から分身主義への世界的転換を目指すメルマガ「現代科学が解明した・自分」』と題し、10回完結と決めて発行したメールマガジン(タイトルのロゴは、⇩このようなものでした)‥‥

メルマガ・現代科学が

‥‥を一つにまとめて、『宇宙に一つだけの目的(科学が解明した‥本当の自分)』と改題して自分のHPで公開していたものです。
それを今回、note用に再編集して移し終えました。(HPは閉鎖)

表紙絵は「黎明れいめい」を表現しました。

黎明


🔖NO.1 なぜ世界は山積みの問題を解決できないのか?

今あるものに反抗して現実を変えようとしても物事は変えられない。
何かを変えようとするなら 
古いモデルがもう時代遅れになるような 
新しいモデルを作るしかない。
(バックミンスター・フラー分身/思想家、発明家、デザイナー)

世界に変革を求めるなら、あなた自身がその変化になれ。
(マハトマ・ガンジー分身/インド独立の父、宗教家、政治指導者)


テレビのニュースなどを見ると、世界中で、永遠に解決がつきそうもない問題が山積みです。
解決どころか事態はますます悪くなる予感さえします。

討論番組などを見ても、思い思いの意見が飛び交うだけで、問題は一向に解決しそうもありません。

電車に乗ると、週刊誌などの中吊り広告が目につき、意地悪で険悪な言葉に気分が悪くなります。
まるで、問題が解決されては週刊誌が売れなくなって困ると言わんばかりです。

誰もが不満を抱えながらも、根本的な解決策などあり得ないことに薄々気づいていて、それで悪態をつくことで気を晴らそうとしているかのようにも見えます。

世界はますます暴力的でトゲトゲしくなっていきます。
人々の心は、皮をむかれて一房一房バラバラにされた夏みかんのように、ひからびていくばかりです。

夏ミカン小


では、なぜ世界は問題を山積みのまま、いつまでも解決できないのでしょうか?


私たちの誇るべき分身さん、バックミンスター・フラーさんは言っています。
「今あるものに反抗して現実を変えようとしても物事は変えられない」

私たちのやっていることは、まさにそれだったのです。


私たちの行動パターンを変えるには、古いモデルがもう時代遅れになるような新しいモデルが現れて、それが世界を美しい色に塗り替えてくれるのを期待するしかありません。

そのために、このメルマガを発行することにしました。

■□━━━━━━━━━・・・・・‥‥‥

初めまして。発行人の徳永真亜基‥‥分身です。

『現代科学が解明した・自分』の創刊号です。


世界中に山積みされていく問題を作る原因は、“あなた”の中にありました。
だけど、世界中に山積みされている問題を一気に片付ける鍵も、“あなた”の中にあったんです。

あなたは今、間違いなく“自分”という意識を持って生きていますよね。
しかしその意識は科学的に言えば間違いでした。

実は、それは「神経系(脳と脊髄と全身に張り巡らされている神経の総称)」と、《環境》によって我々の脳内に作られていく「記憶」や、その記憶を強固にする「言葉」などが連動することで見ている錯覚だったと、今では科学が解明しています。


例えば、下の右図の中心に何か見えますよね!? これは「カニッツァの三角形」と呼ばれている錯視図形です。

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周辺の図形とともに、白い正三角形が知覚されるが、実際には中心の三角形は物理的に存在しない。この効果は、主観的輪郭(subjective contour)と呼ばれる。また、この白い三角形は、周辺よりも明るく見えるが、実際には中心と周辺の輝度は等しい。(Wikipediaより


我々が見ていた”自分”という意識とは、まさにこの錯視図形と同じで「あるはずもないのに周辺よりも明るく見えている三角形」だったのです。しかもそれは、もはや世界中の万人が錯覚しているので、誰も疑う余地すらなくなっているのです。

ただし「カニッツァの三角形」は物理的には存在していないものですが、人間は確かに物理的には、外界と皮膚で仕切られている個体として存在しています。

ただ、科学的には、”自分”はその場所には存在していません。科学的に言えば、我々がその場所に見ていた”自分”という意識は、神経系の「錯覚」だったのです。

*「物理的」というのは、「物事を空間・時間・質量・重さなどの数量化できる側面から考えるさま」や「物理学と関連していること」を意味しています。 それに対して、「科学的」という言葉は「個人の思い込みではなくて、反証可能性を持つ理論・仮説を前提にしているさま」の意味を持っています。
(『「物理的」と「科学的」の違いとは? 分かりやすく解釈』より)

「科学的には”自分”はその場所にはいない」と私が言う科学的根拠は、我々が”自分”と言っているものは、この宇宙のどことも切れて存在しているわけではないという事実です。(?_?)

例えば人類は、この地球上にたくさんの国境を作りました。でも実際の地球にはそのような分け目など存在しませんよね。だから科学的に言えば国境はないのです。だから人間以外の動物には国境線は見えません。人間だけが作る「錯覚」に過ぎないということです。

しかしそこに国境の壁を建設すれば、物理的に「壁」は存在します。他の動物にも見えるし壁にはばまれて彼らも国境を越えられません。しかしこの物理的国境は、あくまでも「物理的な壁」というだけで、そこに「国境」を見ているのは人間だけの錯覚ですよね。

人間の身体もこれと同じです。「物理的」には外界と皮膚で仕切られている個体として存在しますが、「科学的」にはそこに存在する"自分"は錯覚です。

地球の国境が人間の錯覚であるように、この身体というボーダーは神経系の見ている錯覚で、本当の「自分」は‥‥、

本当の「自分」は‥‥、

そうです。本当の「自分」は‥‥、この宇宙そのものだったのです!


私は常々、自我のない動物たちのことを「自然界と地続き」と表現しています。”自分”という錯覚を持ってしまった人類だけが、自然界と対峙たいじしてしまったのです。

「物理は科学である」には違いありませんが、物理学者の全ての理論が科学的かと言えば、そうとも言えないものも存在します。また、同じように「医学は科学である」と信じられていますが、医学は確かに科学的な方法論を採用しているというだけで、実は医学は科学的とは言えない学問です。(『📌真の科学とは何か?』)

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もし誰かが、科学的な意味で、この身体がこの宇宙の中のどこかで不連続を見つけたら、「そこまでが”自分”である」と認めましょう。これが、私が「科学的にはボーダーはない」という意味の「科学的」を条件づける*反証可能性です。

*反証可能性(はんしょうかのうせい)
テスト可能性、批判可能性とも。
「誤りを確認できるということ」であり、「科学的理論は自らが誤っていることを確認するテストを考案し、実行することができる」という科学哲学の用語である。方法論として「トライアル&エラー」とも呼ばれる。
科学哲学者カール・ポパーは、反証可能性を科学的基本条件と見なし、「科学」と「非科学」とを分類する基準とした。
(ウィキペディアより)


でも、切れ目を探して過去に遡っても、138億年前に産声を上げた自分に辿り着くはずです。138億歳の今の自分の姿を発見することになるだけでしょう。


現在、「個人主義的環境」で生きている我々は、まるで自分一人の力で生きているかのように錯覚していますが、科学的に見れば、”自分”はこの身体の内側だけで存在することは決してできません。

少なくとも身体を支えてくれる地面が必要だし、酸素・二酸化炭素のやりとりをするための植物が必要です。個体の内外の物質のやりとりも常に行われていて、この代謝が途絶えると生命に関わる全ての機能は停止します。やっぱり「自分」が存在するためには宇宙とつながっているわけです。


ただし、勘違いしないでいただきたいのは、錯覚というものは、「そんなもの錯覚だよ。気にすんなよ!」などと言って侮れるものではありません。たとえ「錯覚」であっても、「錯覚」した時点で確かにそれは存在し、自分や周囲に大きな影響を与え得るものなのです。

先ほどの「カニッツァの三角形」が、いくら物理的には存在しないなどと言われても、我々がそこに「ない」はずの三角形を見てしまった以上、確かに存在しているのと同じことです。

むしろ、現在の我々の「”自分”という意識」は、世界中の人が「錯覚」しているので「錯覚」だと気づきにくいにもかかわらず、影響力だけが甚大なだけに、とても危険なものなのです。


その、科学的に言えば「錯覚」に過ぎなかった“自分意識”に縛られている我々人類が作る環境こそ、今までのモデルだったわけです。

私はそのモデルを「個人主義的環境」と呼んでいます。

「個人主義的環境」の特徴は、やたらと「自立せよ!」「自立せよ!」と急き立ててきますよね。まるで、人間は、他者の力も借りずに、自分の力だけで何かを成し遂げることが可能だと勘違いしているかのようです。あるいはそうしなければ価値がないとでも言われているようです。

だけど、この人間社会のトップで活躍している人をよく見てみると、彼らこそ他人の力を利用することが上手い人たちで、むしろ「自立」していない人たちです。

「自立」の対義語は「依存」ですが、経済的に成功することを「自立」と言うのであれば、そのためには、他人に「依存」しなければいけなかったのです。誰にも「依存」することなしに起業している「起業家」と言われる人がいるなら、連れてきて欲しいものです。

経済的に「自立」していると我々がリスペクトしている彼らこそ、他人の力を巧妙に利用し「依存」していたのです。

いずれにしても、人間は、生物学的に見ても経済学的に見ても、「自立」して生きて行くことなどは絶対に不可能です。

それなのに何かを成し遂げた場合、それは自分の能力だとばかりに得意になったり、世界中の人の称賛を浴びたり、その逆に、何かを成し得なかったのは自分の力不足だと思って落ち込んだりしていたのが「個人主義的環境」で生きている我々の現状ではないでしょうか!?

とんでもない勘違いでした!

その古いモデルの中にいる限り、一見、社会が変化したかのように見えても、権力などの上下左右が入れ替わるだけで、根本的には何一つ変わることはありません。

いつの時代も、大概、権力を持たない側が自分たちを「正義」と称して、権力を持った側を引きずり下ろし、新たに権力を持ち、そしてまた同じことが繰り返されてきました。

私たちは人類の歴史が始まって以来、嫌というほどそのことを学んできたはずです。それだけが人類の歴史と言ってもいいくらいです。


だけど、人類が、科学が解明してくれた「錯覚ではない本当の自分」に気づいた時、新しいモデルを獲得します。

その新しいモデルを *分身主義* と命名しました。

つまり、先ほどの「カニッツァの三角形」は存在していなかったと知った人類が、科学的な意味で存在している「本当の自分」を知った社会です。

*分身主義* とは、科学が示してくれている真実を伝えるための表現方法の一つ、と思っていただきたいと思います。
真実とは、単なる事実とは違って、人間の想像力をくぐり抜けた先に立ち現れるもののことです。

つまり、*分身主義* とは、科学の発見した様々な事象を集めて整理して行った先に到達した真実と言うことができます。

それは、この宇宙の成り立ちを知ることだったのですが、宇宙の成り立ちを知るということは、まさに、本当の自分を発見すること、と全く同じ意味だったのでした。

その新しいモデルの中では、世界が一つになるしかなく、憂慮すべき様々な問題は解決されるのではなく、気づいたらいつの間にか消滅しているはずです。

憂慮すべき様々な問題の解決は、我々の意志や願いでできるものではありません。

憂慮すべき様々な問題を、我々が好き好んで、我々の意志や願いで引き起こしていたのではなかったのと同じように‥‥ね。

これからお話ししていきますが、実は、我々の意志や願いというものも、《環境》によって、我々の脳に浮かび上がらせ・られていたものだったので、問題を起こしていた同じ《環境》の中から浮かび上がらせ・られる意志や願いでは、その問題の解決ができるわけもなかったんです。

今、我々人類に求められているものは、永遠に解決がつくはずもない問題を少しでも解決しようと、外にばかり目を向けて批判や抗議を続けることではなく、科学が解明している「本当の自分」を見つけることです。

世界を変えるには、外ではなく内に目を向けることです!

そして、錯覚ではない本当の自分を知ることです!


私たちの誇るべき分身さん、マハトマ・ガンジーさんは言っています。

「世界に変革を求めるなら、あなた自身がその変化になれ」

だけど自身の変革を成し遂げるには、あなたの強い意志や努力や、辛く厳しい修行など全く必要ではありません!

現代科学の解明している知識を、あなたの脳に上書きするだけで十分です。
私たちの脳もいつまでも古いバージョンのOSに頼っていないで、そろそろ科学時代に合わせたバージョンアップが必要です。

明るい未来


もう一度言います。
世界中に山積みされていく問題を作る原因は、“あなた”の中にありました。
そして、世界中に山積みされている問題を一気に片付ける鍵も、“あなた”の中にありました。

今の時代だからこそ必要な、科学が解明している本当の“自分”を見つけに行きましょう。

■□━━ 編集後記 ━━━
このメルマガと並行して、今、 YouTube の動画配信『分身主義講義』を作っています。第一回目の講義のタイトルは『分身主義って何?』の予定です。

動画は、ホームページビルダーで試行錯誤しながら作っているので、出来栄えは拙いものだと思いますが、本当の自分をイメージするのに少しでも役立ってくれればいいと思います。

大切なのはイメージです。

この世界を動かしているのは政治家なんかじゃなく、政治家を動かしているのも我々の中にある「イメージ」だったんですから。まさに「カニッツァの三角形」という錯覚が世界を動かしていたのです。

この意味は、このメルマガを読み進めていただければ、いずれわかっていただけるはずです。


🔖NO.2 なぜ普天間基地移設問題を解決できないのか?

古いモデルがもう時代遅れになるような新天地を探すことです。
それを今から見つけに行こうではありませんか!
と言っても、それを見つけに私たちは遠くまで行く必要はありません。
それは何よりも近く‥‥そう、あなたの中にあったんです!


例えば、普天間基地移設問題を考えてみましょう。

様々な立場の人が様々な思惑を内に秘め、様々な意見を言い合い、いつまで経っても最良の方針を打ち出すことはできないでいます。
それは何故なのでしょうか?

* 普天間基地移設問題(ふてんまきちいせつもんだい)
1995年(平成7年)の沖縄米兵少女暴行事件を契機に、沖縄の米軍基地に反対する運動や普天間基地の返還要求、基地の整理縮小や地位協定の見直しを要求する運動が起こり、整理縮小の案として普天間基地移設が持ち上がった。

今の我々人類は、神経系の錯覚している“自分”という意識に、がんじがらめに縛られて生きているわけですが、その意識が作り上げてしまう《環境》を、私は「個人主義的環境」と呼んでいます。

個人主義的環境とは、一人一人が別々の山を歩いているようなものです。

一人一人、その山を歩く「目的」も、目指す「頂上」も違います。

そのような《環境》の中で、人々が何かを決めようと話し合うということは、元々違う山を歩いていることに気づかずに、それぞれが自分のルートを示して、どのルートで登ろうかと話し合っているようなもので、不可能なことをやっていたのでした。

どのようなルートが決定されたとしても、誰かに不満や恨みが残ることになります。


ところで、普天間基地移設問題で様々な意見が飛び交う中で、一つだけ誰も言わない意見がありますが、お気づきですか?
それは最も根本であるはずなのに、今ではもう誰一人として気がつかなくなってしまっているのかもしれません。

わかりますか!?


本当は、基地をどこに移設するかなんて悩むことは一つもないんです。


「地球上のどこにも基地など不要です!」


誰もそれを叫ばないのは何故でしょうか!?


これからゆっくりとお話していきますが、科学的に見れば、地球どころか、本当はこの宇宙のどこにも「敵」など存在しなかったんです。それこそ我々人類の神経系の錯覚が見てしまう幻影でした。

(食ったり食われたりする動物の世界にも、科学的に見れば、本当は「敵」などどこにもいません。科学番組で「宿敵」などという言葉を用いるとしたら間違いです。それは、人間が動物たちの世界に、自分たちの「錯覚」が作っていた感覚を投影して脚色してしまっていたのです。だとしたら、それらは科学番組ではなく科学を装った”おとぎ話”なのですよ!)


戦争を経験した世代の人たちで、「もう戦争はこりごりです」などという人たちでさえも、「地球上のどこにも基地など不要です!」を口にしません。

それどころか、戦争で辛く悲しい思いをしてきた人たちでさえ、「日米安全保障条約は、日本がよその国から攻められた時はアメリカが助けると謳っているが、いざとなった時に本当に助けてくれるのか? 助けてくれないかもしれないから、日本も他の国に負けない独自の強力な軍隊を持つべきだ」
今ではそんなことを言い出す人たちまで出てきました。


子供のころ戦争を体験したはずの我らが誇るべき分身さん、小室直樹さん(1932年 - 2010年、社会学者・評論家)も言います。

「平和を維持するためには戦争が必要。これは国際政治学の大定理である」

これは、次のような論法です。

1、国際社会には必ず紛争がある。
2、紛争は放っておくと被害が増えるばかりなので、早急な解決が必要。
3、戦争は国際紛争がもっとひどくならないうちに解決するための手段。
4、しかもそれは最終手段である。
5、戦争と比べて、より合理的で、より実効的な国際紛争解決の手段は、まだ考案されていないからである。

また次のようなことも言っています。

「過去、どんなことがあっても平和をと平和を欣求ごんぐして戦争になったことがあった。その反対に、断固として戦争をするという決意が脅威となり平和をもたらしたことがあった」


彼は、「国際社会には必ず紛争がある」と言っているわけですから、彼が言う「平和」とは、単に紛争が表面化されないできちんと抑えられている状態のことだけを言っているのだと思いますが、普通の人の意見の逆を突くような過激な発言です。
それだけに、よくよく考えた上での意見に違いありません。

ある意味、おっしゃる通りかもしれません。
我々人類の脳が、この「個人主義的環境」にどっぷりと浸かっていて、争いと無縁でいられない限り、矛盾しているようですが、より強い武力でもって紛争を早期に鎮圧したり、核兵器をちらつかせて戦争に対する抑止力とするしかないのかもしれません。

そうしなければ、彼の言う平和すら期待できません。


でも、ちょっと待ってください。
彼は5番目に気になることを言っています。
彼が戦争を奨励する理由は、「戦争と比べて、より合理的で、より実効的な国際紛争解決の手段は、まだ考案されていないからだ」と言っています。

だったら私たちが、今から、それを考案して見せようではありませんか!

‥‥おっと、その思考回路こそいけなかったのでした。

私たちが今からやるべきことは、今の《環境》の中に置かれているこの脳が解決の手段を考案しようとするのではなく、古いモデルが時代遅れになるようなまったく別の新天地、つまり新しい《環境》を探すことです。
その新天地を、今から見つけに行こうではありませんか!

と言っても、それを見つけに私たちは遠くまで行く必要はありません。
それは何よりも近く‥‥そう、あなたの中にあったんです!

■□━━━━━━━━━・・・・・‥‥‥

*分身主義* というのは、科学によって「自分」とは何かを知ったものです。
そして人間はどのようなメカニズムで行動を取らされていたのか、人間の意志(will)と言われていたものは一体何だったのか、などということを知ったものです。

それらがわかると、例えば、紛争が起こっていた原因もくっきりと見えてきます。

だから、それがわかると、我らが誇るべき分身さん小室直樹さんの「国際社会には必ず紛争がある」などという言葉は古臭い過去の真理にすぎなくなります。

彼は、平和とは、単に紛争が表面化されないできちんと抑えられている状態のことだけを言っているのだと思いますが、私は平和とは、戦争がない状態や戦争を回避している状態だとは考えません。

今の日本人を平和ボケしている国民と評する人がいますが、それはまったくおかしな発言だと思います。

今の日本は、戦争をしていないというだけのことです。

他のどんな社会とも同じように、人々の心の中に、不公平感や不満や妬みや恨みや憎しみや意地悪な思惑などが渦巻いているこの国を、戦争をしていないという状態だけ見て、平和だなどと言わないでほしいと思います。

そしてまた、世界のどこかで紛争や暴動が起こっているのに、自分の国は平和でよかったなどと喜ばないでほしいと思います。世界で起こっていることは、自分たちに必ず影響はあるのですから。

私のイメージする平和な社会とは、世界中の人の心の中から不公平感や不満や妬みや恨みや憎しみなどが消えて、誰もが仲良く助け合って生きて、やがては誰にも平等に訪れる死に対しても、一切の不安を抱かずにすむような心の状態で誰もが生きられるような社会だと考えています。

そんな日が来ない限り、紛争は絶対になくなりません。
普天間基地移設問題も絶対に解決はしません。
そんな日が来ない限り、我々は、「平和を維持するためには戦争が必要」などという矛盾した言葉に頼って生きていくしかありません。

■□━━ 編集後記 ━━━
今日の行程『なぜ普天間基地移設問題を解決できないのか?』はここまでです。お疲れさまでした。

世界中に山積みされていく問題を作る原因は、“あなた”の中にありました。
そして、世界中に山積みされている問題を一気に片付ける鍵も、“あなた”の中にありました。(あなた=自我)

今の時代だからこそ必要な、科学が解明している本当の“自分”を見つけに行きましょう。

このメルマガと並行して、 You Tube の動画配信『分身主義講義』も始めました。
第一回目の講義のタイトルは「分身主義って何?」です。
(*最後に出てくるURLは現在閉鎖しました)

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本当の自分をイメージするのに、少しでも役立ってくれればいいと思います。

世界を変革できるものは、私たちのイメージだけです。

この世界を動かしているのは政治家なんかじゃなく、実は、政治家を動かしているのも我々の中にあるイメージだったんです。我々のイメージがこの《環境》を作り上げていたからです。

とりわけ、自我(=神経系がこれが自分であると信じているところのもの。実はこれは神経系の錯覚)という頑固なイメージです。それが現在の「個人主義的環境」を作り上げてしまっています。

このメルマガは、その頑固なイメージを変えることでしか世界を平和にできないことを知った私が、残りの人生のすべてをかけて発行を決めたものです。


🔖NO.3 ちっぽけな自分を知った時‥‥

言葉を用いることになった人類は、自然界に背を向けて自我という眠りに落ちてしまいました。その眠りの中で、まるで夢遊病者のように歩き回りながら、自然界を独自に解釈して独自の物語を作ってきました。
今では、その不安定な物語の砂上に様々な建物を建て、その上にさらなる建て増しを続けています。


中学生になって最初の夏休みが近づいたころ、若いころは山男だったと常々言っていた父親が、唐突に私に言いました。

「8月の○日から○日まで、山に行くから、予定を空けておけっ!」

父の計画した山は、鳳凰三山ほうおうさんざんという所でした。
鳳凰三山というのは、南アルプスの薬師岳(2.780m)・観音岳(2.840m)・地蔵ヶ岳(2.764m)の三山のことです。

地蔵ヶ岳の山頂部は地蔵仏(地蔵ヶ岳オベリスク)と呼ばれる巨大な尖塔になっていて、そのオベリスクを鳥のくちばしに見立てると、まるで鳳凰が羽を広げている姿に見えるから、というのが鳳凰三山の名前の由来だという説もあります。

鳳凰三山

※左の写真が地蔵ヶ岳オベリスク。
中央と右の写真は、中学生の私がオベリスクにザイルを使っての岩登りに初挑戦。同行した父の登山の後輩に、何の予備知識も持たず訓練も受けず、有無も言わせずにやらされた。父は登攀せず下から写真を撮っていただけ。今見ると無謀。よく生きて帰ってきた。


オベリスクの頂上は狭いので、数人の人しか立てません。
でも、周りの山々を360度見渡せる別世界に立った時、それまで一度も経験したことのない不思議な感覚に全身が包まれていました。


その日の全行程を計画どおり終わらせ、山小屋に着いて夕飯を食べた後、父は私を山小屋の外に連れ出しました。
身震いするほどの深い闇に飲み込まれてしまった山の中で、圧倒され、言葉をなくしていた私に、父がポツリと言いました。

「山に来ると、人間って、何てちっぽけなんだろうって思う。それが好きなんだ」

その言葉は、地蔵ヶ岳のオベリスクの頂上に立った時に私が感じた、言葉では言い表せない感覚を、そして深い闇と静寂の中で感じていたその時の感覚を、そのまま表現してくれたように思ったのを今も覚えています。

電気もトイレもコンビニも乗り物もない大自然の中に飛び込むと、それらが生まれた時から用意されていて、その上たくさんの言葉や情報であふれかえった都会の中で、ちっちゃなことでクヨクヨしたりしながら暮らしていた自分たち人間って、なんてちっぽけで、なんて不安定で嘘っぱちな世界で生きていたんだろう‥‥って、そんな感じです。

他の動物たちのようにそれまで自然界と一体だった我々の祖先は、言葉を用いることになり自然界と対峙たいじしてしまいました。
それを私は、「自然界に背を向けて自我という眠りに落ちてしまった」と表現するわけですが、人類は、今のままではまったく覚める見込みもない眠りの中で、共通の夢を見続けているのです。

この表現がわかりにくいと言うのなら、次のように言い換えようと思います。

人類は自然界を独自に解釈して独自の物語を作り、そしてその不安定な物語の砂上に、様々な建物(文化や文明や学問など、そして経済や政治‥‥)を建てて、倒れそうになったら 急場しのぎのつっかえ棒をしながら、その上にさらなる建て増しを続けている‥‥と。


山から都会に戻ってきても、しばらくは現実と遊離しているような自分を感じて生活をしていましたが、新学期が始まってクラスのみんなと再会すると、その気持ちはまた強くなりました。
何だか、自分が一回り大きくなったような、ちょっと大人になったような、そんな気持ちだと言ったらいいのでしょうか?

その時は、あまり深くは考えもしなかったんですが、今考えるととても変です。

だって、山で感じたのはちっぽけな自分だったはずなのに、帰ってきたら大きな自分を感じているって、これってどう考えても矛盾ですよね。

だけどよく考えたら、「ちっぽけな自分」を知るためには、それを俯瞰ふかんして見なければならないもう一人の自分が必要なわけで、その時のもう一人の自分は「ちっぽけな自分」から離れて、自分を見下ろしている大きな存在になっていたからだと思うのです。

人間の脳がこんな芸当ができるのを見ても、我々の「自分」という意識が、周囲の状況によってコロコロ変わる、神経系の錯覚に過ぎない、実にいい加減なものだったとわかります。

‥‥ところで、今回はなんでこんな話をしたかと言うと、このメールマガジンはまるで山登りのようなものだということを言いたかったからです。

一歩一歩、科学か解明してくれている事実を確かめながら、自分探しの山に登るというのがこのメールマガジンの主旨です。
そして頂上に到達した時、あなたは、吹けば消し飛んでしまうほどの「ちっぽけな自分」に気づいてしまうはずです。だけど、同時にあなたは、「何よりも大きな自分」も感じているはずです。

(注釈) 人間は自分の意志で思考し決断し行動している、と今までは誰もが信じてきましたが、このメールマガジンを読み進んでいただければ、人間は《環境》に動かされていただけの存在であり、今まで信じていた自分など神経系の錯覚に過ぎなかったことに気づくことになります。
その時の心理状態を、ここでは「ちっぽけな自分」と表現しています。そして、神経系の錯覚ではない本当の自分とはこの宇宙であったと気づきます。それを「何よりも大きな自分」と表現しています。
今、この意味が理解できないからといって、短気を起こして登録解除などせずに着いてきてくださいね。我々はまだ登山口に差し掛かったばかりです。

この矛盾したような自分意識を、*分身主義* では、「部分であり、同時に全体である」と表現します。

分身主義とは

でも、焦らずにゆっくりと、科学の解明してくれている事実を拾い集めながら登って行きましょう。山登りに焦りは禁物です。

自然界に背を向けて自我という眠りに落ちてしまった人類は、それから何万年という長い長い歴史を経てもなお、錯覚の自我の見る夢の中でずっと生きてきたというのに、一朝一夕でそこから覚醒して、本当の自分に戻れるはずもありませんからね。

だからと言ってそんなに悲観することもありません。

この私でさえ、科学が解明しているものを整理していった先に、すんなりとたどり着けたのです。
それを皆さんと一緒に、もう一度同じ道をたどろうとしているだけのことですから。
どうしてそんなことをするのか、ですって?

第一回目のメールマガジン『なぜ世界は山積みの問題を解決できないのか?』にも書いたように、このままではもう世界は立ち行かなくなってきたからです。

元々、人類は自然界を独自に解釈して独自の物語を作り、そしてその不安定な物語の砂上に、様々な建物(文明・文化・学問・経済・政治活動など)を建ててきてしまったのですからね‥‥。

そう言ったからといって、「その全てが間違いだった」などと言っているわけではありませんよ。地盤が軟弱で不安定だったと言っているだけです。


■□━━━━━━━━━・・・・・‥‥‥

父が山が好きな理由は、大自然の懐に抱かれると人間の小ささを感じるからと言うことでしたが、私が山が好きな理由はもう一つあります。

知らない誰かとすれ違う時に、この都会で「こんにちは!」と挨拶したら、頭がおかしい人かと思われて怪訝けげんな顔をされてしまいますが、山ではそれが気軽にできますし、ちゃんと笑顔で挨拶を返してくれるという点です。

そしてまた、目的が同じなので、下山する人から「頂上まではもう少しなので頑張って!」などと励ましてもらえたり、会話ができたりすることです。

個人主義の特徴は、それぞれが違う山を違う目的で歩いたり頂上を目指したりしていたと言いましたが、山では目的も目指す頂上も同じだからです


悲しいことに、こんなに素晴らしいことが、今の人たちはむしろ煩わしいという感覚さえ持っているようですし、もし、都会で見ず知らずの人に「こんにちは」などと言ったら怪しまれたり、警察に通報されたりしてしまいます。

最近では、婦警さんが小学校に出向いて、子どもたちに「知らない人に声をかけられたら人さらいかと思いなさい」などと教えたり、声をかけられた時の逃げ方などを教えるようです。

こんな大人たちに育てられた子供たちの心が、どんな将来を作るか想像してみてください。

百台もの監視カメラをつけた幼稚園が、親たちの支持を得ているそうです。
カメラとは親たちの不安の象徴です。
それほどの不安に囲まれて育った子どもたちが作る未来は、監視カメラでも防げないもっと恐ろしいことが待っていそうに思えてなりません。

このメールマガジンを読んでくださっているあなたは、監視カメラがなければ不安だという危機感よりも、監視カメラがなければ不安な時代から抜け出せなければ、人類はもう終わりだという危機感を持ってくださっていると信じています。

それさえも気づかない人ばかりなら、人類は本当に終りなんですよ。
創刊号に書いたように、世界は解決できるはずもない問題をますます山積みにしていくばかりだからです。

誰もが自分の利益ばかり考えて、自分の主張ばかり通そうとし、互いに相手をののしり、足を引っ張り合い、攻撃し合っています。
それは個人のレベルに限らず、企業や政党や宗教レベル、あるいは国レベルなど、あらゆる場所で同じことをしているのは誰でもわかっているはずです。

攻撃された側は、より強い力で反撃しようとするのが常で、争いはますます激しくなるのは不可避なことです。
だけど、そうして互いに傷つけ合うことは、自分で自分の身体を立ち直れないほどに深く傷つけていたのと同じだったということに、人類はまだ少しも気づいていないのです。

錯覚の自我にがんじがらめに縛られた人類は、ついにここまで来てしまいましたが、ここから脱出することは不可能ではありません。
このメールマガジンは、私個人のとんでもない夢物語を聞いていただくために発行しているわけではありません。

「真の科学」は、人間が、そしてあなたがどのように行動を取らされていたのかということを解明しています。
そのことを、影響力のある、私以外の数人の方が理解できたなら、まるで手品のように一瞬にして今の環境から新しい環境に移行できます。

《環境》が変われば、我々の行動が変わります。
我々は自分の意志で行動していたのではなく、《環境》に行動させられていただけだったからです。

そのことは、今までの人類が、その長い長い歴史の中で、たった一つの例外もなく、すでに実証済みだったんですよ。ただ、そのことに気づいていなかっただけなんです。
これから真の科学の視点で調べていけば、そのことがはっきりとわかってきます。

※ちなみに、この文章は、現代人たちが閉鎖的なことを批判しているのではありませんよ。今の我々の脳を取り巻く《環境》が、我々にそのような感情や行動を起こさせる環境(=個人主義的環境)にあるだけです。「分身主義は批判とは無縁です」この意味は近いうちに改めて詳しく説明します。


■□━━ 編集後記 ━━━
今日の行程『ちっぽけな自分を知った時‥‥』はここまでです。お疲れさまでした。

では、いつもの合言葉。
世界中に山積みされていく問題を作る原因は、“わたし”の中にありました。
そして、世界中に山積みされている問題を一気に片付ける鍵も、“わたし”の中にありました。(わたし=自我)

今の時代だからこそ必要な、科学が解明している本当の“自分”を見つけに行きましょう。

このメールマガジンと並行して配信している、 YouTube の『分身主義講義』ですが、第二回目の講義のタイトルは「真の科学って何?(前編)」です。
(*最後に出てくるURLは現在閉鎖しました)

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ちょっと補足しておきます。

植物や動物の生態を説明する時に、「戦略」とか、「防衛」などという言葉を多用する先生がいますが、それらは全部、「真の科学」ではありませんよ。

だけどほとんどの学者先生が、それらの言葉を使うことが格好良く感じるようですし、それらの言葉を使ってさえいれば科学的に聞こえる、などと勘違いしている傾向が見られます。

今、科学を勉強されている若い方は、いくら相手が偉い教授であろうと、それらの言葉には騙されないで、「真の科学」を目指してくださいね。
(『📌真の科学とは何か?』)

それらは、教授すらもまだ「自分とは何か」をよく知らなかった頃の、古い時代の科学と思ってください。

神経系が錯覚を起こすことで見ていた我々の「自我」ですが、その錯覚に過ぎなかった「自我」が作ってしまった物語を、植物や動物や自然界のふるまいに当てはめてしまっても、それは自分の都合に合わせた「作り話」に過ぎないわけで、そのようにして導かれた解釈は、科学的な正しい解釈などであるはずもなかったわけです。

そんなことをしている限り、人類はいつまでたっても、科学が指し示してくれている「本当の自分」を知ることはできません。*分身主義* が見ている美しい風景を見ることも、当然できるはずもありません。
このままでは、世界は解決できない問題をどこまでも積み上げていくばかりです。


🔖NO.4 その先に希望さえあれば登って行ける

科学は、地球環境を破壊したり物騒な兵器を作りもしてきたが、それは科学に罪があるわけではなく、科学を扱う人間の欲や恐怖という感情が科学を利用しただけである。世界の平和や世界中の人の幸福を願う人間が科学を扱うなら、世界中の人の心を一つにしてくれる唯一のものになる。
科学こそ、全人類が寄りかかっても倒れない、太い一本の大木である。


この世界から武器やお金がなくならない限り、世界は平和とは永遠に無縁です。

お金は、世界中の人の心に妬みや恨みや怒りや不公平感や不満などの感情を呼び起こします。そしてその始末のために武器が使われたりします。
お金は、優越感という最も卑しい感情でしか人を幸福にできません。

それなのに我々は今、武器やお金を使って、世界を平和にしようとしています。何という矛盾でしょうか?

だけどこの世界から武器やお金をなくすことなど、今の我々の脳では絶対に不可能であるというのもまた事実です。

今の我々の脳が作っている「個人主義的な世界」を維持していくために、今の我々の脳がお金や武器を必要としているからです。


脳をパソコンの世界に置き換えて説明すると、今は国ごとに異なるOS を装備して、そのつど変化してしまうような プロトコル(コンピュータ同士が通信を行なう上で相互に取り決めた文法)を使っています。
だから、一つの言葉が全く違う言葉に変換されて解釈されてしまったりするわけです。

武器もお金も不要な世界が生まれるためには(作るのではなく敢えて「生まれる」と書きました)、我々の脳に、新しくバージョンアップされた OS を、つまり、今までのどんな OS とも互換性があり、全てのプロトコルを包括できる新しい OS をインストールする必要があります。

ここで言う 新しいOS とは、具体的に言えば、「科学が教えてくれている”自分”という意識」のことです。

今まで我々は、この神経系の錯覚の自我に縛られていたわけですが、世界中のより多くの人が、現代の科学が解明している「自分」を知った時、つまり錯覚の自我から解放された時という意味ですが、その時、我々の心の中にあった妬み、恨み、怒り、不公平感、そういった争いの種が一切なくなり、武器もお金も不要な世界は向こうから両手を広げてやってきます。

それを、これから皆さんと一緒にやろうとしているわけです。

ところで、科学にこだわる理由はどこにあるのでしょう?
何故、「自分」の解明を科学に求めるのでしょうか?

別に宗教でも哲学でもスピリチュアルでも良いはずです。

科学とは、それらと同じように自然を認識するための一つの方法論に過ぎません。
しかし、自然界を唯一師と仰ぎ、根気強く実験や観察を繰り返して、我々人間の感情などに基づく独断や偏見や推論を何度も何度も自然界に修正してもらいながら歩む謙虚な学問です。

人間を中心とした学問ばかりの中で、自然界中心の謙虚な学問は、科学をおいて他にありません。

自然界とガッチリと手をつないで歩むので、この自然界でしっかりと機能するモノを作り出すことも得意です。
携帯電話、パソコン、冷蔵庫、テレビ、自動車、ロケット、筋電義手‥‥、例をあげたら切りがありません。

人間には電気の存在は見えませんが、科学が作り出すこうした道具がこの自然界でしっかり機能しているということは、その点では、もはや科学が認識している電気の存在は誰にも疑い得ません。
このようにして科学は、万人が認めるしかない普遍的な事実を突き付けてくれながら歩む学問です。

例えば電気炊飯器ですが、電気の供給されている場所なら世界中どこであっても、お米と適量の水を入れて人差指でポンとスイッチを入れさえすれば、必ずホカホカの美味しいご飯が出来上がります。
菜食主義の人がスイッチを入れればホカホカの焼き芋が飛び出してきたり、イスラム教の人がスイッチを入れれば何か他のものが出てきたり、など絶対にありません。

人間の感情などに基づく独断や偏見や推論は数限りなく存在し、対立も止むことはありません。
しかし、それらの正誤を何度も何度も自然界にお伺いを立てながら歩み、万人が納得せざるを得ない普遍的な正解を引き出してくる謙虚な学問である科学こそ、世界を一つにしてくれる可能性を秘めているのです。

■□━━━━━━━━━・・・・・‥‥‥

誰一人として、苦しいだけの山登りなどする人はいません。
その先に希望がなければ、こんな、自分探し登山などする気も起きません。
逆に言えば、その先に希望さえあれば、どんなに苦しい山登りでも人は登頂を成功させてきました。

武器やお金がなくなって、人々の心が一つになった世界というものを想像して、私はそれを『ブンシニズム・ドット・ネット』という「未来モデル小説」にしてみました。

無料なので是非、ご一読を。
http://www.bunshinism.net.ne.jp
(*現在はホームページは閉鎖しました)

内容は一緒ですが、プリント用にページ数を少なくしたものも用意してあります。

ちなみに下の画像は、それをプリントアウトして自分で綴じたものです。
写真をクリックしていただけばプリント用のページに飛びます。
(*現在はホームページは閉鎖しましたので、プリント用はありません。下の画像に張ったリンクはnoteに飛びます)

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小説はフィクションに過ぎませんが、人類がその新しい世界を手にすることは不可能ではありません。
そのように断言する根拠をこれからお話します。

このメールマガジン『現代科学が解明した・自分』の帰着点は次の2点に凝縮されます。

1、この身体が自分というのは、神経系の見ていた錯覚であった。科学が解明した「自分」は138億年前に産声を上げたこの宇宙だった。

2、我々には今まで言われていたような「意志」などなかった。《環境》から浮かび上がらせ・られた「意志」に、思考や行動を取らされていただけだった。

私たちは誰もが、あたかもこの境界線を持って存在しているかに見える身体の内側が自分で、その自分の意志でものを考えたり行動したりしていると信じています。

しかし科学が解明したものは全く正反対でした。

最初に結論じみたことを言ってしまいますが、自分とはこの身体の内側ではなく外側も全部‥‥、要するにこの宇宙こそ自分だったんです。

我々は戦争をしたり、互いにいがみ合ったり、環境破壊をしたりしていますが、実はそれは自分で自分の身体を傷つけていたのでした。

そして、我々は今まで言われていたような自分の意志で考えたり行動したりしていたのではなく、この内側が自分であると錯覚している脳が、その脳を取り巻く《環境》によって脳内に浮かび上がらせ・られたある方向性を持った幻想を、自分の中から湧き出てくる「自由意志」と思いこんでいただけだったんです。

わかりやすく言えば、我々の取り得るすべての行動は、他の全ての生物がそうであるように、《環境》に動かされていただけだった(*1)と言えます。

(*1 )我々は自分の自由意志で行動を取っていたのではなく、環境に動かされているだけの状態だったと知った時、違和感や嫌悪感を感じるのは、その人の脳が「個人主義的な環境」の中に置かれているからに過ぎません。自由意志の反対は不自由ではなく、自由意志という呪縛から解かれた状態、むしろ真の自由であり、全ての不安や恐れからも解放されます。

私が今、いろいろ考えながらパソコンに向かって文章を入力していることも、実は、私の脳を取り巻く《環境》にものを考えさせられ行動させられていただけだったという意味です。

もちろん、《環境》が何らかの意図を持って私を操っているなどという意味ではまったくありませんよ。

我々は今、神経系が錯覚している「自分」にがんじがらめに縛られて生きています(*2)が、そんな我々が無意識で作るこの環境を、私は個人主義的環境と呼ぶことにしています。

(*2)人類が、科学が解明している自分を知ったとしても、相変わらず、この身体の内側が自分であるという観念は完全に消えることはありません。消そうと努力しろなどと無理難題を突き付けているわけでもありません。
消えるのではなく、私はそれを「薄まる」と表現したいと思います。光の三原色のように淡く透き通って、他の色と自由に重なり合って全ての色彩を作る可能性を秘めた状態になることをイメージしています。

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その「個人主義的環境」がこの脳に浮かび上がらせる「意志」こそ、武器やお金を必要とし、戦争や環境破壊で自分で自分の身体を傷つけるような行動をさせる本当の原因です。

それに反して、本当の自分とは何であるか、我々の「意志」というものはどのようなメカニズムで生み出されているか、我々は行動というものをどのように取らされていたのか、ということを科学的に知った脳が作る環境を、私は「分身主義的環境」と名付けました。

さて、私が書いた小説の「武器もお金もなくなって、人々の心が一つになった世界」が実現可能だと断言する根拠はここにあります。

我々は《環境》に動かされているだけだったということは、逆に言えば《環境》が変われば行動も変化するということだからです!!

そして我々の行動が変化した時、一瞬にしてこの世界は美しい色に塗り替えられているはずです。

想像してみてください!

武器もお金も不要になって、人々の心から妬みや恨みや怒りや不公平感や不満などが消えて、みんなが仲良く手をつないだ世界を。
今までの優越感という幸福感が、人々が最も嫌悪する感情に変わった状態を。
それに反して、助け合って生きていると感じた時に幸福感がわきあがるようになった状態を。
何故ってみんなが助けているのは、つまり本当の自分ですから。

そんな世界がこの山を登りきった先に待っていることを想像してみてください!

我々には希望があります。
だから、この苦しい山登りもきっと成功させるでしょう。


■□━━ 編集後記 ━━━
今日の行程『その先に希望さえあれば登って行ける』はここまでです。お疲れさまでした。

最初に結論じみたことを話したことで、我々がこれから登ろうとしている山の外観が見えてきたと思います。
どんな山なのかもわからずに登らされるのは、不安以外の何物でもありませんから。

後は、一歩一歩足を滑らさず着実に、科学が解明しているものを拾い集めながら登ればいいだけです。

それではいつもの合言葉です。

世界中に山積みされていく問題を作る原因は、“わたし”の中にありました。
そして、世界中に山積みされている問題を一気に片付ける鍵も、“わたし”の中にありました。

今の時代だからこそ必要な、科学が解明している本当の“自分”を見つけに行きましょう。


このメルマガと並行して配信している、 YouTube の『分身主義講義』ですが、第三回目の講義のタイトルは「真の科学って何?(後編)」です。
(*最後に出てくるURLは現在閉鎖しました)

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動画の補足:
現在の医学というものは、今の人間の作り上げている物語に科学を利用しているだけのものだったということを知って欲しいと思います。
それは科学とは言えないものです。

なぜ「真の科学とは何か」を知る必要があるかというと、それがわからない限り、人間は傲慢で、自分の感情や欲望で科学を扱ってしまい、永遠に「本当の自分」を知ることができないからです。



🔖NO.5 分身‥‥宇宙という劇場の、この配役たち

この宇宙は、素粒子たちが自然界の法則というシナリオに基づいて演じさせられている劇場です。
この宇宙に存在するあらゆるもの、天体も石ころも木も草も動物も我々人間も鉛筆も消しゴムも、全てのものが、素粒子がきらびやかな衣装をまとって演じさせられている役者たちです。
その配役たちのことを、ビッグバンから分かれたからだという意味で、分身と呼ぼうと思います。


今日は一気に五合目まで登ってしまいますよ。
まだ、なだらかなので今のうちに距離を稼ぎましょう。

2003年2月11日。NASA(アメリカ航空宇宙局)は宇宙背景放射観測衛星WMAPの観測から、宇宙の年令が138億歳で、その誤差は2億歳以内という高い精度で求められたことを発表しました。

情熱的で好奇心が旺盛な科学者と呼ばれる方たちによる根気強い観測や、緻密な計算の結果、138億年前の私たちの宇宙は今のこの大きさではなく、ギューッと凝縮された、ものすごい高密度・高温の火の玉状態だったとわかりました。

その時代の宇宙の状態をビッグバンと呼んでいます。

では、ビッグバン以前は?

残念ながら、インフレーション理論などの有力な仮説は提出されていますが、まだ証拠不十分で解明されているとは言えません。
またどうして無から時空が生まれたのかというのも、量子論の「トンネル効果」などを使って理論的に説明しようと思えばできないことはない‥‥といったところです。

ともあれ、時空が生まれたことは確かなことだし、宇宙のことをあれこれ考えてしまう我々人間の存在も疑うことはできません。
この自分探しの登山は、現代科学が解明しているものだけを手掛かりにして登るので、ビッグバン以降の話をします。

さて今日は、この138億年を一気に見ていこうと思いますので、覚悟して下さい。細かい部分は省略してどんどん進みますよ。

まず私は、いつもビッグバンの初期をイメージする時に、ある1点から瞬時に野球のたまくらいの大きさに膨張した空間を思い描くことにしています。
これくらいなら手のひらにも乗るし、イメージしやすいからです。

今、しばし時間を止めますので、その大きさの空間を目をつむってイメージしてみてください。
ものすごい高密度・高温の火の玉状態ですが、イメージなので手のひらは火傷しませんからご安心ください。
また、確かに高温の火の玉ですが、まだ光は電子にさえぎられているので薄暗い空間です。
うまくイメージできましたか?

では行きますよ!
138億年の旅の始まりです!

あなたの手のひらに乗っていた可愛らしいビッグバンの球は、一時停止ボタンを解除したとたん、光の速さをはるかに超えて大膨張をします。
1秒後、1光年(光が1年で進む距離)にまで広がったと書いてある本もあります。
宇宙空間の広がる速さは、1秒間に30万kmも進むことができる光の速さでもまったく追い付きません。

もちろん、そのような大膨張を引き起こす大本の力はその以前にあったわけで、その時の力と方向性が、この自然界の法則という全シナリオを決定することになったと言ってもいいものです。

あなたは、その超高速で広がりつつある空間のちょうど中心に取り込まれて、今、中の様子を観察しています。

でもまだ暗いままで何も見えませんね。
素粒子の世界です。
素粒子とは、この宇宙に存在する様々な物質の、もっとも最小の部品のようなものだと思ってください。
その部品は、6種類のクォークと、6種類のレプトンと、3種類(グルーオン、ボゾン、光子)のゲージ粒子です。

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空間が広がることによって、当然、中の温度は下がります。
温度が下がると、素粒子が結びついて、もっとも単純な水素やヘリウムの原子ができてきます。
すると、それまで電子によって邪魔されていた「光」がまっすぐに進める(直進できる)ようになります。

ちなみに光とは、量子論では光子こうしと呼ばれるりっぱな素粒子の仲間です。
先程の部品で言えば、ゲージ粒子に属します。

いよいよ光が直進できるようになって、暗い空間が透明な光で満たされてきましたね。
これを「宇宙の晴れ上がり」と呼んでいます。
もう宇宙誕生から38万年ほど経っていますよ。
空間の大きさも、半径4000万光年にまで膨張しています。
しっかりついてきてくださいね。

この「宇宙の晴れ上がり」までの期間がビッグバンと呼ばれています。

初めに書いた、宇宙背景放射観測衛星WMAPの観測していたのは、この晴れ上がりの光でした。
その時の光の波長は、138億年経った今、宇宙の膨張とともに1000倍にまで引き延ばされて、我々のもとに宇宙のあらゆる方向から、3K(摂氏マイナス270度)という超低温の微弱な電波として届いています。

宇宙に現存する最古の化石と言われるゆえんであり、ビッグバン理論の最大の証拠でもあります。

ああ、そろそろ、水素原子やヘリウム原子が、宇宙に存在する重力によって寄り集まって原始銀河(銀河を形成しつつあるガスの雲)や、そこから恒星や惑星が誕生していくのが見えてきましたね。

太陽のように自分自身で輝いている星が見えますか。
それを、恒星こうせいと言いますが、これは水素原子4個でヘリウム原子1個を作る「核融合反応」によるものです。

ちなみに、我らが誇るべき分身さんであるアインシュタインさんの有名な式 E=mc² によると、水素1グラムの核融合によって、温度0℃の競泳用のプール2個分の水を一瞬にして沸騰させることができるそうです。

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E :エネルギー
m:質量
c:光速度「質量とエネルギーの等価性」

質量をエネルギーに変換したとき発生するエネルギー量は
質量×光速の2乗に比例するという法則

太陽よりも8倍以上重い恒星は、この反応が進んで中心部に重い原子がたまっていきます。
例えば、炭素、酸素、ネオン、マグネシウム、ケイ素、硫黄、カルシウム、鉄などと、鉄よりも軽いほとんどの原子が作られるわけですが、鉄はもう核融合をしないので、やがて重力と圧力のバランスが崩れ爆発が起きます。

ほら、至る所で爆発が起こっているのが見えてきました。
この爆発を超新星爆発ちょうしんせいばくはつと呼んでいますが、それによって鉄よりも重い原子が生まれます。

あなたも一度は見たことのある元素(=原子)の周期律表に載っている様々な原子が、こうしてできあがったのです。

でも原子と言っても、性質の違いに対して人間が勝手に名前をつけているだけで、元々の部品は全く同じものだということを忘れないでください。

部品の組み合わせが変わると、そこに新たに性質や働きの違うものが生まれるのは当然のことです。

だけど「当然生まれる性質や働き」というのは表層的なものです。

そこだけに目が行ってしまうと、シナリオに則って演じさせられている役者たちのきらびやかな衣装だけに目が奪われて、肝心の「演じている役者の立ち居ふるまい」が見えなくなってしまいます。

芝居を観る時に注意を払うのは、彼らの衣装だけではありませんよね。

それと同じように、大事なことは、この宇宙の全てのものを、素粒子たちの演じている姿であるという視点で見れるようになることです。


あっと言う間に、宇宙が誕生してから91億年経ちました。
今から逆算すれば46億年前です。
そう、我らが地球が誕生した年です。

宇宙を漂うガス(空気のような気体)や、ダスト(砂粒よりも細かな固体)の集まりからしだいに太陽が形作られ、同じ頃、その周囲をまわるガスやダストが、地球やその他の惑星となっていきました。

ガスやダストというのは、超新星爆発などで今はもう消えてしまった星々が宇宙に残した"かけら"のことです。

そろそろ地球最初の生命が海中で誕生し始めました。
海に含まれるさまざまな原子が組み合わさり、しだいに複雑な有機物となるという化学反応が、やがて最初の生命の誕生につながりました。


さあ、もう138億年経った現代に到着しました。
この文章を書くことを演じさせられている私がいます。
あたかも境界線を持ってこの宇宙の一部を占有して存在しているかのように見える、あなたがいます。

その身体を形作っている原子、骨の中のカルシウム、血液中の鉄、身体の組織の炭素、DNAを構成している窒素・水素・炭素、他にも身体を作っている微量なあらゆる原子ですが、これらは宇宙に輝く星々の中で生まれ、まき散らされたものであることを、今日見て来たように現代の科学は解明しています!

そしてそれらはみんな、ビッグバンの時に存在していた素粒子という部品が、長い年月をかけてくっついたり離れたりして作られてきたものであることを解明しています!


この早回しの138億年を、もう一度振り返ってみてください。

そうすれば、この宇宙が、素粒子たちが自然界の法則というシナリオに基づいて演じさせられていた劇場であったことがわかるはずです。
我々、人間も、素粒子たちが自然界の法則というシナリオに基づいて演じさせられている役者の一人一人です。

私が書いたはずのこの文章も、実は私はその配役を与えられた役者に過ぎず、私が書いたのではなく、この自然界という劇場で書くことを演じさせられているだけだったわけです。

不思議ですか!?

素粒子という部品が組み立てられて私になって、そして今この文章を書かされている私がいる。

でも、このパソコンだって、0と1を組み合わせるだけで、こんなにたくさんのことができているじゃないですか!?

そう考えると、大して不思議でもなくなりますよね。

そのようにして、この宇宙に存在している全ての物が、素粒子たちが自然界の法則というシナリオに基づいて演じさせられている役者の一人一人だったんです。

この役者たちのことを、ビッグバンから分かれたからだという意味で、分身と呼ぼうと思います。
分身と言っても、それは元をたどれば一つに収束します。

そう、あなたが先程イメージして下さった野球の球ほどのビッグバンです。

■□━━━━━━━━━・・・・・‥‥‥

「晴れ上がり」より向こうの宇宙は、光が閉ざされているので、どんなに高倍率の望遠鏡が発明されても、もう我々には観測することは不可能です。
ですから、それをここでは仮に「宇宙の果て」と考えてみます。

すると我々から見た宇宙の形が、なんとなくイメージできますよね。
半径138億光年の球体です。

でも、我々が観測している138億光年先から届けられる「晴れ上がり」の光は、138億年前のものです。
光が我々のところに旅してきた138億年の間にも宇宙空間は膨張を続けているので、実際には宇宙の果ては約470億光年先に移動していると推定されています。
しかも、この宇宙は現在、光の3倍以上もの速さで膨張を続けているというので、その場所はますます我々には観測不能になります。


この宇宙では、情報は光速以上の速さで伝わることはありません。
我々が地球から見ている100億光年先の天体は、それは100億年前にその天体から放たれた光を見ているわけです。
つまり、我々は常に過去の宇宙の「幻影」を観測しているということになります。

ちなみに、あなたが今、20 m 先に立っている木が風にそよいでいるのを見ているとします。それは太陽の光が木に反射して目に届いた光の粒子を木として見ているわけですが‥‥

‥‥それは常に、0.000000067 秒前に反射された木の「幻影」を見ているんです。

ところで、この宇宙の姿は、常に観測者のいる場所を中心にした球体として見えます。
我々は地球からこの宇宙を観測しているわけですから、地球を中心にして半径138億光年の大きさの球体をイメージすればいいわけです。

もし瞬間移動で今、地球から100億光年離れた場所の天体に立ってこの宇宙を観測することができたとしたら、その地点を中心にした半径138億光年の大きさの宇宙が見えます。
我々にとっては「果て」だったその先も、その地点からは見えるわけです。

でこぼこのない地球儀のような地球をイメージしてみてください。

あなたには、360度見渡せる地平線が見えています。

その地球の上を100km歩いて行っても、その先には永遠に360度見渡せる地平線が広がって見えるはずです。
そんなものをイメージしていただければいいと思います。

ただ、実際の宇宙は、3次元に時間の1次元をプラスした4次元で考えなければいけません。
それを時空と言います。

瞬間移動で地球から100億光年離れた地点から見る地球は、もちろんそこから100億光年離れた位置にあるわけですが、その場所はまだ宇宙ができてから37億年しかたっていない場所なので、地球は生まれていません。
その反対に、地球にいる我々から見たらまだ宇宙が出来たばかりの時に生まれた赤ちゃんの天体が、地球から100億光年離れた地点から見ればりっぱな銀河群に成長して見えているはずです。

これは矛盾しているように思われるかもしれませんが、それがこの宇宙の真の姿、4次元の時空というものです。

我らが誇るべき分身さんであるアインシュタインさんによると、どうやら時空とは、粘土のように歪んだり、伸び縮みしたりするものだったようです。

そんなこと我々の日常とは関係ないや、なんて言わないでくださいね。
相対性理論はこの自然界を正しく認識しているものなので、話を日常的スケールに戻しても矛盾するものではありませんし、現代ではむしろ必要です。

実は、カーナビや携帯のGPS機能も、相対性理論の理解があって正しく機能しているんです。
地上から2万km離れた上空を高速で移動している複数の人工衛星から発射される電波と、受信点に届くまでの時間とによって、我々の位置を割り出しています。

しかし、相対性理論によると「高速で移動する物の時間はゆっくり進む」し、地上との重力の違いも考慮に入れて、地上の時間との誤差を微妙に補正しなければ、自分の今いる位置を正確に割り出せないことになります。

■□━━━━━━━━━・・・・・‥‥‥

この宇宙の果てから届いている、晴れ上がり期の名残、つまり宇宙背景放射は「宇宙に現存する最古の化石」などと呼ぶ人たちもいます。
しかし化石などと言って他人事でいる場合ではありません。

今それは、光子(光の粒子)となって、四方八方から片時も休むことなく我々にキラキラと降り注いでいます。
人間のどんな営みにも関係なしに、どこにいようと何をしていようと、誰にでも平等に分け隔てなく、まんべんなく降り注いでいます。

計算によれば、大気を全て通過できたとしたら、1立方cmのサイコロくらいの立方体に411個だそうです。

今、目を閉じてその降り注ぐ光の粒を感じてみてください。
現代科学が解明している、我々がまだ分け隔てない光だったころの姿です。
138億年を一つにつなげる光。
我々を一つに取り戻す光。
現代科学が与えてくれるこの共感こそ、世界を美しい色に塗り替える力となります。


■□━━ 編集後記 ━━━
今日は一気に5合目まで登りました。『分身‥‥宇宙という劇場の、この配役たち』はここまでです。お疲れさまでした。

極微きょくびの世界から極大きょくだいの世界まで数分で見てきました。
宇宙の膨張は、空間自体の膨張であるため、光速を超えることも可能だったわけですが、我々のイマジネーションは、その空間の速度も超えて、一瞬にして宇宙の果てを行って帰ってこれます。

いつでも、イメージできるようにしていてください。

実はこの「自分探し」の山の頂上に立つには、この極微と極大との行き来がスムーズにできるようになっておく必要があります。
それは、登山には、ザイルやピッケルやアイゼンなどの習熟が必要なことと同じようなことかもしれません。

でも、それらと同じで、慣れてしまえば別に難しいことでもなんでもありませんよ。

それは、この境界線を持って存在しているかのように見えている身体を自分だという錯覚に、あなたが生まれてからたった数年で慣れてしまったよりも、本当は易しいことなんです。

だって、それは数年ですが、こちらは138億年ですよ!
年季が違いますよ、年季が!

世界が山積みしている解決できない問題を一気に解決するためにも、これからは、この視点が必要になってきます。


🔖NO.6 どこまでも拡大する自分意識

何かを認識するといっても、モノをそのままの形で受け取ることは決してできない。我々が受け取っているものは、言葉に置き換えられた「幻想」だけである。

(説明:モノを認識するということは、モノそのものが脳の中に飛び込んでくるわけではなく、五感が知覚したモノに何らかの意味づけがなされて意識に上った状態です。
モノそのものを認識しているのではなく、言葉によって意味づけされたモノを認識しているわけです。
言葉を持たない動物は、五感を通してモノを見たり聞いたりする(知覚する)ことはできても、モノを認識しているわけではありません。言葉を持たない彼らには、人間で言うところの、つまり人間と同じ次元の「意識」というものがあるのかどうかすら怪しいものです)


さて、いよいよここから急な登りが始まります。

現代科学が解明しているものを拾い集めながら「自分探し」をしているわけですが、科学とは徹底した唯物論です。

この宇宙の全てのモノを、素粒子という部品を様々に組み合わせてできた物質として理解します。
人間の心や感情すらも、脳の神経細胞という物質のメカニズムとして理解しようとするものです。

物質のことを、形あるものという意味で、ここでは「実体」と言い換えてみます。

しかし問題はその先です。

人間はモノそのものを、そのままの形で認識することは決してできません。

いくら科学が、「おっほん、地球上の万物を育てる光と熱の源となっている太陽の話だけどね、あれっていうのは太陽系の中心にある恒星でね、地球からの距離は約1.5億キロ、直接見える部分を光球といい、外側には彩層やコロナがあるんだね。光球の半径は地球の109倍、質量は33万倍、平均密度は1.4。それでもって表面温度はセ氏約6000度。恒星としては大きさも明るさもふつうの星で、エネルギーは中心における水素の核融合反応によってまかなわれているんだね。あっ、それと我々が見る太陽は、いつも8分19秒前の姿なんだよね」などと、どんなに言葉を尽くしても、それは太陽そのものではありません。

どんなに言葉(ここでは数字も言葉に含めています)を尽くしても、太陽そのものが、脳内に飛び込んでくるわけではないですからね。

何かを「認識」するということは、単に知覚するのとは違い、必ず言葉による何らかの意味づけがなされます。
言葉によって意味づけされたものは、モノそのものではないので、「実体」ではありませんよね。

こちらを「幻想」と言い換えてみます。

「実体」「幻想」という対比的な言葉が出てきました。
実は*分身主義* というのは、この「実体」と「幻想」をはっきりさせるところから生まれたものとも言えます。

このことにより、科学の弱点が明らかになります。

科学はモノを認識するところから始まりますが、それは言葉と無縁な行為ではありません。
言葉を通して何かを認識するということは、「実体」だけを扱おうとしていた科学であったにもかかわらず、認識したと思った瞬間、人間の「幻想」に置き換えられて認識されていたということです。


つまり今我々が行っている自分探し登山は、科学が解明したものだけを手掛かりにして登ると言っても、どこまで行っても最終的には人間の幻想でしかないということなんです。

幻想とは錯覚と言い換えてもいいものですが、錯覚とは、実際にはありもしない物をあると勘違いしているなどと笑い飛ばせる代物ではなくて、その時点では確かに脳内には実在していて、その人の言動に強い影響を与え、それによって周囲の環境をも変化させ得る力を持ったもの‥‥であることは以前言いましたね。

ただし‥‥。

科学は、その人間の認識という「幻想」を、あるいは錯覚をもう一度自然界に戻して確認します。
何度も何度も、その「幻想」を「実体」の世界に戻して実験や観察を繰り返します。
だからこそ、この自然界でちゃんと機能する物を作り出すことができるわけです。

パソコンも携帯も、車も電車もロケットも‥‥‥、直感や感性や想像力などで一挙に真理に達しようとする宗教や哲学やスピリチュアルなどには決して作り出されることはありません。

今こそ、我々は、「自分」とは何かを知る手がかりを科学に求める必要があります。

もう、直感や感性や想像力だけで得た今までの「”自分”意識」では、この自然界でみんなが生活を維持することすら難しくなってきたからです。

今までの「”自分”意識」では、争いや環境破壊を食い止められないということです。
世界中に山積みされていく問題をいつまでたっても解決できないということです。

さて、休憩を取り過ぎました。
早速、登り始めますよ。

えっ、まだ休憩だったの? なんて言わないでください。
今日はちょっと急な登りが続き、あなたの脳が揺さぶられます。
場合によっては岩にしがみついて乗り越えなければならない箇所もあります。

だから十分に休憩を取ったわけです。
それでは、滑落しないようにしっかりと足元に注意して登ってください。

まず、いくら科学が解明した「自分」でも、それはあくまでも幻想でしかないということでしたが、幻想でしかないのだけれど、何度も何度も実験や観察を通して確かめ、そして、この自然界でちゃんと機能するモノを作り上げることで証明を果たすのが科学である。ということを頭の片隅に入れて登り始めて下さい。


最初に、サルを使った面白い実験を紹介します。
我らが誇るべき分身さんである入来篤史いりき あつし、理化学研究所 脳科学総合研究センター)さんたちの行った実験です。

まず、サルの手の届かないところに餌を置きます。
近くには熊手くまでが置いてあります。
サルは頭がいいので、しばらくすると熊手を使って遠くの餌を引き寄せて食欲を満たすことに成功します。

この時、サルの脳の神経細胞の活動を特殊な装置を使って観測してみると、熊手を手に取って眺めている時には、その反応は起こらなかったんですが、熊手を使用した際、彼の脳は熊手を自分の手の一部であると認識しているようだということがわかりました。

つまり、その瞬間、熊手は彼の手の「延長」になったのです。

目の見えない人が杖を使って歩いている時、脳は杖を自分の身体の一部(延長)であると錯覚してくれるから、杖の先端からたくさんの情報を得ることができるわけです。
重機オペレーターの方が機械を自在に操っている時、脳はその機械を自分の身体の一部(延長)であると錯覚してくれるから、自在に動かせるわけです。

道具に習熟するということは、違う言い方をすれば、脳内にその道具は自分の身体の一部であると錯覚する場所を作り上げることである、と言えます。
脳というものが、もし融通のきかないガチガチの石頭だったら、決してそれらの道具に習熟することなどできないでしょう。

つまり、我々の脳の認識している「自分の身体」などというものは、実はカッチリとしたものなんかではなく、このように柔軟に変化してくれるものだったんです。
頑固だったのは脳ではなくて、常識とか固定観念とかいうものが脳をギブスのように固定してしまっていたんです。


これらのことを踏まえて、さらに登りましょう。
突破しなければならない最初の難所に差し掛かっていますよ。

あなたは、筋肉を動かす力は何かご存知ですか?
例えば、目の前に置かれているカップにコーヒーが入れてあり、それに手を伸ばして飲む‥‥机にも椅子にも冷蔵庫にもできないこんなすごいことが我々にできるのも、筋肉があるからですが、その筋肉を動かす力は何だと思いますか?

実は電気だったんです!

我々はみんな電気で動くロボットだったんです!

ではそのロポットを操縦しているのは、一人一人の脳でしょうか?

違います!
それは脳を取り巻く《環境》です!

脳を取り巻く《環境》からの刺激が電気信号となって脳に届き、それにより脳がその人なりの何らかの反応をすると再び電気を発生させて、その力で我々は動いていたのです。

だから、脳はパソコンなどと同じで、《環境》からの刺激(情報)が何ら入力されなければ何もしない脳(?)無し野郎だと考えるとわかりやすいです。

ただし、人間の脳が大量生産のパソコンと違う点は、同じ情報が入力されても一人一人違う反応をする点です。

それというのも、脳というものは、それを取り巻く《環境》によって時々刻々と内部の回路が作り替えられたり、言葉によって記憶を強化させられたりするので、その脳特有の反応をするようになるのです。

ちなみに、今、私はパソコンに向かってせっせとこの文章を打ち込んでいますが、実はこれも私の脳を取り巻く《環境》からの刺激が、私の脳内に電気を発生させ、その電気が、脳内に作られた独自の回路や独自のベルトコンベアーを通過し、私は文章を打ち込まさせ・られているわけです。

独自の回路や独自のベルトコンベアー(言葉を組み立てる流れ作業の台)も、その脳を取り巻く《環境》に作られていくものです。

私の脳を取り巻く《環境》からの刺激がまったくなくなれば、あるいは私の脳を取り巻く《環境》からの刺激を電気信号に変換するシステムが終了すれば、この行為も終了します。パチン‥‥。


注意していただきたいのは、この身体も脳を取り巻く《環境》の一つとみなして欲しいということです。
例えば水分を取り過ぎて膀胱に尿がたまり過ぎている、などというのも脳を取り巻く《環境》からの情報とみなします。

脳は、それを取り巻く《環境》から入力される情報(身体内部や五感から入力される外部情報)を、脳内に作られた記憶の回路によって、あたかも分析や統合のような作用を経ることで、しかるべき出力をする(行動や感情を起こさせる)だけのブラックボックスでしかないと考えると理解しやすいでしょう。

例えば、身体内部から膀胱に尿がたまり過ぎたという情報が来ても、脳内の記憶の回路によって分析や統合が行われ、周囲の環境にトイレがない場合、脳は、「おしっこを我慢しよう」という出力をするわけです。

脳内の記憶の回路というのは神経細胞が作っているもののことで、それを組み立てたり配線を変更したりするのは遺伝子とか、それまでに作られた記憶といったものですが、これらも《環境》に作られるだけのものです。

そう、遺伝子というものも、素粒子という部品が自然法則というシナリオに基づいて、時間の経過と共に組み合わせを変化させ・られながら演技させ・られている一時的な配役たちだったと気づくことはとても重要なことです。

脳も全く同じです。

脳も、素粒子という部品が自然界の法則というシナリオに基づいて、時間の経過と共に組み合わせを変化させ・られたりする中で生まれている一時的な役者たちです。
脳も、一時的に見せている素粒子たちの一側面、一時的な現象として頭の中に乗っかっているのですよ。
しかも138億年の歴史の中のごく最近現れた新参者たちです。

これらはビッグバンから途切れることなく続いている、一つづきの出来事です。
やっぱり時々は、この視点に立ち返ることが大切です。



それではここまでの話を、具体的に図で見ていこうと思います。

我々の全身にくまなく張り巡らされている神経は、その入力部である五感(視・聴・きゅう・味・触の五つの感覚)が環境からの刺激を受けると、ある閾値いきちを超えた場合、電位が発生する(電気が起こる)仕組みになっています。

その時発生した電気は、神経細胞の中を、決して逆戻りはせずに一方通行で進みます。
そして一つの神経細胞の先端まで電気が到達すると、次の神経細胞との間にはわずかな隙間(下図の拡大図に「シナプス間隙」と書いてあるのがそれです)があって、もうその先には電気は行けません。

シナプスの働き


だけど、その隙間を、様々な精神的反応などに影響を与えるドーパミンとかセロトニンとかアセチルコリンとかいう化学物質がその受け渡しを買って出ます。(上図の拡大部分に「神経伝達物質」と書いてあるのがそれです)

それがまた次の神経細胞に電位を発生させ(電気を起こさせ)て、この繰り返しで一方通行の旅を続けるわけです。

今あなたが読んでくださっているこの文章も、あなたの脳を取り巻く《環境》の一つですが、それがあなたの脳を疲れさせることになってしまっているかもしれません。

そんな時、目の前にあるコーヒーカップが視界に入ったとしたら、それらの刺激は脳内に、右手をコーヒーカップに伸ばせという電位(電気)を発生させて、その電気が右手の筋肉に到達すると右手がコーヒーカップに向けて動き出すわけです。

つまり、

①筋肉を動かす力は電気であり、
②我々はその電気で動くロボットであり、
③ロボットを操縦するのはこの脳を取り巻く《環境》だった。

ということです。

今日は、このうちの①と②の認識が、あるいは幻想が、あるいは錯覚が本当かどうかということを、自然界に戻して何度も実験や観察を繰り返した結果、ついに生まれたすごい道具である「筋電義手」というものを知っていただきたいと思います。

③は、この登山の頂上付近に待ち構えている最も難関な場所です。
その場所を制覇できるかどうかが頂上に立てるかどうかの分かれ道とも言える場所ですが、ここまで脱落せずについてきてくださったあなたなら絶対に大丈夫です。期待していてください。

「筋電義手」というのは、肘から先が事故などで切断されてしまったような人に装着する義手なんですが、脳から発信された電気信号を、切断された腕の皮膚表面から検出して、その信号を義手に伝えて、義手内に組み込まれている電動モーターを動かし、義手の指や手首を動かすというものです。

下図は、手首から先がない人に装着する義手なんですが、それはカパッとはめるだけで、一切、神経や電流コードを用いて人体側と接続しているわけではありません。

筋電義手

ただ、筋肉を収縮させる時に発生する筋電位には個人差があるので、筋電義手には、その制御信号を学習させるシステムが組み込まれています。
《環境》からの刺激によってこの脳に想念が浮かび上がり、その想念が義手を動かすわけですから、その人の想念に義手が適合していくための学習システムが必要なわけです。

腕や足などを事故などによって失った人には「幻肢痛げんしつう」というものがあります。
これは、消失した手や足の部分をまだあるかのように感じ、そこに痛みを感じたりすることです。

ちょっと自分の腕をつねってみて下さい。
痛いと感じているのは、実はつねられた部分が痛いのではなくて、その部分を担当する脳の部分が、つねられた痛みを感じさせているわけです。

だから脳のその担当する部分を切除すれば、当然、腕をつねっても痛みは感じません。焼いても熱く感じません。

その逆に、「幻肢痛」は、腕を失っても脳のその部分は残っているので痛みを感じたりするわけです。

このような感覚が残っている人の方が、筋電義手には有利なのは言うまでもありませんが、私が以前、テレビで見た人は、生まれつき腕のないまだ小さな子どもでした。

でも、さすが子どもです。

少しずつ訓練によって動かせるようになっていました。
道具に習熟するということは、この脳に、その道具が身体の一部であると錯覚する場所を作ることだと言いましたが、子どもの脳は頭が固い大人たちとは違うので、上達も早いのです。

「初めのうちは嫌がっていたけど、最近は自分からつけてくれって言ったりします」と、お母さんはおっしゃっていました。
それは、必要性を感じてきたということで、その気持ちがますます筋電義手を動かす力になるはずです。


ところで筋電義手には、皮膚の触覚、圧覚に相当するフィードバック装置も装備されています。先ほどの図をもう一度表示します。(③④)

画像36


これは圧力センサーを義手内部に配置しておき、指が物にふれるとそれを検出し、電気パルス信号に変換し、表面電極により残存断端部などから皮膚を介し、電気刺激として脳へフィードバックするものです。

フィードバックとは、行動や反応をその結果を参考にして修正し、より適切なものにしていく仕組みのことです。

私たちは玉子をそっと割らずにつかむことができます。
何でもないことのように思いますが、これは皮膚感覚情報をフィードバックさせつつ学習した結果なんです。

義手の感覚フィードバックは、その他にも大切な意味があります。
それは使用者が義手との一体感を獲得するのに、非常に役立っています。
つまり、使用者の脳に、その義手が身体の一部であると錯覚する場所が作られるわけです。

日常動作において、私たちは皮膚感覚をそれほど意識していません。
でも情報は絶えずフィードバックされています。
義手の場合も同じで、機械である義手から絶えず情報が送り返されていることにより、一体感が強まります。
その結果、義手の重量も実際ほど重く感じなくなります。


もし脳から発せられた微弱な電気を、離れた所に置いてある筋電義手に飛ばすことができたなら、まるで超能力のようにその機械の指を動かすことができるはずです。
実際に電気を飛ばすことなんてもう夢の話ではないですよね。
その時、筋電義手にセンサーを取り付けておけば、その時誰かが握ればその感触を脳にフィードバックさせることも可能です。


では、ちょっと想像してみてください。
そんな感触があなたの脳に作られた筋電義手を世界各国に設置し、その先にテレビ画面を置いておきます。
すると、あなたは、世界各国の人と顔を見ながら実際に握手している柔らかい感触を味わえます。

その時、「あなた」の身体の延長、つまり脳の錯覚する自分意識は、この世界にまたがった大きな身体を持った「あなた」になっています!

この自分探し登山は、境界線を持って存在しているかのように見えるこの身体が、神経系の作っていた錯覚であったことを知るための登山です。

それが神経系の作っていた錯覚であった証拠は、今回拾い集めてきたように、熊手や杖や重機にまで延長できるということでした。
そしてそれが錯覚であった以上、まさに世界にまたがった大きな「自分」を錯覚することも可能であるということです。

錯覚とは、実際にはありもしない物をあると勘違いしているなどと笑い飛ばせる代物ではなくて、その時点では確かに脳内には実在していて、その人の言動に強い影響を与え得るものである、と言いました。

この、確かに実在している「”自分”意識」という錯覚は、現在では誰もが、境界線を持って存在しているかのように見えているこの身体の内側だと信じています。

そしてその錯覚は、我々の言動に強い影響力を持ち、我々を取り巻く《環境》を「個人主義的な環境」にしています。

今まではこの錯覚でうまくやってこれたように見えますが、これからはその錯覚では世界は立ち行かなくなっています。

人間の錯覚を実体の世界に戻して何度も実験や観察を繰り返し、やがてこの自然界でちゃんと機能する道具を作る科学ですが、その科学に、我々の「”自分”意識」という錯覚を、自然界でより良く機能するものに作り替えてもらいましょう。


■□━━━━━━━━━・・・・・‥‥‥

しつこいようですが、とても重要なのでもう一度繰り返させてください。

幻想とは錯覚と言い換えてもいいものですが、錯覚とは、実際にはありもしない物をあると勘違いしているなどと笑い飛ばせる代物ではなくて、その時点では確かに脳内には実在していて、その人の言動に強い影響を与え、周囲の《環境》を変化させ得るものです。

他の人たちには知覚できないような妄想を抱く人もいますが、その時点では確かにその人の脳内に、ある電気を発生させる刺激剤(多くの場合、言葉という音刺激)として、その人の行動を左右するほどの力を持って存在しているものです。

と言うよりも、今日見て来たように、人間の認識は誰のものであっても全て幻想であり、錯覚であり、妄想です。

人間の認識とは、どこまで行ってもモノそのものをそのままの形で受け取るわけではないからです。

人間が何かを認識したとたん、それはもう「そのモノ」ではなくその脳内の記憶(=独自に作られた回路)などに歪められたものでしかありません。
私たちが目を向けた全てのものは、その瞬間、幻想(=錯覚)の世界のものに変質します。

まるで、見るもの全てを石に変えてしまうメデューサ(ギリシャ神話に登場する魔物)のように‥‥。

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* 元々美少女であったメドゥーサは、海神ポセイドーンとアテーナーの神殿で交わったためにアテーナーの怒りをかい、醜い怪物にされてしまう。
頭髪は無数の毒蛇で、イノシシの歯、青銅の手、という醜い姿に変えられてしまったメドゥーサは、見るものを石にしてしまう力を持っており、これまでは誰も退治できなかった。
ペルセウスは鏡のように磨き抜かれた盾を見ながら、眠っているメドゥーサの首を切った。メドゥーサの首からあふれ出た血は、空駆ける天馬ペーガソスを生んだ。
また、別伝ではポセイドーンとメドゥーサの子である黄金剣を持った巨人クリューサーオールも生まれたとされる。


これが言葉を持ってしまった人間のさがとも言えます。

ちなみに、言葉を持たない動物は、認識とは無縁です。

言葉を持たない動物は、本能としての自分はあっても、人間のような自・他の意識もありません。

この状態を私は「自然界と地続き」と呼んでいます。

動物の世界では、食う方も食われる方も、それは残虐や悲惨といった感情を伴う人間の認識とは全く無縁の世界で、淡々と演じられていることです。

まさに、この宇宙という劇場の中で、自然界の法則というシナリオに基づいて、素粒子たちが時間の経過と共に組み合わせを変化させながら演じさせられている一時的な役者たちですよね。

言葉を持った我々人類だけが自然界からはぐれて、今、迷子になってしまっています。

本来ならひとつながりの自然界のモノに名前をつけるということは、自然界からその部分を切り離すことと同じです。
モノの名前を知らなかった赤ん坊にとっては、花も動物も石ころも川も「地続き」だったのに、名前を覚えていくことで、花と動物と石ころと川とを切り離します。
それが言葉を持った人間だけの、「認識」という錯覚の仕方です。


■□━━ 編集後記 ━━━
今日の登山『どこまでも拡大する自分意識』はここで終わりです。お疲れさまでした。

さて、言葉を持ってしまったことで、ついに自然界から自分たちをも一人一人切り離してしまった人類ですが、我々が再び自然界と手をつなぐためにはどうしたらいいのでしょうか!?

言葉を封印することでしょうか!?


逆説のようですが、我々が再び自然界と手をつなぎ本来の自分を取り戻す方法は、言葉に頼るしかありません。
言葉を用いることで始めてしまった科学の助けを借りるしかありません。

そのために、今この苦しい山登りをしているわけです。
もう、頂上は見えてきています。
でもそこに到達するためには、まだしばらくは突破しなければいけない難路は続きます。
ここからは、今までの古い「”自分”意識」との戦いです。


🔖NO.7 量子論が教えてくれていたこと

「神はサイコロ遊びはなさらない」アインシュタイン分身さんの有名な名言ですよね。
でも、もし運命を決定する神様がいたとしても、その神様でさえ、未来はサイコロで決定するしかないのが運命というものではないでしょうか。

(つまり、この世界で起こっている全ての現象は、“結果から見れば” 物理的なガチガチの因果関係で生じていることばかりですから、あらゆる事象が、それ以外に起こり得なかった必然であると言えます。
しかし、起こった後で、結果から見れば必然だったと言えるだけです。
あらゆる事象はあらかじめ物理法則のようなものでガチガチに運命づけられていると考えたり、未来は完全に予測できると考えるのは間違いです。また、物理的な因果律というのは運命論とは全く違います)

(* ここに記述されている「二重スリット実験」によって、量子とは粒と波の二重性を持つ、というのが現代の量子論の一般的解釈です。ただし、波には「実体の波」と「幻想の波」があることに研究者は気づいていません。それを知ると新たな知見が開かれます➡『遺言書⑧ 量子物理学という迷走』
~量子の世界が教えてくれていたこと~
』)




科学が我々にもたらしてくれた最大の功績は、「自然界のあらゆる現象には原因がある」ということを身をもってわからせてくれたことだと思います。

科学は、この自然界のたくさんの不可解な現象に対して、普遍的な原因を見つけてくれました。

りんごが木から落ちることにもちゃんとした原因がありましたし、雨が降るのも、風邪をひくのも、あくびが出るのも、子どもが親に似るのも、筋肉が動いて物を掴んだりするのも、みんな科学的にちゃんと説明できる原因があることを突き止めてくれました。



科学が我々にもたらしてくれた最大の功績は、「自然界のあらゆる現象には原因がある」ということを身をもってわからせてくれたことだと思います。

科学は、この自然界のたくさんの不可解な現象に対して、普遍的な原因を見つけてくれました。

りんごが木から落ちることにもちゃんとした原因がありましたし、雨が降るのも、風邪をひくのも、あくびが出るのも、子どもが親に似るのも、筋肉が動いて物を掴んだりするのも、みんな科学的にちゃんと説明できる原因があることを突き止めてくれました。

「あらゆる現象には原因がある」ということは、その原因にもまた原因があるということです。

では、その原因の原因は、そしてまたその原因の原因は‥‥、とどこまでも遡っていけばどこに行き着くでしょうか?
その答えは、この前歩いてきた山道で拾いましたね。

そうです。

どんな現象の原因も最終的にはビッグバンにたどり着きます。

当たり前のことですよね。
どんな現象もビッグバンから途切れることなく続いている一続きの出来事だし、ビッグバンがなければ我々さえもここに存在していないし、仕事をしたり、誰かに恋したり、悩んだりもしていません。

これらの洞察から次のような事実が導かれます。

①時間は決して逆戻りはしない。

②この自然界で引き起こされている現象の全ては、“結果から見れば”それ以外には起こり得なかった必然である。


まず、「①時間は決して逆戻りをしない」ですが、「原因 ➡ 結果」という順序は、決して「結果 ➡ 原因」のように逆になることはないという意味です。

このことを、我らが誇るべき分身さんであるホーキングさんは、「時間順序保護仮説」なる著書で証明しています。

その論文を見てみましたが、量子力学や難解な物理法則を駆使して、時間は過去から未来に向かってしか流れないという説を論じています。

でもそんな難解な理論を用いて証明せずとも、時間を過去に遡れるなどと、誰一人、本気で信じている大人はいないのではないでしょうか。
割れてしまった大切にしていた茶碗が、ある日、元の状態に戻っていたなどという幸福な体験を持つ人など一人もいないはずです。


次に「②この自然界で引き起こされている現象の全ては、“結果から見れば”それ以外には起こり得なかった必然である」はどういう意味か説明します。

ある原因がある結果を引き起こし、そのある結果がまた原因となってある結果を引き起こすということは‥‥、下のようにビッグバンから連綿と切れ目なく続いているということですよね。

ビックバン(=原因) ➡ 結果(=原因) ➡ 結果(=原因) ➡ 結果(=原因) ➡ 結果(=原因) ➡ 結果(=原因)‥‥

つまり、ガチガチの因果関係で、この自然界は成り立っているということが言えるわけですから、要するにこの自然界で引き起こされている現象の全ては、どれも起こってしまった以上、“結果から見れば”それ以外には起こり得なかった必然であったと言えるわけです。

ただし、“結果から見れば”という条件を必ずつけることを忘れないでください。

どういうことかと言うと、1955年9月30日の午後5時59分に、ジェームズ・ディーンが、彼の愛車であるシルバーのポルシェ・550 スパイダーで、カルフォルニア州サンルイス・オビスポの交差点を直進中、ちょうど同時刻にその交差点を左折しようとした学生ドナルド・ターナップシードの運転する車と衝突して首の骨を折って死亡したのも、“結果から見れば”、彼らは午後5時59分にそこで出会うしかなかったわけだから、必然的な出来事であったと言えるわけですが、だからと言って、1955年9月30日の午後5時59分にジェームズ・ディーンが死ぬことは運命づけられていた、などと考えるのは間違いだということです。

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その事故が起こってしまった以上、“結果から見れば”、ビッグバンから続くガチガチの因果関係の中で、それ以外に起こり得なかった必然で起こったと言えるというだけです。

これらのことをちょっと頭の隅に置いて、さっそく今日の自分探し登山を始めましょう。


今日の登山で突破しなければならない難所は、量子論の懐疑を克服することです。

量子論というのは、頭の良い理科系の方たちがやる学問で、その方たちが抱えている懐疑を、凡人が克服することなどできるはずはない、と普通は考えるでしょうが、視点を変えることで意外と簡単に解決することができます。

量子論とは、この世界を構成している最小の部品の性質を解き明かす学問のことです。

そんなもの我々の日常に何の役に立つの!? と思われる方もいらっしゃるかもしれません。
でも、これまで登ってきたことで気づかれたと思いますが、自分探しをするのに、その「自分」を構成している部品に目を向けずに何が自分探しでしょうか!?

しかもこの極微の部品は、極大の宇宙のことを知るためにも必要だったわけです。

だけどそれだけではなく、実は、現在の我々の生活と深い深い関係があったのです。

コンピュータで使われる半導体などは、量子力学の波動方程式が不可欠ですし、テレビ、FAX、携帯電話、DVDプレーヤーなど、あらゆる電化製品はみんな量子論が分子や原子、それに電子といった「モノを構成する最小の部品」のふるまいを解き明かしたおかげで生まれているんですよ。

とりわけ電化製品と関係の深い電子の様々な性質を研究することは、量子論の重要なテーマの一つですが、実験や観察の結果、この電子というものは、我々のマクロの世界から見ればとても非常識なふるまいをすると(現在の物理学者の間では)考えられています。

ミクロの世界の特徴として「①不確定性」「②粒と波の二面性」などがあります。

「①不確定性」とは、「ミクロの世界の物質は、ある時点での物質の位置と運動量を、同時に測定・確定できない」というものです。

そもそも我々が空を飛んでいる鳥を認識できるのは、太陽の光が、飛んでいる鳥に当たり、その鳥から反射した光の粒子が目の網膜に届くからです。
光が鳥に当たっても反射しなければ、透明な鳥となって、我々にはその鳥の位置や飛ぶスピードが認識できません。

ミクロの物質は、その位置を正確に測定しようとして波長の短い光を当てると、激しく衝突して運動量が決まらなくなり、かと言って波長の長い光を当てると、運動量はわかるけれども位置は範囲が広がってしまいわからなくなります。

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ミクロの世界では、測定という行為自体がその状態に大きく影響を与えてしまうからです。

また、実験によると、ミクロの物質は時には粒のようにふるまい、時には波のようにふるまうという矛盾した性質があることがわかりました。
これが「②粒と波の二面性」です。それが⇩このような実験です。


一つの物質が粒である性質と波である性質を合わせ持つことなんて、今までの物理の常識では考えられません。
だけど、物理の常識では考えられないことが、実験で起こってしまったのです。実験で起こってしまった以上、今までの物理の常識の方を変更するしかないわけです。

さて、今日のメルマガの最初に、科学が我々にもたらしてくれた最大の功績は、「自然界のあらゆる現象には原因がある、ということを身をもってわからせてくれたことだと思います」と言いました。

それは、この世界はガチガチの因果関係で成り立っていたことの証明でもあるので、その考えを推し進めて、「この世界のあらゆる現象は、あらかじめ物理法則によって決定されていた」と考える物理学者がいてもおかしくありません。

因果律と運命論はまったく別物なのに、それを一緒くたにしてしまったのです。

彼らは「完璧なデータさえ得られるならば、物理法則によって、未来は完全に予測できる」と考えたのです。

しかし、ミクロの世界の研究によって、その認識の変更を迫られた物理学者たちは、ミクロの世界の物質はマクロの世界の物質のような因果関係には縛られていなくて、まったく非常識なふるまいをする‥‥のように割り切って考えることにしました。

だけど、本当にそのように割り切るしかないのでしょうか!?
我々は一つの宇宙の中に住んでいるのに、マクロの世界とミクロの世界が違うふるまいをするなどということを認めていいのでしょうか!?

それに、この世界がガチガチの因果関係で縛られているというのは、今日見てきたように「科学の大原則」ではなかったでしょうか!?


しかし、ともかくそのように割り切った彼らは実験結果を基にして、コペンハーゲン解釈、パイロット解釈、多重世界解釈などという解釈を作り出しました。

これらには「解釈」と名前が付いているように、ちゃんとした理論ではなくて、実験結果に対するつじつま合わせのために生まれた「解釈」に過ぎません。
どうしてかと言うと、ミクロの粒子などは観察が不可能なので、どの理論が正しいかなど誰にもはっきり断言できないからです。

これらの解釈の中で、現在、最も優勢なのは「コペンハーゲン解釈」です。

これは、例えばミクロの物質である「電子」に対してどのような解釈をするかと言うと、電子は原子核の周りに存在しているわけですが、我々が観測していない時は、ある場所に存在する状態、別の場所に存在する状態など、無数の状態が“共存”している‥‥と考えます。

場所Aに存在する確率は20%、場所Bに存在する確率は40%、場所Cに存在する確率は10%というような確率の波の中で重なり合って存在している、と考えるわけです。(下図)

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だけど、これは我々には観測ができないから確率でしか答えられないという意味ではなくて、イメージしにくいかもしれませんが、我々が観測しない限りは、実際にそのような共存状態で存在していると彼らは考えているようです。?_?

そもそも、そのように解釈しなければ理解できない実験結果が得られたからでした。

そして我々が観測した瞬間、その可能性の波は一気に“収縮”し、電子は粒の状態になってどこか一カ所に発見される(下・右図)‥‥というのです。

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これに対して二人の偉大な、我らが誇るべき分身さんたちが懐疑を示しました。

一人は、アインシュタイン分身さんです。
彼は、後の量子力学の考え方の基礎ともいえる光量子などという重要な考えを打ち出した人ですが、この確率的な考えには納得できず、実は我々がまだ知らない隠れたパラメーター(変数)があるはずだと考えました。

それで「神はサイコロ遊びはなさらない(=神様はサイコロでいい加減に位置を決めたりしない)」という有名な言葉を残しました。

もう一人はシュレーディンガー分身さんで、彼は、シュレーディンガー方程式(=波動方程式)という量子力学の基本方程式を考えた人ですが、でも、この確率や不確定性などを持ち出す量子論に対して次第に不信感を抱くようになり、ある思考実験を用いて問題提起をしています。

それが「シュレーディンガーの猫」と言われる有名なもので、現在まで解かれたことのない難問とされています。


今回のメルマガの最初に、「今日の登山で突破しなければならない難所は、量子論の懐疑を克服することです」と言いましたが、それがこの二つの難問に挑むことです。

神はサイコロを振りたまわず。
シュレーディンガーの猫。


それでは❶から行きます。
アインシュタインさんが「我々がまだ知らない何か隠れたパラメータ(変数)があるはずだ」と考えたのは正解です。
ただしそれに対して一つ付け加えなければならない言葉があります。
「だけど、それは人間には永遠に分からないパラメータである」という言葉です。

考えてみれば、不確定性はミクロの世界に限ったことではありません。

例えば、コップの中の水の温度を温度計で測ろうとしても、実は、温度計そのものの温度が水の温度に影響して、観測前の温度を正確に測ることはできないはずですよね。

また、例えば野生動物の観察についても、人間が野生動物を観察するという行為そのものが野生動物に影響を与え、野生動物を取り囲む環境の一部になってしまい、本当はまったくの自然状態での観察をすることは決してできませんよね。

これらの例に共通しているものは何だと思いますか?

それは、不確定にしていた張本人は、我々観測者だったということです。


観測とは動いているものを一時的に止めたり、その物に何らかの影響を与えたりする不自然なことをするわけだからです。

我々がなぜ観測をするかというと、その結果を未来につなげたいからです。

つまり不確定にしていたものは、一つには、未来に起こり得る現象を予測しコントロールしたいという、人間の「欲望」だったわけです。

それがなければ、コップの中の水はある瞬間一定の温度でそこに存在し、動物も我々のあずかり知らない環境の中で生きていたわけだし、電子も原子核の周りを自然界の描くシナリオに則って激しく動き回っていたのです。

マクロな世界でも、全く同じ問題を抱えていたにもかかわらず、マクロの世界での誤差は、人間が必要とする情報量から見ればほとんど無視してもいいくらいだし、人間の感覚ではその誤差を認識できないので、我々がその不確定性(計測不可能性)に気づけなかっただけです。

しかし、物理学がミクロという極微の世界に突入するに至って、当たり前のようにそのわずかな誤差や、人間の観測という行為の本質が浮き彫りにされたということでした。


アインシュタインさんが「神はサイコロ遊びはなさらない」と言った意味は、この世界は物理法則を無視した出鱈目な動きをすることなどあり得ないということを言いたかったのです。

もし運命を決める神様がいるとしても、神様はそれを適当にサイコロ遊びなんかで決めたりしない、という意味です。

だけど、サイコロ遊びだって、その出目はガチガチの物理法則に従っています。

サイコロの出目も、ある目が出てしまった以上、“結果から見れば”その目以外に出るはずのないガチガチの物理法則に縛られていたわけです。

だから、サイコロで運命を決定する神様がいたとしても、その行為が物理法則を無視していると断言することはできないわけです。ただし、その場合、「もし運命を決定する神様がいたとしても、その神様でさえ、自分が振るサイコロの出目は予測できない」という一言を付け加えるべきだと思います。

科学は、雨が降る原因、雪が降る原因、温暖前線や寒冷前線の発生する原因など、天候に関する原因をほぼ解明しましたが、明日の天気を100%の確率で予測することはできませんよね。

それをするには、完璧なデータを取得する必要があります。

しかし完璧なデータとは何でしょうか?
それは、実は、この138億年に起こった全てのことだったのです。

なぜかと言うと、全てがつながっていたからです。

その138億年に起こった全てのデーターをコンピューターに入力することができるでしょうか?
どんなことをしても、できません。

それに人類の出現以来、これまでの物理法則を超えた人間の脳が作り出す様々な現象、という何ともつかみどころのないもののデーターも、数値化して取り入れなければ未来を予測できません。

それができない限り、どんなに「あらゆる現象は、“結果から見れば”ガチガチの因果関係で生じていた」と言っても、未来に起こることは「様々な偶然が重なり合って起こった結果」と呼ぶしかないのです。

我々の未来は、常に新しいレールを敷きながら進んでいる、と考えるしかないのです。


さて、未来に関しては我々はほとんどお手上げですが、過去の事象に関してはガチガチの因果関係が確認できます。

「バタフライ効果」と言われているものがあります。

これは、ブラジルでの蝶の羽ばたきが、巡り巡って、テキサスでトルネードを引き起こすような気候変動に大きく影響を与える可能性があるというたとえ話で、つまりブラジルの一匹の蝶もテキサスのトルネードとつながっているということですが、今日の話はその程度の話ではありません。

ブラジルや蝶やテキサスやトルネードなどという言葉すら存在しない状態で、全てのものがつながっているという意味です。

ブラジル、蝶、テキサス、トルネード‥‥など、名前や言葉というものは、人間がそれによって自然界のものを、人間の評価に基づいてそれぞれに切り離してしまったものに過ぎず、本当の自然界はその評価を超えてつながった状態である、という意味です。

つまり、我々の現実(=今)とは、重なり合ったような状態で共存している138億年間に起こった全てが、我々が意識した瞬間、一気に“収縮”して発現された一つ一つだったわけです。(このイメージはつかみにくいので、後で図示します)

どうです!? どこかで聞いたような言葉じゃないですか!?

それは、先ほどの「観測されるまでは決定されているものなど何もなく、人間が観測して初めて現象は決定されるのであって、誰も観測という行為をしていない時には確定した事実など一つも存在しない」と考えるコペンハーゲン解釈とどこか通じていると思いませんか?

実験を通してそのような解釈をこじつけた彼らは、あながち非常識なことを言っていたわけではなく、実に先見性に富んだことを言っていたわけです。

本当は、マクロの世界の「確定的」と思われていたものも、我々が錯覚していたに過ぎず、ミクロの世界と同じように「不確定」だったということを量子論は教えてくれてさえいたのです。

人間の観測という行為は、動いているものを一時的に止めたり、その物に何らかの影響を与えたりする不自然なことをするわけですし、そこから得られたデーターも言葉や数字に置き換えられたものでしかありません。
それを前回の登山で「私たちが目を向けた全てのものは、その瞬間、幻想(=錯覚)の世界のものに変質します」と表現しました。

我々は、未来を予測しコントロールしたいという「欲望」によって、物事のホントウを突き止めようとし、そのせいでかえって物事を歪めて認識してしまうという、どうしようもないさがを生きているのです。それが科学の限界です。


次に、❷の「シュレーディンガーの猫」という大きな岩を乗り越えます。

シュレーディンガー分身さんの提起した問題は次のようなものです。
一緒に考えてみて下さい。

まず中身が見えない箱を用意します。
その中に、ある放射性物質を入れておき、放射線(アルファ粒子)が出たら検知器が感知して電流が流れ、それにより青酸カリの入ったビンの蓋が開くような装置を作っておきます。

この箱に1匹の猫を入れます。

猫は、青酸カリを吸ったら死んでしまいます。
量子論によると、アルファ粒子が出るかどうかは確率的にしか予言できない現象です。

今、1時間以内にアルファ粒子が出る確率は2分の1とします。
さあ、1時間後、箱の中の猫は生きているのか、それとも死んでいるのでしょうか?

もちろん、箱を開ければ、猫が生きているか死んでいるかは一目瞭然であるとシュレーディンガー分身さんは言いますが、問題は箱を開ける寸前の猫の状態はどうなっているかということです。

量子論の立場では、電子の位置を「ここに何パーセントとあそこに何パーセントの共存状態である」とするわけですから、次のように考えます。

アルファ粒子が出る確率が2分の1だから、猫は生の状態50%と死の状態50%を混ぜ合わせた状態、つまり半死半生の状態である。
そして、箱を開けて猫を見た瞬間に、猫の状態は生か死かのいずれかに確定する。

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量子論はこんな無茶な解釈をするものだ、とシュレーディンガー分身さんは皮肉ったのです。そして、量子論に関わった自分のことを悔やんだそうです。

さてここで、シンキングタイムです。
この、物理学者を悩まし、未だに解かれていないという難問を、あなたならどのように解きますか?
半死半生の猫なんて、あなたは見たことありますか?

目の前に立ちはだかる大きな岩にしばし寄りかかって考えてみて下さい。




「半死半生の猫」を想像すると笑ってしまいますが、しかしそれは、視点を変えれば少しもおかしなことではありません。

まず何を持って「生」とし、何を持って「死」とするかが大問題ですが、一般的な科学の常識から言っても、この身体は全部がきっちりと生きているわけではなく、この身体を構成している何十兆もの細胞の一部は、常に死んでいる状態なわけです。

一説によると、1日7000億個の細胞が絶えず新陳代謝を繰り返しているということなので、常にそれだけの数の死んでいる細胞がこの身体を包んでいるということです。

そのようにして脳と心臓の細胞以外は、新旧の入れ替わりを繰り返して、何年かすれば、今日の身体とはまったく別人の身体で我々は生きているわけです。

脳細胞も、二十歳くらいから一日十万個くらい死んでいるそうですが、脳内の死なないでいる細胞が記憶という機能を保っていて、この身体を同一のものだと思い込んでいるだけなんです。

生と死を明確に分けているのは、人間の感情や社会の常識や法律上の定義だけです。


解剖学者であり、たくさんのベストセラーの本も書かれている、我らが誇るべき分身さんである養老孟司さんも、次のように言っています。

「脳死の後でも筋肉なり皮膚の細胞の一部は生きていて髭や髪の毛は伸びたりする。そのことからも、『生死の境目』『死の瞬間』が厳密に存在しているというのは勝手な思い込みに過ぎないことがわかる。法律上の定義が、死の全貌を示しているとどこかで思い込んだから生じた誤解に過ぎない。人が本当にどの時点で死んだのかというのは実は決定できない」

彼は、考え方によっては、腐乱して骨がバラバラになって、分子まで分解した時に初めて「死んだ」ということもできる、と言っています。
そのように生死の境目の線引きの難しさ、あるいは不可能さを説明してくれています。


つまり、猫に限らず、我々人間だって、半死半生で存在していたのです。

そこに線を引いていたのは、言葉を用いることで様々なものに境界線を引いてきた我々人間だけだったんです。

「シュレーディンガーの猫」が未だ解かれない難問だった理由は、それは人間が「生・死」の間にはっきり境界線が引けると思っていた前提からして間違っていたからです。

箱を開けた瞬間に確認できる猫の「生・死」とは、実は、人間の価値観や感情や評価などという、人間の都合によって決定されるものでしかなかったんです。


さて、今日の登山で見てきたことは、ミクロの世界はマクロの世界の常識が通用しない世界であるなどと思い込んでいたのは、量子物理学者たちの誤解だったということでした。

その逆に、マクロの世界では常識だと思っていたことが、実は常識ではなかったということを、ミクロの世界を研究することでわかってきたということでした。


量子論は決して頭脳明晰の方だけの学問ではなく、また頭脳明晰だからと言っても何もかもわかっていたわけではなかったという話でした。

むしろ、今日見てきた物理学者たちが、研究する以前に知っておかなければいけないもっとも根源的なものに、未だに気づいていないことが問題です。

実験や研究をしている「自分」は紛れもなく「本当の自分」だと信じていること自体、大問題です。そして、その「自分」の意志で実験や研究をしていると信じていることも大問題です。


実は、「自分」だと信じていたのは「錯覚の自分」であり、その「錯覚の自分」を取り巻く《環境》に、「錯覚の自分」が観測したり波動方程式を解いたりさせ・られていたのです。

それを知らないから、彼らはまだ、観測や波動方程式を解いたりしている自分を客観的に見ることができなかったのです。

自分が、本当の意味では、観測者でも実験者でもなく、観測や実験をさせ・られていたと気づくと、観測や実験の限界を知ることができます。
ミクロの実験結果が、マクロの法則と矛盾に感じてしまうのは、その場所にまだ立てていなかったからです。

観測や実験をしている客観的な自分の、その自分を客観的に見つめる自分に立てていなかったからです。

根源的なことがわかっていなかったので、頭脳明晰な彼らでさえも、「欲望(探求本能)」が実験結果に影響を与えることや、半死半生の状態が少しも矛盾していなかったことなどに気づけないのです。

さて、図らずも、マクロの常識が間違っていたことを教えてくれていた量子論ですが、昨今、この量子論はいろいろな分野と手をつなぎ始めています。
今までの常識では、物理と化学はまったく違うものを扱う学問とされていましたが、今ではそれを合体させた、量子化学などというとても興味深い分野も生まれているようです。

これらのことによって、今まで見えなかった新しい発見がたくさん生まれています。

当然のことです。

ミクロの物質がこの世界を構成しているというのに、ミクロの世界で行われている出来事だけは、マクロの世界から隔絶された特別な世界の出来事であったり、その逆にマクロの世界の出来事は、全くミクロの世界とは無関係であるなどということがあるはずはなかったからです。

■□━━━━━━━━━・・・・・‥‥‥

今日の登山の中で、難しい量子論のことはですが、一つだけ覚えておいていただきたいことがあります。

最初に、科学が我々にもたらしてくれた最大の功績は、「自然界のあらゆる現象には原因がある、ということを身をもってわからせてくれたことだと思います」‥‥と言いました。

しかし、科学が究明したその原因は本当の原因なんかではなく、人間が必要とした、と言うか、人間の都合や価値観や評価などが必要とした原因でしかなかったということです。

我らが誇るべき分身さん、ハイゼンベルクさんは、今日出てきた「不確定性原理」を唱えたことで有名な方ですが、彼も次のように言っています。
「我々が観測しているのは自然そのものではなく、我々の探求方法に映し出された自然の姿だ」

りんごが木から落ちる
雨が降る
風邪をひく
あくびが出る
子どもが親に似る
筋肉が動く
‥‥‥

これらはみんな、言葉を持たない動物にはどうでもいいことで、まったく意味を持たず、彼らにしてみれば地続きで、区別する必要もないことです。

言葉を持った人間だけが意味を追い求め、評価を必要としているわけです。
その、人間の見方や評価に基づいての原因を探すわけですから、本当の原因ではありません。

では、今、何かの現象が起きているとして、その現象の本当の原因は何でしょうか?

それは、この138億年間に起こった全てです。

この138億年間に起こった全てのことが、まったく平等に、まったく同じ重さと価値で、今何らかの現象を引き起こしていたのです。
それをイメージしやすいように図示してみました。

ちょっと前の「コペンハーゲン解釈」の話の時に、「我々の現実」との奇妙な類似性を次のように説明しました。
覚えていますか!?

「我々の現実(=今)とは、重なり合ったような状態で共存している138億年間に起こった全てが、我々が意識した瞬間、一気に“収縮”して発現された一つ一つだったわけです。(このイメージはつかみにくいので、後で図示します)」

それが下の図です。

つまりミクロの世界とマクロの世界は隔絶されてなどいなくて、全く同じ法則で成り立っていたんです。

人間がそれを認識できなかっただけです。

下の左右の図の中の黒丸は、ビッグバンから始まった一つ一つの事象で、それが原因となって結果を生み、またそれが原因となって結果を生みながら、現在の現象Aや、現象Bにだどりついているというのを表現しているのですが、左図の黒丸はつながっているところや断絶しているところがあるのがわかりますか。

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人間は、ある現象の原因に対して序列をつけたり、原因であるものとそうでないものとを区別したりしているわけですが、それを表現したのが左図です。
しかしそれをしていたのは、人間の感情や社会的な常識といった人間の都合による評価に過ぎません。

本当は、一つの現象を引き起す原因は、それより以前に起こった全ての現象が同じ重さ、同じ大きさ、同じ価値で原因としてあるわけです。

そう、人間が分けない限り、全てつながっているからです。

この宇宙は人間が認識(=錯覚)しない限り全て地続きです。

それを図示したものが先ほどの右図です。
全てがつながった大きな川の流れのようなものをイメージしてみて下さい。
その流れがいつも我々の背中に押し寄せていて、その力によって、我々は思考をさせられたり、行動をとらされたり、また現在の現象の全てが生まれているというイメージを持つと理解しやすいでしょう。

ちなみに、言葉を持たない人間以外の動物たちは、認識とは無縁です。その意味で彼らは「自然界と地続き」と言えるのです。


■□━━ 編集後記 ━━━
今日の登山『量子論が教えてくれていたこと』はここで終わりです。お疲れさまでした。

さて、我々は、動物も含めてみんなこの大きな川に背中を押されるようにして行動をさせられていたのです。

「とんでもない!」

と、あなたは反論するでしょうか?

「私は自分の意志で行動を決定しています! 少なくともそうでありたいし、そうであるべきだと信じています!」
‥‥と。

確かに今までは、そのように考えることが「美徳」のように教育されてきました。

でもそのように考えるあなたに質問します。今ではその錯覚が、この世界に解決できない問題を山積みにしていくばかりだと知っても、その信念を捨てませんか?

そしてもし、我々が自由意志なんかで行動しているのではなかったという事実を知って、それを受け入れた時、この世界に山積みにされていた問題は一気に片付き、世界が美しい色に塗り替わるとしたら‥‥、それでもあなたには、その事実を受け入れたくない理由があるのでしょうか?


いよいよ次回の自分探し登山はこの登山最大の難所に挑みます。
我々は本当に自分の自由意志で行動をしていたのでしょうか?
自由意志について科学が見つけた事実を拾い集めます。


🔖NO.8 自由意志などなかったと知った時

「人々は私を障害者と言いますが、私はまったく自由です。私を不自由というなら、皆さんだって決して何でもできるわけではなく、可能な範囲のことをしているだけです」(レーナ・マリア分身さん)

(*我らが誇るべき分身さん、レーナ・マリアさんの言葉です。彼女はパラリンピックの水泳選手です。この言葉の中に、人類が、現在の世界的苦境を切り抜けるにはどうしたらいいのかのヒントが隠されています。私たちの心の中から妬みや不満や怒りや、それに優越感や劣等感などを消す方法です)


前回の登山で、量子論の懐疑は克服できましたか?

古代ギリシャ哲学に始まって、西洋的な科学がずっと追い求めてきたことは、この世界のホントウの姿を解き明かすことでした。

そのために人々は何代にも渡って、執念深く、注意深く、繊細で血のにじむような努力で実験や観察を繰り返し、飽くなき思索をバトンしながらやってきたわけですが、それらの成果が今ここに実っていることを賞賛しない人は一人もいないでしょう。

しかし、科学が量子という極微の世界の研究に突入した時、ある変化が起こりました。

人間の観測という行為の本質に目を向けざるを得なくなり、その限界を突き付けられ、我々は世界についてホントウのことを知ることは決してできない、という事実を知らされることになったのです。

そのことによって、人類の科学観は、それまでの「真理探究の学問」から「道具主義的な学問」へ転換させられることになりました。

ホントウのことはわからないのだから、人間にとってより便利なもの、役に立つものという基準で科学を利用していけばそれでいいのではないか、ということです。

「ホントウのことを知ることはできない」と悟ったことは科学の敗北でしょうか?

私はそうは思いません。

「無知の知」という言葉がありますが、科学はついに、自分自身が永遠に「無知」であることを自覚するに至ったわけです。
知り得ないことを知るなどということは、自然界から謙虚に学ぼうとする科学だからこそできたことだと思いませんか!?

傲慢さは決して「無知」を知ることはないですからね。

「科学には知り得ないことを知った」ことこそ、科学がついに掘り当てた金脈だったと言ってもいいくらいです。


この世界のホントウの姿は、なぜ人間にはわからないかと言うと、逆説のようですが、わかろうとしてしまうからです。
なぜわかろうとしてしまうのかと言うと、それは人間が言葉というものを用いるようになってしまって、自我が生まれ、自然界から迷い出て迷子になってしまったからです。

だから、科学の限界とは、言葉の限界とも言い換えられます。

言葉には、物に名前を付けることで、全てがつながっているはずのこの世界をバラバラにするという性質が備わっていますが、言葉はさらにそれを使用する人間をも一人一人切り離します。

人間には、この世界を外から眺めようとしてしまう傾向がありますが、それは言葉の仕業だったわけです。

つまり、言葉というものに備わっているその性質に背中を押されて、我々は科学を続けさせられていたわけです。

言葉を持たない動物たちはこの世界をわかろうともしないし、この世界をわかろうとしない彼らは、この「自然界と地続き」で、この世界そのものです。

確かに、科学にはこの世界のホントウの姿を知ることはできません。ただし、我々には言葉のない地続きである動物の世界がどんなものかを想像することができるように、科学や言葉には決して踏み込むことのできない世界を「イメージ」することは可能です。

感じることは可能です。

それは、言葉に支配されていなかった動物の頃の記憶が、この身体の中に今もしっかり息づいているからなのかもしれません。

以前、一瞬にして野球の球くらいの大きさに膨張した初期のビッグバンをイメージしましたね。
それが138億年経って現在の大きさになり、さらに今も光の速度を超えるスピードで膨張を続けています。
目を閉じてその宇宙をイメージしてみて下さい。

我々が科学や言葉によって部分に分断してしまったものを、それらをもう一度つなぎ合わせて元に戻した世界を、丸ごとイメージしてみて下さい。

わかろうとせず、理解しようとせず、その中に全身を溶け込ませてみて下さい。

それが、科学がずっと追い求めてきたこの世界の真実の姿であり、それが真実の“私”です。

科学には知ることができない世界‥‥。
ただ我々に感じることができるだけの世界‥‥です。


■□━━━━━━━━━・・・・・‥‥‥

さて、ついに私たちはここまで登って来ました。
この自分探し登山、最後の難所に差し掛かりましたよ。
「我々は、自分の自由意志などで行動していたのではなかった」という事実を受け入れなければならない時がきました。

科学者でさえもここから先に登った人を、私はほとんど知りません。

もしこの先に自分の足で登って、「自由意志などない」という真実を知ってしまった科学者がいたとしても、それを知ったからといって特に役に立つわけでもなく、それどころか自分自身の努力で手にした(と信じている)世間的な成功を放り出すわけにもいかず、だから何も見なかったことにして、再び忙しい研究生活に没頭することで忘れてしまおうとするかもしれません。

でも、それを知ったからといって特に役立つわけでもないどころか、これこそ、世界的苦境に陥っている現在の人類を救うために必要な、「世界中の誰もが持たなければいけない”常識”」と言ってもいいくらいのものだったのです。

科学者でなくても、「自由意志などない」という事実を告げられた人たちは、不治の病に冒され「余命いくばく‥‥」という死の宣告を受けた患者のように、その事実をどのように受け止めたらいいのか、どのように役立てたらいいのかわからず、不安になってしまうというのが本当のところかもしれません。

ちなみに、この自然界には「病」などというものも、「死」などというものも、本当はありません。

「病」や「死」などという概念は、言葉を用いることによって自然界から切り離されてしまった人類の、“言葉”が作り出す現実の中だけで生きているものです。

私たちが「病」や「死」を恐れるのは、それらが恐い物であるとか嫌悪すべき物であるという固定観念に世界中の人たちが取り憑かれているからです。

言葉のない動物たちには、もちろん「病」や「死」の概念はありません。ただただ、「自然界と地続き」で、大自然の摂理を生きているだけなのです。

私たちが「病」や「死」と呼んで忌避きひしているものも、実は、この大自然から見れば、私たちが「生」と呼んで大いに歓迎している自然界の営みとまったく同次元のものです。

もし世界中の人たちがこのことに気づいたら、私たちの人生はどんなにバラ色に変わることでしょう。
その日は必ずやってきます。
私たちが「気づく」だけでいいんですから。

■□━━━━━━━━━・・・・・‥‥‥

相変わらず長い前置きでごめんなさい。早速、今日の登山を始めます。

1979年、我らが誇るべき分身さんであるベンジャミン・リベットさん(アメリカの神経生理学者)たちが、自由意志をめぐる興味深い実験をしました。

被験者は頭皮に電極をつけ、自分が好きな時に指を曲げるか手を動かすかしてもらいます。動作を行うということは、脳内に電気が発生しているわけで、それを捉える脳波計は、動作が行われる時点を正確に記録するはずです。

同時に、被験者は自分がいつ指を動かそうと思ったのか記録しておくことにします。

その結果、面白いことがわかりました。

被験者がそのような動作を行おうと意識してから、実際にその動作が起こるまでには、0.2秒かかりました。
これは別に不思議でも何でもありません。
脳で発生した電流が筋肉に到達するまでには、わずかな時間差があって当然のことだからです。

しかし、不思議なことは、被験者が指を曲げるか手を動かそうと決める「前」、その約0.3秒前に神経系の動きが観測されることを発見したのです。

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この実験は、「決意の意識(=意志)」が発生する前にまず神経回路網が活動を開始し、その後で「決意の意識(=意志)」が発生することを示しています。

「意志」が発生する前に活動を開始するこの奇妙な脳波は、“準備電位”と名づけられました。

この実験結果は、人によっていろいろな解釈がなされるかもしれません。
しかし、この実験が示している事実は唯一つです。
「決意の意識(=意志)」を自由意志と呼ぶとしても、その自由意志と呼ばれるものは、約0.3秒前の神経系の働きによってもたらされていた、という動かしがたい事実です。

言い方を換えると、私たちは、神経系の働きによって浮上させられた意志によって行動をさせられていたにもかかわらず、脳は、さも自発的に行動を起こしたかのように後づけで認識していたということです。

指は曲げようと思ったから曲がったのではなく、脳が無意識のうちに指を動かす準備を始め、それにつられて指を曲げようとする決意(意志)のようなものが生まれていただけだったのです。


この実験は、他の科学者によっても追試され、同じ結果が出ています。
リベット分身さんたちの実験に冷めた目を向ける科学者がやってみても、結果は同じでした。

と言うよりも、この実験を行ったリベット分身さん自身も、その結果に不服だったようです。
彼はその後、「禁止権説」なる救済案を考え出したりしているからです。

彼は次のように考えました。

「私たちの意識が、いくら0.3秒前の神経回路網の活動によって浮かび上がらせられたものだとしても、それによって動作を行おうと意識してから、実際にその動作が起こる0.2秒の間に、もし、その動作を禁止することができたらそれは自由意志と呼べるに違いない。自由意志は、意思決定の結果を選択ないし制御する目的で作動する」

リベットの禁止権説


つまり、自由意志は、無意識からの命令に服従している間は出番はないが、無意識からの提案を退け、無意識が勧める決定を拒む時にのみ機能するということです。
それを禁止権説と言います。

でも、この説が、実験結果を信じたくないためのこじつけでしかないのは、論理的に考えればすぐにわかります。
詳しくは、『分身主義の森を抜けて‥‥』に書いていますので、ここでは省略します。


さて、我々は日常の生活の中で様々な決断をしながら生きています。
しかし、その全ての決断が、私たちの自由意志で行なっていたわけではなかったということです。

それを「不自由」と呼ぶのでしょうか?

違います。

自由というものがないということは、不自由というものすらもないと言うことです。

「強い “意志” を持って “自由” に生きるんだ!」みたいな生き方が良しとする感覚を植え付けられている私たちには、ちょっと奇異に感じるかもしれませんが、自由も不自由も実はこの自然界のどこにもなかったんです。

「自由」や「不自由」などという概念も、言葉を用いることによって自然界から切り離されてしまった人間の、“言葉”が作り出す現実の中だけで生きているものでした。


科学が我々にもたらしてくれた最大の功績は、「自然界のあらゆる現象には原因がある」ということを身をもってわからせてくれたことです。

これは科学の大原則と言ってもいいと思います。

もしこの原則にほんの少しでも疑問が生じるようなことが起これば、今まで築き上げてきた科学の方法論や発見は疑わなければならなくなり、また、科学が発明してきたものまで、危なっかしくて使えなくなります。

あなたは、携帯も、パソコンも、電子レンジも使うことを諦めなければなりませんし、自転車も車も電車も飛行機も乗るのは危険なので、徒歩で移動しなければなりません。

さて、科学の大原則の「自然界のあらゆる現象には原因がある」が真だということは、何を意味しているのでしょうか!?

我々は、「何からも影響(指図や制約)を受けない、まったくの自発的な決断に基づく思い」のことを自由意志と呼ぶわけですが、この「意志」だけは何からも影響も受けないとすれば、意志に関しては原因となるものが存在しない、ということになります。

そんなことは、科学の大原則に照らし合わせても考えられないことです。
(『人間に自由意志があると思い込むのは個人の自由ではない』)

さて、「全ての現象には原因がある」という科学の大原則を使って、あなたも何かの原因を考えてみてください。

例えば、あなたが今、パソコンかスマホを見ている原因を考えてみてください。
ではその原因の原因を考えてみてください。
その原因の原因の原因を‥‥と、どこまでも遡ってみてください。

どこかで途切れてしまうでしょうか?
あなたが生まれる100年前も越えて、どこまでも遡れます。
そして最後に行き着くところはどこでしょうか?

現代科学は、それはビッグバンに行き着くと考えています。
ビッグバンは想像上の仮説ではありません。
いろいろな観測によっても、ビッグバンの正当性を裏付ける証拠がいくつも発見されているからです。

私たちは、この宇宙という広大なビリヤードテーブルの上で、ビッグバンという最初の球が突かれてから、延々とその中の素粒子がぶつかりながら何かを形成したり分解したりしている、まさにその劇場の渦中にいるわけです。

と言うより、私たちのこの身体も、その劇場の中で、自然界の法則というシナリオに忠実に演じさせられている素粒子という役者たちの見せている一時的な姿です。

そこで、この宇宙で起こる全ての現象(人間の精神現象も含めて)は、「ビッグバンの風」が作り出していると表現すると、何もかもが理解できたようにスッキリします。

前回「大きな川の流れのイメージ」を図示させていただきましたが、私たちは、動物も含めてみんなその大きな川に背中を押されるようにして行動をさせられていたわけですが、その大きな川の流れのことを「ビッグバンの風」と呼んでしまえばいいわけです。

そう、世界は実にシンプルに表現できるんです。

わざわざ難しく考えて、複雑にしてしまっていただけなんです。

この言葉を使えば、ベンジャミン・リベット分身さんたちの実験によって確認された、約0.3秒前の準備電位の正体は、「ビッグバンの風である」と簡単に表現できるので便利です。


我らが誇るべき分身さんである、サンドラ・ブレイクスリーさんの書いた『脳の中の身体地図』という本を読んでみていただきたいと思います。

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この我々の日常が、すべからく脳の錯覚の作り上げていた世界であったという事実が、実験や観察などを通してわかってきたのですが、その事例がたくさん紹介されています。

中でも、脳の最大の錯覚と言えるものは‥‥”自己”と“自由意志”です。

その本の結論として、彼は「あとがき」に次のように記しています。

「それでは、自己は突き詰めて言うと、錯覚に“過ぎない”のだろうか? 今は亡きノーベル賞受賞者フランシス・クリックの言うとおり、私たちは“ニューロンの塊に過ぎない”のか、それとも、もっとわかりやすく言い換えれば、“錯覚の塊に過ぎない”のだろうか? 
ボディ・マップ(=身体地図)の科学によれば‥‥ついでに言うと、東洋の宗教も大半が同じ見方をしているのだが‥‥さまざまな面から、答えはイエスである。
それにしても、これを常識とどうすり合わせればいいのだろう? 自己が本当は錯覚などということがあり得るのか? 何と言っても、あなたは自分で自分をつねることもできれば、物に手を伸ばして動かす、人の考えを変えさせる、料理のメニューの中からアントレを選ぶといったこともできる。あらゆる能力を備えた生身の人間である。
明らかに、自分だけで独立した存在だ。しかも、何よりも重要なことだが、自由意志というかけがえのない能力を間違いなく備えている。あなたのあなたらしさは、何がどうあっても、錯覚などとは思えない。しかし、言うまでもなく、それが錯覚の錯覚たるゆえんだ。もっともらしく確実に思えても、根底をなす実態はまったく異なっている可能性がある」(『脳の中の身体地図』あとがきより抜粋)



いかがですか!? 興味深いでしょう!?

でも、まだこの「あとがき」を読む限りは、自分の中で整理がついていないように感じます。うろたえている段階という感じですよね。

この真実を知ってしまった衝撃をどのように処理したらいいのか、ということだけに関心が置かれているようです。まったく世界平和とは関係ないのです。つまり、個人主義的な《環境》に浸かっている脳でうろたえているわけです。


ところで、誤解しないでいただきたいのですが、私は「意志」というものは存在しないと言っているのではありませんよ。
今まで言われていたような意味での「意志」は存在しないと言っているんです。

「意志」とは、今まで言われていたように、「自発的な決断に基づく思い」ではなく、その脳を取り巻く《環境》によってその人の脳に受動的に浮かび上がらせ・られたものだということです。(その時背中を押す力を先ほど「ビッグバンの風」と表現しましたよね)

だから今まで言われていた意味の「意志(will)」と区別して、私は本当の「意志」のことを「ミラード・ウィル(mirrored will)」と呼ぶことにしています。

要するに、人類が、言葉という象徴化する道具を用いるようになり、それによって象徴化された意識の一つである“自分”という意識も不動のものになっていったわけですが、それは脳内に自分を映す鏡のようなものができたと考えればわかりやすいと思います。

自分を見る自分が生まれた瞬間です。

この脳は、鏡に自分が映っている以上、実像である自分はこちら側に確実に存在するという錯覚を持つに至ります。

そのような錯覚を持ってしまった脳内に、「ビッグバンの風」の力によってある方向性を持った思いが浮かび上がったとすると、それに対して、私たちは、「“自分の”意志」と思い込んでいたわけです。

つまり、「自由意志」というのは、「実像である自分はこちら側に確実に存在すると信じている錯覚の自分」が見ていた錯覚だったのです。

だから、「意志」のことを、今まで言われていた意味の「意志(will)」と区別して、鏡に映し出されている意志(=ミラード・ウィル)と命名したのです。今まで言われていた意味の「意志(will)」などどこにもなかったのですから。


同じような発想で「受動意識仮説」というものを唱えている、我らが誇るべき分身さん、前野隆司さん(慶應義塾大学教授)という人がいます。
この人の著書、『脳はなぜ「心」を作ったのか』にあった挿絵ですが、とてもわかりやすいので以下にトレースさせていただきました。

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上の図Aは、現在の私たちが抱いている「脳の内部」のイメージです。
この図の「私」は、知・情・意の川の源流にいて、知性や感情や意思など、全ての川の流れを意識的にコントロールしている、中心的な存在だと信じています。
つまり、私たちは、このように頼りがいのある「私」がいて、それがコントロールする自由意志によって自分は行動をしていると感じているわけです。

下図が、前野隆司分身さんが考える受動意識仮説です。

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こちらの絵の「私」は川の下流にいて、脳が無意識で働いた結果だけを見て、それに従っている受動的な存在に過ぎません。そのくせ、あたかも全てを自分がやったことのように錯覚しているずうずうしい奴です。

こちらの頼りがいのない、怠惰な「私」は、川の流れに背中を押されるようにして行動を取らされていたわけで、実は、自分の自由意志で行動を取っていたわけではないのですが、自分の意志で行動していると信じているおめでたい奴でもあります。

二つの説を比べると、全ての川の流れをコントロールしている独裁者的で骨の折れる図Aの「自分」などちょっと想像しづらく、図Bの「自分」の方がはるかに楽で、まさに川の流れのように自然ですし、この説を受け入れるとすると、今まで哲学者を悩ましていた多くの問題もいとも簡単にスッキリと説明できる、と彼は言っています。


前野分身さんは、意識が今まで考えられていたように自分の中心ではなく、川の下流で結果を受け取っているだけのものだった、と気づいた時、最初、「なんともいえない虚脱感に襲われた」そうです。
「ぞっとして、いやだった。信じたくなかった」と感じたそうです。

だけど今から14年ほど前、私が、前野分身さんと同じような気づきに至ったその時は、まったく正反対でした。

それまでうつむきがちに歩いていた暗く長いトンネルから、その瞬間抜け出したように感じ、ふと顔を上げると、そこには目がくらむほどの明るい景色が広がっていました。

どこからか、大自然の奏でる美しいシンフォニーが、静かに力強く響いてくるように感じました。
そして、しばらくして、それは“私”の体内で鳴り響いている音だと気がついた時、この身体が震えるような感動を覚えました。

私がこの宇宙と一つになった瞬間でした。

がんじがらめに縛られていた、自我から解放された瞬間でした。

ちなみに、「なんともいえない虚脱感に襲われた」前野分身さんも、最後には世界とのつながりを意識し、「“私”は死なないんだ」というような考え方に到達したようです。


「自分の自由意志で行動していたのではない」と知った時、人間の反応には三種類あると考えられます。
「1.むなしい」と感じる人、「2.気が楽になった」と感じる人、もう一つは「3.その理論は間違っている」と激しく反論をする人。

もちろん、ここまで一緒に苦しい山に登ってきてくださったあなたは、「2.気が楽になった」だと思いますが、もし、今までのあなたがいきなり「我々は自分の自由意志で行動していたのではない」と知らされたとしたら、その時のあなたは、三種類のうちのどれでしたか?

考えてみていただけますか!?
たぶん、「3.その理論は間違っている」と激しく反論をするのではないでしょうか?

以下は、私がインターネットで調べて、「人間は自分の自由意志で行動している」と考えている人たちの意見です。すなわち、「3.その理論は間違っている」と激しく反論をするタイプの人たちです。

これらの方は、私の文章を読んでの感想ではありませんが、興味深いので列記してみました。
ここまで私の話を聞いてくださったあなたなら、これらの意見にどのよう反論されますか? もしこれらの方の意見に賛同するということであれば、ここまで一緒に登ってきてくださった甲斐がなかったことになりますよね。

1、私は人には自由意志があると思います。理由としては無いと寂しすぎると考えるから。

(・・・?)

2、あらゆる物質には指向性がある。物質の持つ指向性、もっと拡大すればこの宇宙の持つ指向性こそ、完全なる自由意志とも取れるものである。

(人間も、宇宙の持つ志向性に支配されているというなら、むしろ自由意思はないと言えるのでは?)

3、自由意志はあります。意識や精神など、人の心は、自分を取り囲む諸々の慣習や制度や物質や文明などに支配されてはならない自由な存在なのです。

(願望は伝わってきますが‥‥)

4、自由意志がないということは、自分が考えること、自分が行動すること、その全てがあらかじめ定まっていて変更不可能ということになります。それでは自分の存在する意味もなく、つまらないので死ぬことにします。あれっ、これって自由意志でしょうか?

(いいえ、自死も自由意志ではできないのです)

5、私は自由意志は存在すると思います。人間は、他人の意見や行動に対して拒否的に感じたり、その自分の感じ方に則って自分が行動を起こすことができるからです。

(リベット分身さんが苦肉の策で考えた”禁止権説”と同じ間違い)

6、「自由意志が存在しない」という考え方は、人間を機械の一種と見なす発想、人間を因果律に縛られた存在と見なす発想であり、人間性や想像力という言葉も無意味なものになりそうです。人間の可能性を否定するような考えは、文化や芸術の不毛につながるし、精神衛生上にも良くないので断固反対します。

(これが個人主義的環境にどっぷりと浸かった、大方の人の脳に浮かび上がる発想でしょう。*分身主義* 的な環境になれば、全く正反対のことが起こるはずです。また、たとえ道徳的には断固反対だとしても、事実は冷静に受け入れなければ前に進めません)

7、人には自由意志があるがゆえに行動を自律的に統御できる、という前提にわずかでも問題があるとすると、犯罪に対する規制さえも困難になる。人が何かしでかしたとしても、本人が自ら決めてやったのではないので責任はないという言い逃れにもなるし、誰も罰することができないことになり、現行の法にも効力がなくなる。自由意志という支えがなくなると、統制ある社会が崩れ去るのではないだろうか!?

(これも先ほどの方と同じ、個人主義的環境から浮かび上がる発想。*分身主義* 的な環境になれば犯罪が起こり得ない世界になるというのに、そのことよりも現行の法の効力が及ぶ世界の維持を望む理由はどこにあるのでしょうか!?)


さて、どれも論理的に破たんしていることがわかっていただけますか?
そしてどれも自分の意見というよりも、「個人主義的《環境》」から自分の脳に浮かび上がらせ・られた意見を語っているだけです。

実は、我々の「意見」というのはそのようにして口を突いて出てきていたのです。
この、私が今語ら・されている「意見」ももちろんですし、テレビで自信たっぷり(?)に語っている人たちもみんな同じだったということです。


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「我々は、自分の自由意志などで行動していたのではなかった」という事実を知ったその時、私は、長く暗いトンネルから抜け出て、目がくらむほどの明るさの中に立っていました。

「我々は、自分の自由意志などで行動していたのではなかった」という事実は、科学者と言われる人たちのほとんどがまだ気づいていませんが、少しずつ気づく人が増えていることも事実でしょう。

しかし気づいたからといって、それが何を意味するのか、どう役立つのかということを、世界的・宇宙的な視野に立って考えを推し進めた方は一人もいないと言っていいでしょう。

と言うより、今の環境の中で学者という肩書を背負ってしまい、それに頼ることで現在の社会で生活を安定させている人たちには、この気づきは、できれば深入りしないでおきたいものかもしれません。

私たちは、科学が解明したものを拾い集めながらここまで登ってきましたが、それらを振り返りながら、あなたが、あなたの自由意志で行動していたのではなかったという事実は、一体どういうことなのか考えてみて下さい。

(正確に言えば、この場合も「自分の意志で考える」わけではなく、私の指示を受けて「考えさせ・られる」わけですけど、そのへんは今は棚上げします。また、私が今指示したことも、《環境》に指示をさせ・られたのです。なぜなら、私のこの文章も《環境》に書かされ・ているわけですから。それも今は棚上げ‥‥)

確かに、今までの自分の存在は希薄になりはしますが、むなしくなる必要なんて少しもなかったんです。
それどころか、科学が示してくれている本当のあなたの存在は、今までの自分よりもずっと強く、そしてずっとずっと大きくなるんですよ。

あなたは自分の自由意志で行動していたのではないですが、他の誰かや、他の何かの意図する指示や命令によって動いていたというわけでもありませんよね。
このことを順を追って考えてみます。

例えば、母親に、「勉強しなさい!」と言われて机に向かったとしたら、表面的には母親の指示や命令で動かされているように見えますが、では、指示や命令を下した母親に目を向けてみて下さい。

その母親は、自分の自由意志で指示や命令を下したのでしょうか?

彼女を取り巻く《環境》に学校制度や受験制度などというものがなければ、「勉強しなさい!」というような言葉は絶対に出てきませんよね。
つまり、彼女も自分の自由意志で命令を下したわけではなく、《環境》にやらされているわけです。

そこでもう一度考えてみて下さい。
さきほど、あなたは表面的には母親の命令で机に向かったように見えましたが、実はそれは、《環境》に「勉強しなさい!」というような言葉を言わされた母親に、勉強をやらされたわけです。
つまり、あなたも、母親ではなく、《環境》にやらされていたわけです。

では、最後に、あなたやあなたの母親を動かしている、その《環境》とは何かと考えてみて下さい。

《環境》が何らかの目的や意図を持って、あなたやあなたの母親に命令をしたとは考えられません。
実は、指示や命令をくだす司令官などどこにもいなかったことに気づきませんか!?

では、一体何が我々を動かしていたのでしょうか?

それはビッグバンの風でした!!!

このことに気づいた人は、この138億歳の歴史を持った宇宙とつながり、自分とは宇宙そのものだったと気づくことになります。


自由意志がないと知ることは、この宇宙の万物とつながることと同じことなんです。

流れる川の中の水は川そのものですが、コップですくい取った水はもう川ではありませんよね。
言葉を持ってしまった人類だけが、宇宙からはぐれて「自分」という錯覚を持ってしまったのは、まるで川から一部の水を「観念というコップ」ですくい取っているのと同じです。
すくい取ったコップの水も、川に戻せば川そのものになって再び自然界の法則に従って流れていきます。

どうですか!?
我ながら、なかなかうまい比喩だと思うのですが!?

我々は、この「観念のコップ」ですくい取った「錯覚の自分」を後ろ盾にして、「自由意志はある」と言い張っていただけなのです。


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さて、今までのまとめとして、図を描いて整理してみることにします。

下の図は、我々が現在イメージしている「自分」です。つまり「錯覚の自我」に縛られている「自分」です。便宜上「自分a」とします。

自分Aの原型

一つの身体の中では、本来すべてがつながっているのですが、ある日、人類が言葉を覚え、物に名前をつけたことで、そこにないはずの「切れ目」を入れてしまいました。例えば頭とか腕とか足とか、脳とか鼻とか肺とか腸とか‥‥。言葉を持たない動物たちには、当然、どこにも切れ目が存在しません。(その動物たちのことを「自然界と地続き」と私は表現することにしています)

この宇宙の中には、本当はこの人体と同じように切れ目などどこにもないはずです。

*ちょっとここで、この「宇宙の中では切れ目などどこにもない」という意味を補足しておきます。
例えばこの河原から拾ってきた小さな石ころ。これ単体で存在できるわけではありませんよね。

画像33

この石ころが存在するためには石ころを支えている地面(地球)が必要だし、この形になるためには川の流れが必要です。
だから常にそれらと接しています。また空気とも常に接していて、その空気は他の物体と常に接しています。つまり、138億年の全てにつながることで、初めてこの小さな石ころはここに存在しているわけです。我々人間も同じですよね。
それなのに人間だけが「石ころ」という名前を付けることで、自然界に切れ目を入れて単体で認識しているだけなのです。


話を進めます。「自分a」は「錯覚の自分」で、科学が解明している「自分」は、「この宇宙そのもの」と言いましたよね。
そこで、その本当の自分(=宇宙)を「自分A」としてみました。それが下図です。本当の自分(=宇宙)を先ほどの人体の形で描いてみました。

自分A


人体に模した宇宙なので、脳や肺や胃や腸などの器官が天体で、皮膚の細胞が生物(植物や動物など)だとイメージしてみてください。



ある日のことです。
その中の皮膚の細胞のいくつかが「錯覚の自我」を持ってしまいました。それが現在の我々人類の姿だと思ってください。それが初めに描いた図「自分a」です。

画像39


錯覚の自我を持った「自分a」たちは、それぞれが、「細胞膜の内側が自分だ」と主張し始めたのです。やがて彼らは自分の縄張りや所有を主張し、仲間や敵を作るようになりました。
自分の勢力を拡大させるために屁理屈を戦わせ、攻撃したり、奪い合ったり、傷つけ合ったり、殺し合ったりするようになりました。

だけど、錯覚の自我を持ってしまった細胞たち(自分a)が、互いを傷つけ合うことは、本当の自分(自分A)の身体を傷つけていることと同じです。当たり前ですよね。全部つながっているんですから。

その現状を知った本当の自分(自分A)のあなたは、見て見ぬふりをしてやり過ごすことができますか?
自分の身体をむしばみ傷つける争いなどやめて、仲良くして欲しいと思うはずです。みんなが仲良く心を一つにして、同じ前を見て生きていこうと呼びかけたくなるはずです。

だって元々一つだったんですから。

このように、みんなが「本当の自分」を知れば、この世界に争いなどなくなると思いませんか!?

科学がたくさんのものを解明している現代においてもまだ、我々の脳は古いバージョンのOSに頼っています。

先ほどの図で見てきたように、どこにも切れ目などなくつながっている自然界の万物に、言葉を持ち、そして名前を付けることで切れ目を入れてしまったのです。

どこにも境界線などない地球に国名をつけて境界線を引き、その境界線をめぐって争ったり、国益などという無益な言葉を振り回したり、お金というものに頼って生きなければならないのは、それらは科学時代にふさわしくない幻想を抱く脳のままだという証拠です。

自分の本来の身体の一部である地球の環境問題などに対しても、自国の利害などを持ち出していつまでも決着が付かないのは、この脳が古いバージョンのままだからです。



さて、ここまで一緒に登ってきてくださったあなたに(というよりあなたという錯覚を持ったあなたの脳に)質問します。

「我々は、自分の自由意志などで行動していたのではなかった」という事実を知ったあなたは、自分の存在が希薄に思えて、むなしくなりましたか?
それとも、あなたとこの宇宙がガッチリと手をつなげましたか?

言葉を持って自我が生まれたことにより、「自然界から迷子」になってしまっていたあなたが、自然界と地続きである動物たちと同じように、我々を産んでくれた自然界という本来の居場所に戻れましたか?


さて、現代科学が解明した「自分A」を知って、世界中の全ての人が手をつないで、今までの錯覚が作る「自分a」が積み上げてしまった解決不能な問題を、一気に解決する方法はわかりました。

あとは、新しい本当の自分を、我々の脳の記憶に上書きするだけです!

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初めにご紹介したレーナ・マリア分身さんの言葉です。彼女はパラリンピックの水泳選手です。

「人々は私を障害者と言いますが、私はまったく自由です。私を不自由というなら、皆さんだって決して何でもできるわけではなく、可能な範囲のことをしているだけです」


この言葉の中に、人類が、現在の世界的苦境をなぜ切り抜けられないか、そして切り抜けるにはどうしたらいいのかのヒントが隠されています、と言いました。

言葉を持った私たちは、この宇宙を細かく切り分けますが、「障害者」とか「健常者」などという言葉もその一つです。
科学が解明していったものを整理して到達した *分身主義* では、そのような分け方をしません。

私たちは、自分が努力して障害を持ったり犯罪を犯したりしていたわけではないのと同じように、自分で努力して学者や政治家や映画俳優や名スポーツプレイヤーなどになっていたわけではなかったのです。

それが、私たちが自分の意志で行動していたわけではなかったという科学的事実から導かれる真実です。

努力も《環境》にやらされていたわけです。その分身さんを取り巻く様々な《環境》が、努力をするように背中を押すような《環境》だったからです。

もしあなたがその分身さんと同じ《環境》に置かれたなら、全く同じ行動を取り同じ人生を生きていたと考えられます。
もちろん、*分身主義* は遺伝もその人を取り巻く《環境》ととらえますから、姿かたちも全く同じだという意味ですよ。

あなたが今、憧れている誰か、例えば歌手とかスポーツ選手とか、を思い浮かべてみてください。

もし、あなたとその人の《環境》が入れ替わったなら、あなたは、その憧れている人の《環境》の中で、姿かたちもそっくりそのままで、その人の現在と同じ行動を取り、同じ人生を生きているはずです。

当たり前のことです。
だってその人自身ですから。

我々が《環境》に作られ《環境》に動かされていたという事実は、まさに、そういう意味なんです。

私たちは一人で全ての《環境》を経験できるわけではありません。
だから *分身主義* では、他の人は、自分(自分a)の代わりにその環境の中でやってくださっている自分たちの分身(もう一人の自分a)さんであると考えます。

そして自分(自分a)も、他の分身さんたちの代わりに、この環境の中で生きてあげている分身であると考えます。

そういう意味で、彼女(レーナ・マリア分身さん)は、私たち全人類の代表として、誰にもできない彼女の《環境》の中で生きて下さっている分身さんなんです。

彼女の言うように、「誰だって、決して何でもできるわけではなく、その人のできる可能な範囲のことをしているだけ」だったのです。
その意味において我々はみんな平等です。

だから *分身主義* では、誰であっても平等にお互いを「我らが誇るべき分身さん」と呼びます。
たとえ犯罪者であっても、それは私たちの代わりにその《環境》の犠牲となって犯罪を犯した分身さんです。

もしあなたがその《環境》に置かれたら、あなたがその犯罪者に代わって犯罪を犯していたのです。これは間違いなくそうなのです。

このような考え方は、あなたには不快に感じられるかもしれません。
それはあなたの脳が、まだ個人主義的な環境に置かれているからであって、少しも恐ろしい考え方ではありません。

むしろ、みんながこのような考え方ができるような社会になって初めて、この社会から犯罪がなくなります。

このように考えたら、誰一人として、たまたまその《環境》で大金持ちや大スターや英雄を生きてしまっている人を妬んだりしませんし、たまたまその《環境》で独裁者や犯罪者を生きてしまった人を責めたり、たまたまその《環境》の中で落ちこぼれや貧乏を生きてしまっていても、自分を卑下したりしません。

むしろ、他の分身さんにできない《環境》で、落ちこぼれや貧乏を生きてあげている自分という分身(自分a)を誇りに思う気持ちが生まれます。

そのように世界中の人が「科学的覚醒」をしたら、自然にこの世界は美しい色に塗り替わっています。

みんなが本当の自分を助けるために生きる世界になります。

自分という分身(自分a)ができないことや足りないことを助けてもらったり、できることを分け合ったりすることが、本当の自分という宇宙(自分A)を助けることと同じ意味なので、当たり前に助け合ったり分け合ったりできます。

そんな《環境》なので、身障者と健常者をわざわざ分ける必要もなくなります。

それに、お金や武器などに頼る必要もなくなります。

お金や武器に頼る必要がなくなると、その《環境》の中では、私たちの代わりに大金持ちや貧乏人や犯罪者になって下さる分身さんはいなくなります。

そうなると、世界は放っておいてもどんどん加速して美しい色に変わっていきます。

人々の顔つきも友好的で明るい感じにどんどん変わっていくことでしょう。
この個人主義的な環境が作り上げてしまった「鬱病」だって、気がつけばどこかに消えてなくなっているでしょうし、もちろんイジメなんかなくなっています。(『自分という分身(不安を抱えて生きる全ての人へ)』)


人類が「科学的覚醒」を果たして、「個人主義的《環境》」から「分身主義の《環境》」に移行した未来の世界を感じてもらうために小説にしました。
未来モデル小説『ブンシニズム・ドット・ネット』

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あらすじ : ある科学者の呼びかけで、あらゆる分野の科学者が集まり、「本当の自分とは何か」を解明する勉強会が開かれた。それによって「本当の自分とはこの宇宙そのものだ」ということがわかり、その発表によって、それまで個人主義だった世界の様相がガラリと変わった。世界は一つになり、お金も不要になり、人々は自由に世界を行き来し交遊するようになった。そんな世界をイメージして書いた小説です。


お金も武器もなくなった世界なので、誰もがボランティアのように自由に働きながら世界を行き来して、行く先々で出会う人たちと交遊して人生を楽しみ、生だけでなく死も大切にする人たちの物語です。
実現可能な平和な世界。実現の願いを込めて描いた未来の世界です。


■□━━ 編集後記 ━━━
今日の登山『自由意志などなかったと知った時』はここで終わりです。お疲れさまでした。一番長い距離を歩きました。

さて、私たちが今やらなければいけないことは、世界を変えるために外にばかり目を向けて批判や抗議を続けることではなく、この脳内の古いバージョンのOSを書き換えること‥‥だけです。

それさえできれば世界は変わります。

それでしか世界は絶対に変わりません。

古いバージョンのOSでは、もし政権や政治家や法律が変わったりして、一時的に世界が変わったように見えても、上下左右が入れ替わっているだけです。

相変わらず、「この境界線を持った身体が自分である」という錯覚にがんじがらめに縛られて、その錯覚の自分に翻弄されている個人主義的な環境から抜け出せないでいるからです。


次回の登山のテーマは、『もう正義の話はやめよう。これからを生き延びるために』です。

最大の難所をクリアした今のあなたですから、何とか頂上を目指していただきたいと思います。
その向こうには‥‥、あなたの到来をずっと待ちわびていた、今まで見たこともないすばらしい景色が広がっていることを約束します。


🔖NO.9 もう正義の話はやめよう これからを生き延びるために

議論などは、よほど重大なときでないかぎりしてはならぬ。もし議論に勝ったとせよ、相手の名誉をうばうだけのことである。通常、人間は議論に負けても自分の所論や生き方は変えぬ生きものだし、負けたあと持つのは負けた恨みだけである。(坂本龍馬分身)


前回の登山はきつかったと思いますが、乗り越えていただけましたか!?

これまでの長い年月、「自分は自分の意志で行動している」と信じていたのに、それをいきなり「実は、自分の意志などと呼べるものなどどこにもなくて、意志とは《環境》によってこの脳に浮かび上がらせ・られたものに過ぎない」と知らされたわけです。

それだけでなく、「我々の感情はもちろんのこと、しゃべったり行動したりするどんな小さな変化であろうと、どんな影響力のある大きな行動であろうと、《環境》に動かされていただけだった」などと言われても、すんなりと受け入れることなんてできないかもしれませんが、この事実はもはや疑いようのないことのようです。

自分が、何物にも背中を押されることなしに、何物にも影響を受けずに、この世界のすべての物から全く無縁の、自分だけの考えと言えるもので行動をしたことが一つでもあっただろうか? と自問すれば誰でも気がつくことです。

自分が何かを考えたり行動をしたりした時には、必ずそれらを起こさせる何らかの原因となるものが存在していたと気がつくはずです。
背中を押しているものの存在に気づくはずです。
それこそ、我々が、《環境》に動かされていたという証拠です。

メカニズム的に見れば、《環境》からのすべての刺激(=情報)は電気に変換されて脳に届き、その後、脳内で起こった反応が電気に変換されて、この全身に張り巡らされた神経に送られ、その電気によって身体は動かされたり、何かを喋らされたりしていたわけです。

我々はまさに、《環境》に、電気で動かされていたロボットのようなものだったわけです(と言っても、この《環境》が何らかの意図を持って我々を操縦しているというわけではありませんから、誤解しないでくださいね)。


この地球上の全ての生物がそうであるように、人類もまた《環境》のロボットだった、というその事実を今はもう受け入れるべき時が来ています。

それとも往生際おうじょうぎわ悪く、いつまでもジタバタと抵抗しましょうか。

でもその抵抗すら《環境》にやらされているわけだし、それに抵抗する必要なんて、本当は少しもなかったんです。
その事実を受け入れた時、私たちはみんなつながります。
その時、あなたは何にも勝る素晴らしい力を手にします。

例えば、我らが誇るべき分身さんであるマリナーズのイチローさんは、人並みはずれた運動神経に恵まれ、その上に努力に努力を重ねて私たちに夢を与えてくれるスーパースターになったわけですが、今まではそういったことは彼個人の功績であると思われていたわけですから、私たちは彼だけを称えていました。

それが、個人主義的な《環境》から我々の脳に浮かび上がる感覚や発想です。

だけど科学的に考えると、彼のすぐれた運動神経も、彼の天才的な努力も、それに、野球というゲームに彼が情熱を注ぐことも、それこそ彼の一挙手一投足までが、世界中のみんなの総力によって作られているこの《環境》が彼に提供していたものでした。

《環境》に動かされている私たちですが、その《環境》を作っているのもまた私たちです。

そのように考えると、彼のバットにボールが当たるその瞬間は、世界中のみんなが作っているということに気づきます。

どうですか、あなたも彼の打率に貢献していたのですよ。
それがつながるということです。
つながるのも、なかなかいいものでしょう!?
だけど、こんな扱われ方は、イチロー分身さんには不名誉なことで最大の侮辱なのでしょうか?

もちろん今文章を打ち込んでいる私も、あなたの力を背中に感じています。
世界中のみんなの力を‥‥。

それは私を励ましてくださる方だけでなく、私の言葉に今は反感を抱いてしまう方も、私の話に無関心な方も、私の言葉が届かない地球の反対側に住む方もすべて含めてです。

私はすべての方たちが作るこの《環境》、つまり世界中の皆さんの総力に動かされて、こんな一銭にもならない作業を十年以上も続けさせられているわけです。
でも、そのように扱われることは、私にとっては少しも不名誉でも侮辱でもありません。

*分身主義* に出会えた私にとっては、それはむしろ「誇り」です。
みんなが同じ《環境》で生きることはできないので、あなたに代わってこの《環境》で生きてくれている分身さんたちのように、私だってその分身の一人だという自負があるからです。

同じように今あなたがこの文章を読んでいてあくびをしたとしても、それはあなた一人の功績(?)ではなく、この文章のせいだけでもなく、世界中のみんなの総力です。

そんなこと言われるとプレッシャーが大きくて、あくびも落ち落ちできない、ですって!?

それをプレッシャーと感じるのは、*分身主義* 的な意味で言った私の言葉を、個人主義的な《環境》に置かれているあなたの脳が聞き取っているからです。

私の言う個人主義的な《環境》とは、みんなが自分勝手に生きている環境という意味ではなく、自・他の意識が強く働いている《環境》のことで、そこでは常に自分(自分a)に対する“他者”の視線を意識する感覚が働いています。

もしこの《環境》が *分身主義* 的な《環境》になったなら、プレッシャーなど感じるはずもありません。

この《環境》が *分身主義* 的な《環境》になったなら、あなたの周りには、今までのような強い“他者”の視線など存在しません。

常にあなたと共に歩む世界中の人のしっかりとつながれた手と、まるで自分を愛おしむようにあなたに注がれる世界中の人の優しい目だけを感じて生きることになります。


この《環境》が *分身主義* 的な《環境》になる時というのは、世界中の人が、本当の自分(自分A)とは何かということを科学的に知り、そして「自分はどのようなメカニズムで動かされて行動を取っていたのか」を知り、世界中の人たちがその事実を受け入れた時です。

だけど、その時が来るのはそんなに先の話でも、実現不可能な夢の話でもありません。

そして、武器もお金も必要のなくなる時代は必ずやってきます。


そのためには、あなたがそれを理解し、あなたがそれを信じてくれて、あなたがその日が来ることをイメージしてくれるだけでいいんです。


そうすれば、長いこと我々を苦しめ、そして恐れさせてきた死や病も、我々の共感の前ではその威力を失い、死や病が、むしろ楽しみや娯楽のようなものに変わる時代は必ずやってきます。

「共感は死の恐怖よりも強し」です。

例えば、飛行機がこんなにたくさん空を飛ぶ時代が来るまでは、空を飛ぶ乗り物の話を持ち出したり設計図を描いたりすると、実現不可能な夢のような話をする夢想家扱いされて笑われていた時代がありましたよね。

当たり前のような顔をして飛行機で空を移動している我々からみたら、それを笑う時代があったことなど笑ってしまうような話でしょうけどね‥‥。


■□━━━━━━━━━・・・・・‥‥‥

人間と他の動物を画然と分けたものは、人間にはモノを言葉という音に置き換える象徴化ができたことです。

それは人間が二足歩行ができるようになり、そのことによって喉の構造や脳が変化して、声帯からいろいろな音が出せるようになったことに起因すると考えられています。

発端は、雷や風の音まねなどから始まったのかもしれません。
例えばの話ですが、雷の音を聞いて「ゴロゴロッ」と口から音を出したり、風の音を聞いて「ヒューッ」と音を真似てみたりしていたら、いつの間にか「ゴロゴロッ」という音が雷を表したり、「ヒューッ」が風を表すことになったのが言葉の始まりではないかというのは、想像に難くありません。

そのようにして、人間は自然界の現象や物を、言葉という音に象徴化させることを学んでいったのだと思います。
象徴化ということは、もちろんその音の中に、その物に対する“その人なりの感情”なども凝縮されているわけです。

ではここでちょっと一歩踏み込んで、我々が言葉を使ってどのように会話をしているか考えてみましょう。

「ぼくは、きのう、動物園に行ってきたんだよ。すごく楽しかったよ」

この言葉を聞いて、あなたは特に疑問を持たずにすんなりと理解してくれると思います。
でもそれって本当は、とても奇妙なことですよね。

これらの言葉、「ぼく」、「きのう」、「動物園」、「行く」、「楽しい」などは、単なる象徴化された音です。

それなのにあなたが私の気持ちを理解してくださるということは、この象徴化された音を、自分の記憶の中にある象徴化された「ぼく」、「きのう」、「動物園」、「行く」、「楽しい」に当てはめることができるから理解してくださるわけです。

その証拠に、あなたの知らない国の言葉で同じ意味の音を発しても、理解してもらえないでしょうから‥‥。

だけどそれは、当てはめて理解しているつもりになっているだけということですよね。

「自分の脳内に記憶されている、象徴化された音」は、個人個人の体験によって微妙に異なるはずです。
体験を通して、その音に凝縮されている感情なども、個人個人によって微妙に異なるはずだからです。

それなのに、「ぼくは、きのう、動物園に行ってきたんだよ。すごく楽しかったよ」という言葉があなたに伝わるのは、あなたの脳内に記憶されているこれらの「象徴化された音」と、私の脳内に記憶されているこれらの「象徴化された音」が近似しているから共感していただけるわけです。

だから、「そうよね。動物園って本当に楽しいわよね。私はパンダが大好き!」と互いの誤差を共感が埋め合うことで、会話はますます弾みます。


ところが議論になると、この微妙な誤差が問題になってきます。
言葉には感情なども凝縮されているわけですが、議論が成り立つためには、そもそも双方に対立する意見、と言うよりも意見に発展する前の対立する“感情”があるわけです。

何一つ対立する感情がなく共感するばかりなら、先程の動物園の会話のようにワクワクし合うだけで、議論には発展しません。

「僕は、動物園など楽しいと思わない。自然で暮らす生き物を人間のエゴで捕らえてきて見世物にして金を取っているだけじゃないか」などという対立する意見が出て、始めて議論が成り立つわけです。

議論とは、本当はとても危険なものなんです。

「互いの脳内に記憶された、象徴化された音」の誤差を、より少なくするためになされるよりも、その誤差をますます際立たせるだけに終わるのがほとんどです。

国会における政治家たちの議論も、国際間における議論も、誤差が少なくなるばかりか、ますますその誤差を深めることに役立つばかりで、怒りや憎しみなどに発展することがほとんどです。

我らが誇るべき分身さんである、坂本龍馬さんの言葉を引用させていただきます。

「議論などは、よほど重大なときでないかぎりしてはならぬ。もし議論に勝ったとせよ、相手の名誉をうばうだけのことである。通常、人間は議論に負けても自分の所論や生き方は変えぬ生きものだし、負けたあと持つのは負けた恨みだけである」

今まであなたが誰かと議論をした時のことをよく思い出してみて下さい。
坂本龍馬分身さんの言葉が正しいことがよくわかるはずです。

では、どうしたらその困難を乗り越えて、今も片時も休むことなく世界が積み上げていく問題を、解決することができるでしょうか?

それは、どうしたら可能なのでしょうか?

今日は、そんなことを考えながら、歩きにくい岩場を登っていこうと思っています。


ところで、言葉という象徴化がもたらす結果は、もちろん悪いことばかりではありません。
科学も数学も象徴化が命です。
象徴化は、モノをコンパクトにして持ち運びができ、しかも組み替えなどが自由にできるので新たな物を次々と作り出しました。

今我々の前にあるこのパソコンや携帯も、車も電車もロケットも、みんなそのようにして生まれて来たものです。
この私の文章も、象徴化された音をあるルールに則って配置して生まれているものですよね。

(ただし、私の書いている文章には違いありませんが、同時に、書いている私は、私という配役を任された役者が演じさせられているだけだという気持ちも忘れてはいけないことでしたね。我々がこの困難な時代を克服するために、これから必要となる大切な視点です)

言葉を持たない動物たちにはできなかったことが、音まね(?)に始まって、ついにここまでできることになったなんて、ある意味すごいことですよね。

■□━━━━━━━━━・・・・・‥‥‥

さて、今回の登山のタイトル『もう正義の話はやめよう これからを生き延びるために』は、もちろん、我らが誇るべき分身さん、マイケル・サンデルさんの著書『Justice: What's the Right Thing to Do?』の日本語版タイトル『これからの「正義」の話をしよう いまを生き延びるための哲学』をもじったものです。

サンデル


今、世界で一番忙しい教授などと囁かれているサンデル分身さんのことは、たいていの人が知っていると思います。

ハーバード大学の教授で専門は政治哲学です。

その学部科目「Justice(正義)」は、延べ14.000人を超す履修者数を記録し、あまりの人気ぶりに、ハーバード大学は建学以来初めて講義を一般公開することに決定しました。

その模様はアメリカのPBSで放送され、日本でもNHKで『ハーバード白熱教室』として放送されました。

先程紹介した『これからの「正義」の話をしよう いまを生き延びるための哲学』という本は、講義の内容を一般向けにわかりやすく執筆されたもので、日本だけでなく韓国でもベストセラーを記録しているそうです。

私は『ハーバード白熱教室』は録画して何度も見ましたし、著書も読ませていただきました。

その後、東京大学の安田講堂でも講義をされ、それもNHKで、『ハーバード白熱教室@東京大学 日本で正義の話をしよう』と題して放送されたので、こちらも録画して見ました。

また、我らが誇るべき分身さん、小林正弥こばやし まさや、政治学者、1963年 ー )さんがとてもわかりやすく解説して下さっている『サンデルの政治哲学』という本も読んでみましたし、彼(小林正弥分身さん)が千葉大学で行なった『白熱教室JAPAN』も録画して何度も見てみました。

そんな中で、*分身主義* の正当性と必要性と、そして緊急性がますますはっきりと見えてきました。


まず哲学とは何かということから考えてみたいと思います。
私は哲学とは「偉大なる自己正当論」だと考えています。

どういうことかと言うと、哲学をする人の中にはまず初めに「今の世の中、何か嫌だなあ」とか、「この考え方好きになれないなあ」とか、「こうであったらいいなあ」という漠然とした気持ち(直観や気分や感情)があり、またそれに対する自分なりの答えも漠然と持っていて、その漠然とした自分の答えに、筋道の通った屁理屈(?)を後からくっつけるものが哲学というものだからです。

つまり、言い方を換えれば自己(の直感や気分や感情に対する)正当化です。
その前に「偉大なる」とくっつけたのは、その場しのぎの安直な自己正当化とは違って、内なる厳しい検証を通過させ普遍的原理に近づけようとする深奥な試みだと言いたかったからです。

だけど自己正当化であるからには、敬虔なクリスチャンなら、クリスチャンなりの善の意識があって、それに則った哲学(屁理屈)ができてくるし、金持ちなら金持ちなりの哲学(屁理屈)、貧者には貧者なりの哲学(屁理屈)ができてくるわけです。

それは、サンデル分身さんがたどり着いた「コミュニタリアニズム(共同体主義)」であっても例外ではないでしょうし、もちろん私がたどり着いた「分身主義(ブンシニズム)」であっても例外ではありません。

両者とも元々、漠然とした気持ち(直観や気分や感情)に対する自分なりの答えは持っていて、それを正当化するために一見筋道の通った屁理屈を、内なる厳しい検証の末にくっつけただけなんです。

だけどサンデル分身さんと徳永分身との間には決定的な違いがあります。

サンデル分身さんはあくまでも自分の“直観や気分や感情”などに根ざす哲学ですが、私の方は、感情を極力排除して謙虚に自然界から学ぼうとする“科学”から教えを乞うたものだという点です。
(*ちなみに分身主義は「主義」などと言っていますが、主義でも思想でも哲学でもなく、科学時代を生きる我々が物を見るために必要な視点です。だから私も分身主義者などではありません)

もちろん、サンデル分身さんの講義の中に出てくる功利主義や、リバタリアニズムや、リベラリズムなどにしても、それらが哲学である以上、その哲学を主張する人の感情などに基づいて漠然とした答えが最初にあり、それを正当化するために一見筋道の通った屁理屈をくっつけたに過ぎないわけです。

・功利主義:幸福を数字に置き換えた場合の全体的平均値の最大化を目指す思想。

・リバタリアニズム:財産および自分の身体を自己所有と考え、個人の自由を根拠に、市場経済を擁護したり課税に反対したりする思想。

・リベラリズム:誰にでも平等な自己の白紙状態を仮想して、その場合に自分の利益を考えて人々が取り得るであろうはずの合理的選択に正義を委ねる思想。課税による福祉政策を擁護する。

乱暴な意見に聞こえるかもしれませんが、このように直観や気分や感情に由来する“哲学”にしがみついている以上、見解の一致などは見込める可能性はありません。

ちなみに、リベラリズムを主張するロールズ分身さんは功利主義やリバタリアニズムを批判していて、そのロールズ分身さんの政治哲学を批判したのがサンデル分身さんですから、一般的に、新しいサンデル分身さんの哲学が最も素晴らしいのだろうと考えてしまいがちですが、そうとも言えません。

我らが誇るべき分身さんであるアマルティア・センさん(インドの経済学者。1998年にノーベル経済学賞受賞)は、『アイデンティティに先行する理性』という著書でサンデル分身さんたちのコミュニタリアニズムを批判し、ロールズ分身さんを賞賛しているようです。

また、インターネット上では功利主義を支持する人たちもたくさんいます。
やっぱり見解の一致は見込めそうもありません。

それというのも、哲学の根底にあるのは、今見て来たように非合理な人間の感情(怒り、妬み、恨み、好き嫌い、価値づけ‥‥など)だからです。

この泥沼の中でもがいている我々を引き揚げてくれるものは、人間の感情を排除して謙虚に自然界に教えを乞う「科学」以外にありません。


以下は、東京大学での講義の最後に、サンデル分身さんが学生たちに語った言葉を書き取ったものです。

「すばらしい議論だった。ここまで話し合ってきた過去の過ち(=戦争)に対する公の謝罪と賠償に関する問題というのは、今日の政治で最も道徳的に争われ、困難で、議論されてきたものだ。
これ以上に繊細で、激しやすく感情的で、道徳的に衝突する問題は他にはないだろう。
私が素晴らしいと感じたのは、みんなが異なる見解を示し、みんなが心に深く根差した信念によって、異議を唱えながらも尚、お互いの意見に耳を傾け合ったということだ。問題の根底にある道徳原理を探ろうとして議論してきたことだ。
我々は問題を解決することはなかった。しかしディベイトや道徳的議論、公共の討議は、たいていの場合、全員の合意を得るものではないだろう。世界を見渡せば我々は異なる価値観が存在し、相反する道徳や宗教的な信念に満ちたグローバル社会に生きている。
(中略)
政治において意見が合わない時、道徳や共通善、正義が直面する大きな課題について、決して同意することがないのに、どうしてわざわざ考え続けるのかと言われることがある。
ある意味それは正しい。
哲学は不可能に見える。
なぜなら偉大な哲学者が何世紀にもわたり執筆してきたのに、合意に達していないし、結局彼らにも結論は出せなかった。
ではどうして我々がそれ以上にできると自信を持てるのか? 私の答えは、哲学はある意味不可能だが、決して避けられないということだ。
我々は毎日その問いに対する答えを生きている。哲学者たちの問いだ。
何よりも感動的で刺激的だったのは、ここにいる君たちと二つの講義で行った議論が、哲学は世界を変えることができると示してくれたことだ。君たちは意見を戦わせ、”正義 ”について共に考える力を見せてくれた。
ありがとう。・・・・・」

ハーバード大学での講義の最後もこのような言葉で締めくくっていました。
この力強い語気の裏に、たとえ正解はなくても議論を続けていくことでしかより良い社会を築くことができないので、その少ない可能性に賭けてみるしかないのではないか、という諦めのような気持ちを感じるのは私だけでしょうか。

しかし実際はそんなに悲観的になる必要もないし、また合意に至らないであろう議論などしなくても彼が求める世界(人々の心の中から不公平感や不満が消えて、みんなで助け合って仲良く生きる世界)はもうそこまで来ています。

それをこれからお話します。

実は、サンデル分身さんが批判する功利主義やリバタリアニズムやリベラリズムを主張する人たちにしても、あるいはサンデル分身さんと同じコミュニタリアニズムを主張する人たちにしても、誰もまだ気づいていないことがあります。

自分とは何か、そしてそれはどのようなメカニズムで行動をしているのかといったことを、「科学的」にわかっていない上で議論しています。

「自分とは何か?」を考えることは、哲学の本質でもあったはずですが、それがまったく棚上げされたまま議論されているということです。

もちろん、サンデル分身さんのおっしゃる「何世紀にもわたり執筆してきた過去の偉大な哲学者たち」は、まだ科学が追い付いていなかったので、知る由もありません。

だから当たり前のことです。

本当の「自分(自分A)」を科学が解明したのは、ごく最近のことだからです。

だけど残念なことに、今を生きている科学者のほとんどが、「自分(自分A)」のことも知りませんし、自分は自分の自由意志で思考し行動していると思い込んでいるのではないかと思います。

科学者という方たちは、職業柄、近視眼的になりやすいので、それらの科学的事実を知る機会がないこともあるでしょうし、あるいは知ってしまったけれども、感情的、道徳的な自分がそれを認めたがらない場合もあるかもしれません。それとも、今まで培ってきた価値観や人生の指針のようなものが否定されるのは堪らないのかもしれません。

だから、まだ一般に広まるまでは傍観者に徹しておいて、今までの社会が与えてくれている、名誉や権威や様々な利益を享受し続けよう、と考えているのかもしれません。


この自分探し登山は、「個人主義から分身主義への世界的転換を目指す」と銘打っていますが、私の言う個人主義とは、何らかの主義・主張ではなくて、現代人の取り得る思考や行動のパターンのことです。

「自分とはこの境界線を持って存在しているかに見えている身体の内側であり、その自分は自らの意志で思考し行動している」
と錯覚している我々が、取り得る思考や行動のパターンのことを指しています。

その意味で、功利主義を主張する人も、リバタリアニズムを主張する人も、リベラリズムを主張する人も、みんな一人一人は個人主義なのです。

バラバラにされた「自分a」たちの集まりが作る《環境》に、思考させられ行動を取らされている現代人は、誰もが個人主義を生きているのです。

その個人主義的環境の中から浮かび上がる自分(自分a)の気持ちを、それぞれに正当化するために理論づけられた哲学が、功利主義やリバタリアニズムやリベラリズムなどだったわけです。

ただ、それらの欠点を克服しようとしたサンデル分身さんたちのコミュニタリアニズムは少し *分身主義* に近づいていると言えるかもしれません。

なぜなら、コミュニタリアニズム(共同体主義)というのは、自分の所属するコミュニティを意識し、そのコミュニティを作っている過去から引き継がれた物語に目を向けて、自分とはそのコミュニティを背負ったものだと考えているからです。

しかし、本当の自分とは何か、そしてそれはどのような力に行動させられているのかということには気づいていない限りは、コミュニタリアニズムを標榜(ひょうぼう)する方たちも、やはり個人主義的環境の中から、その反動のような形で自分たちの脳に浮かび上がる言葉を口にしているだけです。


ところで、サンデル分身さんの『ハーバード白熱教室』は、生徒たちに問題を提起して議論させるだけで、サンデル分身さん自身は自分の意見や結論を言いません。

それが見ていて歯がゆく感じる理由なのですが、それでいいのかもしれません。本当は教師が授業をするのではないからです。

教師も生徒もそこにいないあなたも含めて、世界中のすべての人たちと宇宙の万物が一体となってその授業空間を作っているだけです。

だけど、彼(サンデル分身さん)は、自分がこの宇宙万物に支えられて授業空間に放り込まれた媒体の一つに過ぎないことには、まだ気づいていないと思います。
ビッグバンの瞬間に書き上げられた、自然界のシナリオに演じさせられている役者の一人である自分に‥‥。

そのことに気づかない限り、彼の理論も、彼が批判する功利主義やリバタリアニズムやリベラリズムと大して変わりません。

言葉を用いるようになった人類は、「自然界」から迷い出て「人間界」という言葉の荒海の中で誰もが溺れそうになっているかのようです。

私たちは、言葉の荒海で溺れまいとしてもがくことをやめて、全身の力を抜いて、我々を生んでくれた自然界という大海に仰向けに寝転んだら、誰もが気持ち良く浮かぶことができるはずです。


今、世界中の頭のいい人たちが、我々はどう生きるべきかを難しい政治や経済の理論に置き換えて激しく議論し合っています。
科学が知ったこの世界は、我々が思っていたよりもずっと単純だったというのに、わざわざ複雑に難解にしてしまい、ついには自分たちの首を絞めてしまうのが人間のさがのようです。

およそ、宇宙を漂っている私たち人類が、仲良く生きることを犠牲にしてまでも決定しなければならない重大事項なんて、ただの一つだってありはしません!

あらゆる論争は、どちらが正しいかではなく、どうしたら争いを回避できるかという目的のためだけに、話し合われるべきです。

対立する感情や意見を議論することをやめて、その対立する感情や意見を超越した場所に立って議論することです。

つまり、逆説のようですが、議論をする「目的」は、争い(論争)を回避する「目的」のためであるべきだという意味です。

争い(論争)を回避する「目的」のために行われる議論には、相手の立場を思いやる気持ちが生まれます。

大切なことは正義を行うことなんかではありません。

正義の根底には哲学と同じように、その人の感情(怒り、妬み、恨み、好き嫌い、価値づけ‥‥など)があります。

「正義」とは合理的なものでもなんでもなく、その人を取り巻く環境によって、その人の脳に浮かび上がらせ・られている単なる感情を正当化しただけの、その人が、あるいはその人たちが正しいと信じているだけのものです。

だから複数の正義があり、それらが衝突した場合、そこから争いも起きます。現に、多くの戦争はこの正義同士のぶつかり合いによって生じているのではないでしょうか!?

そんなものを守るために血を流して戦う価値などどこにあるのでしょうか!?
我々は、一旦、人間中心の視点である感情のモノサシを捨てて、自然界中心の科学の視点で「自分とは何か」を知ったところから始めることが必要なのです。


今回の登山は、サンデル分身さんを批判したような形になってしまいました。
サンデル分身さん、ごめんなさい。
本当は *分身主義* には批判などというものは一切ないんです。

批判じみた言い方になってしまったのは、それはまだ個人主義的な環境に置かれている私(徳永分身)の脳に浮かび上がる言葉を、私が口にしてしまっただけです。
なぜ *分身主義* には批判は一切ないかと言うと、あるのは自己反省だけだからです。

どういうことかと言うと、サンデル分身さんが東京大学で行った講義の中の「オバマ大統領は原爆投下を謝罪すべきか?」という問題提起に対して、*分身主義* なら次のように答えるからです。

「戦争はどこかの国が一方的に始めたのではなく、私たちは、私たちを取り巻く《環境》に戦争をさせ・られていただけであるから、この世界には戦争に対する加害者も被害者もいない。
強いて言えば、世界中のみんなが加害者であり、世界中のみんなが被害者でもある。原爆投下は、世界中の人が作り上げている《環境》に人類が取ら・されたのである。
つまり、原爆投下はアメリカだけが行ったことではなく、日本も一緒になって、それどころか全世界が一緒になって行われたことだ、と *分身主義* は考える。

だから謝罪するならオバマ大統領だけでなく私たち日本人も含めてすべての人類が、自分たちに対して謝罪(反省)すべきである。その反省の上で、戦争で傷ついた人たちも、戦争を経験していない人たちも、過去の過ちを許し、手を取り合って、まったく新しい世界へ歩き始めるべきである」


いつまでも戦争責任を議論していても水掛け論です。
それはまるで自分で自分の身体を傷つける自傷行為のようなものだったんです。

戦争は、まだ私たちが自分とは何かをよくわかっていなかった頃に起こってしまったことであって、科学が自分というものを解明してくれた今、みんなで反省して、みんなで慰め合いながら、これからは仲良く生きることだけを考えましょう!


この考え方には異論もあるかもしれません。
しかし、*分身主義* 的な意味で語った私の言葉を、個人主義的な環境に置かれている人の脳が聞き取って、その時にその人の脳に浮かび上がった言葉を口にしていても永遠に平行線です。

そんなことに時間を使うのは無駄以外の何物でもありません。

私たちが今、早急にやらなければいけないことは、誰かの主義・主張に対する批判や、*分身主義* の是非を議論してその場で足踏みすることなんかではなく、取り敢えず、科学がたどり着いた事実を受け入れてみることだけです。

そして、この脳のOSをバージョンアップさせることだけです。

明るい未来


それだけが大事なのであって、私たちの脳のOSがバージョンアップされて、この《環境》が *分身主義* 的環境になった時、*分身主義* なんていう言葉はどこかに消えてしまっていいんです。

もとより、*分身主義* などと言っていますがこんなもの主義でもなんでもありません。
「個人主義」という言葉に対比する意味で命名させていただいただけのものです。

だから *分身主義者*などという人はどこにもいませんし、間違ってもブンシニストなど作ってはいけません。
もし *分身主義者* なる者がいるとしたら、それは世界中の人の心がつながって一つになった時、初めてこの宇宙にたった一人の *分身主義者* が生まれるだけです。

だけどその時、同時に、*分身主義* という言葉は消滅しているはずです。


■□━━ 編集後記 ━━━
今日の登山『もう正義の話はやめよう これからを生き延びるために』はここで終わりです。お疲れさまでした。

世界中の人がつながって一つになった時、その《環境》から私たちが取らされる言動は、今とはがらりと違うものになるはずです。

なぜなら私たちは《環境》に動かされているだけのロボットだったからですよね。そしてそのロボットを動かしている《環境》を作っているのもまた、私たちだったんです。ビッグバンの風に吹かれて揺れている、138億歳の私たちが作る《環境》だったんです。

全人類がその事実を知った時、上から目線で行われていた今までの政治が世界を動かすのではなく、みんなの心に湧きあがってくる「共感」が世界を動かすことになります。

と言うより、元々、世界を動かしていたのは政治家ではなくて我々のイメージだったのです。そのことにまだ誰もが気づいていなかっただけだったのです。

今回の「東日本大震災」で家や家族や職を失った人たちを、世界中の人が助けようとしているのと同じ気持ちが世界を動かすのです。

人間はお金などなくても生きていけます。

武器などなくても生きていけます。

武器やお金などない方が、自然界のものを大切にしながら共に助け合って暮らしていけます。

武器やお金が必要だったのは、今まで私たちが本当の自分を知らなかったからです。

さていよいよ次回は頂上に立ちます。


🔖NO.10 この宇宙にたった一つだけの「目的」を作らせてください!

価値観の対立する者同士でも、「世界平和」というたった一つの目的を掲げて議論すれば、必ず一つの結論に到達します。
ただし、それは個人主義的環境の中にいる限り、まだできません。
世界中の人が分身主義的な環境の中にその身を置いた時に、私たちは初めて「世界平和」というたった一つの目的だけを目指して議論することが可能となります。



「脳のOSをバージョンアップさせること」は、それほど難しいことでもなんでもありません。現代科学が解明した次の2点を理解して脳にインプットさせるだけでいいんです。

1、この身体が自分というのは、神経系の見ていた錯覚であった。科学が解明した「自分」は138億年前に産声を上げたこの宇宙だった。

2、我々には今まで言われていたような「意志」などなかった。《環境》から浮かび上がらせ・られた「意志」に、思考や行動を取らされていただけだった。

*分身主義* は個人主義という言葉にならって付けられた名称ですが、個人主義の全否定ではありません。個人主義の利点を生かし、その欠点を乗り越えたところに *分身主義* はあります。

私の言う個人主義(者)というのは、ある種の主義を強く主張する人たちのことではなくて、バラバラにされてしまった自我(自分a)に縛られた現在の人類全てを指しています。その意味で社会主義の国の人も、独裁主義の国の人も、民主主義の国の人も、一人一人はみんな個人主義(者)なのです。

そのバラバラにされた自我(自分a)を、宇宙にまで拡大させたものが *分身主義* です。(自分a ➡ 自分A)
そして今までの(自分a)を「個人」ではなくて、この宇宙万物の「分身」とみなすものです。

自我を宇宙にまで拡大させることを、*分身主義* では「自我を育てる」と形容しています。

自我 (=自分という意識) の境界線が強いと、自己愛的な様々な人格障害に陥ってしまうこともあります。自我の境界線が少しだけ拡大すると、「自分たちの側」 という境界線を引けるようになります。

その境界線は、「自分の家族 < 自分の会社 < 自分の州 < 自分の国 < 自分の宗教」と拡大させることができます。でもこれらの境界線では、まだ争いや戦争が起こります。

もう少し拡大すると、「同じ地球人」 という境界線を引けるようになります。

ここまでの境界線なら、世界の平和と地球環境を守る意識が生まれます。

しかし、*分身主義* の境界線はもっともっと宇宙にまで拡大したものです。
それは、「自分は宇宙に存在するあらゆるものと同じように、ビッグバンから分かれた分身」 という意識で、同時に「自分は宇宙である」という感覚です。(自分a=自分A)

分身主義とは



「自分は宇宙である」という感覚、を *分身主義* では「自我が育つ」と表現します。

だけどこの時、不思議なことが起こります。

「自我」は「自我」でも、今までの「自我」はすっかり消滅しているというパラドックスが起こるのです。

偉いお坊さんたちが「自我を滅却させよう」と厳しい修行をしても決してなくならなかった我々の「自我」ですが、その「自我」が一瞬にして消えてしまっている自分に気づきます。


世界中の人の自我が育った時、この世界は自ずと武器もお金も不要な世界になります。それらは我々に意味を持たないものになるからです。

また、「思いやり」や「助け合い」の気持ちも、自我が育った時に自然に生まれてきます。これらは誰かに言われて持つものでも、言われたから持てるものでもありません。

それなのに、自我を育てることをないがしろにして、「思いやり」や「助け合い」の気持ちを持ちましょうなどと声を掛け合っている現代は、まさに本末転倒です。

自我が育っていないために、そのような言葉を掛け合うことでしかやっていけないだけなのです。

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先日テレビを見ていたら、「東日本大震災」で被災されて、避難所生活を余儀なくされている方たちの様子や話が聞けました。
そんな中で、同じ避難所で生活していながら対照的なお二人の話がありましたので、是非、ここに留めておきたいと思います。

一人のおばあさんは、「(共同生活は)人様に気を使うので、できれば早くここから出たい」とつぶやいていました。

その気持ち良くわかります。大変な被害に遭って、誰もが気持ちがふさいで心を閉ざしているのでなおさらでしょう。


もう一人の年配の女性は、被災する前は床屋さんをやっていた方なので、どこかからハサミや櫛などの道具を調達してきて、青空床屋を開いていました。

「阪神・淡路大震災のニュースをテレビで見ていて、自分もボランティアで髪を切ってあげたいなと思っていたのに、まさかその願いがこんな形で実現するとは思ってもいなかった」とにこやかに仰っていました。

髪を刈ってもらっているおじいさんもニコニコしていました。

「毎日いろんな人の話が聞けるし、笑い合ったりして楽しいですよ」
そう言った後、少しためらいがちに「できれば‥‥ずっとここにいたいくらいです」と言って明るく笑いました。

人間にとって本当に必要なものは何だったのか、ということに気づかせてくれる感動的な言葉でした。

それは、我々がすべてを失って初めて気がつくものかもしれません。

世界中の人が、本当は、自分の所有物など何一つなかったと知って、その時こそ本当に大切な、決して失うことも奪われることもない物を手にして、「できれば、ずっとここにいたいくらいです」と笑顔で言える世の中に早くなって欲しいです。

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さて、今日のテーマ「宇宙にたった一つだけの「目的」を作らせてください!」ですが、ここが我々の登山の頂上になります。

この登山は、科学が解明したものを拾い集めながら歩いてきたわけですが、科学というものは、この自然界の「how」をどこまでも解明していくものです。でも、決して「why」には答えられないものです。

「how」:どのようにして、どのような方法で、いかにして
「why」:なぜ、どのような理由で、何のために、どうして


どういうことかというと、ある結果が起こる「原因(どのようにして)」は限りなく究明することができるのが科学ですが、それが起こった「理由や目的(何のために)」には一切答えられないものが科学です。

例えば、「どのような原因で雨が降るのか?」には答えられますが、「何のために、あるいはどのような理由で雨が降るのか?」には絶対に答えられません。

どうしてでしょうか!?

自然界の一切には理由も目的もないからです。

その自然界の大原則に立っているものが科学だからです。科学とは、人間の感情や欲望や理想などを排除して、謙虚に自然界様にこの世界の成り立ちを問い続けるものだからです。

「理由」や「目的」というものは、言葉を持ってしまった人間だけにあるものです。

人間だけが、自分の感情や欲望や理想などを解決するために考案する、人間中心のアイデアに過ぎないものです。
いわば、自分に合わせた自己正当化です。

科学が、そんなものに頼って、自然界にありもしない「理由」や「目的」を付けられたらたまったもんじゃありません。むしろ、科学が、人間の感情や欲望や理想などを排除するからこそ、自然界から迷子になってしまった人類が本来の居場所を探せるのです。


とは言うものの、人は、どうしても自分の生きる意味や目的を求めてしまう生きものです。

言葉を持ってしまった以上、それは仕方のない人間のさがなのでしょう。

だけど、目的や理由を、登ろうとしている山のいただきにたとえるとすると、我々がやっていた議論とは、違う山を歩いている人たちが集まって最善のルートを探し合うようなもので、永遠にゴールすることのない無益な話し合いだったのです。

『NO.9もう正義の話はやめよう‥‥』で次のように語ったのを覚えていますか?

「あらゆる論争は、どちらが正しいかではなく、どうしたら争いを回避できるかという「目的」のためだけに、話し合われるべきです。
対立する感情や意見を議論することをやめて、その対立する感情や意見を超越した場所に立って議論することです。
つまり、逆説のようですが、議論をする「目的」は、争い(論争)を回避する「目的」のためであるべきだという意味です。


およそ、宇宙を漂っている我々人類が、仲良く生きることを犠牲にしてまでも決定しなければならない重大事項なんて、ただの一つだってありません!

この言葉を私は百万回でも繰り返したいくらいです。

個人主義的な環境で生きている我々は、とんでもない勘違いをしています。

誰もが自分の感情や意見を通そうと一生懸命ですが、実は、それは大して意味があることではないのです。その議論は、仲良く生きることを犠牲にしてまでも決定しなければならない重大事か、と問われれば、どんな議論も無意味であると悟るはずです。


夫婦喧嘩を考えてみてください。
お互いに、自己中心的な心情や感情をぶつけて、相手の行為を批判し合います。
子供を守るためにも、この人とは別れなければならないと結論づける場合もあるでしょう。

でも、その間に立たされた子供だけが、本当は何が大切かを知っています。
子供は、どちらが正しいかではなく、ただ、パパとママに仲良くして欲しいだけなんです。

仲良くしてくれさえすれば、正しかろうと間違っていようと、全然問題じゃないことを子供は知っています。本当に大切なものを知っているんです。

もっとも、ことの正否は、主観的なものなので当てになりません。

永遠に答えの出ない、どちらが正しいかを決定するために口論をするのではなく、その争い(口論)を、争い(喧嘩)を回避するために、つまり、仲良く生きるため、というたった一つの目的を持って行なったなら、同じ言葉でも、毒のある言葉からユーモアの言葉に変化します。

相手を許す気持ちや、譲り合う気持ちが自然に生まれてくるから不思議です。そうすると、変えさせようと躍起になっても変えられなかった相手の行動が、すんなりと変わることもあるでしょう。


夫婦関係ではなく、政治上の議論や、国際間の議論であっても事情は全く同じです。仲良く生きるためという目的を掲げたら、今までの議論すらほとんど意味のあるものでもなかったことに気づくはずです。

例えばサンデル分身さんの『ハーバード白熱教室』などは、議論を楽しむということ以外、ほとんど意味がないことでした。結局『白熱教室』は、いつも問題提起しただけで何の結論も出ずに終わります。

結論が出るはずもなかったからです。

様々な主義が、自己の正当性を主張するだけで終わるのはわかり切っています。功利主義の人がリベラリズムの人の意見を聞いて、「ああ、なるほど。あなたの言うことの方が正しいので私もリベラリズムに鞍替えします」などとなることが万に一つも想像できるでしょうか?

本当は、人間には「主義」などない方がいいのです。それは人間には「お金」などない方がいいのと同じです。本当は、これらは「個人主義」が犯してしまった最大の過ちと言ってもいいものだったのです。
(もちろん、個人主義的環境の真っ只中で生きている我々は、そのことに気づくはずもありません)

だから、*分身主義* は、最終的には分身主義などという言葉すら不要な世界になって欲しいと願っているのです。


そこで、自然界には目的や理由など存在しないと理解している「科学」だけに根拠を置く *分身主義* は、唯一、「自分の全身の平和のため」という目的だけを作らせてくださいとお願いします。

自然界様に一つだけ盾つかせていただくことになります。💦

世界にたった一つの「自分の全身の平和のため」という目的しかないのだから、どんな議論においても、対立する「理由」を探し出す方が難しいはずです。
誰もが一つの山の頂を目指すために助け合うしかないのだから‥‥。


『LEARNING TO READ with Words and Pictures』というアメリカの子どものために書かれた英語の辞書があります。三十年も前に読んだものですが、その中の「quarrel」という単語の説明文に非常に感銘を受けました。

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quarrel とは、日本語で「喧嘩、口論」などのことです。その単語の説明として、次のような物語文がありました。

David and Lucy are having a quarrel. "You made the stain in this book," says Lucy. "I did not. You did it," says David.
"No, I did not. It was you!"
They are blaming each other for making a stain in a book.
Their teacher says, "If you cannot settle your quarrel, let me tell you the best thing to do. Each of you must try to clean the stain out of the book. Then there will be no reason to quarrel."

「本を汚したのはあなたよ」、「いや、おまえの方だ」と言って、デイビッドとルーシーが互いに相手をののしり合って一歩も譲りません。そこへ先生が来て言います。「あなたたち、けんかをやめられないならいい方法を教えてあげましょう。二人で本の汚れを落とそうとしてごらんなさい。そうすれば、理由なんてどこにもなくなるでしょう、けんかすることの‥‥ね」

今まで自分たちが喧嘩をしていた理由が吹っ飛んでしまって、それどころか逆に仲良く汚れを落とし始めるデイビッドとルーシーの姿が、目に浮かぶほどじゃないですか!?


世界中の人が自分の本当の姿を知って、たった一つの目的(目標)だけを見失わずに生きて行けばいいのです。世界はとてもシンプルだったのです。

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それに、世界平和という状態は世界にたった一つしかありませんよ。


世界中の全ての人たちの心から不公平感や不満がなくなり、誰もが仲良く生きて祝福の中で死んでいける状態だけです。

それは夢物語ではありません。

今までの我々の脳(錯覚の自我に翻弄されていた脳)で考えるから夢物語だっただけです。
今までの自我は錯覚であったことを知った脳が増えれば、人類はしっかりと手をつなぎ合い、世界中の人が温かい心を通わせ合い、やがてこの《環境》は変化させられ、世界は平和になるしかありません。

その時が来たら人類は言うでしょう。
「世界が平和じゃない状態を作ろうだって!? そりゃあ君、この《環境》が個人主義的環境に変わらない限り、もはや夢物語だよ!」

《環境》が我々の行動を作っていたからです。



■□━━━━━━━━━・・・・・‥‥‥

さあ、これで我々の登山は終わりです。
頂上に立った今あなたの眼前には、素晴らしい眺望が広がっていることと思います。
険しく、時には辛い登山を一緒に歩いてくださってありがとうございました。

これから下山したら是非試してみて欲しいことがあります。

テレビをつけてみて下さい。
できれば国会中継や討論番組などで誰かが誰かを批判しているものや、ワイドショーのコメンテーターや評論家などが自信たっぷりに誰かや社会を批判している姿を見て下さい。

その時、今までと違って、彼らがこの《環境》にしゃべらされているような感じに見えてくる瞬間があります。

批判をする人は批判をされる人よりも正しくて聡明で偉いわけではなく、そのような《環境》にたまたま自分が置かれて、しゃべらされているだけだということが見えるはずです。

人の行動は《環境》に制御されていたということは、立場が変わればまったく同じことをしていたのです。批判していた人が批判される側に回り、批判される側が批判する側に。

それが理解できれば、例えば、今までは腹が立って仕方なかった不正行為を行う人たちに対しても、むしろその《環境》の被害者として憐れむような気持ちで見れるようになります。

それならあなたの脳には、新しいバージョンのOSが正しくインストールされたということです。

だけどその新しい脳で外に出た時に気をつけていただきたいことが一つあります。

世界がほんの少しバラ色になったかのように気持ちが明るくなり、すれ違う分身さんたちが何だか古くからの懐かしい友人のように思えてきて、挨拶をしたくなったり話しかけたくなったりしてしまうかもしれませんが、今はその気持ちは少し抑えて下さい。

今はまだそんなことをしては警察に通報されてしまいます。

せいぜい、世界が *分身主義* 的な《環境》に変わる日まで、英会話の勉強や分身みなさんに披露できる特技でも身につけながら、ゆっくりと待つことにしましょう。

あなたが二足歩行を始め、言葉を用いるようになり、やがて自我という眠りに落ちてしまって以来、ずっと分かれてしまっていた自分の分身に、会いに行くその時のために‥‥。

あなたが自由に世界を飛び回って、世界中のあなたの分身さんたちと仲良く交遊し合える日が来たその時のために‥‥。

そんな未来の世界をイメージして小説にしてみました。
未来モデル小説『ブンシニズム・ドット・ネット』

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お金も武器もなくなった世界なので、誰もがボランティアのように自由に働きながら世界を行き来して、行く先々で出会う人たちと交遊して人生を楽しみ、生だけでなく死も大切にする人たちの物語です。
実現可能な平和な世界。実現の願いを込めて描いた未来の世界です。


現在からの「あとがき」 2021.4.22

動画を3本作り本文の中で紹介させていただきましたが、4本目は力尽きてしまいました。それに、間を開けてしまったので、すっかり作り方も忘れてしまいました。

動画を作った頃は、今のように「ユーチューバー」などという言葉も使われていなかったと思いますし、作る人もあまりいなかったので、ホームページビルダーで試行錯誤しながら作りました。

今の人たちならもっと簡単に作れると思いますが、当時は本当に苦労しました。

当初の「本当の自分をイメージするのに少しでも役立ててほしい」などという計画は頓挫した形になってしまいましたが、できればこちらの記事で参照してください。

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本当の自分を知るためには、人間の感情や欲望や理想などを一旦は排除して、「真の科学」で探って行かなければ絶対にたどり着けません。

3本の動画だけでも、「真の科学」とは何を意味するかということだけはわかっていただけたと思います。

「普通一般的に言われている科学」や「科学者も勘違いしている科学」との違いをわかっていただきたいと思います。

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それと「自由意志」について、最近、noteに投稿しました。中学生くらいにもわかるように書いたつもりです。自由意志などなかったと知ることは、世界を平和にするためにも、世界中の人が幸福に生きて祝福の中で死んでいくためにも、とても大事なことです。

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もし、機会があれば録画設備を整えて、もっとちゃんとした動画を作りたいと考えていますが、その前に息絶えるような気もしています‥‥。




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★★★   関連記事(保存版) ★★★
📌分身主義とは(ジジイの遺言書-10-)
📌真の科学とは何か?(ジジイの遺言書-7-)
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★★★   未来モデル小説   ★★★
ブンシニズム・ドット・ネット
人類が「科学的覚醒」を果たして、「個人主義の《環境》」から「分身主義の《環境》」に移行した未来の世界を感じてもらうために小説にしました。
お金も武器もなくなった世界なので、誰もがボランティアのように自由に働きながら世界を行き来して、行く先々で出会う人たちと交遊して人生を楽しみ、生だけでなく死も大切にする人たちの物語です。
実現可能な平和な世界。実現の願いを込めて描いた未来の世界です。

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Markey Toku 徳永真亜基 長い文章を読んでくださりありがとうございます。 noteの投稿は2021年9月27日の記事に書いたように終わりにしています。 でも、スキ、フォロー、コメントなどしていただいた方の記事は読ませていただいていますので、これからもよろしくお願いします。