分人主義と分身主義(3)
前回は分人主義と分身主義の違いについて聞いていただきました。今回の記事は「個人主義」について科学的に考察します。
我々に、(個人主義、分人主義、分身主義)のどれが必要なのかは、人生観や哲学では永遠に解決が付かない問題で、科学的に解明すべき命題だと思うからです。
科学的根拠に基づいた世界観でなければ、万人を納得させることはできません。そうでなければ、どれを選択するかを、個人個人の、それぞれの考え方に委ねるしかない問題になってしまいます。つまり、再び個人主義に落ち着いてしまい、決して平和にはならないからです。
(およそ13分です)
人類が言葉を用いるようになった理由は、それまで樹上生活をしていたある種のサルが、森がなくなるなどの何らかの原因で地上で暮らすことになり、二足歩行をするようになって、のどを通る空気の流れが自由になり、それで複雑な音が出せるようになったのが最初ではないかと言われています。

音声が出せるようになった最初の人類の中に、のどから変化に富む音が出せる器用な人間が現れて、周囲の仲間たちも面白がってそれを真似したりしているうちに、より多くの人間が複雑な音を出せるようになっていったのではないか、と想像できます。
時には雷の音を真似して誰かを脅かしたり、鳥の声とか、雨音とか、いろいろな音を真似てみたり、そこから歌のようなものも生まれてきたかもしれない。やがて多くのモノに名前を付けるようになります。
人間が物に名前を付けるということは、その物と自分との関係性を構築することなので、そうすると、他の動物たちと違って、物を客観的に見る習慣が生まれます。そこから「自分」という幻想が生まれます。そして「あなた」「わたし」という自・他の意識も生まれたのです。(* 言葉を持たない動物にあるのは自・他の意識ではなく、本能的な自我だけです)
これが「個人主義」が生まれたルーツと考えられます。
そしてここから人類の、長い長い勘違いと、対立の歴史が始まるのです。
言葉を用いるようになる以前の、人類の、外界の刺激に対する反応は、他の動物と同じように脳内の記憶とのやり取りによる反応だけでした。(* もちろん脳を介さない原始反射とかパラシュート反射とか脊髄反射とかはありますが‥‥)
しかし、言葉を用いるようになった人類は、脳内に言葉の領域が作られてしまったために、単なる記憶とのやり取りによる反応ではなく、その領域を経過する反応が生まれます。(* もちろん言葉も記憶の一つですが、とても重要なので他の記憶とは別枠にしています)
記憶とは、脳内のシナプスを介した神経細胞の回路のことです。強い刺激や繰り返しの刺激に対して、可塑性を持つシナプスが増えたり形を変化させたりするので、特定の流れやすい回路が作られます。それが記憶です。人間の場合は、その回路に本のタイトルのように名前がぶら下がり、それが検索機能の役目をしています。
シナプスというのは、神経細胞と神経細胞のつなぎ目の部分ですが、ここはごくわずかの隙間があり、その部分は電気ではなく化学物質が媒介しています。それが感情や情動を作り出しています。

だから、記憶とは感情や情動を伴った、固着的な電気の回路のことと言えます。(* 感情や情動を伴う点が生成 AI とは違う部分です。また、その回路に名前が張り付くことで、保持や想起がスムーズになります。これが他の動物と違う部分です)
例えば、生まれて初めてバナナを食べた時、脳内には、あの黄色い色や細長い形や、そして甘くて美味しいあの味や、それをくれたお母さんの顔やその時の情景などが回路となって記憶されます。それで、「すごく美味しそうなバナナ買ってきたけど、食べる?」などと誰かに言われると、検索機能がその回路を引き出して、その回路に付随していた幸せホルモンが放出され、「うん!」と言って、ゴクリとつばを飲み込んだりするのです。
このように名前という検索機能は、言葉を持った人間だけに生まれた能力です。言葉は脳科学者の方たちにも見落とされていますが、とても重要な脳内に作られた物理的な「音刺激」なんです。
ここで名前と言っているのは次のような単語のことです。
・物に付ける名前:星、リンゴ、女、男‥‥
・動作に付ける名前:走る、寝る、食べる‥‥
・感覚に付ける名前:暑い、冷たい、苦い‥‥
・感情に付ける名前:嫌い、好き、恐い……
さらにこの「名前」が文法というベルトコンベアで運ばれて繋がると「文章」が構成されます。人間が外部からの刺激がなくても脳内のこの刺激だけで「思考」という活動ができている所以です。
(* ただし「外部からの刺激がなくても」と言いましたが、この「音刺激」は元々は外部からの刺激に作られた物ですよ。例えば日本語なら、日本という《環境》に住んでいたことで記憶させられたもので、自分の意志で記憶したものではありません。
たとえ大人になって、自分の意志でもっと多くの語彙を記憶しようとしたとしても、それはそのような意志を浮かび上がらせる《環境》に、その脳が置かれたためです。つまり《環境》にコントロールされただけなのです ☚ そう、全ては《環境》なのです)
またこの記憶の回路は、他の記憶とも使い回しされているので、例えば、チューリップを見たら、バナナの回路に電気が走ってしまうかもしれません。でもそれは関係ないので瞬時に消えています。人間の脳内では、我々が気づかないだけで盛んにこのような無駄な活動が行われているのです。(* 生成 AI は、たくさんの記憶(データ)から次に続く言葉を確率的に選択して文章を作っているようですが、まさに人間も同じことをしていたのですよ)
さて、話を戻します。
この身体に “私” と名前が付けられたと同時に、身体中に張り巡らされている神経系を統合していた脳は、この身体の内側が「自分」である、という幻想(=錯覚)を強化します。
脳には、神経系から情報が集まるので、例えば、怪我をしたら痛いのはこの身体だ、マッサージをしてもらって気持ち良いのはこの身体だ、というわかりやすい刺激だけを統合して「この身体が自分だ」と他の部分とカッチリと分けてしまったのです。(* 名前を付けない動物にはカッチリと分けた自分という概念はありません。本能的な自分があるだけです。私は彼らのことを「自然界と地続き」と形容することにしています。人間だけが言葉を持ったことで「自然界からはぐれて」しまったのです)
これによって、それまでの無意識の「本能の自我」が、意識的な「観念の自我」に変わったのです。
動物たちの「本能の自我」は利己的に働くものです。そして受け継がれるほどにその利己的は強くなる傾向にあります。何故なら、より利己的な遺伝子が個体の生存に有利に働き、それが引き継がれるからです。
人間の場合、その「本能の自我」が「観念の自我」に変化したことで、当然、自分たちの自己中心性を意識的に強めるようになり、容易に欲望と結びつくようになります。そして、知性が発達するにつれ、自己中心性は狡猾さを増します。
恐らく、100年前よりも50年前、50年前よりも現在の先頭にいる人類が今までで一番自己中心的だと言えます。そのような遺伝子が今の環境では生存に有利に働くので引き継がれるのです。
(* 生存に有利に働く「今の環境」というのは、つまり「個人主義的環境」のことです。もしも環境が分身主義的環境に変われば、その時は、世界中の全部の分身をひっくるめた「真実の自分」にとって利己的に働きます。つまり健康オタクの人間が、自分の全ての器官や臓器に気を配っているようなものです)
もちろん、人間には互いに助け合うような本能もあります。でもそれも結局は個体の生存に有利に働くわけなので、やはり遺伝子というのは利己的を指向すると言えます。(* 利己的や自己中心的というのを、感情的にでなくて科学的意味で理解してくださいね)
現在、「個人主義的環境」に染脳(洗脳ではなく染脳)されて生きている我々は、まるで自分一人の努力で我が道を切り開いて生きているかのように錯覚していますが、科学的に見れば、”自分” はこの身体の内側だけで存在することは決してできません。
酸素・二酸化炭素のやりとりをするための植物が必要だし、個体の内外の物質のやりとりも常に行われていて、この代謝が途絶えると生命に関わる全ての機能は停止します。
また、この身体はこの地球や空気と接しています。その空気は宇宙と接しています。太陽がなくなれば、我々も消滅します。そのようにしてこの身体は、この宇宙の中ではどこにも切れ目がなく繋がっているわけです。
(* 人間が勝手に、今挙げたような “名前” を付けたことによってバラバラにしてしまっただけで、やはり「自分」の本体は切れ目のない一つの宇宙なのです)
また個人主義的環境は「自立せよ!」と急き立ててきます。自立の反対は依存です。だけど経済的に成功したと言われる人をよく見てください。彼らは自立など決してしていません。誰にも依存せずに起業できた人がいたら連れてきてください。
(* 彼らは、お金に関しては成功できなかったこの私なんかより、よほど、たくさんの人の力に依存することが上手い人たちです)
このように、人は決して個人主義が考えるように、「個」で存在することができる「個人」などどこにもいなかったのです。
ではどうして「個人」を意識してしまうかというと、ここまで見てきたように「これが “私” である」と名前を付けてしまったからです。名前を付けるとは、繋がっているものを分断する力があるのです。ちなみにこの地球上には国境などどこにもないのに、国名を付けることで、そこに分断された「国」を作ってしまったのです。
実は、「国」も「個人」も、言葉を持ってしまった人間だけが見る錯覚に過ぎません。
(* これを「自然界からはぐれてしまった」と言います。言葉を持たない動物を「自然界と地続き」と言います。
本当は、この我々の全身である宇宙は、約140億年前に生まれてから、一つの川の流れの中で様々な現象が起きているだけで、全て繋がっていて、どこにも切れ目などなかったのです)
我々はよく、自分たちのことを「言葉を持ったことで自我に目覚めた」と形容しますが、事実は全く逆で、「言葉を持ったことで人間界(=幻想の世界)という眠りに落ちてしまった」と言うべきだったのです。つまりこの自然界の中で唯一の「落ちこぼれ」が我々の真の姿だったのです。
この、自然界を中心とした、謙虚な科学的視点をあなたも持ってください!
そして、科学時代のこの21世紀、幻想の世界から目を覚ましてください。
それを「科学的覚醒」と呼んでいます。
それだけが、終わりを迎えている現在の “個人主義” から、我々人類が救われる、たった一つの方法です。
最後に、分人主義の図を見てください。
そもそも人間は、個人という分けられない単位で存在してなどいなくて、カッチリとした個人など、どこにもいないと教えてくれています。

我々は、この分人同士で互いの分人や物に接していたのです。そしてその関わり方も、「中心の司令塔が意識的に行なっているのではなく、相手次第でオートマチックになされている」と理解する点が重要です。さらに
「人間は、他者との分人の集合体だ。あなたが何をしようと、その半分は他者のお陰であり、他者のせいだ」(『私とは何か』)
と分人主義は言っていましたね。
あなたが今生きている中で、確かに、その方が実感に近いと感じませんか?
ただし、分身主義はこれを「全て他者(=環境)のお陰で、全て他者(=環境)のせい」と考えます。科学がそのように解明しているからです。(* 環境には遺伝も含めるのが重要な視点でしたね)
さらに、分身主義は、分人主義の言う「自分」は、この宇宙の分身のことで、「真実の自分」はこの宇宙そのものだったと考えます。
つまり、我々はお母さんのお腹から生まれる、はるか以前の約140億年前に全身としての産声を上げていたということです。
これは決して荒唐無稽な空想上の話ではなく、また宗教や哲学の話でもなく、この21世紀の科学が我々に教えてくれているという点が重要です。(* 科学だけが世界を一つにできるからです)
そして、それを我々が謙虚な気持ちで受け入れられるかどうかに、個人主義の終末期の崖っぷちに立たされている、今の人類の未来がかかっているのです。
尚、この「分身主義」に関してはnoteの記事、「Kindle本、『分身を知った科学(自然界様の声を聴いた科学のお話)』」に全て書いてあります。
ここまでの結論を言います。
つまり、「個人主義」とは、自己中心的な感覚を、社会という大きな枠組みの中でも埋没させられることのないように、よく考え込まれた方便(自己保身)だったのです。
自・他の意識が生まれたことにより、根本に、人間は個人という分けられない単位で、カッチリと存在しているという観念が作られました。
「個人主義」とは、その「個人としての自分」を社会の中で守るために生まれてきた思想と言えます。 実は、個人主義の理念(個々人の権利と自由を尊重する)というのは、ある意味社会的な関係性の中で「個人」である自分の権利と自由をを守るための予防線のようなものです。互いの「個人」を守るためではなく、この「個人である自分」を守るためだったのです。
その証拠に、個人主義者同士が対立した場合、相手の尊重はそっちのけで、自分の権利や自由をとことん主張し合います。自分を守ろうとします。それが社会的な単位になると、自分たちの権利や自由を守ることを、正義のために戦うとか、平和のために戦うなどと、人は言います。
だけど本当の平和とは、科学が教えてくれた「真実の自分=全身」を守ることだったのですよ。
いずれにしても、人類が言葉を持ったことによって、この「個人」という誤った感覚(=幻想)が生まれ、その感覚に縛られ続けてきたことが、世界に対立や争いを起こし続けてきてしまった原因だったということです。
さらに悪いことに、そのカッチリした「個人」である自分が、自分の意思で自分の道を切り開いたり選択をしているという傲慢な感覚とセットになっているということです。
(* 今までの世界の格言を見ても、そのように錯覚しているせいで、「個人」を鼓舞するものがたくさんありますよね)
ただし、勘違いしないでいただきたいのは、錯覚というものは、「そんなもの錯覚だよ。気にすんなよ!」などと言って侮れるものではありません。たとえ「錯覚」であっても、「錯覚」した時点で確かにそれは脳内の神経細胞という実体に刻印されて存在し、自分や周囲に大きな影響を与え得るものなのです。
この「錯覚の自分」こそが、人類の長い歴史の中で、個人 vs 個人、ばかりでなく、国 vs 国、に対立や争いを起こしてきました。だから、錯覚ではあっても、自分や周囲に大きな影響を与えてしまう、とても危険なものだったのです。
だからこそ、この「錯覚の自分」を科学が解明した、この自然界とちゃんと手を繋いだ、「真実の自分」に置き換える必要があるのです。
そして、錯覚の自分が作ってしまった個人主義的世界から、科学が導いてくれた「真実の自分」の作る分身主義的世界に、変える必要があるのです。なぜならもう個人主義的世界の終わりが見えているからです。
結論「個人主義とは何か」
利己的な行動の正当化:自分の利益を優先する行動を、「個人の自由を尊重する」「個人の人生は他人に決めさせない」といった、自分を含めて利己的な行動をする誰もから賛同を得そうな言葉で飾り立て、批判をかわそうとする。
他者への無関心の言い訳:他者の困難や苦境に対して、「それはその人の問題だ」「自己責任だ」といった言葉で線を引き、関与を避けようとする。また他者への無関心を「他者を尊重する」と言い換えている。
権利の濫用:個人の権利を声高に主張する一方で、他者の権利や感情への配慮を欠き、利己的な要求を通そうとする。
これを「個人主義」の悪い一面しか見ていない、と指摘する人もいるかもしれませんが、元々「善・悪」を判断するための “理性” は、他者の行為が自分にとって悪が善か、という判断基準から生まれたものです。
成り立ちからして自己中心的なものなので、どのように弁解してもやはり利己的なものの言い逃れにしかならないのです。

日本語の「個人」は、英語の individual の翻訳で、直訳するなら「不可分」、つまり「(もうこれ以上)分けられない」という意味だそうです。それが今日の「個人」という意味になるのは、ようやく近代に入ってからのことのようです。
しかし科学が「素粒子」に辿り着いた現代では、「(もうこれ以上)分けられないもの」は、誰もが「素粒子」と答えられるようになるべきです。
よく、「生物の最小単位は?」と聞かれて「細胞」と答えている人がいますが、たとえ生物学者でも、「素粒子です」と答えられるようにならなければいけません。
さらに、「生命の定義は?」と聞かれて
外界と隔てられている。
代謝を行う。
自己複製する。
などの答えも、その先の答えとして、「これも素粒子の見せる現象の一つです」と用意されていなければいけません。
科学は、名前を付けて自然界をバラバラにして、それぞれを専門分野に分けて研究しますが、本当は全ての繋がりを紐解く学問なのです。だから、最終的にはバラバラにしたものを元通り統合しなければいけません。この21世紀、もうそれができるところに我々はいるのです。(* 分身主義がそれをしました)
科学者は、専門分野のトンネルの奥深くに掘り進んで、出て来れないでいる人や、誰も近づけないその場所が心地よく感じている人もいるかもしれませんが、この21世紀、科学は、人類が宇宙万物(=自分の本体)と手を繋ぐために必要なものは、ほとんど全て解明しています。
各分野の垣根を外して統合すれば、それがわかります。我々はその目撃者になるすごい時代に生きているのです。
それなのに、科学が専門分野の高い壁を作って、それに気づかずにいるのはなんともったいない!!
しかも、人類がこの先、自滅するかそれとも楽園に戻れるかは、ひとえに、我々が科学をどのように扱うかという点にかかっています。
ところで、『私とは何か 「個人」から「分人」へ』の補記「個人の歴史」には、「個人」という言葉の由来が次のように書かれていました。
フランスの著名な政治哲学者トクヴィルは、『アメリカのデモクラシー』という本の第二巻(1840年刊)で、こう記している。
「個人主義は新しい思想が生んだ最近の言葉である。われわれの父祖は利己主義しか知らなかった」
(補記 「個人」の歴史)
このことからも、「個人主義」は「利己主義」のよく考え込まれた方便(自己保身)だった、という私の説がまんざら間違いでもないと思いませんか?
➡ 分人主義と分身主義(4)
(科学的という意味をもう少し深掘りします。「幻想」と「実体」という言葉がキーワードです)

★★★ 関連記事(保存版) ★★★
📌分身主義とは(ジジイの遺言書-10-)
📌真の科学とは何か?(ジジイの遺言書-7-)
📌個人主義からの脱却、そして分身主義へ(ジジイの遺言書-8-)

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長い文章を読んでくださりありがとうございます。
noteの投稿は2021年9月27日の記事に書いたように終わりにしています。
でも、スキ、フォロー、コメントなどしていただいた方の記事は読ませていただいていますので、これからもよろしくお願いします。