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硝子の共感覚 #42 (ガラスのシナスタジア) 九条と荒木、事件の旋律

前回


第三部:真紅の双生児(クリムゾン・ジェミニ)


第五章:死せる街の行進(マーチ・オブ・ザ・デッド)


1.境界線を越えて


横浜の地下に張り巡らされた網の目の如き通路を、三つの影が音もなく進んでいた。

頭上のコンクリートからは、時折、地上を走る車両の微振動が伝わってくる。

だが、九条の鋭敏すぎる聴覚……いや、共感覚が捉える「音の色」は、地上に近づくにつれて不穏な変色を見せ始めていた。

佐久間「……まもなく地上だ。準備はいいか」

先頭を行く佐久間が、錆びついた鉄梯子に手をかけながら低く言った。

九条は深く、震える呼吸を整えた。

彼の視界では、梯子が刻む金属音が「鈍い銀色の火花」として散っている。

しかし、その銀色の向こう側、マンホールの隙間から漏れ出す地上の気配は、どす黒い赤色に染まっていた。

荒木「行こうぜ、佐久間さん。俺が先に上がる」

荒木が九条の肩を軽く叩く。

その「オレンジ色の重み」が、恐怖にすくみそうになる九条の意識を現実に繋ぎ止めた。

マンホールの蓋が音もなく持ち上げられ、三人は夜の横浜へと這い出した。

そこは、かつて九条が知っていた、潮風と喧騒が混じり合う港町ではなかった。


2.真紅のフィルター


蓮「……これは……」

九条は、さらに目を凝らして街全体を見た。

視界が、痛い。

街灯の光、ビルの窓から漏れる明かり、深夜営業の看板。

それら全ての色彩が、目に見えない「真紅のフィルター」を通されたかのように、どろりとした赤色に濁っている。

蓮「音が、死んでいます」

九条が呟いた。

普段の街なら、そこには多様な色のオーケストラがあるはずだ。

遠くで響く車の走行音は疾走感のある青色、酔客の笑い声は弾けるような黄色、風に揺れる街路樹の葉音は穏やかな緑色。

しかし今、彼の耳に届く全ての音は、慧(けい)が放つ「真紅のノイズ」に侵食されていた。

街頭のスピーカーから流れるはずのBGMは、耳を凝らさなければ聞こえないほどの低周波に書き換えられている。

それはまるで、巨大な生き物の心臓の鼓動を無理やり聴かされているような、不快な粘り気を伴っていた。

佐久間「見てくれ」

佐久間が顎で示した先には、一台のパトカーが歩道に乗り上げたまま放置さ
れていた。

赤色灯だけが空しく回転し、周囲を不気味に照らしている。

そのすぐ傍らで、数人の警察官が立っていた。

彼らは暴徒を警戒しているわけでも、事故の処理をしているわけでもない。

ただ、直立不動の姿勢で、南の方角に聳え立つ「みなとみらい統合通信塔」を見上げていた。

荒木「奴ら、もう『入って』やがるな」

荒木が苦々しく吐き捨て、ホルスターの拳銃の感触を確かめた。

警察官たちの瞳には、何の意志も宿っていない。

焦点が合わず、ただ虚空を見つめるその姿は、精巧に作られた蝋人形のようだった。

蓮「……あれは、待機状態です」

九条は、警察官たちの脳波が発する「音」を視覚的に捉えていた。

彼らの頭部からは、通信塔から放たれる微弱な電波と同調した、細い赤い糸のようなノイズが空へと伸びている。

蓮「慧が特定の周波数を流せば、彼らは一斉に動き出す。その時、彼らは自身の意志を失い、ただの『処理端末』……痛覚も恐怖も持たない兵隊へと変わるんです」


3.痛みなき悪夢


彼らが統合通信塔を目指して路地裏を進んでいると、不意に正面から数人の市民が現れた。

仕事帰りの会社員、深夜の散歩中だったと思しき若者。

彼らは一様に、千鳥足のような、それでいて一定のリズムを刻む不気味な足取りで歩いている。

荒木「チッ、見つかったか」

荒木が前に出る。

市民の一人が、九条たちを認めた瞬間に足を止めた。

その首が、機械的な動きでカクンと傾く。

次の瞬間、彼らのスマートフォンから一斉に、劈くような高周波のハウリングが鳴り響いた。

蓮「……っ!」

九条は耳を塞ぎ、その場に蹲った。

共感覚によって、そのハウリングは「無数の錆びた針」となって彼の視界を突き刺した。

荒木「警告か。九条、下がってろ!」

荒木が叫ぶと同時に、一人の会社員が猛然と襲いかかってきた。

その動きには、人間が本来持っている「怪我を恐れるリミッター」が存在しなかった。

全力疾走のまま、自分の関節がどうなろうと構わないという無軌道な突撃。

荒木はその突撃を、最小限の動きでいなした。

相手の腕を取り、背負い投げの要領でアスファルトに叩きつける。

本来なら、その衝撃で戦意を喪失するか、苦痛で動けなくなるはずだ。

だが、男は、肩の骨が外れた鈍い音を立てながらも、表情一つ変えずに立ち上がった。

折れ曲がった腕をぶら下げたまま、再び荒木に向かって指を突き立てる。

荒木「……冗談だろ」

荒木の顔に、戦慄が走る。

荒木「痛覚がないってことは、死ぬまで止まらねえってことだ。そんな連中とやり合うのは、ガラじゃねえんだがな」

蓮「荒木さん、深追いはしないでください!」

九条が叫ぶ。

蓮「彼らの脳は、扁桃体を直接ハッキングされているだけです。意識を失わせれば、接続は切れます!」

荒木「言うのは簡単だぜ!」

荒木は、襲いかかる別の若者の懐に飛び込み、頸動脈を的確に圧迫した。

崩れ落ちる若者を支える暇もなく、今度は背後から会社員が掴みかかってくる。

荒木は歯を食いしばり、相手の膝の裏を蹴り抜いて姿勢を崩させると、迷いなく顎に掌底を叩き込んだ。

脳震盪による強制的なシャットダウン。

男が泥のように地面に伏したのを見て、荒木は荒い息をついた。

荒木「……すまねえな、手荒な真似して。だが、こうでもしねえと俺たちが殺されちまう」

その言葉は、倒れた相手への謝罪というよりは、自分自身の良心への言い訳のように聞こえた。 


4.鋼鉄の蜘蛛の巣へ


佐久間「先を急ぐぞ。ここでの騒ぎは、既に慧の耳に入っているはずだ」

佐久間が冷静に状況を判断し、二人を促す。

彼らは再び走り出した。

みなとみらいの美しかったはずの景観は、今や巨大な監獄へと変貌していた。

高層ビルの窓という窓が、通信塔から放たれる目に見えない波導を反射し、街全体を電子的な蜘蛛の巣で覆い尽くしている。

九条の共感覚は、その中心に聳える塔から放たれる「音」を、もはや色として認識できなくなっていた。

それは、視界そのものを塗り潰す「絶対的な赤の支配」だった。

蓮「……佐久間さん、さっきの市民たちの目は……」

走りながら、九条が問う。

佐久間「ああ。慧だけじゃない、奴らの後ろにいる『組織』の本気だ。彼らはこの横浜を、巨大な実験場に選んだ。個人の意志を奪い、完全に制御可能な社会を作るためのな」

佐久間の声には、深い憎悪と、わずかな自嘲が混じっていた。

佐久間「音尾夫妻が目指した『音響麻酔』は、痛みに苦しむ人々を救うための福音だった。だが、力を持つ者がそれを使えば、痛みを知らない兵士と、苦しみを感じない奴隷を生み出す悪魔の道具になる。……九条、君の父さんは、これをお前と会った時に予見していたのかもしれない」

九条は、何も答えられなかった。

父、九条一真。組織の研究に結果として、加担していたのだ。

彼が組織に残した怪物が今、自分達の街を滅ぼそうとしている。

ようやく、通信塔の足元まで辿り着いた。

地上300メートルを超えるその巨塔は、見上げる九条たちの頭上に、巨大な槍のように突き刺さっている。

周囲には、洗脳された一般市民ではなく、最新の重装備に身を包んだ「組織」の私兵たちが展開していた。

彼らの持つタクティカルライトの光が、暗闇を鋭く切り裂く。

荒木「……ここから先は、もう隠密(ステルス)ってわけにはいかねえな」

荒木が、愛銃のボルトを引き、乾いた金属音を響かせた。

その「オレンジ色の決意」が、九条の視界に走る「真紅のノイズ」をわずかに押し返す。

蓮「荒木さん、彼らはまだ救えます」

九条が荒木の逞しい腕を掴んだ。

その指先はわずかに震えていたが、瞳には確かな光が宿っていた。

蓮「システムの根源……あの通信塔の最上階にあるメインサーバーを僕の『紺青の音』で上書きすれば、脳の回路は正常に戻る。彼らの意識を取り戻せる。……そのためには、僕をあそこまで送り届けてもらう必要があります」

荒木は、眼前の敵の群れを見据え、不敵な笑みを浮かべた。

荒木「分かってるよ。お前のその、妙に綺麗で、お人好しな『紺青の音』ってやつに、俺の命を預けることにしたんだ。……地獄の底まで付き合ってやるよ」

佐久間が、手元のタブレットで塔のセキュリティをハッキングし始める。

佐久間「正面突破だ。俺がシステムの目を逸らす間に、中へ滑り込め。……行くぞ!」

その号令と共に、三人の逃亡者は、真紅に染まった鋼鉄の牙城へと向かって、一気に駆け出した。

夜明け前の静寂を、銃声と、そして九条の脳内にだけ響く不協和音が、激しく引き裂いていった。

【第三部 第五章・完】



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