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「哺乳類」のご飯ルール

ドッグフードに頼らないでマユのご飯を作っていると言うと、時折どんなふうに作れば良いのかと聞かれることがある。僕の小さい頃の飼っていた犬のご飯をいつも思い出している。昔は、毎日自分たちのご飯を作り、ご飯の残り物に味噌汁をかけて食べさせていたのだ。

フェラリアのような「病因のあり感染症」や「難産のような外科的手術の必要な助教」では早くに死んだ。しかし、それ以外ではピンコロの人生を送っていた。死ぬ前まで元気でいきて、病院に行くこともなく(病院がなかった)長く苦しむことはなく死んだのだ。

ドッグフード業界の宣伝文句では「犬は肉食(高級ドッグフード)」「栄養のバランス」「塩分控えめ」「食べさせてはいけない食材がある」「毎年血液検査をしたほうが良い」ということになっているのだ。

まるで人間と一緒である。人生の終わりを「止めれない投薬」と「管だらけになって延命させられる」ところまで一緒である。


『歯の形を見ると獣は肉食だから肉を主食にする、ヒトは臼歯と前歯の比率を見ると、穀物も肉も食べるように出来ている』という有名な言葉がある。
歯の形で食べる物が決まるのだというのである。
確か、食養系の方の本で読んだことがある。『身土不二』を説明する文章の中であったと思う。
「肉食、草食、雑食」という分かりやすい分類は食事を組み立てる上で良いことのように見える。
ヒトが穀物(米麦)を食べることを「正しいこと」と言っている。
僕にはその考え方は「疑問」である。
歯の形は、どんな食物の流れの中にいるかの結果であり、原因ではない。江戸時代に比べて歯の形は変わっってきているという。適応の結果を「進化」であるかのごとく論じるのは間違えていると思う。

「肉食、草食、雑食」以前に、哺乳類なのだ

哺乳類は母親の胎内にいる間、胎盤を通じて流れてくる母の血液を「食べて」生きる。
外に出てからは「母乳」を飲む。「乳」とは血液が「搾乳細胞」を通り作り出される。
腸の外部からの取り込みのプロセスが上手く動きj始めるまでは「母乳=母の血」で大きくなるのだ。やがて離乳食を食べるようになる。
狼やライオン、トラ、などは一回食べたものを吐き戻して子供は食べる。哺乳類ではないが、鳥も同じである。
インドでは牛肉を食べないと言うが、血を飲んでいる。

肉食獣は、内臓を喰らう。つまり血を飲むのだ。
昔、鶏を飼っていた。猫に取られて死んだのだが、猫は鶏の肉など食べない。首を落として血を飲むのだ。

血というのは、身体の内に棲む数しれない「蟲=マイクロバイオーム」が取り込み送り出して言葉をかわす「エーテル」なのである。
蟲たちはグループを作り、敵対したり奴隷を作ったり、祈りを捧げ、自分と自分に利を与えるコミュニティを大きくしようとする。
時にコロニー自身を支配しているかにも見えるが。蟲たちには身体の操縦席に乗っている意識の存在はわからない。


肉食の生き物は草食動物の血液から塩を取る、草食動物は土をなめる。

犬は自然の状態では塩を取らないからペットフードを食わせろというのも間違えである。血を飲む動物は、食物連鎖の内側から塩を取るのだ。
草食動物は、土をなめる。

僕はマユのご飯を必ず味見する。塩っぱさが無いと減塩が健康に良いと思い込まされた老人のように「シンナリ」とする。
動物の細胞は、ナトリュウム-カリウムポンプが動き、風船のように膨らんでいるのだ。
塩分を控える食事はヒトをしぼませる。

では塩分の何が悪いのか

料理を作った時は、適切な塩加減がわかる。味噌汁にしても焼き肉にしても何にしても「そのヒトの身体というコロニーに必要な塩っぱさ」は口がわかるのだ。そして、「満腹になる様な食事」は「肉や野菜」をたっぷりと取ることが出来る。
しかし、「塩むすび、ジャンクフード=商品化された食事」を考えてもらいたい。塩むすびは美味しい。ポテトチップスやお湯かけて食べる麺、いずれも塩分があれば美味しく食べることが出来る。
それだけでお腹いっぱいになるが、その「商品化された食事」は「乾燥・濃縮・抽出」を通ったものであった。「生命=タンパク・脂質が立体構造を保っている細胞の内なる海=血液」は破壊されているのだ。

素材からジックリと食事を作る。カボチャ人参ジャガイモを先にに始める。次に肉を加えてベースのスープを作る。
キャベツと白菜に葉物をくわえて中火で煮込む。野菜には細胞が多く含まえているのだ。細胞は脂質の膜にタンパク質が埋め込まれている部屋の中に数え切れない「生命=タンパク・脂質が立体構造を保っている細胞の内なる海=血液」が入っている。破壊しないように弱火である。
何より重大事なのはスープである。この鍋が血液に成るのだ。哺乳類の食事である。
テーブルから落ちたキャベツの切れ端を大事に持って歩く。美味しいのだ。ある種のやさい花までは食べない。植物は他の生き物に食べられないように防御する。調理はその防御を乗り越えるための私たち(家族が維持してきた伝統の)の知恵なのだ。この50年で見事に失われてしまったが。
取り上げようと手を伸ばすと、「殺すぞ」という目で僕を見る。
4−5日分のマユのご飯である。
凝った味付けではないが、美味いんだよ。素材が命を失ってからなるべく短時間で作る。家族のピンコロな人生は毎日の食事作りが守ってくれる。
先日の最後の一個のかき揚げである。出し汁にひたして少し煮てから一握りのごご飯かける。トマトは切りたてである。炭水化物は毒ではない。ジャングルジムのようにシッカリとした組織を作り生命を受け止める接着剤なのだ。
一日たったが、中のキャベツはしっとりとして家美味しい。それこそが「生命」が生きている証である。

野菜は、常に水を放散して細胞を守る。だから野菜は冷凍するのは美味しくなく成るのだ。水分が飛んでいくことで生命は生き残ろうとする。水分の中には多くのマイクロバイオームがミネラルを絡めて生体として使っている。その代謝系をそのままに食べることこそが大事。

1)地面から切り離されて、出来るだけ短い時間で調理することが大事。
2)肉は厳しく脂質の膜で守られているので適切に破壊して生体活性を壊さなければならない
3)素材からのソースを大切に作ることは大事
4)食事作りは、皿の上の栄養素ではなくプロセスを重視する。
5)伝統的な「調理方法の心」を考えて美味しさを大事にする。


まさや亭のラーメン

今日は夏の味噌ラーメンである。

小鍋でナスとタケノコをソテーする。タケノコは5月にとったもの碧酢水で保存しておいたものだ。
別鍋で、玉ねぎとカボチャ、肉をソテ−する。玉ねぎは組織が強いのでジックリと加熱、カボチャは皮の側を下にする。溶けるほど加熱しないで歯ごたえを楽しむ。
半額の生麺の一人前を使う。スープも一人前だから味噌を足すことに成る。今日はシャンタンと鶏ガラを足した。
麺が茹で上がったら真ん中に入れてぐる手に味を吸わせる。半人前の麺でもお腹はいっぱいである。炭水化物が毒だ重要だというのは愚かなことである。
まさや亭の味噌ラーメンである。トマトと枝豆はやはり農家の方にもらったものである。一つかけているとすれば「ビール」である。これを画竜点睛という。
僕味も頂戴攻撃である。スキを見せると飛びかかってくる。


お代わりである。妻はジウン良い丁度いい分を盛り付けて食べる。自分らしい人生は自分の食事から作るのだ。
夜、娘が帰ってきたら麺を茹でて足してあげる。
麺が伸びると面白くないので、マユにあげる。
夜はビールかってことうかしら。

この季節は農家の方に野菜をいただくことが多く嬉しいものである。

さっきまで土につながっていた野菜たちである。田舎の生活も悪くはない。嫌なこともあるが。

医者や栄養士の言うことを聞いているととんでもないことになる。

今の栄養学は「人間様中心の生命観」の上に成り立っている。
1990年代以降の薬理学は「よく聞く薬、サプリ、機能性食品」と言った庶民の不安に乗じた商売をする。
おまけに「年取ったら施設で管繋がれて寂しく死ぬ」道につながっている。

僕だって、80歳になったときには、政治的に正しい食事を食わせられてしまうのだ。だからこんなブログを書いている。食事の価値を見つめ直したいのである。

医食同源などと言って薬を売りたがるのは商売である。1990年代以降の薬は細胞の特定の機能を壊して症状を隠すだけである。

世界を変えたいとは思わない。食事を作れなくなったのは社会の問題である。個人の「断固たる決意」こそが自分を救うのである。






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幸運な病のレシピ 厨房研究に使います。世界の人々の食事の価値を変えたいのです。