ようこそ!フォーチュンカフェへ 3rd #2 積み重ねていく日々|ブラジル*モカ
四月の風は、冷たく桜を散らしていた。
竹内 博(たけうち ひろし)は、気がついたら知らない路地を歩いていた。
どこかへ行こうと思っていたわけではない。
定時と同時に学校を飛び出すように出た。
職員室に戻りたくなかった。それだけははっきりしていた。
古びた看板が目に入った。
本日のひとこと:『今日を終えたあなたへ』
彼は、立ち止まった。
視線が、その文字から動かない。
それから、木の扉に手をかけた。
カラン。
*
「いらっしゃいませ。ようこそ!フォーチュンカフェへ」
ターコイズブルーの瞳をした女性が、カウンターの奥から微笑んだ。
会釈だけした。
「一人です」
「どうぞ、お好きな席に」
誰かに見られたくなかった。
彼は、窓から離れた奥まった席を選んだ。
いつものリュックを下ろして、ぼんやりと棚を眺める。
古書が雑然と並んでいた。
背表紙の色がまちまちである。
(何の本だろう)
スーツの内ポケットで、メッセージアプリの通知音が鳴る。
学校からかもしれない。
スマートフォンが重かった。
「お待たせしました」
こと葉が、カップをそっと置いた。
湯気と香りが、ゆっくりと立ち上る。
「え?……まだ、注文……」
「うちは、お任せなんです。『お顔の味』にあったものを」
(お顔の味?)
彼は少し戸惑いながらも、一口飲んだ。
舌の奥に残る、優しい苦みと温かさ。
「……不思議な味ですね」
「ブラジルをベースに、モカを少し合わせました」
こと葉が、静かに言った。
「しっかりと重さがあって、でも嫌味がない。長いものを背負ってきた方の、『顔の味』です」
彼は、こと葉を見た。
「顔の味?」
「ええ。お客様の顔を見て、珈琲を決めるんです」
「……それで、私の顔はどんな?」
こと葉は少し考えてから、答えた。
「疲れていらっしゃる顔でした。でも、まだやめる人の顔ではない」
何も言えなかった。
彼は黙って珈琲を飲んだ。
こと葉は急かさない。
彼の何かを待っているかのように、静かにそこに居た。
*
「小学校の教員をしています」
彼は、誰に言うともなく、口を開いた。
「いままでは、このままこの仕事で終わるものだと思っていました」
カップを見つめながら、彼は考えていた。
若い先生が多い学校だった。
自分自身が子どもを見ている感覚とは少し違う。
だが、若い先生たちの前では、子どもたちは明らかに楽しそうだった。
一方、同じような言葉がけをしているのに、子どもにとっては、
「ウザい」
——そういう顔を、される。
ついていけない部分がある自分。
それに気づくたびに、気持ちも体力も削られていく気がした。
自分が若い頃、ベテランの先生もこんな感じだったのだろうか。
「一人、当たりが強い方いて。直接、何か言われるわけじゃないんですが。書類の渡し方とか、返事の仕方とか、そういう小さなところで」
「気になってしまうんですね」
「それに……他の先生たちが、何も言わないことも」
竹内は、そこで言葉を止めた。
こと葉は、続きを待った。
「何も言われないのは、もう『不要』だからなのかもしれない。自分が時代に取り残されているんじゃないかって思いだしたんです」
窓の外で、風の音が聞こえる。
カフェの窓がガタガタと震えた。
「それが、八年前と同じ感じで」
彼の声が、少し低くなった。
八年前のことは、あまり思い出したくない。
市の教育委員会に異動になったのは、四十五歳のときだった。
別に管理職になるつもりもなかった。
不意打ちのような人事だった。
だれも、なり手がないポストへ押し込められたような気がした。
そして、三年が経った。
毎日のように掛かってくるクレームの電話。
特定の保護者から毎日二時間も掛かってくることがあった。
みんな忙しくて誰も助けない。
「それは、先生の専門だから」
の一言で、すべての対応を任された。
四十八歳になったある日、おかしくなった。
朝、起きて職場に行くことはできる。
だが、職場に行くまでに、自分がどの道を歩いているのか分からなくなった。
書類は、誤字脱字だらけ。
場所の設定を忘れていて、危うく大きな会議ができないことになる。
自分の前の電話が鳴ると、身体がびくっとして動かなくなる。
ある晩、家で何もないのに、涙が出てきた。
だが、自分しかできない仕事が残っていた。
必死になりながら、やり遂げた直後に、
とうとう心が折れた。
一ヶ月、休んだ。
復帰のとき、もう誰も何も言わなかった。
現場に戻るだろうなと予感した。
現場に戻っても、仕事ができるのだろうか。
そんな不安を抱えたまま、八年前に現場に復帰した。
*
復帰した日の朝、スマートフォンにカウントダウンアプリを入れた。
当時の定年は六十歳。
六十歳になった年の三月三十一日を「0日」に設定した。
あの日から、数字が毎朝、カウントダウンされていた。
「定年までの日数を、ずっと数えていたんです」
彼は、スマートフォンを取り出した。
職場からの通知もあったが、今はいい。
「心が折れて、現場に戻ったとき、最後の日まで残りの教師人生を大切にしようと思って」
こと葉はじっと彼を見ていた。
「最初は、四千日以上あった。毎日一つずつ減っていくのを見ていたら、なんとか続けられたんです」
彼は、少し間を置いた。
「でも、定年が延びました。制度が変わって、六十五歳になった」
こと葉は、静かに聞いていた。
「終わりが遠のいた。あと何日、と数えてきたのに、その数字がまた増えた。疲れは積み重なっているのに、終わりだけが遠のいていく」
彼の手が、スマートフォンの上で止まった。
「そんな日が続いていくのが嫌になって、そのアプリは消しました」
珈琲の香りが、ふわりと流れた。
「そして、今日、この仕事を初めて『本当に辞めたい』と思いました」
言葉にしたのは、初めてだった。
*
彼の話をじっと聞いていたこと葉は、カウンターの引き出しから小さな木箱を取り出した。
「よければ」
「なんですか、これ」
「ことばみくじ、といいます。あなたの今の心をそっと支える言葉が入っていますよ」
彼は、箱を受け取った。
目を閉じて、一本を引く。
細い紙を広げた。
そこには、向日葵色の文字が、白い紙の上に乗っていた。
元気のある字だった。
——若い。
でも丁寧だった。
「毎日が小さな卒業」
彼は、その言葉をじっと見た。
もう一度、読んだ。
『毎日が、小さな卒業』
フォーチュンカフェが静寂に包まれる。
しばらくして、彼は言った。
「今日も、『卒業』なんですよね。でも、毎日を……卒業と思ったことは、なかったな」
彼は、ことばみくじを手の中でそっと握りしめた。
毎朝見ていたのは「残り」の数字だった。
あと何日、あと何日、と減っていく数字。
だが、残りを数えるのではなく、今日を一つ卒業する。
一つずつ積み重なっていく数字。
「……誰が書いたんですか、これ」
「先週、ここに来た女子高生ですよ。家からの旅立ちの日に」
彼は、向日葵色の文字をもう一度見た。
ふっと、笑った。
肩の荷が少し降りたような気がした。
*
「ありがとうございます。よい言葉に出会えました。お代は?」
「お代はこちらで」
こと葉は、ガラスペンとインク壺を出してきた。
「お代のかわりに、ことばみくじを一つ残していただけますか」
彼は、ことばみくじの白紙を手に取った。
ガラスペンを、深縹(こきはなだ)とラベルが貼られたインク壺に浸す。
迷わず、書いた。
「積み重ねた先なら、納得できる」
薄い藍色の文字が、ことばみくじの上に踊った。
こと葉は、両手でそっと受け取った。
「ありがとうございます。きっと、誰かに届きます」
その時、竹内は棚の上のモノクロ写真に気がついた。
鼠色のバケットハットに作業服の男性が、照れくさそうに笑っていた。
「常連さんですか」
「ええ。いまは写真の中ですけど」
「……いい顔をされてますね」
「そうなんです」
こと葉は、写真を見て微笑んだ。
「この方も、ずっと積み重ねてきた方でした」
*
カラン、カラン。
店を出ると、空はもう暮れていた。
街灯の光が、路地裏の石畳を橙色に染めている。
彼は、スマートフォンを取り出した。
アプリストアを開く。
「カウントアップ」と検索した。
一つ、アプリをインストールする。
起動すると、
1
と表示された。
それは、減っていく数字ではない。
積み重なる数字だった。
風が、彼の背中をやわらかく押した。
(第2話 了)
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#一条詩紋 #ようこそフォーチュンカフェへ #連作短編 #癒しの物語 #ことばみくじ #珈琲のある暮らし
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いつも読んでいただき、本当にありがとうございます。
物語があなたの癒しになれば幸いです。
チップはご無用です。一緒にドキドキしてくれた思いを伝えてくだされば・・・。それがうれしいです。