ようこそ!フォーチュンカフェへ 3rd #1 時を越えて|ブラジル×マンデリン
カラン。
扉の鈴の音が鳴った。
そこは、優しい珈琲の匂いで包まれた空間だった。
古書が並ぶ棚が、柔らかな日の光の中に浮かぶ。
「あら、カンナちゃんに修一さん。いらっしゃい」
ターコイズブルーの瞳をした、
二十代後半に見える女性が、優しく微笑んだ。
「こと葉さん、お久しぶりです」
「今日は、どうしたんですか?」
「今日は、カンナの卒業式で。式が終わったらここに来たいっていうもんで」
カンナがそれにかぶせるように言った。
「そうなの、こと葉さんにご挨拶しておかなきゃって思ったの」
セーラー服の胸元に、淡いピンクのコサージュがついていた。
春の光を吸い込んだような、やわらかな花だった。
「カンナちゃん、高校卒業したんですね。なんだかあっという間です」
こと葉が、カウンターそばに置いてある、
子ども用の小さな椅子に目をやりながら言う。
「つい、この前にあそこにちょこんと座っていたと思っていたのに」
「そうですよね。あっという間です」
修一が答えた。
その声には、笑みと一緒に、どこか寂し気なものが混じっていた。
*
窓際の席に落ち着くと、こと葉がカンナの前にホットチョコレートを置いた。
「これ好きなの覚えてるなんて、すごい」
カンナが目を丸くした。
「カンナちゃんが初めてここに来たとき、チョコレートドリンクが好きって言っていたから」
「それ、何年前ですか」
「さあ」
こと葉は、ふふ、と笑う。
カンナは苦笑いしながら、でも嬉しそうにカップに口をつけた。
修一は、その横顔を眺めながら、
珈琲の香りをゆっくり吸い込む。
本当に、あっという間だった。
あの頃、カンナはまだ小学校に上がる前だった。
小さな椅子にちょこんと座って、両足をぶらぶらさせながら、棚の本を指さしては「これなあに」と聞いていた。
今は、その棚の背丈をとっくに追い越している。
「こと葉さんは、変わりませんね」
修一は、ふと口に出した。
こと葉は少し首をかしげた。
「そうですか?」
否定も肯定もせず、微笑む。
あの旅からもう二十年以上経つ。
なのに、こと葉の姿はほとんど変わっていない。
すっと目をそらせるように、
こと葉が、棚の上に置いてある写真を見た。
鼠色のバケットハットに作業服を着た男性が、照れくさそうに微笑んでいた。
橋内玄能(はしうち くろしげ)。
『クロさん』と呼ばれていた。
修一の師匠であり、この店の最初の常連客のひとりだった。
かつて路地裏を歩いていて、看板の言葉に引き寄せられて扉を開けた——それがクロさんとこの店の始まりだった。
「もう三年ですね」
修一は静かに言った。
「そうですね」
こと葉が、やわらかく頷いた。
カンナは写真を見上げて、少しだけ目を細めた。
カンナが生まれたとき、
名前がなかなか決まらなかった。
あれこれ考えているうちに、
現場から帰ってきたクロさんが一言、
ぶっきらぼうに言った。
「『カンナ』にしちゃどうだい」
「カンナ、ですか」
「鉋だよ。大工道具の。少しずつ丁寧に、丁寧に仕上げていく。いい仕事をする道具じゃねぇか」
「でも、女の子の名前に大工道具は……」
「てやんでぇ。丈夫でいい名前じゃねぇか」
押しの強さに負けた、というより、
修一自身がその名前を気に入ってしまった。
荒削りなものを、少しずつ丁寧に整えていく。
そういう人になってほしいと、思えたからだ。
「クロさんらしいですね」
こと葉が、くすっと笑った。
「まったく、大工道具ですもんね」
「でも、クロさんが真剣な顔で言うもんだから、誰も反対できなくて」
それを聞いていたカンナは、顔を上げた。
「でも、私はこの名前が好きだよ」
「そうか」
修一は、写真を見つめながらそれだけ言った。
*
しばらく、三人は他愛のない話をした。
春からの大学のこと、東京のこと、カンナが学びたいデザインのこと。
こと葉は話しながら、
棚から本を一冊取り出した。
美しい装丁の古書だ。
「デザインって、本の世界にもたくさんあるんですよ。表紙を作る人がいて、文字の配置を考える人がいて、紙の質を選ぶ人がいる。一冊の本に、たくさんの人の仕事が入っているんです」
「確かに、そうだよね。本って、中身しか見てなかったかも」
カンナは本を両手で持ち、表紙をなぞるように指で触れた。
「……なんか、急に重くなった気がする」
「知ってから見ると、全然違って見えますよね」
その会話を聞きながら、修一は珈琲を一口飲んだ。
カンナが東京に行く。
それ自体は、嬉しいことだ。
あの子は、一度決めたら真っすぐだ。
小学校の高学年から、
デザインがやりたいと言いだし、
中学からは美術部一筋。
コンクールの賞を取って、
推薦で志望校に受かった。
自分のやりたいことをちゃんと見据えている。
無言で、空を見つめる。
「修一さん」
こと葉の声が、静かに降ってきた。
修一は顔を上げた。
こと葉は、穏やかに言った。
「修一さん、何か考えているとき、そうやって一点を見ますよね」
カンナが本から目を上げてこちらを見た。
修一は、少しだけ苦笑した。
「……仕事のことです」
「後輩を何人か育てているんですが……ちゃんと伝わっているのか、自信が持てなくなってきていて」
こと葉は何も言わない。
修一が語りだすのを待っているかのようだ。
修一はゆっくりと話しだした。
*
師匠から大工の仕事を教わった。
口は悪かったが、仕事は誰よりも丁寧だった。
一本の釘を打つのにも、木の目を読むのにも、必ず理由があった。
「なんでそうするんですか」と聞くと、
「見とけ」とだけ言って、手の動きで教えてくれた。
あの頃の修一は、クロさんの背中を追いかけることで精一杯だった。
(この店の天井を直したのも、師匠だったな)
修一は天井を見上げた。
梁のあたりに、今でもクロさんが手を入れた跡がある。
古い材と新しい材が、ほとんど見分けがつかないほど丁寧に継がれていた。
「雨漏りがなければ、ミゼちゃんとの旅もなかったですね」
こと葉が、修一の視線を読んで、声を掛けた。
修一は、思わず顔がほころんだ。
ミゼちゃん——フォーチュンカフェ号。
クロさんが手配してくれた、小さなミゼットⅡ。
天井の修繕工事の間、
こと葉がことばみくじを「外の世界に届けたい」と言い出した。
すると、クロさんはこと葉に
「こいつも連れて行ってくれ。修一、独立の試験だ」
とお願いした。
あの二ヶ月の旅で、修一は気がついたことがあった。
普段あまり、話さない自分が、あの時だけは師匠に伝えたかった。
そして、師匠は「合格だ」と言って、静かに笑ってくれた
「もう一人でやっていけるぜ」と。
それが、修一の仕事の原点になった。
「でも……今、自分がその原点に立てているのかどうか、わからなくなってきていて。後輩に何かを伝えようとするとき、師匠みたいに『見とけ』って言えばいいのか、言葉で説明した方がいいのか。なにをどうすれば、ちゃんと届くのか……」
声が、少し小さくなった。
じっと見ていたこと葉は、
カウンターの引き出しから小さな木箱を取り出した。
古びた、手のひらに収まるくらいの箱。
『ことばみくじ』だ。
「久しぶりに、引いてみますか」
修一は箱を受け取った。目を閉じて、一つを引いた。
広げる。
「受け継ぐことは、同じにすることではない」
修一は、その言葉をじっと見つめた。
クロさんは「見とけ」と言った。
自分は後輩に言葉で説明しようとする。
やり方は違う。
でも、根っこにあるものは同じかもしれない。
「まず一人を思い浮かべろ」
——それを伝えようとしていることは、変わっていない。
「おかわりですよ」
こと葉が、新しいカップをそっとテーブルに置いた。
「あの……ブレンドを、少し特別にしてみました」
修一は、先ほどのカップとは違うことに気がついた。
「これは……」
「修一さんも、あのときのクロさんと同じ顔をしてたので、今日はその『顔の味』でブレンドしてみました」
修一は、思わずこと葉を見た。
「クロさんと、同じ?」
こと葉は、静かに続けた。
「あのときと同じブレンドです」
修一は、カップを両手で包んだ。
口に含んだ瞬間——知っている味だ、と感じた。
初めてのはずなのに、どこかで確かに知っている気がした。
師匠も飲んだ珈琲。
「……悪くない」
気がついたら、そう呟いていた。
心の澱がすっと溶けていく。
カンナが、きょとんとしてこちらを見た。
「お父さん、なんか珍しい言い方」
「……ああ、そうだな」
珈琲の香りが、ふわりと鼻の奥に流れた。
(師匠……)
目尻が熱くなった。
*
「じゃあ、こと葉さんしばらく会えないけど……またくるね」
カンナが立ち上がった。
すると、こと葉がカウンターの引き出しから白いカードとガラスペンをそっと取り出した。
「カンナちゃん、よければ——」
カードを差し出す。
「次に、ここに来る誰かの、支えになる言葉を書いてもらえますか」
カンナは、きょとんとした。
「私が?」
「ええ。旅立つカンナちゃんの言葉をここに」
カンナはカードを受け取り、少しの間、じっと見つめた。
そして、ガラスペンを「向日葵色」と書かれたインクに浸す。
窓の外の春の光を、一度だけ見た。
それから、カードの上に丁寧に書いた。
向日葵色の文字が、白いカードにすこし滲む。
「毎日が小さな卒業」
カンナはペンを置いた。
(今日、来てよかった)
「ありがとうございます」
カードを見つめたまま、こと葉はふふ、と笑った。
「この言葉、最後に担任の先生に教えてもらったの。いいなって思って」
「ええ。きっと、誰かの背中を押しますよ」
修一は、その言葉を聞きながら、棚の上のクロさんを見た。
(今日、ここに来てよかったです。師匠)
胸のポケットの中で、ことばみくじが温かかった。
*
「じゃあ、こと葉さんまたね」
カンナが扉を押した。
カランカラン、と鈴が鳴る。
修一は、もう一度だけこと葉を振り返った。
こと葉は、カウンターの奥で静かに微笑んでいた。
昔と、まるで変わらない。
まるで、時を越えてきたかのようだ。
「また、いつでもどうぞ」
外は、やわらかな春の光に満ちていた。
(第1話 了)
クロさんが初めてフォーチュンカフェに出会った日
ミゼちゃん(フォーチュンカフェ号)の始まりの話
カンナがフォーチューンカフェに来るまでの話
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いつも読んでいただき、本当にありがとうございます。
物語があなたの癒しになれば幸いです。
チップはご無用です。一緒にドキドキしてくれた思いを伝えてくだされば・・・。それがうれしいです。