【美術展2025#97】ジャム・セッション 石橋財団コレクション×山城知佳子×志賀理江子 漂着@アーティゾン美術館
会期:2025年10月11日(土)〜2026年1月12日(月)
「ジャム・セッション」は、石橋財団コレクションと現代のアーティストとの共演により、美術の新たな可能性を探るシリーズです。第6回目となる今回は、沖縄と東北という異なる土地に根ざし、歴史や記憶に向き合ってきた山城知佳子と志賀理江子を迎えます。
近年、社会構造の変化や災害を背景に、地域や文化のあいだに潜む断絶や、かつて共有されていた記憶の風化が顕在化しています。特に日本では、震災や戦争の記憶が薄れ、中心と周縁のあいだに見えにくい分断が広がりつつあります。本展は、そうした現代の状況を踏まえ、「中心と周縁」「土地と記憶」というテーマをあらためて見つめ直します。
また、情報が氾濫し事実の輪郭が曖昧になるポストトゥルース時代において、私たちはいかに過去と向き合うことができるのでしょうか。山城と志賀の表現は、記憶や歴史に身体的に向き合う実践であり、作品そのものが行為として訴えかける力を持っています。それは見る者の認識を揺さぶり、既存の物語や視点を問い直す契機となるでしょう。
ふたりのアーティストによる新作とコレクション作品との出会いを通じて、複雑で困難な現実に対するまなざしと、芸術の力を再考する場を創出します。
エントランスに鎮座する《How High the Moon》

とりあえず座る。
もはやアーティゾン美術館へ来た際の儀式。

倉俣史朗
さて、この時期恒例のアーティゾン美術館によるジャム・セッション展。
一昨年は山口晃、昨年は毛利悠子だった。
そして今年は山城知佳子と志賀理江子。
実は、…今年は行く前から気が重かった。
正直どちらも苦手な作風。
多分あんな感じの作品で、こんな感じの気分になるんだろうなあ、ということはある程度わかっていた。
それを踏まえつつ、あえて行ってみた。

展示は、6階を山城氏、5階を志賀氏がそれぞれワンフロアを贅沢に広々と使ったインスタレーション作品を展開していた。
なお、どちらの階も展示室内は撮影不可だったので作品の写真は無い。
・山城知佳子

アーティゾン美術館所蔵作品とのジャム・セッション展ということで、山城氏が選んだのは、アボリジナル・アーティストであるジンシャー・ライリィ・マンドゥワラワラの《四人の射手》という作品。

作家も作品も知らなかったけれどもこんなコレクションもあったのだね。
今年の夏にここアーティゾン美術館で行われたアボリジナル・アートの展覧会には出品されていなかった作家だ。
3年前に出会ったこの作品の色彩と筆致に強く惹かれ、自身の制作との響き合いを感じたという。展示もこの絵画との出会いから始まる。
マンドゥワラワラの絵画において土地は個人の所有物ではなく、祖先や共同体と結びつく精神的な場となる。それは山城千佳子の新作《Recalling(s)》に登場する「鳥」とも呼応し、土地と記憶、霊性をめぐる対話を促す。特定の土地に深く根ざしながらも普遍的な感覚を呼び起こす表現は、マンドゥワラワラと山城の作品を静かに交差させている。
とのことだが、山城作品とのジャム・セッション的な部分での「響き合い」や「交差」はよくわからなかった。
展示室内は仕切り壁を取っ払って広いワンルームにしてある。
天井からは無数の布が垂れ下がっていて、さながらジャングルに迷い込んだようにも思えた。
そこに4つの大型モニターが設置され、しいて言えばこの4という数が《四人の射手》に掛かっているのだろうか。
それぞれのモニターからの音は部屋のどこにいても聞こえるのだが、画面は同時に見ることができないような配置になっている。
基本的にはモニターごとにバラバラの映像が流れているのだが、たまに音のタイミングが揃ったり、内容や登場人物が交錯したりしながらストーリーが展開されていく。
一見無関係のそれぞれが個々に存在しているのではなく、総体としてひとつであるということか。
映像の内容としては父の記憶、沖縄、戦争、戦後史といった事柄。
作品の内容はいかにも山城氏といった感じでワタシ的にはやっぱり共感しきれなかったが、作品そのものの見せ方や場の作り方に関しては上手いなあと思った。
・志賀理江子

山城氏以上に苦手な作風の志賀理江子氏。

大きく引き伸ばした写真をつなげ、所々にテキストを載せた巨大な絵巻物のような作品を壁面に張り巡らせて動線を作っている。
その全長は200mを超えるとのこと。
取材中に偶然すれ違ったトラックの前窓に書かれた「なぬもかぬも」という文字との出会いを起点にしてストーリーが展開されていくのだが、基本的には絵巻物に書かれている「物語」を動線に沿って読み進めていく形。
室内は暗く写真はグロい。
「物語」は思想強めで後半は活動家のアジビラの様相すら呈してくる。
大きく書いた殴り書きの字(中尊寺落慶供養願文が書いてあるとのことだが…)もゲバ字看板に見えてきた。
完全に昭和の学生運動の世界線。
私は先日の記事で、
反体制的な主義主張が目的になってしまっているような人もちらほら散見するけれども、それってわざわざアートでやらなければならないことなの?
そこにカテゴライズされているアーティストはみんながみんな本当にそのキーワードを標榜するために作品を作った?
中には思想的に全く関係ないのに混ぜ込まれてる人はいない?
都合のよさそうな作品に後世の価値観で新たな意味付けをして独自のストーリーに仕立て上げてない?
リベラルをこじらせてアートを装ったプロパガンダになってない?
と書いたのだが、まさに今展がそれ。
そして展示室外のこの一角でとどめを刺しにきた。
(※ここは展示室外なので撮影可であるとスタッフに確認済)



いや、「反戦反核」は別にいいのよ。
私だって基本的には戦争なんか無い方がいいに決まっているし、核兵器なんてこの世から無くなるべきだと思っているし。
ってか普通みんなそう思っているでしょ。

だけど、やっぱりこのアプローチは違うのよ。
どういう文脈での「美的表現」なのこれ。
それをここでやってどうするのよ。
中国大使館前やロシア大使館前や朝鮮総連前では絶対にやらないのになんで国会前や美術館ならできちゃうの?
どこを向いて誰に対して何を主張しているの?
私の思う「平和な世界」とは違う世界線なのだろうか?
現代美術界隈では定期的にこういう案件が勃発するが、そっち系の直接的な主張は美術館でやらないでほしい。
こういうことを言うと「排除」とか言われそうだがやっぱり違うのよ。
表現者ならせめてメタファーとして作品に落とし込むとかしてアートとして戦うべきだし、政治的プロパガンダを行うならそもそもジャム・セッション展やグループ展ではなく完全な個展としてやるべき。
今展で志賀氏はジャム・セッション作品としてジャコメッティ、瀧口修造、ヘンリー・ムーアといった作家の作品を選んでいた。

そもそもなんでジャコメッティ?
シュルレアリスムの文脈?
アンドレ・ブルトンは、
シュルレアリスム運動は1929年~30年頃に共産主義に接近したこともありましたが、1930年代に入るとその教条性を批判し、鋭く対立するようになっていきました。中心人物のアンドレ・ブルトンは、芸術の自由を唱えるトロツキーと連携し、芸術を政治的プロパガンダに利用しようとする国際共産党と対立し、厳しく批判したのです。
ということらしいけれども、「ときの忘れもの」的には、
芸術の自由を擁護する、すなわち右翼であれ左翼であれ、芸術を政治的プロパガンダに利用しようとする動きに警鐘を鳴らし、批判する意味合いも含まれていたのではないでしょうか。
としていた。
瀧口修造は戦時中に前衛思想が危険視されて特高にしょっ引かれたけれども、
「ヨーロッパの超現実主義の一部で、政治的左翼主義と結びつけられている場合があるのは事実である。しかしわたしの理解するかぎりでは、超現実主義的芸術はとうてい政治主義とは相容れないものである。(中略)おそらく今後も、超現実主義が政治主義に化することはあるまいとわたしは信じている。」
と言ったそうだが。
そもそもアーティゾン美術館側はこれでいいのかね?
「ただ場を貸しているだけ」では済まない意味が生じてくるのでは。
と思ったが、担当学芸員の内海潤也氏のスタンスが、
本展担当学芸員の内海潤也は、コレクションと現代アートを組み合わせる展覧会がトレンドになりつつある現状に鑑み、これまでのジャム・セッションをあえて批判的に検証、どうしても所蔵作品を引き立てる傾向が強いことに硬直化を感じ、強烈な写真や映像、サウンドとその身体性で既存の物語やイメージに転換をもたらすふたりの作品で、改めてコレクションがまとう定着した印象を見る者の感覚とともに揺さぶることを企図したという。
ということらしい。
批判的に検証?イメージの転換?感覚を揺さぶる?
それっぽい言葉が踊るが、それってまさに都合のよさそうな作品に後世の価値観で新たな意味付けをして独自のストーリーに仕立て上げているだけなのでは。
「時代のプリズム」展の担当学芸員尹志慧氏曰く、
個人的に警戒したいなと思うのがPC(ポリティカル・コレクトネス)的な作品です。政治的正しさですね。アートや文化に携わる人が取りやすい政治的なスタンスってあると思うんです。例えば、フェミニズムや社会問題に対してアート業界の人たちが取るスタンスには、ある程度決まったコードがあると思います。リベラルな態度、柔軟な態度をとりながらも、美術館の中で展示できる程度のレベルを守る、そういう暗黙の了解があります。
でも、政治的正しさが作品の面白さを保証するわけではないと思います。日本だけじゃなくて、韓国や東南アジア、欧米でもPC的な作品はあります。作品を見る時の見方、答えがすでに決まっているので、そういう点ではプロパガンダ作品と同じくらいつまらないものになる危険性がある。だから、時代の流れを理解していながらも、作品の視覚的な完成度を諦めない作家さんには惹かれますね。
とのことだが、果たして志賀氏の表現は、尹氏が言うところの「暗黙の了解」の範疇に収まっているのだろうか。
作家や学芸員がどんな思想だろうとそれは別に関係ない。
思想や人格や政治的スタンスそのものに対して否定したり批判したりしているのではない。
左とか右とかの思想的なことではなく、ジャム・セッション展という場においての表現手法や、先人に対するスタンスが自己の主義主張のためのただの賑やかし扱いをしているようにも見え、ジャコメッティに対しても、瀧口修造に対しても、ヘンリー・ムアに対しても、戦争で亡くなった方々に対しても、これまでのジャム・セッション作家に対しても、来場者に対しても、なんなら石橋正二郎氏に対しても、敬意が欠けているように思えたのだ。
批評家でも作家でも専門家でもなんでもないただの一鑑賞者の備忘録として記す。
果たしてこれは私が沖縄や東北に住む当事者ではないから共感できなかっただけなのだろうか?
行く前からわかっていたが、やっぱりあんな感じの作品で、こんな感じの気分になった。
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