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にゃくいちさん 七話

 音のない喧噪と呼ぶべきか、駅ビルの地下道で、無言の人々が流れを作っている。均一な速さの流れの中で、一度でも転けてしまうと、人々に踏まれ続け、簡単には起き上がれないかもしれない。
 観光客の姿もチラホラ見かけるが、朝は、通勤や通学の為に嘉久駅を利用する人々が多い。李亜は、人混みの中に紛れて歩いていたが、その足取りは普段よりも少し遅く、表情も精彩を欠いている。地下道を通って、李亜は八条口に出る為の階段を昇っていた。嗅ぎ憶えのある香水の匂いがして、彼女は周囲を見渡すが、その発生源は特定できない。スウェットとサンダル姿の李亜は、不安そうな面持ちで階段を昇り、八条口に出た。李亜は通用口の光彩認証を通過し、更衣室に行く前に、店に寄って店長が出勤しているかどうかを確認する。
「おはようございます」と彼女は言って、店内に入る。奥に人の気配はするが、彼女の位置からは姿が見えない。
「え? 東さん? 早いね。体調は大丈夫?」と店の奥から声がして、すぐに店長が姿を見せた。
「誰?」と李亜は呟いた。
「え?  どうしたの?」店長が、驚いたような顔をした。
「いや。店長ですよね?」
「眼鏡かけているから、わからなかった?」
「えぇ……」眼鏡をかけている事が重要な点ではない。李亜の目の前の男は、胡瓜や葱を連想させる細い体型をしている。それは、彼女が知っている店長とはかけ離れていた。
「店長、ダイエットでもしたんですか?」と李亜は言ってから「いや、一日でこんなに痩せる訳ないわ」と言った。
「東さん。本当に大丈夫?」
「いや、あの」と言って李亜は頭を押さえる。彼女は自分の頭がおかしいのではないかと思ったようだ。
「東さん、ちょっと変だよ。今日も休んだ方がいいんじゃない?」と店長は言ったが、その口調に心配そうな様子はなく、むしろ面倒臭いという雰囲気を滲ませている。
「大丈夫です。あの……」と李亜が言いかけるのを遮って「あ!  そうだ!」と店長は手を叩く。「どうしたんですか?」と李亜が訊く。
「東さん、今日、誕生日だよね?  おめでとー」と言ってから「いや、ごめんね。それを言わなきゃいけなかったね」と店長は笑った。
「え?  ちゃいますよ……」
「うん。そうだね」と言った後、店長は少し考えるような素振りをしてから「あれ?  違うか……」と言った。そして、そのまま黙り込んでしまう。その沈黙に耐えられなくなったのか、李亜が口を開いた。
「店長、あの」
「え?  何?」と店長が聞き返す。
「あたしって……」と李亜が何かを言いかけると、店長は「あ!」と言ってから、何かに驚いたような表情で、李亜の眼を見た。
「東さん! そうだ!」と店長が言った瞬間、李亜は何か恐ろしい事が起きるような予感がして、店長から目を逸らした。
「東さん、今日で最後だよね?」
「……え?  何がですか?」と李亜は言った。
「いやさ、っていうかね、もうね、東さん、昨日で最後だったんだよね」
「はぁ?」
「いや、だから昨日で最後だったの。東さん」と店長は言ったが、李亜はその言葉が全く頭に入ってこない。
「あの、何言うてはるんですか?」と李亜は訊いたが、店長は彼女の言葉を無視して話を続ける。
「いやぁ、本当にごめんね。俺、すっかり忘れててさ。もうね、東さんが入るって聞いて、てっきりパートさんだと思ってたからさ。それで、昨日シフト表見たら、東さん入ってないのよとか言っちゃったりして」
「何? 何を言うてんの?」と李亜は訊いたが、店長はやはりその言葉を無視して話を続けた。
「いやね、俺さ、東さんが入ってくるからって、ちょっと張り切っちゃったんだよね。だから、もう本当に申し訳ないよ」
「なんなんです……」と李亜が言った瞬間に店のドアが開く音がして、客が入ってきた事を知らせる電子音が鳴った。
 まだ開店していないにもかかわらず、店長は「いらっしゃいませ!」と大きな声を出した。彼の視線の先には男が立っていて、李亜はその男を見て固まってしまった。
「にゃくいちさん」と店長が今度は低い声で言った。男は無言で頷き、こちらに向かってくる。李亜は逃げ出したいのだが、身体が動かない。
「東李亜さん」と馬面の久慈が言った。
「なんなん」と李亜が声を出した瞬間に、男は彼女の腕を掴んだ。彼女は痛みを感じたのか、顔を歪める。
「おっと。すみません。私はお迎えではありません。東李亜さん。いえ。失礼しました。にゃくいちさんとお呼びすべきですね」李亜は男の手を振り払い、店の外に逃げ出した。
「嘉久でのあなたの痕跡が消えていきます。あなた自身の記憶もね。この店長の彼も、東李亜さんの事を忘れるでしょう」と久慈は言った。

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中島亮 一日延ばしは時の盗人、明日は明日…… あっ、ありがとうございます!