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にゃくいちさん 八話

 李亜のスマートフォンから大音量のノイズが流れ出した。そのノイズは彼女の呼吸と重なる。走っていた彼女は、八条口を出てから、後ろを振り返って誰も追ってきていない事を確認した。
「なんやねん。もう」その耳障りな音を止める為に、李亜はスマートフォンをタップする。
「もしもし。李亜?」と春松の声がスマートフォンから聞こえ、彼女は「春松!」と言った。
「え?  何?  どうしたの?」
「あたし、今、八条口の方まで来たんやけどさ」と李亜は言い始めた。そして「ちょっと、なんかおかしいねん」と続ける。
「何が?」と春松が訊くと、李亜は息を大きく吸い込んだ後、一気に吐き出した。
「ホンマ、何かおかしいねん」
「何? どういう事? ってか、船に遅れちまう」
「はぁ?」
「なにが『はぁ』だよ。いま、八条口? しょーがねぇな」しぶしぶといった感じの、面倒臭さを微塵も隠さない口調で、春松は迎えに行く事を示唆する。
「え? 春松、さっきは出張中って言ってなかった?」
「なんだよ。そんな事、言ってねーし」通話をスピーカーに切り替えたのか、春松の声以外の音も李亜の耳に伝わってきた。それは、車の音や人の声のようだった。
「いや、言ったって」と李亜が言いかけると、春松は「だから、言ってねーし」と繰り返した。
「え?  でもさ……」と言いかけた李亜だったが「後ろ見て」と言われて彼女は振り向くと、黒色のコンパクトカーが停まっていた。
「遅い」と春松は言い、さらに不機嫌そうに「船に遅れる」と言った。
「はぁ? ふね?」と李亜は言うのだが「とにかく乗って」と春松は言う。
「ちょ、待てや。あたし、昨日春松の家で寝てたやんな?」
「何?」春松はその質問の意味が全くわからない様子で首を傾げ「とにかく乗れ」の一点張り。仕方なく李亜は車に乗り込んだ。そして「どこ行くねん」と言いながらも、助手席にもたれかかった。「いい加減にしろよ」と春松が言うと、李亜は「え?」と驚いた様子を見せた。そして「ちょ、待って。どういう事?」と李亜は言うが、春松は車を発進させる。
「どこに行くん?」と再び訊くが、春松は無視をしている。車は南に向かって高速道路を走っている。李亜もそれ以上は何も言わないので、車中には沈黙が続く。
「なあ」
「何?」
「なあ、ちょっと訊いてええか?  春松、めっちゃ機嫌悪いよな?」と言った。
「だから何?」
「いや。なんで?」
「お前が悪いから」
「どういう事?」
「わからないなら、いい」春松は車の速度を緩めた。前方車両が次々と、ブレーキを踏むのが見えたので、彼もそうしたのだ。
「くそ。渋滞だ」彼は煙草に火を点け、そして車外を見ながら煙を吐いた。
「おい」と春松は言ったが、李亜は何も答えない。彼女は自分のスウェットの襟元や袖口などを見て、それから自分の髪の毛に触れた。
「あたしのこと『おい』って呼ぶなや。言いたい事あるならハッキリ言えや」
「うるせぇな。お前が遅れてきたから、船に遅れちまうだろ?」
「せやから、なに? 船ってなんなん? なんか色々とおかしいで」
「何が?」と彼は言い「なあ。李亜、お前さ、色々と直した方がいいよ」と言った。
「なんやねん」と李亜は言う。
「まあ、なんつうか、性格?  とにかく直した方がいいぞ。お前みたいな女、マジで嫌われるぞ」
「だから、何が言いたいん?」
「いや。もういいから。港に電話して」
「え?  なんで?」
「いや、だから、遅れそうだろ?  連絡しないとさ」
「なんで?」
「は?」と春松は言い、彼は前を向いたままハンドルを握っている。前方との車間距離が詰まってきており、彼はブレーキをゆっくりと踏み込んだ。
「いや、だから、港に電話して」と春松は言い「早くしろよ」と続けた。それを聞いて、李亜は携帯電話を操作して、しぶしぶ電話をかける。
「もしもし」
「二本木行きの船なんですけど……」電話しながら、李亜は横を見た。春松は前方を見て、車間距離を確認しながら運転している。
「はぁ? なんです? そのにゃくいちさんって?」と李亜は言い、春松は前を見たまま頷いた。
「はい……。え?  あぁ、そうです」
「あ、わかりました」そう言って彼女は電話を切った。そして携帯電話をポケットにしまう。前方の車間距離が広がった事を確認した春松はアクセルを踏み込み速度を上げた。
「何て言ってた?」と春松が尋ねると「お待ちしてますやって。ってか『にゃくいちさん』ってなんなん?」
 彼は溜息をついた。李亜は車窓に目をやる。遠くに海が見えた。陽の光に輝く海が眩しい。李亜はその景色を見ながら「春松」と声をかけたが、彼は無視している。
「なぁ、春松。なんか、ホンマごめん」と李亜は今度は謝ったが「何が?」と彼は言った。
「だから、遅れてもうたし……」
「だから、何?」
「いや、その……。あほやったって反省してるし」
「で?  なんで遅刻したの?  お前さ、いつも遅れるよな?  自覚ある?」
「いや……。でもな……なんかおかしいねん」
「何が?」
「なんていうか、なんやろう。明妃もあたしの事知らん言うし」と言って李亜は溜息をついた。春松はそれを聞き「何?  お前さ、何言ってんの?」と言い、気にしていない素振りをみせる。
「春松はあたしの事、知っているやろ?」
「は? 知ってるよ。なんで?」
「いや、だってなんか性格?  いや人格か?  なんかいつもとちゃうで」
「は?  なにが?」と言って、ただ前を見て運転に集中している。彼女はまた溜息をつき、そして自分の髪の毛に触れた。「春松、なんか機嫌悪いな?」と彼女は言うが、春松は何も答えずにハンドルを握り、車を走らせている。李亜は窓にもたれかかって外を眺めていた。しばらくすると、前方車両の群れに隙間ができはじめたので、春松は車線変更をして渋滞を抜けた。さらにアクセルを強く踏んで速度を上げると、すぐに高速の料金所が見えてきた。
「なぁ」と李亜は言い、春松はそれを無視して車を走らせる。そして埠頭まで来ると、大型の船が停泊しているのが見えた。「あれやろか」と李亜が言うので「そうだろ」と彼は答えた。

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中島亮 一日延ばしは時の盗人、明日は明日…… あっ、ありがとうございます!