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にゃくいちさん 九話

 深い青を通り越して、緑色をした波の立ち騒ぐ午後。風が凪いでから、気温は夏のような蒸し暑さになっていた。港にいる人々は、ぐったりとあえいでいるように見える。李亜はうつむいて、一人で窓口に向かっている。かなり広いプロムナード・デッキには、ストリートファニチャーを設置したり、植裁を施したりして、乗船客や、見送りに来た人々の気分を盛り上げるような意図が感じられる。乗船の手続きをする建物に入ると、世話好きなおばさんというような態度の乗船係が受付をしていた。彼女の胸元には「久慈」と書いてあるネームプレートがついていた。
「あの、二本木行きの船ですが」
「はい。乗船手続きですね。何名様ですか?」
「ええ。予約は二人です」
「お名前は?」
「東李亜です」
「はい。チケットをお預かりします。ではこの用紙に必要事項を書いてください」受付の女性は用紙とペンを渡し、李亜が用紙に書いていると窓口の電話が鳴った。係の女は「失礼します」と言ってから電話に出た。
「え? あぁはい。にゃくいちさん?」女性は確かにそう言って、李亜を見た。
「東様、申し訳ございませんが、お電話かわっていただけないでしょうか?」女性は受話器を李亜に差し出す。当惑が心の中にある李亜は「にゃくいちさん」という言葉の意味を知りたそうな顔をしていたが、聞く事ができずに受話器を受け取った。
「はい、お電話かわりました」李亜は状況が飲み込めないまま、電話に出る。
「東李亜さんでしょうか?」
「はい、そうですが」
「この度はご迷惑をおかけして申し訳ございません。私、運営事業部の久慈と申します」電話の声から察するに、五十代ぐらいの男性だ。
「は? 久慈? なんなん?」
「ご連絡ができていなかったようで、ご不便をおかけいたしました」
「ですから、何の?」
「はい。運航管理システムの不具合でご案内が遅れました」
「いや。意味わからんし」
「現在停泊している船にご案内します」
「ええっと、意味わからん。もう船は出るん?」
「はい。一時間後に出航の二本木行きの船があります。そちらにご案内します」
「わからんけど、あたしはそれに乗らなあかんねやろ?」
「ご迷惑をおけして申し訳ございません」久慈はそう言って電話を切った。そして、李亜は受け付けの女に受話器を渡す。
「電話の人、停泊している船に案内してくれると言ってましたが」李亜は受付の女にそう告げた。
「はい。すぐに乗船手続きをいたします」
 パソコンを操作している女性に「あの、さっき『にゃくいちさん』って言いましたよね?」と李亜は問いかける。すると、係の女は顔をあげて「はい? どうしましたか?」と何にもないような顔でそう答えた。
「あの、さっき、私をみて『にゃくいちさん』と言いましたよね」
「え? にゃくいちさんとは何でしょうか?」と聞いた事のない言葉であるような、不明瞭な抑揚で女は李亜に聞き返した。その言葉に対する女性の反応は鈍く、怪訝な表情を浮かべて再びパソコンに目を向けて何かを打ち込むと、その画面を李亜に見せた。
「乗船手続きが完了しましたので、この乗船券をお取りください」画面上には予約番号と予約者名が表示されている。
「それでは、係員が車を誘導します。楽しい船旅を」と言ったきり、係の女は李亜の顔を見る事はなかった。
「え?  どういう事?」李亜は訳が分からず、係員の女性をもう一度見た。しかし、彼女はこちらを見ていなかった。李亜は仕方なく乗船券を受け取ると、いつの間にか入り口に立っている気取った洋装の係員に案内されるままにプロムナード・デッキを歩いて行く。
「あの、船はどこに停泊しているのですか?」そう質問しても係員は答えない。ただ、黙って車まで李亜を見送ると、いつの間にか同じ服装の係員たちが、駐車場の隅から、外の道路まで並んでいた。
「遅かったな。間に合った?」と春松が言うと「なんか、あの人らの誘導する方に船があるんやって」と李亜が言うと、もともと停まっていた船が汽笛を鳴らし、海へ出て行った。
「あれじゃねぇのかよ?」
「ちゃうみたいやわ。とにかく、車、出してみ」李亜がそう言うと、春松は車を出した。
「で?  どこなんだよ」
「知らんけど、あの人らに従ったらええんちゃう?」と指さして春松に見せると、彼は黙って車を走らせた。駐車場から出て、幾つかの角を曲がると、今まで見えなかった船があった。
「これかよ?」春松は不機嫌そうに言いながらも、明るい表情になった。それはそうだろう。目の前にある船は、まるで、お城のような外観の豪華客船で、その大きさは、彼等が今まで見たどの船よりも大きく、そして美しい。
「これかな」と李亜も興奮気味に言う。春松が車を止めた場所には高級車ばかりが並んでいた。
「おい、これなのかよ?  このでかい船がそうだって?」今までの不機嫌が嘘のように、春松の声が弾む。その船は何日もかけて、遠くの海に出るような豪華客船だった。
「知らんけど、そうやな」李亜も驚いた様子でそう答える。
「凄いな! こんな船、見たこともねぇよ」春松の機嫌が良くなった事に、李亜は安堵し、彼女もまた今までの不可解な出来事を忘れたようにはしゃいでみせた。


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中島亮 一日延ばしは時の盗人、明日は明日…… あっ、ありがとうございます!