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にゃくいちさん 十一話

 李亜は部屋に戻ると、ベッドに飛び込んだ。そして、そのまま眠りにつこうとしたが、なかなか眠られないのが船旅というもので、彼女は結局起き上がり、部屋を出る。李亜はぶつぶつ言いながら外の風にあたる為に廊下を歩いていると、汽笛が鳴った。どうやら船が出たらしい。
 甲板には塩気を含んだ生暖かい空気が漂っていた。繰り返す波の体積は途方なく、重い水の抵抗を受けながら船は陸地を離れていく。空を見上げれば、鈍色の雲が太陽を隠し、その隙間から出る寂しい光が海原にささっていた。李亜は代わる代わる現われる波の峰と谷を、甲板からじっくりと見つめている。どう潜んでいたとも知れない、いやな静けさを含んだ風が吹くと、彼女の長い髪が靡いて顔を隠す。
「ママ」
 甲板の一角では、スタッフがバーベキューの準備をしている。天然木材が敷き詰められた床は温かみがあり、その空間は人々の笑顔と歓声が溢れていた。無邪気を装っているような、女児の声をききたくないのか、李亜は今しがた出てきたばかりの扉に戻り始める。
「ママ」
 李亜はただ前だけを見て扉へ近づいて行くが、声が近くなり、女児の姿が彼女の視界に入る。見覚えのない女が女児と抱き合っていた。その隣にいる、女児の父親らしい男を見かけると、李亜は足をとめ、じっと彼等を見た。
「春松?」それは、咽喉に貼りついた声を引き剥がすような呟き。
「お知合い?」女児の母親は、春松にそう問いかける。彼女の優雅な振る舞いと、微笑みは自然であったが、その笑顔の裏には疑いや不安が隠されている。
「えっと、すみません。どこかでお会いしましたか?」春松は、しばらく回想の迷路をたどったようだが早々に諦めたようだ。
「いやいや。ちょ、滝川春松やんな?」
「ええ。そうですが」気持ち悪い暗流が、顔中に渦巻いているような作り笑い。沈黙が訪れる気配がする中、おさげの女児が「ママ」と言った。
「お知合いじゃないの?」女児の母親らしき女は、疑いの混じった困惑の表情をつくる。
「いや。まったく、思い出せない」春松は、申し訳無さそうな顔を李亜に向けるが、本当にわからないといった感じ。
「ちょ、マジで言うてんの?」
「え? いや。本当にすみません。あの、どちら様でした?」
「春松?」
「え?  は、はい」李亜は不機嫌そうに春松を見つめているが、彼の目から何も読み取れないようである。
「ママ」おさげの女児は再び女性の足に抱きつく。
「ちょ、待って、春松やんな? いや、さっき一緒にこの船に、あたしと乗ったやんな? どういう事?」何か言いたそうな女性に、李亜は手の平向け「あの、もしかして、春松の奥さんとかですか?」と尋ねる。
「は、はぁ」女性は困惑して春松に視線を移すが、春松は口を半開きにして、不自然に右手を中空に浮かべている。
「ちょ、何なん? どうなっとんの?」
「あ、あの。すみません。あなたさっきから一体何を言っているのですか?」春松が着ているジャケットは、部屋のクローゼットにあった物だ。李亜は彼を睨むように見つめたが、春松は視線を逸らしてしまう。
「ママ」女児は再びそう言って、ちらりと李亜を見る。二つにわけたおさげの黒い髪に、まだらな夕日があたって艶やかな光の輪ができている。彼女の潤んでいる大きな目は春松にそっくりだ。
「にゃくいちさん」
「え?」と李亜は訊き返すが、誰も何も言っていないというような不穏な空気が流れ、女性が「どうしました?」と訊く。
「今、にゃくいちさんと……」
「え?」
「何も言ってませんよ。大丈夫ですか?」
「え? でも、今……」
女児の眼には恐ろしいまでに寂しい夕日が映っている。
「にゃくいちさん」
「ほら、また! にゃくいちさんって何?」
 女児の母親は、夫に対しての疑いを解消し、李亜への警戒を最大限にした。彼女は自分が抱える問題の重みを常に均等に分散し、均衡を保つ術を心得ているのだろう。彼女はその場を離れるという選択を最優先にし、何も言わずに女児と共に歩き始めた。春松は李亜に対峙し何か言わなければならないと思ったのだろう。「失礼します」とだけ言って踵を返すところ、李亜は春松のジャケットを掴む。
「ちょ、待って。何なん?  どういう事?」そう叫んだ李亜は、春松の腕にしがみつく形になったが、春松はすぐに手を払い一歩後ろに下がり距離を取った。
「いや。ちょっと、何をするんですか」春松は李亜よりも遙かに困惑した表情で、あたりを見回していた。日は落ちてはいなかったが、海は暗く、船の照明が灯っている。
「なんやの? 春松とちゃうんか? 一体どういう事やねん」と李亜は再び春松の腕を掴む。すると、女児の母親が呼んだのか、船の乗務員が二人やってきて李亜と春松の間に割って入る。
「なんやの? 何かあたしが悪い事したか? まだ話が終わってへん」
「お客様。困ります。他のお客様のご迷惑になります」乗務員は毅然とした態度でそう告げると、李亜を船内へ誘導した。
「ちょ、ちょっと!」李亜はそう言って抵抗したが、力づくで連れていかれる。
 春松達はもう一人の乗務員に、見知らぬ女に声をかけられた経緯を説明する。乗務員は春松達の説明に納得したのか、春松一家が船旅の間、李亜に出くわさないように配慮すると約束した。彼の妻も事を荒げたくないのか、李亜を咎めるような事は何も言わず、その場を収める事にした。
「ママ」女児は相変わらず母親にべったりと引っ付いていた。


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中島亮 一日延ばしは時の盗人、明日は明日…… あっ、ありがとうございます!