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【小説】あなたといた道、母が見た空 第二章 ①

【第一章はこちらから】

 通夜も葬儀も、それはしめやかなものだった。小さな会場には入りきらないくらいの弔問客が訪れ、一様に絶句していた。時折顔を上げては、遺影の中で朗らかに笑う母を見つめては目頭を熱くし、すすり泣く。
 母は愛されていたのだと思う。皆口々に「素敵な人だった」と言う。だから、母の死を悼んでこんなにも大勢の人が来てくれたのだろう。
 父や桜とも縁のあった人は、痛ましげな面もちで声をかけてくれた。
「大変だったね」
ーーと言って、優しく肩を撫でてくれる。だけど、その後決まって、こう言うのだ。
「ところで……あの人、誰?」
 それが誰を指すのか、明白だった。
 親族席の端に小さくなって座っている男性。親族も知人もその存在を知らない多岐川咲翔は、しめやかな空気の中に、一つの波紋を引き起こしていた。
 一般席に座ると言う咲翔を、父が無理矢理、親族席に座らせたのだ。かなり強引だった。そのせいでかえって目立っていた。肩身が狭かったろうと思う。
 だけど、咲翔の表情を覗いた時、それは誤りだったと気づいた。
 彼は、魂の抜け殻のようだった。
 笑うことも泣くこともせず、ただ虚空を見つめて呆然としていた。何も、感じていないようだった。
 いや、それも違う。今、父や桜や弔問客たちが抱いているあらゆる感情を、どこかに落としてしまったような……そんな空虚な顔だった。
 火葬場へ向かう車も、咲翔にはバスではなく、桜たちと同じ車を勧めていた。目を瞠る人も多い中、父は強引に咲翔を乗せてしまったのだった。親族や知人たちの怪訝な表情が、目に焼き付いて離れない。
 弔問客を見送り、骨壺を抱えて家に帰り着くと、桜はたまらず父に言ってしまった。
「お父さん。あれはやり過ぎじゃない?」
「何が?」
 案の定、父は呑気な声を返してきた。リビングに着くなり、ネクタイを外している。寛ぐ姿勢でいることに、なんだか不満だった。
「あの人を親族席に呼ぶのは、どうなの? それに火葬場に行く時も……ほかの親戚の人たちはバスなのに、ついこの間会ったあの人を家族扱いで乗せたら……」
「お母さんなら、そうしたと思う」
 父は、穏やかに笑って、そう言う。
「あの式は、お母さんのお葬式なんだから、お母さんが喜びそうなことをするのが一番だろう? だから、彼を近くに呼んだんだよ」
「でも、ほかの人たちが……」
「ほかの人は関係ない」
 朗らかな笑みの奥から、ぴしゃりと言い放つ。
「咲翔くんはお母さんと、一ヶ月もの間、一緒に生活して、一緒に楽しんでくれた人だよ。それは『家族』と呼べるんじゃないのかい?」
 桜は、言葉をなくしてしまった。文字通り、四六時中行動をともにしていたのだ。確かに父や桜よりも、ずっと一緒にいたと言えるかもしれない。
「でも、だからって……」
 言い募ろうとする桜を、父は遮った。
「もうやめよう。そろそろ、咲翔くんが戻ってくる」
 父の言葉に呼応するように、玄関のドアが開いた。咲翔だ。
 葬儀会場との往復の運転を頼んでいたのだ。車庫入れを終えた咲翔は、そろりとリビングまで入ってきた。
「あの、鍵を……」
 咲翔は、昨日から運転手をつとめてきた車の鍵を、遠慮がちに差し出す。箱根で出会ってから今日まで、三日間ほぼずっと行動をともにしていた。それくらい一緒にいると、もう少しフランクな接し方になってもおかしくなさそうなものだ。
 だけど咲翔は、ずっと一歩も二歩も三歩も引いた物腰でいた。謙虚や丁寧という言葉では収まらない及び腰に見えてならない。
(なんか……いじめてるみたい)
 そう思い、自分が出会ってすぐに彼になんと言ったのか思い出した。
(もしかして私のせい……!?)
 もしかしなくても、原因はそれしか思い当たらない。桜の中で、罪悪感と羞恥心が一気に押し寄せてきた。
 だが、頭を抱えてうなる桜に、ふわりと声が聞こえた。
「大丈夫……ですか?」
 桜をのぞき込む咲翔の瞳が、不安げに揺れていた。
「頭痛いとか? 横になった方が……ああ、でも念のため病院行ったほうが……き、救急車呼びますか?」
 話しながらどんどん青ざめていく咲翔を見て、桜のほうが困惑する。いったい何に怯えているのか。
「だ、大丈夫です。ちょっと疲れただけだから」
「そ、そうですか……よかった」
 肩を思い切り上下させて、安堵していた。心から心配してくれていたのだとわかり、改めて今までの仕打ちを思い出してしまった。
「ごめんなさい。心配かけて」
「へ? 僕はなにも……」
 桜の謝罪の意味は、伝わらなかったようだ。だが父には伝わったようで、にやにやしながらこっちを見ている。
 妙に悔しくて、桜はキッチンへ向かった。
「疲れたよね。お茶飲もう、お茶。お父さんはコーヒー?」
「うん、お願い」
「えっと……多岐川さん……は?」
 そう問いかけると、咲翔は目を丸くして見つめ返した。
「僕ですか?」
 桜は、こっくり頷く。
「お父さんはコーヒー。私は紅茶を淹れますけど……多岐川さんは何がいいですか?」
「僕は……」
 咲翔は、答えあぐねていた。遠慮しているのだろうかと思っていると、それを父が続けて尋ねた。
「一息着いたら、ご飯にしよう。コンビニでも行く?」
 渡りに船だ、と桜は思った。
「疲れたし、めんどくさい。カップ麺でいいんじゃない?」
 ちらりと咲翔を見ると、またも硬直していた。父の接し方を見ていて、わかった。この人に何かするなら、強引に物事を進めるほかないのだと。
「……今、うちにあるカップ麺はこれだけなんですけど。どれがいいですか?」
 三種類のカップ麺をテーブルに置いて咲翔に尋ねる。次に言うだろうことはわかっている。
「あの、僕は別に……」
「いいから、選んで下さい! よっぽど別のが食べたいか、この三つ全部嫌いならいいですけど、どうですか?」
「は、はい……ほな醤油で……」
「はい。じゃあ私は塩で」
 無理強いしたみたいで気が引けるが……これくらいしないと、彼は引いてばかりで話が進まないのだ。この三日間で学んだ。
「じゃあ、お父さんは味噌で。いやぁ、ちょうどいい具合に選んだね」
「ちょうどいい……ですか?」
「ちょうど良く、三人それぞれ好きなものを選べたから。お母さんはいつも醤油だったから、それを選んでくれて良かった」
「……そうですか」
 そういえば、この三種類がテーブルに並ぶのはいつぶりだろうか。母が旅に出てからは父と二人だったから、二人分しか並ばなかった。
 あの醤油ラーメンは、食べられることなく、一ヶ月以上待ちぼうけを食わされていたのだ。ようやく日の目を浴びることができて、喜んでいることだろう。
 桜は、三人分のお湯を沸かしながら、そんな奇妙なことを考えていた。
 お湯を注いで、時間を計る。三種類それぞれの待ち時間が違ったため、あちこちで互い違いにタイマーが鳴って、ちょっとしたパニックになる。
「こんなに色々鳴るのも久しぶりだ」
「……そうだね」
 蓋を開けて、良い香りの湯気を顔に浴びて、三人は箸を手に取る。
「いただきます」
 桜と父の声に数拍遅れて、咲翔の声が聞こえる。
 ずずずっと麺をすすると、温かな湯気と汁がふわりと入ってきて、身体全体に広がっていく。夏だというのに、それが心地良い。
「やっぱり疲れた身には、温かいものが沁みるなぁ」
「だねぇ。早くて美味しいものが一番だよ」
「……お疲れ様でした」
 父と娘のじじむさい会話に、遠慮がちな声が差し挟まれる。二人の視線を受けて、咲翔は肩を竦ませていた。
「すみません。余計なことを言いました」
「何言ってんの。『お疲れ様』は君もだろ、咲翔くん」
「僕は、何も……」
 また、そんなことを言う。咲翔はどうも自己評価が低すぎる。
 この三日の間、咲翔のおかげで父は助かっていたのだ。箱根での後処理に始まり、通夜・葬儀の準備も、進行まで助けてもらった。父と桜が混乱していると、必ず横から説明を入れるか、担当者に鋭い質問をして、わかりやすい答えを引き出していた。親類縁者への挨拶は父と桜しかできなかったが、それ以外の裏方仕事は何でも引き受けてくれた。
 名簿の作成、香典の管理、金銭の出納記録、伝令、受付まで……一人で何役もこなす姿を見て、桜は唖然としたものだった。
 それを父が褒めると決まってこう言うのだ。
『これくらいしか、できませんから……』
 出会った時に抱いた不審感を拭い去れたわけではない。でも同時に、母がこの人を気に入っていた理由は、わかる気がした。
「うーん、美味い。そういえば、旅先での食事ってどうしてたの?」
 あっという間にぺろりと平らげてしまった父が、咲翔に視線を向けた。咲翔は、箸を持ったまま茫然としている。だが父に声をかけられ、我に返ったようだった。
 我に返ると、今度は返答するか麺をすするか、迷っていた。
「食べながらでいいよ。どんなご飯食べたのか、聞かせてよ。この前の続きをさ」
「続きですか」
 咲翔が手を止め、目を閉じている。
 脳裏に思い出を描いているのだろうか。咲翔は、カップから立ち上る柔らかな香りを受けながら、ゆっくりと、語り始めた。
「あの日は――」

◇◇◇

 台風によって初日からいきなりホテルで静かに過ごすことになった翌日――その日は快晴だった。昨日の嵐が嘘のように晴れ晴れとしていた。風が雲をすべて吹き飛ばしたかのように、見渡す限り青が広がっている。
 チェックアウトを済ませ、車に乗り込む足取りも、軽くなるというものだった。
「いや、良かったねぇ。いいお天気で」
 晴れやかな顔で、梶さんは言う。
「そうですね。その分、観光地は混むかもしれませんけど」
「いいじゃないの。同志がたくさんいるってことで」
 朗らかにそう言う梶さんを、咲翔は横目でチラリと見ていた。
 昨日『お手伝い』を了承してから、色々な事情を聞いたのだった。
 夫と娘がいること。娘が思春期で難しいお年頃だということ。宝くじの一等が当たったということ。それを家族で仲良く山分けしたということ。
 そして今は自分の取り分を使って、ずっと行きたかった旅行に来ているのだということを。
(普通の主婦に見えるのに金払いが大胆やと思ったら、そういうことか……)
 ついでに言うと、妙に浮かれた空気がダダ漏れであることも、納得がいったのだった。
 同時に、ちょっと心配になった。
 初対面の咲翔に対して、ああも赤裸々に事情を話してしまうとは、人懐っこすぎるのではないか……。咲翔はさして興味が湧かないので、その話題はすぐに終わったが……『宝くじ』なんて言葉を聞いて目の色を変える輩はいくらでもいる。その時はどうなるか。想像すると、肝が冷えた。
(カネの話は外でせんように後で言うとこう……)
 そう、心に決めた咲翔だった。
 だが、昨日とは違う意味で気を引き締めた咲翔に、横から浮かれに浮かれた声が聞こえた。
「ねえねえ、えみくん。今日はさ、パーッと買い物行こうよ」
「……え? 水族館に行くて言うてはりませんでした?」
 昨日のうちに、だいたいの予定を聞いていたのだ。この沖縄滞在は4泊5日。那覇空港を出発地点として、島を一周するような計画を立てていた。
 咲翔と出会わなければ、運転も荷運びも全部一人でするつもりだったというから、開いた口が塞がらない。もはや豪胆と呼ぶべきか。
(でも、このおばちゃんやったら、やりかねへんしなぁ)
 話しながら、何度もそう思ったものだ。
 そして二日目である今日は北部に行って水族館と古宇利島ドライブの予定だったのだが……出発一分前に大幅な変更を宣言されてしまった。
「だって昨日、国際通りを見て回る予定だったのにできなかったから。一日ずつずらそう」
「まぁ……そう言わはるなら」
 雇い主は梶さんだ。ここは従わざるを得ないだろう。咲翔はカーナビに国際通り近くの駐車場を設定する。バックミラーを調整すると、助手席でサングラスをかけて、鼻歌交じりで窓の外を眺めている梶さんが映り込む。
(まぁ、この人が楽しむのが目的やし……ええか)
 そう思い、ギアを入れ、アクセルを踏み込んだ。
 車は、するすると滑り出す。昨日と違って、咲翔が思うように走り、曲がってくれる。
 それに、何よりも視界が明るい。遮るもののない空から降り注ぐ光が眩いくらいだ。大きく、深い碧が視界いっぱいに広がる様を見ると、咲翔の胸の奥が、すぅっと軽くなっていく気がした。
 ホテルを出て数分の場所にあるコインパーキングに駐車して、二人は早々と車を降りる。
 下りてすぐ、咲翔は大きく息を吸い込んだ。
(なんか、空気がおいしい……)
 国際通り近辺は車も人も、建物も多く、喧噪も聞こえる。だけど咲翔は今、この沖縄に来て初めて、まともに息をしたように思った。
 呼吸するのが、こんなにも心地よいと、初めて知った気がした。
 感慨深く深呼吸する咲翔の肩を、横から誰かがバシンと叩いた。梶さんだ。不意を突かれたから痛い……。
「よし、買い物行こうぜ!」
「は、はい……どこに行くか決めてるんですか?」
 車の中で調べ物をする気配はなかった。きっと昨晩のうちにピックアップしていたに違いない。
 案の定、梶さんはニンマリ笑って親指を立てていた。
「あたぼうよ! 沖縄に来たんだから、まず買わなきゃいけないものがあるでしょ」
 そう行って、梶さんはずんずん歩いて行く。
 やれやれ今日は運転に加えて荷物持ちもしなければいけないらしい。そう思っていたのだが……。
「あのぅ……なんで、こんな……?」
 梶さんが『い』の一番に連れてきた店、それは……アロハシャツ専門店だった。入るなり、並んでいたアロハシャツを片っ端から咲翔に当てて、数分と経たずに「試着して」と指示を出してきた。
 仕方なく着てみたのだが……。
「な、なんでわざわざ、こんな派手なんを……」
「気分が明るくなるでしょ?」
 梶さんは満足そうだ。
 だが咲翔は一刻も早く脱ぎ去りたかった。
 渡されたものは開襟シャツとハーフパンツ。どちらも真っ赤な花柄がいくつもプリントされていて、それはもう華やかだった。
 さっきまで身につけていた喪服とは真逆の印象に早変わりしている。ただし、咲翔の気持ちは置き去りになっている……。
「こんな派手なアロハシャツなんて、よう着ません……!」
「アロハシャツじゃないよ。沖縄産の『かりゆしウェア』っていうんだよ」
「どっちでもええです……」
 消え入りそうな声で言うも、梶さんは意に介さない。楽しそうに別の柄を探している。
「花柄が嫌なら、こっちはどう? シーサー柄!」
 そちらは黒地に太めの筋がプリントされて、シーサーが踊るように描かれている。浮かれた雰囲気は変わらないが、まだマシかと妥協しかけた。
「い、いやいや、そうやなくて。僕の服なんてええから、梶さんが欲しいもん見て下さい」
「うん。だから、えみくんの着替えを探してる」
 そう言われると、ぐうの音も出ない。昨日からずっと、真っ黒の喪服を着たきりだったのだ。さぞ暗い気分にさせたのだろう。
 梶さんは、そんな咲翔の考えを読み取ったようにからっと笑った。
「ああ、違う違う。暗いとかじゃないからね。汗かいたり、雨に濡れたりしたでしょ。スーツはきれいにしとかなきゃ」
「はぁ……」
 梶さんは咲翔が脱いだジャケットを丁寧に持ってくれている。なんだか気恥ずかしくなってしまった。
「あの……それやったら、こんな高そうな服やなくて、もっと安くてシンプルなんの方が……正直、何着か要りますし」
 飛行機代で財布がほぼ空になってしまったので、費用面は梶さんに頼るしかない。だからこそ、お値段も控えめなものを求めたい。
 国際通りにはお土産用のかりゆしウェアの店はいくつもあるが、量販店も並んでいる。咲翔としては、そこで地味なものを一気に調達したいところなのだが……梶さんは、なかなか首を縦に振らない。
「う~ん……何着も、か。それもそうか……でも一着くらいは記念に……」
「沖縄は名産品が多いから、他にもっと良い記念品があります。絶対に」
 梶さんは、口をへの字に曲げて唸っていた。かと思うと、急に何か閃いたようだった。
「わかった。じゃあ、近くのユ○クロで、必要なだけ買ってよし」
「ホンマですか」
 いきなりの了承に、咲翔が目を丸くした。だが次の瞬間、梶さんはまたニンマリ笑うのだった。
「た・だ・し……今日一日はそのかりゆしウェアで、私とペアルックしてくれるなら……ね?」
「うぅっ……!」
 なんという究極の選択か。
(この人、鬼か……!)
 そう思ったけれども、なんとか飲み込む。だって逆らえないから。
「おやぁ? 出資者の言葉が聞けないのかなぁ?」
 両手にかりゆしウェアを持って、チラチラ見せてくる。
「……あっちの、シーサー柄なら……」
 かろうじて黒無地の面積の大きいものを選ぶことで、なんとかちょっとだけでもマシだと思おうとする、咲翔なのだった。

******

 三日目の沖縄も晴天。二人を乗せた車は西海岸沿いを快調に走っていく。
 今日は、かりゆしウェアは断固として拒否した。昨日一日、散々目立ったのだから充分だ。量販店で買ってもらった旅行カバンの奥に封印し、今は無地のシャツとズボンとスニーカーに身を包んでいる。時計だけは、元から身につけていたものを着けて、今日も度々時間をチェックしながら運転をしている。
 梶さんも、昨日お付き合いしたから満足してくれたのか、特に何も言われない。
 むしろ朝食が美味しかったので、とてもご機嫌だ。
「それにしても、えみくんは少食だね。あれで足りた?」
「……むしろ梶さんが食べ過ぎやないですか?」
 ホテルの朝食は沖縄料理を中心としたビュッフェだった。朝だというのに、豚肉がふんだんに使われた料理がずらりと並んでいた。
 さっぱりしたものを探していた咲翔の前で、梶さんはどの料理も満遍なく取り皿いっぱいに取って、しかも三回もおかわりをしていた。そして「せっかくの旅行なんだから、楽しまなきゃ損だよ」とキラキラした瞳で言っていた……。
(まぁ、美味しかったんは確かやけど)
 朝から、なんだかいつもより爽やかな気分でいられるのは、あの朝食のおかげなのかもしれない。そう思った瞬間、助手席から楽しそうな声が聞こえてきた。
「ねえ、えみくん。お昼ご飯は何食べたい?」
「さっき朝飯食べたところやないですか。もう昼飯の話するんですか?」
「するよ。ご飯は大黒柱なんだよ。ガツガツいかなきゃ」
 そう言う梶さんの笑顔は、なぜか、ずっと昔に見た『熊に注意』のポスターと同じ印象を受けた。
「えーと……お任せで」
 咲翔は、ただ指示された場所に向けて運転するだけだ。そう思っていたのだが……。
「それじゃつまんないでしょ。毎日同じもの食べることになっちゃうよ」
「僕は別にそれでも……」
「えみくん!」
 咲翔の遠慮がちな声を遮り、梶さんはびしっと指さした。
「今は旅行に来てるんだよ。非日常の真っ最中なの。普段食べないものに囲まれてるんだから、一通り楽しまなきゃ」
「そう言われましても……」
 梶さんの言っていることは理解できるのだが、咲翔には、彼女ほど旅へのモチベーションは高くない。毎日コンビニでもいいくらいに思っているのだ……。
「あの……ごちそうになるんやから、毎食、梶さんの食べたいものでいいやないですか」
 梶さんは、眉根を寄せて不服そうな顔をした。だがどうやらその原因は、ご飯のことではないようだった。
「その『ごちそうになる』とか『買ってもらう』とかは、やめよう」
「やめようて……」
「私はお財布係、えみくんは運転と荷物持ち係。役割分担してるってだけでしょ? 負い目みたいなのは、いっさいなし! 決定!」
 息継ぎすることなく一気に言い切る梶さんだった。これはもう、聞く耳を持たない体勢だ……。
「わかりました。ほな、そういうことで……」
 咲翔が了承すると、梶さんは早速スマホを取り出して、なにやら調べていた。
(忙しい人やなぁ)
 そんなことを思いながら、咲翔は再び運転に集中した。
 だがどこか、心が軽くなる気がしていた。目に映る海も空も道も、何度も見てきた。だというのに、この沖縄で見るものは、地元で見るものとすべてが違って見えた。
 目的地まで約二時間。今までだと苦痛だった時間が、今日は、あっという間に過ぎていった。窓の外を眺めていた梶さんよりも、運転していた咲翔の方が、目的地に着いてしまったことに驚いていた。
「あ……水族館、着きました」
「ほんとだ! 早かったね」
 見る景色が素晴らしければ、時間の感じ方も違うのだろうか。そう思って、咲翔は小さく頷いた。
 梶さんはウキウキした足取りで車を降り、建物へと向かっていく。
 本日の最初の目的地である水族館だ。正確には、大きな海洋公園の中の施設の一つであり、その人気は世界でもトップレベルだ。
「『世界屈指の巨大水槽』や『沖縄の海をコンセプトにした珊瑚礁』……色々あるみたいだよ、えみくん」
 梶さんは、リーフレットを見て目を輝かせていた。要するに、全部楽しみなのだろう。
「ほな、行きましょか」
 入り口は、四階のゲートにある。そこから下へ順々に下りて回ることで、深海まで潜るような体験をするようだ。
 館内に入った咲翔たちを出迎えてくれたのは、珊瑚礁の広がる大きな水槽だった。屋内だというのに、そこには鮮やかな色の珊瑚が生きる海そのものだ。水槽の上から覗き込むと、熱帯魚の泳ぐ姿と、陽光の照り返しが交わってキラキラと眩い。
 下の階へ下りると、先ほど見た『海』の中に潜ったようだった。
 深い青に彩られた珊瑚礁。そこを、白や黄色や赤と色とりどりの魚たちが悠々と泳ぎ回る。花畑のようだった。
「これ、空港にあった水槽と似てるね」
 梶さんが、ほぅと感嘆の息と共に言う。
「この水族館が設置したらしいですよ。説明書きがありました」
 梶さんは空港に到着した時は水槽をよく見る余裕がなかったのだろう。咲翔の二倍も三倍も、感激していた。
 だが、それもまだ序の口だった。
 更に下の階に行くと、二人揃って呆気にとられた。目の前が一面、海なのだから。これが世界屈指の巨大水槽かと、驚きを隠せなかった。
 水面から海底まですべて再現したような場所だった。明るい場所も、暗くなっている場所も、それぞれ大小色々な魚たちが泳いでいる。
 水槽の真正面は広いフロアで、何人もがそこで足を止めていた。梶さんと咲翔も、そこでしばし腰を下ろした。
 ひとり悠々と泳ぐものもいれば、群れを成して泳ぐものもいる。その群れを覆い尽くすような、大きな大きな魚が通る。この水族館の目玉であるジンベイザメだ。
「うわ、大きいね」
「ようぶつからずに泳げますね……」
 気付けば咲翔も、感嘆のため息を零していた。
(あんな風になれたら……)
 大きな身体で自由に、そして堂々たる泳ぎで進んでいく。誰もそれを遮らない。そして、他者を遮ることもない。
 水の中なら、それができたのだろうか。重力もなく、壁もなく、天井も床もない。そんな世界なら……。
「えみくん? どした?」
 ふいに梶さんの声が聞こえて、はたと我に返る。
 あの水槽の中を揺蕩っている自分を夢想していたとは、ちょっと言いづらい。咲翔は視線を逸らして、ごまかした。
 幸い、梶さんは気に留める様子もなく、リーフレットを見ていた。
「次は深海フロアだって」
 そう言う梶さんに引っ張られて、大海のようなフロアを後にした。
 進んだ先は、まさしく『深海』だった。静かで、暗い世界だ。
 不思議と、人影もまばらだ。フロアに点在する深海魚たちと同じように、ひっそりと息を潜ませているようだ。
「あ、でもあの魚、光ってる……!」
 自然と、梶さんの声まで密やかになっている。咲翔も、その声音に合わせてしまうのだった。
「発光バクテリアを共生させてる……て書いてますよ」
「へぇ……もしこの魚を食べたら私たちも光るのかな」
 あまり想像したくない。咲翔は苦笑まじりに首を捻った。
 梶さんはと言うと、食べ物の話をしたせいか、食事に興味が移り始めたようだ。
「ここのレストランでお昼食べる? それとも、次の目的地で食べる?」
「僕は本当に何でも美味しいと思うので……お任せします」
「そうかぁ。悩むなぁ……うーん」
 梶さんは静かに泳ぐ魚たちを前にうんうん唸る。そこまで悩むことなんだろうか……悩むことなんだろう。
 まぁ確かに、昼飯時ではある。
 次の目的地はここから三〇分程度だし、どちらで食べても遅くなるということはない。そう考えていたら、梶さんが何か閃いた顔をした。
「決めた! これからお土産を買います」
「はい」
「そして、次の場所でお昼を食べます……どう?」
「僕は何も異存はありませんよ」
 そう言うと、梶さんはニッコリ笑って「じゃあ行こう!」と拳を振り上げた。
 深海魚たちが驚いていないか、ちょっと心配になったのだった。

<次のお話はこちら>

<前のお話はこちら>

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