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【小説】あなたといた道、母が見た空 第二章 ②

【第一章はこちらから】

 水族館で買ったたくさんのおみやげを後部座席に載せて、車は一路、次の目的地へと向かう。袋に入りきらずに、ぴょこっと飛び出したジンベイザメのぬいぐるみが、窓の外を見つめている。
 同じように窓の外を見ていた梶さんが、わっとはしゃぐ声をあげた。
「見えた! 古宇利島だ!」
 運転中の咲翔の視界にも飛び込んできた。
 フロントガラスの向こうに広がる、澄んだエメラルドグリーン。その更に向こうに、古宇利島の島影が見える。以前は海によって隔たれていたが、近年、古宇利大橋が開通したおかげで、車での行き来が可能になったのだとか。
 その古宇利島大橋も、徐々に近づいて来ている。
「あの橋を渡ってすぐのお店で食べよっか」
「わかりました」
 いい店を見つけたらしい。梶さんの迷いのない声に、咲翔も軽く頷く。
 正午を少し過ぎた今、日差しがガラス越しに容赦なく咲翔たちを照らしてくる。クーラーをつけていても、日差しだけでじりじり焼かれている気分だ。
 だが、それが一変する。
 それまでの畑に囲まれた道を進むと、急に視界が澄み切ったエメラルドグリーン一色へと変わる。
「うわ……!」
 思わず、そんな声が漏れた。助手席の梶さんからも、同じ声が聞こえる。
 古宇利大橋にさしかかると、そこは周り中が海だった。海のど真ん中を、一本の細い橋が渡っている。カーナビの地図表示を見ると、自分たちがまるで海の上を綱渡りしているかのように思えてくる。
 自分たちは、今、海の上を走っているのだ。
 それは、どこまでも続くように思えた。走っても終わりは見えず、水平線の向こうまで行けるかのような錯覚を覚えるのだった。
「ねえ、えみくん。窓、開けていい?」
 梶さんに「どうぞ」と答えると、遠慮なく、窓を全開にするのだった。車内に充満していたクーラーの風が一掃されるように、潮風が吹き込んでくる。それほど涼しいわけではない。だけど不思議と、心地よい。
「いいねぇ。海だねぇ」
 その言葉に、咲翔は妙に納得がいった。いよいよ目的地にたどり着いたということが肌で感じられて、心が躍っていたのだ。
 長い長い橋を渡り終えると、五分と経たないほど場所に、その店はあった。看板には『海の家』と書かれている。確かに、それらしい木造家屋で、少し古めかしい佇まいだった。
 入ってみると、海水浴客がいるわけではなく、咲翔たちと同じような、橋を渡ってきた観光客がちらほら見えた。店主のこだわりがそこかしこに見える装いで、メニュー表にも、手書きの書き込みがあった。
 メニューに並ぶのは、沖縄特産の食材を使ったものもあれば、定番の洋食も、スイーツもある。だが、ここはやはり……。
「私はこのアグー焼き豚丼にする。えみくんは?」
「僕も、それにします」
 咲翔が迷いなくそう言うと、梶さんは一瞬、眉をひそめた。
「……遠慮しないで、もっと高いやつでもいいよ? 二品いってもいいし」
「いえ、タレの良い匂いがするから食べてみたいなって思たんです」
 遠慮したわけじゃないとわかると、梶さんは「そっか」と呟いて、意気揚々と『アグー焼き豚丼』を二人前、注文した。
 出てきたのは、ご飯を覆い尽くすほどの豚肉が載った丼。大きさも量も、想像以上だ。しかもそれらがすべて、ほんのり甘辛い香りを漂わせている。空きっ腹の二人にはたまらない香りだ。
 生唾を飲む代わりに、梶さんと二人、視線を交わし、頷き合う。
「よし、いただきます!」
 手を合わせ、揃ってそう言うと、待ちきれないとばかりに、肉を口に放り込む。
 その瞬間、またしても二人で目を見合わせた。言葉にならない感情が、視線にあふれ出てくる。その思いは同じだった。
――美味しい!
 もはや言葉は不要。咲翔と梶さんは、ただ食欲の赴くままに箸を動かした。
 そこから器が空になるまで、一〇分とかからなかった……。
「ごちそうさまでした」
 再び手を合わせてそう言うと、なんだか気が抜けてしまった。
「えみくん、よく食べてたねぇ」
「その……美味しくて」
 がっついたところを見られて気恥ずかしい思いでいると、梶さんは意外にも、うんうんと満足そうに頷いていた。
「それでいい。それでいい。若者は食べなきゃ」
「? 食べなあかんのは、誰でも同じなんとちがうんですか?」
「だってえみくん、少食すぎるじゃない」
 咲翔の朝食の、控えめすぎる量のことを指しているらしい。
「朝はちょっと食欲が……すみません」
「ああ、いやいや。責めてるんじゃなくて、いっぱい食べられるものがあって、良かったなって思ったの」
 そう言われて、はたと気付いた。ここ数年の食事を思えば、今日の食事は格段に量が多い。それをぺろりと平らげてしまった。
 美味しかったからだ。
(こんなに美味しいもの、久々に食べたんとちゃうか……?)
 箸が止まらないほど美味しいもの、そう感じる気持ちを、思い出した。確信はないけれど、咲翔はそう思った。
 美味しい余韻に浸る咲翔に、梶さんは再び、別の質問を投げかける。
「そういえば、えみくん……海って見るの初めて?」
「いいえ? 何回か遊びに行ったりしましたけど……」
「そうなの? さっきすごく嬉しそうだったから」
 さっきとは、橋を渡っていたときのことだろうか。
「嬉しそう……でしたか?」
「海を見て、感激してなかった?」
 言われてみれば、思わずため息が零れるきれいな光景だった。
「沖縄の海って、こんなに綺麗なんやって思って……あと、なんていうか、大きいなぁて……」
「わかる。映画とか旅番組でしか見たことなかった景色が、目の前にあるんだもん。感激するよね。私も感激した」
 梶さんは、感慨深そうにうんうん頷いている。
「せっかく来たんだから、橋の上から見るだけじゃ足りないよね。ビーチにも行こうよ」
「えっ……」
 この古宇利島は離島であり、海に囲まれているわけなので、ビーチは多数ある。今いる店の近くにもあったはずだ。
「この『ティーヌ浜』に行こう。なんか面白そう」
 古宇利島の外周をなぞるように、ビーチは数多ある。梶さんが指した『ティーヌ浜』は、現在地から見て島の反対側……つまり、最も遠い場所にある。
「軽く島を一周しますね……」
「ちょうどよくない?」
 何が『ちょうどいい』のか、よくわからないが……指摘しても無駄なのは、この数日でよくわかっている。
「まぁ、普通にドライブで一周したら遅くても一時間か。途中ちょっとゆっくりしたら……一時間半てとこですかね。なんとか間に合いそうですね」
「……うん?」
 梶さんが、きょとんとして咲翔を見返す。
「……ホテルのチェックインです。十九時までですよね?」
「あ……そうそう、うん。大丈夫そうでしょ?」
 さては忘れていたな、とちょっぴり睨むが、梶さんは変な鼻歌でごまかした。
 咲翔がいなかったら、どうなっていたんだろうか……。そう思ったが、考えるのをやめた。
 再びカーナビに目的地をセットして、走り出す。ほんの十五分ほどのドライブだった。だけど不思議と心が和む光景が続いて、咲翔はふと気付いたのだった。
(そうか。高い建物がないから、空が広いんや……)
 だから、こんなにも綺麗な青を見続けていられるのか、と。
 そう思ったところで、車はちょうど駐車場に到着した。車を降りてしばらく歩くと、浜辺が見えてくる。
 驚くほどに澄み渡った海だ。古宇利大橋を渡った時はエメラルドのような色だと思ったが、今、目にしているのはもっと深い青だ。それに浜辺周辺は本来の水らしい無色透明だ。
 さざ波がいくつも重なる様は、瑠璃と水晶が詰め込まれた宝石箱のようだった。ざざざ……と音を立てて、咲翔の方へなだれ込んでくるように見える。
「えみくん、こっちこっち」
 海を見て惚けている咲翔を、梶さんが大声で呼んだ。何を見せたいのか、すぐにわかった。
 ビーチからほんの数歩くらいの海の中から、岩が二つ、並んで立っているのだ。足下の方が細くなっていて、そこから天に向かって大きく広がっている。天辺で山が二つできており、その姿はさながらハート型のようだった。
「すごいなぁ……うわ⁉」
 近づこうとビーチに入ると、思い切り沈んでしまった。このビーチ……想像以上に砂が柔らかいらしい。咲翔のスニーカーは、一瞬で埋まってしまった。そしてよく見ると、梶さんはさっさと靴を脱いでいた……。
 買ってもらったばかりなのに砂まみれにしてしまった……。申し訳なく思いながら、咲翔はスニーカーと靴下を脱いで、ビーチを進んだ。
「ああ、えみくん。靴は脱いだ方がいいよ」
「……遅いです」 
 恨みがましい視線を向けると、梶さんはいたずらっぽく笑った。
「この岩があるから『ハートロックビーチ』とも呼ばれてるんだって」
 そう言って、角度を変えて何枚も写真を撮っている。一通り撮ったかと思うと、今度は スマホを咲翔に渡してきた。
「撮ってもらっていい?」
「あ、はい」
 カメラモードがオンになったままのスマホを受け取り、梶さんに向ける。
 ハート型の岩の前で、指を指したり、ウインクしたり、色々なポーズを撮る梶さんを、咲翔は撮り続けた。
 ハートが似合う人だ、とふと思ったのだった。
「ありがとう! 写真、上手いね」
「そんなことは……それ、旦那さんと娘さんに送るんですか?」
「うん。そのつもり」
 言うが早いか、もう送信してしまった。行動の早さに驚いていたが、同時に一つ、思い至ってしまった。
「あの……さっきの写真、誰に撮ってもらったんかって、聞かれませんか?」
 梶さんは一人旅と言って、沖縄に来たと言っていた。だとしたら、ハート岩と梶さんのツーショットなんて、撮る人がいないはずなのだが……。
「ああ、大丈夫。現地で意気投合した人と、二人で回ってるって言ってあるから」
『意気投合』はかなり語弊があるが……この口ぶりだと、家族にも了承されてしまっているらしい。
 咲翔の不安なんてつゆほども気にせず、梶さんは言う。
「えみくんも撮る?」
 ハートの岩を指して、そう尋ねてきた。咲翔は、しばしハートの岩を見つめて……首を横に振った。
「僕は、いいです」
「なんで? せっかくだし、一枚くらい撮ろうよ」
「ハートとか、僕には似合いませんし」
 そう言うと、咲翔は岩に背を向けた。留まっていると、強引にパシャリとやられそうだった。
 ビーチから出て、砂を払って靴下とスニーカーを履く。どうしても、ジャリジャリした感触が残って仕方がない。
 違和感にむずむずしていると、咲翔を追いかけるように、梶さんがビーチから戻ってきた。ささっと靴を履いている。
「もういいんですか?」
 ビーチには、岩を見に来た人以外にも、海に入って遊ぶ人もたくさんいた。梶さんも、しばらくはのんびりしているものだと思っていたのだが、帰り支度を始めている。
「あのハート岩の写真が撮りたかっただけだからね」
「……もしかして、僕が急かしました?」
 咲翔が素っ気なく立ち去ったせいだろうかと思ったが、梶さんはニッコリ笑って否定した。
「そんなことないない。さすがに海に入る気はないし、もうやることないだけ」
「……ホンマに、ですか?」
「ホンマホンマ」
 そう言うと、梶さんは靴を履いて歩き出した。車に戻るつもりのようだ。咲翔は、もう一度ビーチの方を振り返るが、梶さんの歩みに追いつくことにした。
 その後、別のビーチにも寄るか聞いてみたのだが、「もう満足!」とのことだった。
 時計を見ると、まだ十五時頃。今から宿泊予定のホテルに向かえば、チェックインの時間には余裕で間に合う。
「あの……どこか寄りますか?」
「いいよ。ホテル入っちゃおう。それで、ちょっとゆっくりしよ。疲れたでしょ」
 やはり、気遣わせていたのか。そう思った咲翔は、路肩に停車した。
「あの……僕のことなら気にせんと、いくらでも、思いつきで言うてください」
「? うん、だから、ホテルでちょっとゆっくりしたいなぁって思いつきなんだけど……?」
「ホンマに? 僕は遊ぶのが下手やから、誘われてもはしゃぐとかできへんくて……退屈とか、気ぃ悪くしたとか、そんなんは……」
「ないないない! えみくん、水族館であんなに一緒にはしゃいでくれたじゃない。遊ぶの下手じゃないよ」
「でも……」
「あのねぇ、えみくん」
 咲翔の言葉を封じるように、梶さんはぴしゃりと言う。
「キミね……私をえみくんと同年代だと思ってない?」
「……はい?」
「私はね、キミよりだいぶ年上なの。おばちゃんなの。二十代男子の体力を基準にしちゃいけないの。わかる?」
 梶さんの言っていることを理解しようと、しばし瞑目し、おそるおそる、言ってみる。
「つまり……疲れたと?」
「そう。純粋に、私が、疲れた。だからチェックインして、まったりしたい……OK?」
「あー……はい。OK……です」
 咲翔は、すごすごとギアを入れて、アクセルを踏む。
(この人でも、疲れるなんてこと、あるんやなぁ……)
 そんなことを考えていたことは、胸に秘めておいた。
 ホテルまでの道のりは、驚きと申し訳ない気持ちとがない交ぜになって、お互いにあまり口を開かなかった。だが……夕食時には梶さんは完全復活していたので、咲翔は抱いていた申し訳なさをすべて撤回しようと思ったのだった……。


 翌日も、晴天。梶さんの調子も、晴れ晴れ。共に絶好調だ。
(むしろ二十代男子よりもずっと体力あるんとちがうか……?)
 梶さんは今日も今日とて、意気揚々と目的地を次々ピックアップしていく。
「今日は夕飯は食べる場所は決まってるかもね」
「どこですか?」
「むふふ……ここ!」
 そう言って、梶さんはスマホを見せた。『アメリカンビレッジ』のサイトが表示されている。
――沖縄とアメリカの街並みが融合した街並み。アパレルショップ・レストラン・カフェ・シネマコンプレックス・ライブハウスなど様々な施設が揃っており、周辺にはビーチやマリンアクティビティ、スパ施設もある。
 ショッピング、グルメ、アミューズメント、ホテルが並ぶ総合的リゾートタウン。
 そう、謳われている。
「へぇ……一日あっても全部回られへんのとちがいますか?」
「うーん、まぁお土産が買えればよしとしようじゃない。一番の目的は、ショッピングじゃないから」
「目的って何ですか?」
「むっふっふっふ……夜まではヒミツ」
 ものすごく気になる……というか不安になる。だが、きっと話してはくれないのだろう。どうせ夜にはわかることなのだ。それまで、運転手に徹しようと心に決める咲翔だった。
 心に決めていたのだが……その心は、僅か三十分ほど後に挫けることになる。
「こ、ここは……ちょっと……!」
 咲翔は、早くも及び腰になるのであった。その声に振り返る梶さんは、きょとんとしている。
「えー大丈夫だって。落ちない落ちない」
 そう言って、咲翔の手を引いて先に進もうとするが、咲翔は動けなかった。進もうとしている先が、断崖絶壁だからだ。
 恩納村の万座毛……高さ二十メートルの琉球石灰岩の断崖と広大な芝生が特徴的な景勝地だ。周辺施設で観覧券を購入すれば、観覧入り口からこの場所へ行ける。
 はじめは何の観覧券かわからずにいた咲翔だったが、入り口を通り、外に出て、芝生を進むにつれて青ざめていったのだ。
 水平線まで続く絶景が、観光客の心を掴んで離さない場所なのだが……咲翔は、例外のようだ。
「せっかく恩納村に来たんだから、この絶景は拝んでおかないと損だよ」
 そう言って、梶さんはずんずん進んでいく。確かに、柵は設置されている。だが、それでも数歩先は崖で、目の前に広がるのは真っ青な海でも落ちたら死ぬわけで……つまりは、とてもとても怖い。
「すみません、すみません……! 大損してもいいです。僕、高所恐怖症なんです……!」
「そうなの? よく飛行機に乗ったね?」
「あれは移動手段やからなんとか……お願いします。もうここで……」
「ダメダメ。あっちの方で、写真撮ってもらうんだから」
「勘弁して下さい……!」
 梶さんは咲翔を宥めながら……というか、実質、咲翔の叫びにまったく耳を貸さずにぐいぐい引っ張っていった。まるで注射を嫌がる子どもを診察室に連れて行く母親のごとく。
 咲翔があまりに怖がるからか、柵には近づかず、芝生のど真ん中を突っ切って歩く。絶対に落ちるはずがないと言える道を歩いているのだが……一度、断崖絶壁である様を見てしまったためか、咲翔の足はずっと震えていた。
 真ん中まで歩いてきたら、梶さんは無慈悲にも咲翔の手を離した。
「ほらほら、撮って~」
 そう言って、崖の真ん前でポーズをとる梶さん……。咲翔は早く撮らないと、屋内に戻れないと察した。
 どうにか足を踏ん張り、カメラモードになっているスマホを握り、震えを止めるよう試みる。
「い、い、いきまーす」
 声まで震えていたが、どうにか手ブレ補正が働いて、くっきりと梶さんをフレームに収めることができた。
「と、とれました……!」
 咲翔の悲鳴めいた叫びに、梶さんは戻ってきて、写真を確認する。
「うん、バッチリ! ありがとうね! よし、じゃあ帰ろう!」
 梶さんは大型犬を撫でるように、咲翔の頭をわしゃわしゃ掻き回す。そして来た時と同じように、咲翔の腕を引いてずんずん歩いて行く。
 ちなみに、施設に戻っても、咲翔の震えはしばらくやまず、ちょっと休憩することになったのだった。


「すみません、高いところは、もう……」
「大丈夫、低い低い」
 万座毛からの移動中、次に向かう場所のことを何度も何度も確認した。『ヒミツ』なんて言っていたので、不安でならない。
 外は快晴で、窓から入ってくる風は心地よいというのに、まるで初日の、台風の中の運転と同じくらいドキドキしていた。
「本当に大丈夫。絶対、喜んでもらえるから」
「……ホンマですよね?」
「……まぁ、人によって好みが違うから『絶対』は言い過ぎかも……うん。たぶん、きっと?」
 梶さんの声が、だんだんしょぼしょぼして小さくなっていく。不安に加えて不信感まで湧いてくる。
 走行時間は約一時間。その間、ちょっと気まずい空気になってしまったのは、言うまでもない。
 だが目的の『アメリカンビレッジ』に到着してからは、違った。
 車を降りた梶さんは解放感に満ちた様子で、アメリカンテイストの街並みを見上げていた。咲翔もまた、梶さんが言っていた通り、『高い場所』ではないと確認できて、ようやく緊張を解いたのだった。
「言ったでしょ? 低いって」
「……まぁ、高いわけではないんで、いけます。それで、一番の目的って何なんです? もう夕方ですけど」
 咲翔がそう尋ねると、梶さんはまたも悪戯小僧のような笑みを浮かべる。
「夜までお楽しみ! それまではショッピング行こう、ショッピング!」
「ショッピングは二日目に行きませんでした?」
「あの時は日用品とか服とかの『買い出し』がメインだったから。今日はお土産をガンガン探すよ!」
 お土産も、水族館でしこたま買ったと思うのだが……所変われば気分も品も変わるのだろう。咲翔は何も言わず、ただお供をすることに決めた。
「そういえば夕飯の店は決まってるんですか? 夜に何か考えてることがあるんやったら、それに合わせた店とか探した方がいいですよね?」
 昼は万座毛の近辺で済ませた。美味しかったが、沖縄料理の店ではなく、梶さん曰くの『旅行ならでは』の食事にはできなかった。夕飯こそは、旅行ならではのものをなんとか見つけようと思っていたのだった。
「あーそうだね」
 梶さんは手元のエリアガイドを見ながらしばし唸っていた。
「じゃあ……二十時にこの海岸沿いのボードウォークに行こう。それより前に、食べておくってので、どう?」
「わかりました。じゃあ、その近くの店にしましょうか」
 ある程度の方向性が見えると、探しやすいものだ。梶さんは歩きながら、エリアガイドに載っている店をいくつかチェックしている。
 そして宣言通り、梶さんは色々な土産物店に咲翔を引っ張っていくのだった。
 その品数の豊富さには、咲翔も驚いた。
 琉球ガラスのアクセサリー、陶器製の雑貨、リゾートファッション、泡盛、中にはオリジナルのアクセサリーを作ってくれる彫金工房もあった。
「記念にペアのもの、何か作らない?」
 梶さんが目をキラキラさせて言ったが、丁重に辞退した。
「むしろ旦那さんや娘さんとお揃いのもんを何か作ってお土産にしたらいいやないですか」
「うーん、娘が金属アレルギーだからねぇ……残念だけど、他のものにするわ」
 そう言って、彫金工房を後にした。
(金属アレルギー……そうか、そういう人もいるんやった)
 自分がアレルギーは何もないからといって、うっかり忘れていた。もっと慎重に考えねば……そう思っていると、梶さんはひょいっと目の前の店に入っていった。国際通りでも見かけた、沖縄土産のお店だ。
 中に入ると、広々としたスペースに、さっきまで色々な店で見てきた品が一堂に会していた。専門店ほど多くはないが、色々な品を検分して比べることができる。
「お父さんはやっぱり泡盛かな。娘は紅芋タルトとか……」
 あれもこれも手に取って、家族が喜ぶ様を想像している。お土産選びの醍醐味を満喫しているようだ。
(羨ましいな)
 そう、感じてしまったことに驚いた。そして、ふと近くに置かれていたコップに視線が留まる。
 琉球ガラスの酒器セットだ。海より深い青色をした徳利と、浜辺の澄んだ水のような透明なお猪口が一対になっている。
 手に取ってみると、すぅっと手に馴染む。これで冷酒をくいっと傾けると、涼やかな気分になれるだろうか。
 気付けばそんな想像が浮かんでいた。
「なになに? それ、お土産にする?」
「うわ⁉」
 いきなり梶さんの顔が近づいて来た。驚く余り飛び退いて、あやうく展示品を落とすところだった……。
「ごめんごめん。あんまり真剣に見てるもんだから」
 そんなに食い入るように見ていたのか。なんだか気恥ずかしくなって、元の場所に戻した。
「買わないの?」
「手持ちが足りませんし……」
「人件費ってことで、お金だそうか?」
「いりません」
 ぴしゃりと、言ってしまった。冷たい響きになっていないか、心配になって見てみると、梶さんは驚いて目を瞬かせていた。
 しまった、と思った。咲翔は少し声を和らげて、続けた。
「あの……お土産とか、いらんのです。家族には、ここに来るて言ってませんし。これで酒を酌み交わすような酒飲み仲間もいませんし」
「……そっか。ごめんね、失礼な言い方しちゃったね」
「いえ、こちらこそ」
 お互いに深々とお辞儀をして、どちらともなく、歩き出した。お買い物に戻るのだ。
 梶さんは一度だけ、咲翔が見ていた酒器のセットを見たが、すぐに前に向き直ったのだった。そして、その拍子に「あ!」と叫んだ。
「な、なんですか?」
「いいのがあった!」
 そう言って、咲翔をぐいぐい引っ張りながら駆けていく。手に取ったものは……。
「シーサーですか?」
「そう。灯台もと暗しだね。すっかり忘れてたわ」
 仲良く対でぶら下がるシーサーのストラップを手に、梶さんは声を弾ませている。
 シーサーは、この旅の間、何度か目にした。どれも厳めしい顔つきで、こちらを睨みつけていた。魔を祓う効果は確かにありそうだと実感したものだ。
 それが、手元のストラップではとっても可愛らしくデフォルメされている。効果の程を疑うほどに、チャーミングだ。
「えみくん、効果あるのか疑ってるでしょ」
 ぎくっと、効果音が鳴った気がした。
「そんなことは……」
「まぁ、こういうのは気持ちだから。いいのよ、沖縄のことを思い出せれば」
 そう言って、ストラップを三つも掴んでカゴに放り込んだ。
「ついでに、こっちのリアルな方も家に置いといたらええんとちがいますか? こっちは思い出と守り神、両方の役目を果たしてくれそうですし」
 咲翔が指したのは、まさしく侵入者をぎろりと睨みつける門番二匹の置物だ。ストラップと比べて、可愛くはない。きっと嫌がるだろうと思ったのだが……。
「おお、いいね。なんか御利益ありそう! うちにお迎えしようか」
「え、ホンマに?」
 咲翔は自分で勧めておいて、素っ頓狂な声で聞いてしまった。冗談のつもりだったのに……と言うよりも早く、梶さんは置物を慎重にカゴに収めた。ちょっと重量感がある。
「いやぁ……旅行して、守り神をお迎えするって流れも悪くないかなって思って」
「御利益どころか、下手したら罰が当たりませんか?」
「大丈夫だって。こんなに買ってほしそうにしてるんだから」
 咲翔は改めて、並んでいるシーサーの置物を見る。どう見ても『買ってほしそう』というより『疎かに扱ったら罰を下すぞ』と脅しにかかっているように見える。
「あ、えみくんの分も買う?」
「僕はいいです!」
 部屋に置いて一日中睨まれては、かなわない。咲翔は丁重に、お断りするのだった。
「でもなぁ……それじゃあえみくんのお土産が何もないんじゃない?」
 カゴの中を見ると、確かに、梶さんが入れたものばかりだ。
「僕は別に……旅行に来たわけでもないですし」
「……あれ? 違ったっけ?」
 首を傾げる梶さんを見て、咲翔はまた、しまった、と思った。ついうっかり、話したつもりになってしまった。
 梶さんの目が何度も瞬き、答えを要求している。
「あの……僕、は……」
 観念して、答えを捻り出そうとした、その時だった。
 梶さんはくるりと踵を返してしまった。
「まぁ、なんでもいいか。じゃあ別に誰かへのお土産じゃなくて、自分の記念になりそうなもの、何か探しなよ」
「自分の……?」
 梶さんは、笑って頷く。
 咲翔は、考えを巡らせた。自分がこの地を巡った記念とは、何だろうか。台風の中、運転したことか。かりゆしウェアで国際通りを練り歩いたことか。水族館でジンベイザメを見たことか。宝石のような海を見たことか。それとも、この世の果てのような断崖絶壁に行ったことだろうか。
 いや、どれも違うし、どれもが記念だ。咲翔の沖縄の思い出すべてにあるもの、それは……。
 気付けば、目の前の梶さんをじっと見つめていた。そして先ほど梶さんが手にしていたものと同じストラップを手に取った。
「それでいいの?」
 きょとんとしている梶さんに、咲翔は深く頷いて見せた。
「はい。これが、いいんです」
 咲翔は、会計を済ませた後、いくつか梱包をしてもらっている間に、自分の分のストラップをすぐにスマホに取りつけたのだった。
「……ふふ」
 咲翔の頬が、我知らず、緩んでいた。


 時刻は十九時三〇分。梶さんの指定通り、夕飯を済ませ、海岸沿いのボードウォークにやってきた。梶さんの言った時間には少し早いが、座席を確保しなければならないのだ。
 梶さんの言った通り、ボードウォークは既に人で埋まりつつある。かろうじて二人分の席を確保できたものの、隣の人との距離は近い。
「なんていったっけ? 京都にもこんなぎゅうぎゅう詰めの場所、あるよね? 川沿いの……?」
「……鴨川沿いですか?」
「そう。それそれ」
 鴨川沿いに並ぶのはほとんどがカップルで、だからこそ自分たち以外の存在が気にならないのだと思われる。
 今の状況では隣の会話が丸聞こえで、咲翔にとって居心地がいいとは言えない。だが梶さんは、隣なんてまるきり気にせず、食後に買った沖縄で有名なアイスクリームショップのアイスを食べている。
(この人やったら、知らん隣の人とでも肩組み合って盛り上がりそうやな……)
 テイクアウトした台湾茶を飲みながら、咲翔はそう思った。
「それにしてもさっきのレストラン、美味しかったねぇ」
「そうですね」
 夕飯にと選んだ店は、ボードウォーク近くの建物にあった沖縄料理店だ。本格的な沖縄料理が八十種類以上揃っていると書かれていた。
 よく知られる沖縄の家庭料理から、沖縄の食材を使った創作料理まで多種多様であり、どれを食べようか、梶さんと二人で頭を抱えた。
「やっぱり沖縄の豚料理っていいね。どんなアレンジしても絶対に美味しいんだもん」
「ミミガーって、サラダにしてもいいんですね。発見でした。それにゴーヤーも、やっぱり地元民は使い方がひと味違うっていうか……」
「海ぶどうの食感で、ちょっと癖になりそうだよね」
「わかります。プチプチいうのが、最初は変な感じでしたけど、最後の方はもっとほしいて思いました」
「それにさ、紅芋が天ぷらになるとは思わなかった」
「ポテトフライもありましたね」
「紅芋を買って帰って、家で作ってみようかな。あれは旦那さんにも娘にも食べさせてあげたいなぁ」
「いいですね。喜ばはると思います」
 沖縄の独特な食材と味を、一品ずつ、様々楽しんだ。感想はいくら述べても止まらない。
 梶さんはメニューに載ってる全種類を注文するんじゃないかと思うくらい、あれこれ食べまくっていた。まだまだ食べられそうな勢いだったのだが、時計を見て、自分から席を立ったのだ。
「もっと他にも食べたかったんやないですか?」
「まぁ、気になるのはあったけど、急がないといけないし」
 二十時までヒミツのもののために切り上げたのは明らかだった。いったい何があるのか。
そろそろ教えてくれるのだろうか。そう思っていると、梶さんは再び時計を見ていた。
「そろそろかな」
「何がです?」
 そう咲翔が問うのと同時に、大きな音がした。
 はるか上空……濃紺に塗り込められた夜空で、激しい音と、色とりどりの光が、弾けていた。
 花火だ。
 咲翔が息を呑む間に、また次の、大輪の花が夜空に咲いた。
「ここってね、毎週土曜の二十時に花火大会があるんだって」
「毎週ですか」
 花火大会は日本各地で開催されるが、大抵は一日だけ大がかりなイベントをして終わる。少し規模は落ちるのだろうが、毎週こんな光景が見られるとは、随分と豪気だ。
 赤に、黄色に、緑に、白に……夜空が、様々な色に彩られていく。そして花火を見つめる人々の顔も、鮮やかな色で照らし出される。
「今日は絶対にここに来るって決めてたの。沖縄旅行の記念にね」
「記念……」
 咲翔は、さっき買ったシーサーのストラップに視線を落とした。人懐こいフォルムのシーサー二匹が、にこやかに夜空を見上げている。
「……ホンマですね。いい記念です」
 咲翔が頷くと、梶さんはにっこり、顔を綻ばせていた。
「でしょ。沖縄最後の夜は、ぱーっと華々しく飾らないとね」
 その言葉に、咲翔の声が固まった。
「……最後?」
 絞り出したような咲翔の声に、梶さんは、軽く頷く。
「うん。明日には飛行機に乗るから。沖縄の夜は、今日で最後」
 そう言われて、思い出した。『旅行』には、終わりがあるということを。
 最初に四泊五日だと聞いていた。沖縄には旅行に来ているだけで、いつかは家に帰ると知っていた。
 そんなこと、わかっていたはずなのに。
 夜空で弾けた火花が、ちりちりと音を立てて、暗闇の中に溶け込んでいく様が見えた。
(そうか……今日で、終わりか……)
 急に、胸にぽっかり穴が空いたような感覚を覚えた。重くて、寒い穴だ。
 梶さんを見ると、眩く空を見上げ、花火を写真に収めていた。これから家族に送るのだろうか。
 明日には家に帰って、家族に土産話をたくさんするんだろうか。かりゆしウェアとか、シーサーの置物とか、ジンベイザメとか、話は尽きないだろう。
 その中に、咲翔の存在も少しは含まれるだろうか。
「えみくんは?」
「はい?」
 気付けば梶さんは、咲翔の方を見つめていた。何かを期待する目を向けられている。
「えみくんは沖縄旅行、楽しかった?」
 零れんばかりの笑みを向けられて、胸がすぅっと軽くなった。そして、さっきまで感じていた鈍痛の正体が、わかった。
「はい……楽しかったです」
 楽しかったのだ。今日で終わりだと聞いて、寂しくなるくらいに。
 だけど、楽しい思い出話をどっさり持ち帰る梶さんに、そんな虚しさを見せてはいけないと思った。
 咲翔は立ち上がり、右手を差し出す。
「この四日間、ホンマに楽しかったです。梶さん、ありがとうございました……!」
 お辞儀と共にそう言うと、梶さんは優しく、握手を返してくれた。
「どういたしまして。こちらこそ、ありがとうね」 
 咲翔は手を離して、席に座った。手のひらでシーサー二匹を弄び、深呼吸をする。
「あの……ホンマに、ありがとうございました。助かりました」
「どしたの? さっきもお礼言ってくれたじゃない」
「さっきのは楽しかったお礼で、今のは……助けてもらったお礼です」
 咲翔の言うことが、理解しがたいようだ。梶さんは首を傾げて聞いている。
「僕は……沖縄に着いた時点で、ほぼ無一文やったから」
「ああ、そう言ってたね」
 だから、運転手として雇うという形をとったのだ。
「あんな……喪服で、身一つで、金もない、行く宛てもない怪しい男を、拾ってくださって、ありがとうございました」
 自分だったら、絶対に近寄らないだろう。だが梶さんは、手を取ってくれた。今も、柔らかい笑みを向けてくれる。
「ねえ、どうして喪服であんなところにいたのか、聞いてもいい?」
 咲翔は頷くも、やはり言葉に詰まった。話せるようなことが、なかった。
「ホンマに、大した事情やないんです。喪服やったのは、法事の後やったからで。財布とスマホ以外は家に忘れてきて……」
「その法事が終わった後、なんで荷物も持たずに飛行機になんて乗ったの? そんなに急いでたの?」
 咲翔は首を横に振った。急いでいたなら、空港に留まっているはずがない。財布にバス代すら残っていなかったことも事実だ。だがそれ以上に、どこへ行けばいいか、わからなかった。
「家に、帰りたくなかったから……とにかく遠いところに行きたくて沖縄に来たんです」
 梶さんが、俯く咲翔の顔を覗き込む。
「どうして帰りたくなかったのか、聞いてもいい?」
「それは……」
 説明しなければ、と思った。だが言葉を選ぼうとすればするほど、言葉は逃げていく。咲翔の中に渦巻く重苦しいモノを捉えて形にする言葉が、見つからなかった。
(言おうと思ったのに、言われへん……情けないな)
 もどかしい思いが喉元につかえる。ぎゅっと拳を握りしめる咲翔を、梶さんはじっと見つめていた。
「あー……うん、わかった。いいよ、話さなくて」
「え?」
 梶さんはひらひらと手を振って、それ以上の追求をやめた。そして、代わりに別の質問をする。
「法事って、なに? どなたの、か聞いてもいい?」
「あ……祖父の、四十九日です」
「てことは、最近亡くなられたんだ……」
 五月の末だった。朝になっても目覚めず、眠ったまま息を引き取ったのだとわかった。
 それを伝えると、梶さんは小さくため息をついた。そして、ふいに鮮やかな光で満ちる夜空に目を向けた。
「ねえ、えみくん。花火って、鎮魂の意味もあるんだって」
「……そうなんですか?」
 咲翔も、空を見上げる。
 鎮魂や葬儀といったものはしめやかに執り行われるものであり、華美を嫌うものだと思っていた。
 今まで見た中で一番綺麗に空を彩る花火が、そんな意味を含んでいたとは。
「えーとね、江戸時代に大飢饉があって大勢の人が亡くなったのね。それで八代将軍の徳川吉宗が慰霊と災厄退散の願いをこめて、どこかの川開きに合わせて花火大会を開催したのが始まりなんだって」
 うんうん唸って、思い出しながら話している。誰かから聞いた話なんだろうか。
「うちの旦那さんが言ってたの。うろ覚えでごめんね」
「いえ……なんか、いい話ですね」
 情緒のある話だと思った。そんな話を、以前はよく聞いていた。
「お祖父さんも、一緒に見てるよ」
「そうやと……いいんですけど」
「そうだよ」
 梶さんがそう言うと、不思議と思い出した。昔、祖父の家で見えた花火の光景を。
 咲翔が逃げ出した家の、縁側を。
「僕、帰れそうです」
 ぽつりと呟いた言葉に、咲翔自身が驚いた。だけど、すとんと心にきれいに収まった気もした。この花火を見たから、一人じゃないと思えたから。
 改めて、梶さんに向き直ってみる。すると――。
「えみくん、家に帰るの?」
 梶さんは、目を瞬かせて、そう尋ねてきた。
「……え? だって、飛行機に乗るって……」
 さっき確かに言っていた。沖縄旅行は最後だと。
「うん。沖縄からは出発するよ。その次は鹿児島に行こうかなって……」
「へ?」
 咲翔がぎょっとすると、梶さんは首を捻りだした。
「あれ? 言ってなかったっけ? 沖縄の次は鹿児島の予定って。もうホテルもレンタカーも予約できてるんだけど?」
「初耳です……!」
 悪びれずにそう言う梶さんを見て、唖然とする。この様子からして、おそらく本当に、忘れていたらしい。こんなにも大事なことを。
「うーん、ごめんね。言ったつもりになってた。えみくん、明日からも行ける?」
「え、は……えぇ⁉」
 これは質問ではなく、確認だとわかる。
 梶さんの表情が、ちょっとだけ罪悪感が浮かんでいたものからイタズラ小僧のようなそれに変わる。
 嘘でも『無理です』と即答するべきだったのだが……咲翔は、また好機を逃した。
 咲翔が断らないと確信したのか、梶さんはにこにこしながら右手を差し出してきた。
「またよろしくね、えみくん」
 この微笑みを振り払う力は、今の咲翔にはない。
 咲翔は、片手に持った台湾茶を取りこぼしそうになるのをどうにか堪えて、差し出された右手を握り返したのだった。

◇◇◇

 そんな、咲翔と母の話を聞いて、父と桜は別々の表情を浮かべていた。
 父はいかにも母らしいと言って、満面の笑みだった。
 桜は、母の強引すぎるエピソードに、顔から火が出そうだった。とんでもなく迷惑をかけてしまったのではないかと、咲翔を窺い見る。
 咲翔は、項垂れながらも、口元には笑みが浮かんでいた。楽しい思い出なんだろうか。
「そうかそうか。鹿児島に続くって言ってなかったんだね。それは……ごめんね」
「いえ、予定もありませんでしたし……」
 咲翔の手元のカップを見ると、麺は四分の一くらいまで減っていた。だけど、残った分は汁を吸い込みすぎて、膨らんでいた。美味しくなさそうだ。
「あの……長いお話させて、すみません」
 桜がそう頭を下げると、咲翔は驚いたように身を竦ませた。
「そんな……僕こそ話が長くて、すみません!」
 咲翔は慌てて立ち上がり、頭を下げる。どうしてこんなにも、誰に対しても申し訳なさそうなのか、理解できない。
 どう声をかけたらいいか分からずにいると、父が咲翔の側に寄って、ぽんと肩を叩いた。
「まぁまぁ。聞いたのは僕の方なんだから」
 そう言って、咲翔を座らせる。
「まぁしかし、大変だったろう。うちの奥さんに、そんなに引きずり回されて……」
 父の言葉には、笑いが含まれていた。きっと強引に誘っている現場を想像しているのだ。
咲翔は、恐縮して頷き返す以外、できないようだった。
「僕らのところにも、いきなり連絡が来たからねぇ。グループチャットに一言入れただけなんだよ。びっくりするよねぇ」
 その時のことは、よく覚えている。
 家族で作ったグループチャットに、いつもなら写真やらメッセージが来る。だがその日は違った。
『鹿児島にも行ってくる』
 それだけだった。父と二人、唖然とした。同時に、『さすがはあの人だ』とも思った。
「まぁ、沖縄だけで満足できる人じゃないとは思ってたけどね。だからといって、連続で行くとはねぇ」
 苦笑しながら、父は時計を見上げた。夜の九時を回ろうとしている。
「もうこんな時間か。本当に、長話をさせてしまったね。申し訳ない」
「いえ、そんな……」
「で、次は一週間後でいいかな?」
「……は?」
 顔を上げた咲翔は、きょとんとしている。桜も、同じ気持ちだった。
「一週間後って……なんです?」
「鹿児島の話を聞かせてもらう日だよ。明日からは僕も仕事があるし、桜も部活があるし。我々の都合が合いそうなのが一週間後なんだけど……咲翔くんは、どうかな?」
「いえ、僕は予定なんて……あ!」
 さっき聞いた旅行中の話と、同じことが起こっている。断ればいいものを、また機会を逃していた。
 桜は、咲翔のその不器用さに、ちょっとだけ同情した。
「決まり。じゃあまた来週、来てね」
「へ? は、はぁ……はい」
 咲翔は、父の言うことを飲み込めないまま、『来週、同じ時間に』という約束だけインプットされていたようだった。最後まで首を傾げながら、梶家を後にした。その後ろ姿には哀愁を感じずにはいられなかった。
「お父さん! だから、強引過ぎだってば」
「そう?」
 父は悪びれもせず、そう言う。
 三人分のカップ麺の後片付けをしながら、桜は押し殺していた苛立ちを露わにした。
「強く言ったら何でも引き受けてくれる人だからって……ただでさえお母さんが振り回してたんだから、私たちまで振り回しちゃダメでしょ」
「まぁ……そうなんだけどねぇ」
「だいいち、もうお葬式は終わったんだよ。あの人に一週間もどう生活しろっていうの? お父さんがホテルとってあげるの? それとも大阪の往復の旅費を出してあげるの?」
 咲翔の家は大阪だ。一週間後と簡単に言ってしまったが、通わせるのも、こちらに留まらせるのも、大きな負担には違いない。それを考えなしに言う父に、桜は苛立ちを隠せなかった。
 父は困ったように、だけど穏やかに、笑っていた。
「うーん……そうだねぇ。桜は、どう思う?」
「どうって……なにが?」
 咲翔に対してまだ燻っている、僅かな不信感を見抜かれたのか。そう思ったが、父は差からの答えを待たずに、言う。
「あの子を、帰してしまってもいいのかどうか、迷ってるんだ」
「帰してもいいかって、なんで?」
 確かにさっき、帰りたくなかったという旨の話をしていたが、他人が迷うようなことなのだろうか。
 父は、言葉に詰まっていた。言っていいのか逡巡している様子で、桜を見る。
「お母さんだったら、どうしたかな」
「そんなこと、私に聞かれても……」
 母はもう、いないのだ。
 父は小さくため息をついた。
「そうだね。でも……お母さんだったら、強引にでも引き留めると思う」
「どうして、どう思うの?」
 父の視線が揺らいだ。咲翔が去った後の玄関の方を、じっと見つめて、呟く。
「お母さんは、咲翔くんと沖縄で出会った時に、彼を引き留めなきゃって思ったらしいんだよ」
「引き留めなきゃ……?」
 父は、静かに頷いた。
「そうしないと彼が、遠くへ行ってしまうんじゃないかって……そう思ったんだってさ」

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