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【小説】あなたといた道、母が見た空 第一章

【あらすじ】
母が旅先で急逝した。
高校生の桜は、混乱のなか父とともに母の遺体引き取りに、向かう。病院でもの言わぬ母に付き添っていたのは、咲翔と名乗る青年だった。彼は、家族でも友人でもない赤の他人。なのになぜ、母とともに旅をしていたのか、疑問ばかり。
しかし彼は、何も受け入れられずにいた桜に、母が過ごした最期の日々を、まるで寄り添うように語ってくれた。
受け入れられなかった「死」が少しずつ輪郭を帯びていく。
これは残された人々の心が、再び動き出すまでの物語。


 私の母は旅に出た。
 念願だった一人旅に。満面の笑みを浮かべて。
 飛び跳ねそうな軽やかな足取りで去って行く背中を、私は「いってらっしゃい。お土産よろしく」なんて軽い挨拶で見送った。
 一週間ほどで帰って来る予定だった。あの母のことだから、きっと帰ってきたら家の中がお土産でいっぱいになるに違いない、なんて思っていた。
 そして、きっと両手いっぱいに荷物を持って帰って来る。そんな母に、私と父は苦笑いを返しながら「おかえり」と言うのだ。
 そう、思っていたのに……。

 夏休みに入って一週間ほど経った、日曜日だった。
 梶 桜(かじ さくら)は、今日も学校に来ていた。授業はないが、所属している剣道部の稽古は毎日ある。とはいえ、今日は午前で終了予定だ。
 明日の試合に備えて、早めに上がることになっていた。
 基礎練習を終えて、試合形式の稽古を何本か終えると、上座に向けて礼をして、竹刀を収める。部員全員で整列して正座し、面を取ると、熱気から解放される。
 真夏の正午近い時間だというのに、ほのかに冷気を感じてしまうのだから、面の装着時というのがいかに殺人的な熱さか、わかる。
 顧問の先生が今日の稽古の総括と、明日の試合の詳細を話し、解散となった。
 男子も女子も息をついて、胴と垂を取り、自分の防具袋に詰めていく。それが済んで、ようやく顔と手を洗えるのだ。
「あー生き返る!」
 水道水を思いっきり顔に浴びせて、桜は叫んだ。
「じじむさいなぁ、もう。でも同感!」
 同じ部の中村仁美(なかむら ひとみ)だ。苦笑しながらも、桜に続いて顔を洗い、やはり「あぁ~」と温泉に入ったような声を上げる。
「運動部って、真夏はどこも大変だけど、剣道部って特にキツいよね」
 仁美が上げた悲鳴のような言葉に、桜は深く頷いた。
「ほんと、それ。重いし、暑いし、蒸し蒸しするし、冷房つけちゃダメだし、痛いし……」
「そういえば桜、怪我は大丈夫?」
 仁美は、桜の足をちらりと見ている。
「ああ、大丈夫。だから明日、試合に出られることになったんじゃん」
 ひと月前には包帯でぐるぐる巻きになっていた足首も、今は痣一つ見えない。ぴょんぴょん飛び跳ねて、桜は元気なところをアピールした。
「ほんと、この前の大会はどうしようかと思った……うちの中堅が出られないとか絶望だったよ」
「あの時はごめん。でも明日の試合は出られるから。次こそ予選突破しようよ」
「うん。そういえば……桜のお母さんは、明日は来るの?」
 仁美のそんな問いに、桜は答えあぐねていた。
「どうだろう……来るとは言ってたけど」
「今、日本中を旅してるんだっけ?」
「うん、今は……どこだったかな」
 母が出発したのは、ひと月ほど前だった。沖縄市内を一週間ほどで一周するだけのはずが、随分と長い旅になっている。
「やっぱり鹿児島にも行くって言って、それから北海道、仙台、大阪って続いて、今は……そうだ、箱根だ! もう日本一周して来たらいいよ」
 最初の頃こそ、今はどこで何をしているんだろうと思いを馳せたものだったが、今ではまったく意識していないこともある。母のいない生活に、すっかり馴染んでしまっていた。
 そうは言うものの、桜のスマートフォンには、母が沖縄土産として郵送してきたものに入っていたシーサーのストラップが着いているのだけれど。桜は本来は猫派で、猫グッズばかり集めているのだが、これはこれで嬉しかったし、ちょっと可愛いとも思っている。
 楽しんでいるようだったから、弱音を吐いたり愚痴を言うのが躊躇われて、試合を辞退したことは言い出せなかった。ただ、母から送られてくる楽しそうな写真にコメントを返すだけに留めていた。
 だけど順調に怪我が治り、明日の試合では団体戦のメンバーに入れた時は、思わず、母に『試合、頑張ってくる』と言ってしまった。昨夜のことだ。
 すると、稽古に入る直前に、母から返信があった。
『頑張れ。絶対、見に行くから』
 いつもと違って絵文字も何もついていないシンプルで、素っ気ない文面だったけれど、心が弾んだ。
「箱根から帰ってくるってことかな? 桜、良かったじゃん」
「えー、でも荷ほどきとかお土産の話聞かなきゃいけないから、たぶん大変だよ?」
「いいじゃん。嬉しいんでしょ? ほら、試合の時のあれ、作ってもらえるんじゃない?」
「あれはいいんだよ、別に。でも……とりあえず、お土産にあったラーメンとか、食べようかな」
「ほら、やっぱり嬉しそう」
 えへへと笑ってごまかし、桜はまとめておいた防具袋と竹刀袋を持ち上げる。ずっしりと重いが、明日の試合の相棒だ。大事に抱えて更衣室へ向かおうとした。
 その時だった。
「梶! まだいるか⁉」
 稽古を終えて、職員室に戻ったはずの顧問が息を切らせて駆け込んできた。
「はい、います」
 何故か、青ざめた顔をしながら、顧問は外を指さした。
「今、職員室に電話が入った。お父さんからだ」
「はい?」
 稽古中はスマホは更衣室に置いているので出られない。よっぽど急ぎの用があったのだろうか。桜はそんな、暢気なことを考えていた。
「早く帰りなさい! お母さんが……!」
 顧問から『母』の名が出た。何故だろう、と桜は思った。だけど、だんだん頭が重く、ガンガン締め付けられるような感覚に陥る。顧問の声が、遠く響いている。
「梶のお母さんが倒れたって、お父さんから……!」


 顧問が何を言っているのか、まるきりわからなかった。ただ言われるがまま、家に帰った。制服を着替える暇もなく、箱根に一番早く着ける交通手段を検索して、父と二人して新幹線に飛び乗った。
 東京駅から小田原駅まで新幹線に乗って、箱根登山鉄道に乗り換え、そこからバスに乗り換えて、ようやく病院にたどり着いた。着いた頃には、日が傾き駆けていた。
 日曜日なので外来はなく、裏の緊急搬入口から案内される。人通りの極端に少ないリノリウムの廊下に、桜たちの足音がやけに大きく、うるさく、響き渡る。
 案内されたのは手術室――ではなく、霊安室。
「な、なんで……? 手術室じゃないの?」
 そんな桜の問いに答える者は、いなかった。案内してくれた看護師までが、沈鬱な面持ちのまま黙ってドアを開ける。
 桜は、そのドアから向こうに踏み出す勇気が出なかった。
 だって、わかるから。顔に白い布をかけられて横たわるその人物が、桜のよく知る人の身体だと。
 それでも、父は一歩踏み出した。努めて穏やかに、しっかりと一歩一歩ベッドに近づき、そして白い布をそっとめくった。
 そこには、母がいた。目をつぶっていて、口も開かない、指先すら動かそうとしないけれど――確かに母だった。
「お母さん……?」
 問いかけたけど、答えるわけがなかった。だって、ここに寝ていると言うことは、もう――。
 そんな考えがよぎって、ガクンと力が抜けた。足が、自分のものではなくなったかのように動かない。
 ぺたんと尻餅をついたままの桜を、父が心配そうに振り返る。だが、父よりも早く、横から手が差し伸べられた。
「あの……大丈夫ですか?」
 男性の声だった。遅れてやってきた医師かと思い、咄嗟にその手を取る。
「ありがとうございます。すみません、今、立ちますから……」
 そう言って立ち上がり、声の主を振り返った。その瞬間、思わず手を振り払ってしまった。
「だ、誰!?」
 桜の手を取ったのは、医師ではなかった。看護師でもなかった。
 暗い色のシャツとジーンズを着て、地味な柄のスニーカーを履いている。黒髪の、大人しい面立ちの青年だった。
 どう見ても病院関係者ではない。かと言って親類でもない。父と母の友人にこんな人がいたのだろうか。だとしたら何故、今、ここにいるのだろうか――
 様々な考えが桜の脳内で巡った。その時、父が青年の方をふわりと振り返った。
「もしかして……『多岐川 咲翔(たきがわ えみと)』くん?」
聞いたことのない名前だった。だけど青年は、おずおずと頷いた。
「はい。多岐川です。その……本当に申し訳ありません……!」
咲翔と呼ばれた青年は、そう言うなり、いきなり頭を下げた。
桜には、何を謝っているのかすら、わからなかった。だが父は静かに首を横に振り、咲翔の肩を優しくぽんと叩くのだった。
「大変だったね。警察の聴取は?」
「……終わりました。その後の……死体検案は病院でするっていうので……」
「着いててくれたんだね。ありがとう」
 父の言っていることが、桜には理解できなかった。この人は誰なのか。どうして知り合いのように接しているのか。どうして、警察だの病院だの、色々な事情を知っている風なのか。
 桜が疑惑の目を向けると、父が振り返って説明してくれる。
「……病院以外の場所で人が亡くなったら、警察に聴取を受けるんだよ。事件じゃないって証明してもらうんだ。よっぽどおかしな状態じゃない限り、すぐに終わるけどね」
「じゃあ……この人が聴取を受けたってことは……?」
 母が亡くなった時、側にいたということだろうか。ますます疑念を抱いてしまうのだが、父には、彼を疑う様子はまったくなかった。
「ホテルの方は?」
「チェックアウトしました。荷物はここに……」
「そうかい。ありがとう。じゃあ次は、うちの奥さんを家に帰してあげないとね。葬儀社に連絡するから、一緒に家まで来てくれるかい?」
 そう言われて、咲翔は戸惑っていた。チラリと桜を窺い見たり、俯いたり、視線を彷徨わせたりしている。
「うちの奥さんは、きっと来てほしいと思っているよ。いいかな?」
「は……はい」
 父の優しい声に、咲翔は恐る恐るといった様子で頷いていた。
「な、なんで? なんでその人も? その人は誰なの⁉」
 問いただそうとする桜に、父は首を横に振った。後で説明するから、と優しく諭して。
 それ以上、言い募ることはできなくなったが、それでも桜は納得がいかない。
 父がこの青年にこんなにも優しく接する理由も、一緒に帰らないといけない理由も、全部。
 腹の底から不審感や憤りがマグマのように湧き起こる。噴火しそうな気持ちがようやく一旦鎮まるのは、医師の説明があるからと呼ばれた時だった。


 母は、深夜にホテルで倒れて、そのまま亡くなった。くも膜下出血だと、医師は告げた。苦しんだ様子がなかったことから、部屋で意識障害を起こして、そのまま眠るように……ということだろうと。
「……苦しんだんじゃないなら、せめてもの救いだ」
 父はそう言っていた。桜も、そう思う以外できなかった。そう思っておかなければ、父の隣に座っている咲翔に、尖った視線を向けてしまいそうだった。
 カンファレンスルームには、医師が二人と親族側が三人。親族として座っているのは父と桜と、咲翔だ。その事実にも、桜は不服だった。
 だが咲翔は、父よりも桜よりも青ざめて、今にも倒れそうな顔をしていた。そんな顔を見てしまえば、糾弾することなんてできるはずもない。桜はまた、ぐっと堪えた。
 正直なところ、悲しんだり怒ったりする暇もなかった。
 病院にいる間に葬儀社に連絡して、母の遺体を自宅まで搬送してもらう必要があった。その後の葬儀などの段取りも、親類や友人への連絡も……考え出したら次から次へと用事が生まれるのだった。
「レンタカーの精算を任せてもいいかな、咲翔くん?」
「は、はい」
 咲翔は病院に来る際、レンタカーで来たそうだ。母が借りていた、旅先での『足』だ。
 父は葬儀社の車に乗らなければならないし、桜もそれに同行する予定だから、妥当な役割分担だと言える。
 だが桜にとって、病院に運ばれる前の箱根での最後の『精算』を、見ず知らずの咲翔に頼もうとしているというのが、なんとも違和感を禁じ得ない。
「お金は……これで足りるかな? それが終わったら、東京の家に来てくれるかい? 通夜と葬儀があるから」
「……は?」
 父の言葉が予想外だったようで、咲翔はぽかんと口を開けていた。もちろん桜も驚いたが、父に視線で黙っておくよう言われた。
「あの……僕が出ていいんですか?」
「え? 出ないの? 忙しい?」
「いえ……行きます」
 おずおずと頷く咲翔に、父は「頼んだよ」と人懐こい笑みを向けた。桜は、これ以上棘のある視線を向けないように、咲翔から顔を背けたのだった。
 停めているレンタカーへ向かう咲翔を見送ると、父と桜は葬儀社の迎えを待った。ようやく、聞ける時が来たのだ。
「あの人、誰? なんでお母さんの財布を、あの人に任せるの?」
「……持ち逃げするんじゃないかって?」
 こんな疑いを持つことは良くないと自覚している。だから桜は、小さくうなずいた。すると父は朗らかに笑って「大丈夫」と言う。
「あの子は、お母さんの信頼を裏切るようなことはしないよ」
「信頼? お母さんの?」
 尋ねる桜に、父は深く頷いた。
「あの子は……咲翔くんは、お母さんの旅の相棒だったんだから」


 箱根から東京の自宅まで約一時間半。葬儀社の車に揺られて、ようやく戻って来た。
 ほんの半日ほど家を離れていた桜がそう感じるのだ。母は、どれほど安心するだろう。
 だけど母の晴天のような声は聞こえない。
 リビングには母が旅先から送ってきたお土産の品々が飾ってある。それらを端にどけて、父と葬儀社の人間でリビングに布団を敷き、葬儀社の用意した枕飾りを並べる。その中心に、目を閉じたままの母が横たえた。
 今日は自宅で過ごし、明日、通夜のために葬儀場まで運ぶらしい。簡単な段取りを話し合うと葬儀社の人間は引き上げ、父はコンビニに夕飯を買いに出た。
 家の中には桜と眠る母の二人だけ。ようやく、母が帰ってきた。二人で色々話せる。そのはずなのに、沈黙ばかりが桜に重くのしかかる。
 今は真夏で、日が落ちても頬を汗が伝う。父も桜も汗ばんでいた中、母だけが真っ白で涼やかな面持ちのまま眠っていた。
「お母さん、帰ってきたよ……おかえり」
 桜は母にそう告げる。だけど「ただいま」と言う陽気な声は返ってこない。
 ほんの少し声をかけたら、良い香りがしたら、くすぐったら……すぐにでも目を開けて笑い声を立ててくれるに違いない。そう思わずにいられない。
 だけど母が声を上げることはない。これから先も、ずっと。
「なんで、こんなことに……」
 今夜は熱帯夜だというのに、リビングは冷え切っている。冷房をつけて、ドライアイスを大量に置いているからだ。『遺体の安置』のために。
「……お母さん、寒がりだったのにね」
 いつも冷房の温度のことで諍いになっていたことを思い出す。真夏にこんなに室温を低くしていたら、きっと震え出す。
「なんで、こんなことになってるの……」
 唇を噛む。どうにか嗚咽は堪えたけれど、瞳がじんわり熱を持ち、潤み始めた。ダメだ、耐えられない――そう思った時だった。玄関が開く音がした。
「ただいま、桜」
 父の声だ。それに加えてガサガサと音がする。夕飯だけではなく、色々と買い込んできたんだろう。荷物を受け取りに行こうと、潤む両目を拭って立ち上がる。すると、父の他にもう一人分、足音が聞こえてきた。
「ただいま。咲翔くんと合流できたよ」
「お、お邪魔します……」
 遠慮の塊のような、か細い声だった。
 桜は「どうも」とだけ言って、リビングに戻った。
(なんで、来るの?)
 そう思わずにいられなかった。父に呼ばれたからだとわかっている。わかっているけど、それでも、会いたくなんてなかった。
 深呼吸をして、腹の底から湧き起こってくる苛立ちを抑える。すると、また父の声が聞こえた。
「おーい、雑巾か何かないかな? スーツケースの足、拭きたいんだけど」
 はたと気付いた。そうだった。咲翔は、母の旅先での精算をすべて引き受けて、その上わざわざ箱根から東京まで来てくれたのだ。
(ちゃんとお迎えしないと……)
 強ばる表情をどうにか和らげて、桜は雑巾を持って玄関に向かった。


 ピーッと、電子レンジが甲高い音を鳴らした。買ってきたお弁当が温まったようだ。父の分のお弁当だ。
 テーブルには咲翔のおにぎり一つと桜のパスタ、それに人数分の麦茶が並べられている。そこに父ののり弁当が加わって、食卓は完成した。
「待たせてごめんね。じゃあ、食べようか」
 父が手を合わせるのに倣って、桜も手を合わせる。遅れて咲翔も手を合わせ、三人で「いただきます」と言い合った。
 三人でそう言うのは、久しぶりだ。だけど桜の思っていた『三人』ではない。それもまた不服だった。
 だけどその思いを口にすることは憚られて、仕方なく、桜はただ無心にパスタをくるくる巻き取っていた。
「咲翔くん、それで足りるのかい?」
 お弁当の磯辺揚げを豪快にかじると、父がそう尋ねた。父の正面に座った咲翔は、手元にあった鮭おにぎり一つすら、手を着けようとしていない。外側のフィルムを剥がそうかどうしようかと、もたついている。
「大丈夫です。食欲なくて……すみません」
「謝ることないよ。無理して食べなくていいけど、お腹が空いてたら大事な時に倒れるよ」
「はぁ……」
「明日も働いてもらわなきゃいけないし、エネルギーは補充しといてよ」
 こき使うからね、と軽い口調で父は言う。言われた咲翔は、ほんの少しだけ表情を和らげていた。そして、ようやくおにぎりのフィルムを剥がし始めた。咲翔がぱくっとかじりついたのを見て、父は笑ってもう一口、磯辺揚げにかじりついたのだった。
「咲翔くんは、どこ出身?」
「……大阪です」
「ああ、やっぱり。なんとなく関西の人の話し方だと思った。うちの奥さんとは、どこから一緒に?」
「……沖縄からです」
「最初からか! 大丈夫? けっこう振り回されたんじゃない? あの人、楽しくなると周りが見えなくなるから」
「そんなことは……」
 きっと、振り回されてたのだろう。咲翔の浮かべた苦笑いが、そう語っている。
 おにぎりをかじりながら、咲翔は周囲をキョロキョロ見回していた。父と視線を合わせまいとしているようだ。そして、壁際の一点に注目していた。
「あの写真……なんですか?」
 父の質問攻めから逃れるためだろう。はっきりと話題を変えた。
 咲翔が指した写真を、父は手渡した。母と父と桜の三人で映っている。母が真ん中で、賞状のようなものを持って笑っている。
「これはねぇ、記念写真だよ。宝くじに当たった時の」
「宝くじ……」
 そう呟く咲翔の顔を見て、桜ははっと息を呑んだ。
「お、お父さん! それ言っちゃダメなんじゃ……!」
「なんで? 我が家の今年一番のお祝い事じゃないか。母さんが宝くじの一等に当選したって」
 桜が止めるのも聞かず、父はペラペラと全部喋ってしまう……。
 高額当選そのものは事実だった。数ヶ月前、母が急に歓喜と驚愕の混ざったとんでもない叫び声を上げていた様子を、桜はよく覚えている。
 震えながら何度も一緒に番号を確認した。こんな金額を目にしたら気絶するかもしれないと言うので、結局、家族三人で銀行に行ったのだった。その時に高額当選証明書を発行してもらい。この写真を撮った。
 間違いなく大金を手にしたと、今、見ず知らずの青年に公言してしまったのだ。
 悪いことではないけれど、当選してからというもの、投資や寄付などの勧誘が激増し、辟易していたものだった。大金の噂を耳にすると、誰でも目の色が変わるのだと身を以て知ったところだった。
 まして、噂ではなく目の前の人間が大金を持っていると知れば、この青年の目の色がどのように変わるか……桜は戦々恐々としていた。
 だが咲翔から返ってきた声は、想像とは違った。
「はい。それは知ってます。そう、言うてはったので」
「……え、そうなんですか」
「はい」
 咲翔は驚いた様子もなく、父に写真を返した。
「そうか、知ってたか」
「はい。家族三人で仲良く分けたって言うてはりました。で、自分の分を使って、今まで行ってみたかった旅行に来たって」
「そうそう。『旅に出る!』て宣言してたんだよ」
 父の笑い声に、咲翔が笑みを零した。そのまま視線を移して、また壁際に飾っていたものに目を留めた。
「ああ、あれ……シーサーですね」
 ふわりと、咲翔の目尻が下がった。父もまた、嬉しそうに咲翔の視線の先にあるシーサーの置物を手に取った。
「奥さんが沖縄から送ってきたんだよ。あとほら、このストラップも」
 父が自分のスマートフォンを見せた。桜が着けているものと同じストラップが着いている。父と桜、二人に送られてきたものだ。
「着けてはるんですね。おばちゃん、喜ぶやろなぁ」
 そう言って目元を緩める咲翔を見て、桜はなぜか胸の奥の方で痛みを覚えた。
 だけどそんな桜には気付かず、咲翔は自分のスマートフォンも取り出して見せた。
「僕も同じのん買いました。守り神やから、持ってたらいいことあるって言われて……」
 咲翔は照れくさそうに言った。桜たちが着けているものと同じストラップが、ゆらゆら揺れている。
 桜の頭の中で、何かが音を立てて、弾けた。気付けば、あふれ出た何かが、声に変わっていた。
「なに、それ……」
「え?」
 父と咲翔、二人ともが振り向いた。止めるなら今だとわかっている。だけど、止められなかった。
「『おばちゃん』て、なにそれ……」
「あ……ごめんなさい」
 咲翔は即座に頬を引きつらせて、頭を下げる。だけど、桜の憤りは鎮まらなかった。
「なに、いきなり現れて、うちのお母さんとの仲良しアピールしてるの? ていうか何者? なんでお母さんと一緒にいて、お母さんの話で笑うの⁉」
「それは……」
 咲翔は戸惑い、竦んでいた。自分より年上であろう青年が、桜に怯えている。狼狽える様までが憎らしく思えてならなかった。
「なんで……お父さんでも私でもなくて、こんな知らない人がお母さんと……!」
 自分が上げた金切り声の醜さに、自分でうんざりした。だけど、吐き出さずにはいられなかった。胸の内に溜まった重い感情をどこへぶつければいいのか、わからなかった。
 だけど、誰かがぽんと優しく、桜の肩を叩いた。父だった。
 叱られるだろうと思っていたが、父は、何も言わず首を横に振っていた。穏やかな視線を受け、桜の胸の内がすとんと軽くなっていく。
 ふと咲翔を見ると、死人のような顔色をしていた。桜の言葉のせいだと、わかった。
「ご、ごめんなさい……」
「そんな、ホンマのことなんで……」
 頭を下げる桜に、咲翔もまた下げ返した。お辞儀合戦になりそうなところで、父がぽんと手を叩く。
「そうそう。気になってたんだよ。なんでうちの奥さんと旅することになったのか」
 咲翔は父の言葉に含みを感じたらしく、青ざめた顔を更に青くさせた。
「す、すみません! 決してやましいことはなかったので、あの……!」
「ああ、違うよ。責めてるんじゃなくて、純粋に経緯を聞きたくて」
「……経緯ですか?」
 父は軽快に頷いた。
「いやね、同行者ができたって連絡はもらってたんだけど、名前以外は特に聞いてなかったから、気になっててね。ようやく会えたわけだし、ちゃんと自己紹介しようか」
「自己紹介……」
「僕は『梶 仁史』といいます。君が一緒に旅していた『梶 椿』の夫だよ」
 すらすら話すと、父は桜に視線を向けた。次は桜の番らしい。
「……『梶 桜』です。娘です」
 ぼそぼそとそう言うと、咲翔はぺこりと会釈をした。そして、居住まいを正して椅子から立ち上がった。
「『多岐川 咲翔』です。24歳の無職です。おばちゃ……梶さんの旅行に同行させて頂いておりましたが、やましいことは一切ありません。そりゃあ移動も宿泊も食事も全部、費用を出してもらってましたけど……その分できる限り手助けしようと思っていました」
「うん。最初は運転手として雇ったって聞いたよ?」
「はい。一人旅って聞いてたので……」
 父はつと立ち上がり、窓辺に置いていたシーサーを、テーブルの上に置いた。二対の鋭い眼光が、咲翔を貫こうとしているようだ。
「聞かせてよ。運転手をやることになったきっかけから、一緒にお土産を選んで、その上『おばちゃん』なんて呼ぶようになった思い出を」
 にっこり笑って言う父に、咲翔はたじろいでいた。困ったように桜に視線を向けてくる。
「……お父さんが、聞きたいなら……」
 父がそう言うなら仕方ないと、桜は腹を括った。
 咲翔は二人から『聞かせろ』と言われて、観念したように座った。テーブルには、食べかけのおにぎりがまだ残っている。だけど咲翔は、その存在を忘れているかのように、視線をまっすぐに父の方に向けた。
「おばちゃ……梶さんは……」
「『おばちゃん』でいいよ。たぶん、そう呼ばれたがってる」
 父の訂正に、咲翔は小さく頷いた。
「おばちゃんは……僕を雇うって言ってくれました。だけど、それで助かってたんは、おばちゃんやなくて僕なんです」
「お金に困っていたとか?」
 父がそう言うと、咲翔はしっかりと首を横に振った。
「僕は、あの日からずっと、おばちゃんに救われてたんです」

◇◇◇

 青い。青い。青い。
 真っ青な空間の中で、白や黄色の魚たちがゆらりと優雅に泳ぎ行く。水槽という壁で仕切られた中だというのに、なんて自由に泳ぐのだろう。
(空、飛んでるみたいやなぁ)
 もう、何時間が経っただろうか。
 那覇空港に降り立ってから、はや数時間。勢いで航空チケットをとったはいいものの、身一つで飛行機に飛び乗り、後の事なんてなにも考えていなかった。
 国内線も国際線も飛び交う那覇空港の中はどこも賑やかで、皆、忙しなく歩いていた。家に帰る人、仕事に向かう人、お土産を買う人……それぞれが大きな荷物を抱えて、どこかに向かっている。
 咲翔だけだ。何も持っておらず、どこへも行かない人間は。
 行く宛てなんてない咲翔は、到着口から出てすぐに目についた大きな水槽に引き寄せられた。そこから、ただただ、じっと魚たちの踊るような様を見つめ続けていた。
 なんでも沖縄でも有名な「美ら海水族館」のものなのだとか。青い意匠の大きな水槽の中には小さな珊瑚礁が作られており、その中を熱帯魚がゆらゆら泳いでいる。そんな水槽が、空港入り口近くに、二つもある。
 周囲の人は、荷物も持たず突っ立っているばかりの咲翔を見て怪訝な顔をする。咲翔が着ている服が、上下とネクタイが揃って黒のスーツ……いわゆる喪服であるから、尚更だ。
 だから咲翔は一定時間をおいて、二つの水槽の間を行ったり来たりしていた。それでも、こうも長時間ロビーにいれば怪しまれるだろうが。
 そろそろ居座るのも限界かと思って、もう一つの水槽に移動しようとした、その時だった。
 到着口から、人があふれ出てきた。また、飛行機が到着したのだ。
 出てきた人々は慌てたようにタクシーやバスを求めて歩き去る。
 まだ7月だが、台風が近づいていると予報されていた。咲翔が乗った飛行機も、強風で随分揺れていた。あれから更に強くなるという予報だったから、交通機関が止まるのではないかと危惧している人が多いのだろう。
 中には大きな水槽を見て足を止める人もいたが、それも数分も経たず、いなくなる。人の波がようやく止んだかと思った時、いやに小さな人影が、ぽつんと一つ見えた。よく見ると、人がうずくまって、スーツケースと同じくらいの大きさになっている。立ち上がる気配はない。服装や髪型からして、おそらく女性だ。
 咲翔は、そろりと近づいていった。近づくにつれ、肩が上下しているのが見えた。どうやら呼吸はしているようだ。だが荒い。そして周囲の喧噪がまったく耳に入らないかのように、顔を上げない。
 意を決して、肩をトントンと叩いてみた。
「あの……大丈夫、ですか?」
 その人は、顔を上げなかった。うずくまったまま、籠もった声が聞こえてくる。
「だいじょうぶ……」
 蚊の鳴くような声だ。到底、大丈夫そうに聞こえない。
「どこか具合悪いんですか? 救急車、呼びます?」
「い、いらない……だいじょうぶ……」
 チラリと顔を上げて、その人は言う。目がうつろで、土気色の顔をしている。マズい、と思った咲翔はスマートフォンを取り出して番号を押した。その手を、色をなくした手が、がっしりと掴んだ。
「ほんと、だいじょうぶ……」
「大丈夫とちゃいます。離してください。病院いかな……」
「ひこうき……よった」
「……は?」
 その人は言い終わると、力尽きたように項垂れてしまった。「気持ち悪い」という呻き声が聞こえてくる。
「あ……じゃあ……水、買ってきます」
 なんだか急に気恥ずかしくなった咲翔はスマートフォンをしまい、逃げるようにロビーにあるコンビニへと走ったのだった。


「あああぁ~生きかえった!」
 ごくごくっと、音を鳴らして水を一気飲みして、その人は叫んだ。人の多いロビーに、その人の大声が響き渡る。一気に注目を浴びて、咲翔は萎縮してしまった。
 だけど、そんなことはおかまいなしに、その人はカラッと話しかけてくる。
「ありがとね。ホントに助かったわ」
「はぁ……」
 お礼の声も、大きい。咲翔は元気になった安堵と、大声に対する呆れと、入り交じったため息をついた。
「ごめんね、なんか心配かけちゃって」
「いえ、普通です」
 さっきまでの沈み具合が嘘のように、その人はカラカラと笑っていた。
 話を聞くに、飛行機の揺れが激しいせいで、ひどい乗り物酔いになっていたようだ。どうにか荷物は受け取ったが、そこで力尽きていたところに、咲翔が声をかけた……ということらしい。あの揺れならば、致し方ない……そう思った。
 その人は、年の頃はおそらく咲翔よりもずっと年上……もしかしたら咲翔の母親くらいかもしれない。だけど母の印象とはだいぶ違う。
 目の前のこの人は、太陽のような笑顔で咲翔を見つめている。咲翔は思わず目を逸らし、今度は自分が俯いてしまった。
「お礼に、何かごちそうするよ。時間ある? 行きたいとことか、ある? レンタカー借りてるから、良かったらドライブがてら美味しいとこ探そう」
「ちょ、ちょ……待って下さい」
 今すぐにでも行かんとする勢いだが、咲翔は思わず止めた。
 声音は元気だが、顔色はまだ青白い。それに先ほどまでかいていた汗がまだ引いていないのだ。心配をかけまいと明るく振る舞ってくれているのだろうが、まだ動き回るのは控えてほしい状態だ。
「別に急がんでも……それに、お礼なら結構ですんで」
「なんで? あ、別にナンパじゃないよ。純粋にお礼のつもり」
「水あげただけですから、お礼なんていりません」
「じゃあ水のお礼にジュースでもごちそうさせてよ。空港の二階にカフェとかレストランとかあるし……あ、シークワーサージュースとかあるよ」
 いらないと言ったのが聞こえなかったんだろうか。どうしてそこまでお礼をしたがるのか理解できない。むしろ怖くなってきた。
 どこ行きでもいいからバスかタクシーに飛び乗ってしまおうか……そう考えて外を見る。だが視界に飛び込んできたのは重苦しい曇天。しかも街路樹を見ると、斜めになびいている。かなりの暴風のようだ。
「ほんまに台風が来たか……」
「え、うそ!?」
 その人も、入り口付近を見ている。タクシー乗り場に行列ができていた。咲翔が乗る猶予はなさそうだ。
「うわ、どうしよう。レンタカー予約してたんだけど……」
「送迎車なら、まだいてるみたいですけど?」
 タクシー乗り場の少し先に、行列のできていない乗り場があった。車が停まって、誰かを待っているようだ。レンタカーを予約していた客を乗せるものなのだろうが……。
「あの……運転するんですか? ほんまに?」
 怪訝な表情で、咲翔は尋ねる。この人が今の体調で、この最悪な天候の中で運転したらどうなるか、目に見えていた。
「そうなんだけど……車は予約してるし、ホテルまで行かなきゃだし……」
 その人は困った風に首を傾げていた。そして、チラリと咲翔に視線を向ける。
「な、なんですか?」
 ギクッとして腰を浮かせたが、遅かった。その人は咲翔の腕をがっしり掴み、ニンマリと笑って、尋ねた。
「ねえキミ……免許証、持ってる?」
 


 レンタカー会社での手続きは、案外早く済ませられた。これでレンタルした車の運転手に、咲翔まで追加されてしまった。
 今、この車を運転できるのは咲翔しかいない。だからこそ、横殴りの雨を見て、気分が重くて仕方がないのだった。
「ねえねえ、キミ……」
「すみません、話しかけんといてください。運転ミスります……!」
 車道に出て交差点を曲がるだけでもハンドルを取られそうな強風だった。運転スキルがどれほど高くても、事故が起こりそうだ。まして、同乗者がいる。その責任たるや、計り知れない。
(怖い、怖い、怖い……!)
 ホテルは、レンタカー会社から十分ほどの場所だった。とにかく、そこまでを乗り切ればいい。赤信号の停止でこれほど安心する日が来るとは、思ってもみなかった。
 咲翔は長ーい息を吐き出し、少し力を抜く。その肩を、横からトントンと叩かれる。
「喋っていい?」
 停まっている間なら、ということだろうか。「どうぞ」と言うと、その人は喜々として話し始めた。
「自己紹介、まだだったよね? 私、『梶 椿(かじ つばき)』っていいます。よろしくね」
 咲翔が力なく会釈すると、梶と名乗ったその人は、続けた。
「さっき書いてた名前、なんて読むの? たきがわ……?」
「『えみと』です」
「じゃあ『えみくん』だ」
「え……えみくん⁉」
 そんな可愛らしい呼び名をつけられたのは保育園以来だ。咲翔の戸惑いなどお構いなしに、その人は喋り続ける。
「私のことは好きに呼んでね。『つばきちゃん』でもいいよ」
「……呼べませんよ、そんなん……」
「じゃあ『かじやん』とか?」
「……『梶さん』で、お願いします」
『梶さん』は、しぶしぶ頷く。呼び名と言っても、ホテルに着くまでの間だ。明日以降は彼女が自分で運転するだろうし、自分はほんの三十分以内の代行運転手に過ぎない。
「ところでね、えみくん。今夜どこに泊まるの?」
 思わず、息を呑んだ。質問に、答えられない。どこに泊まるどころか、何をするかも決めていなかったくらいだ。
 言い淀む咲翔に、梶さんは目を瞬かせている。
「もしかして……決まってない?」
 適当にごまかそうと思いつつ、できなかった。気付けば、咲翔は頷いていた。
「ふ~ん、そっかそっか」
 軽い調子でそう言いながら、梶さんはおもむろにスマートフォンを操作した。そして、どこかに電話をかける音がした。
「あ、もしもし? 本日予約してました『梶』です。はい!……あの~突然なんですが、もう一部屋、空きはありませんか? 支払いは一緒でいいので」
「⁉」
 まさか、と思った。だが会話は止まらない。
「はい、はい……ありがとうございます! すみません、ご無理言ってしまいまして……はい、よろしくお願いしまーす」
 通話を終えた梶さんは、くるっと咲翔の方を向く。ミラー越しでしか見えなかったが、とてもニコニコしている。
「予約したよ。私と同じホテルに、もう一部屋」
「……は⁉ いや、宿くらい自分で……」
「だってこの天気だよ? 早いとこ決めないと宿無しになっちゃう。幸い空室があったし」
「でも……」
 どこのホテルかは知らないが、決して安宿ではないだろう。そんな宿泊費まで負担させるのは申し訳ない。
「いいじゃないの。おばちゃんにお世話させてよ。介抱してもらって、運転代行までしてもらって、すっごく感謝してるんだからさ」
 申し訳ないという気持ちもあるが、怪しむ気持ちもある。会ったばかりの人間にこんなにも良くしてくれる人がいるだろうか。善人という言葉では収まらない親切さに思えて、ならないのだった。
 だが雨脚は強くなるばかり。今から宿を探しても見つからないかもしれない。そうなれば台風の中、野宿になってしまう。
(それはさすがに避けたいか……でも、このまま世話になるのは……)
 うんうん唸っていると、クラクションが聞こえた。気付けば、信号は青になっている。
 咲翔は息を呑んで前方に集中し、アクセルを踏み込んだ。
「あ、見えた。あのホテルじゃない?」
 信号を渡れば、すぐホテルの看板が見えた。
 どうやら迷う猶予など、ないようだ……。
 そして諦めてチェックインすると、今度は当然のように、こう言われた。
「晩ご飯は七時ね。ロビーに集合! それまではゆっくりしてね」
 咲翔の部屋は、梶さんの部屋とは階が違った。エレベーターを降りる間際に放り投げるように言われたのだった。渡されたカードキーを見ていると、混乱してくる。
(なんであの人と友達みたいになってるんや? ただ運転代わってあげただけやのに。でもホテルは世話になるし、食事くらいはお付き合いせんと……)
 一緒にいたのは僅かな時間だったが、あの屈託のない笑顔の裏によからぬ企みがあるとは、思えなかった。とはいえ、見知らぬ土地で見知らぬ人を、そうそう簡単に信用するのは恐ろしい。
 あの勢いだと、食事の支払いも持つと言い出しそうだ。きっと咲翔が「それくらいは自分が」と言っても聞かないのだろう。
 ズルズルと甘えてしまってはいけない。そして借りを作ってはいけない。そう、強く念じる。
 カードキーを読み込ませて部屋に入ると、ようやく一息つけた気がした。誰も入ってこない、自分だけの空間ができた。ジャケットを脱ぎ、ネクタイとベルトを外し、ポケットからスマートフォンと財布を出して、靴を脱ぐ。思い切ってベッドに倒れ込むと、布団とマットのスプリングが、柔らかく咲翔の身体を受け止めてくれる。
 こんなに心地よい寝具がこの世に存在したのか、と信じられない気持ちになった。
 部屋はスタンダードな一人部屋で、ベッドはセミダブル。アメニティもルームウェアも揃っていて、身一つで来ても寛げるようになっている。今の咲翔のように、何もなくても、ゆっくり休めるのだ。
「ゆっくり……しても、ええんか」
 誰ともなく、問いかけてみる。答えなんて返ってこない。
 無音の室内とは対称的に、咲翔の頭の中はめまぐるしく今日の出来事を思い返していた。それらは、とても空虚な時間と、理解不能な賑やかな時間とに区別できた。
 ほんの一時間ほどの時間が、今日の思い出の大半を占めていることに気付いた。
「わけわからん人やなぁ、あのおばちゃん……」
 それも、今日まで。明日にはお別れだ。自分は、明日には帰るのだから。
(あれ? なんで帰るんやったっけ? どこへ……?)
 身体が、沈むように重かった。脳がすべて重りになったような感覚だ。何か疑問があったのに、何も考えられない。わからない……。
 咲翔は、瞼の重みに抗えず、そのまま目を閉じた。


 ピンポーン……遠くで、何か音が聞こえる。
 ピンポーン……また聞こえた。もしかして、インターホンかと思った。
 ピンポーン、ピンポーン……今度は連続して鳴らした。そんなに焦っているのだろうか。(ていうか……インターホンが鳴ってるのに、なんで誰も出ぇへんのやろ……?)
 ピンポン、ピンポン、ピンポン、ピンポン、ピンポーン!――と、けたたましい音が鳴った。
 咲翔はようやく、自分の部屋で鳴っているのだと気付いた。
「そうか、ここは家やないのか」
 どうりで聞き慣れない音なわけだ。咲翔は急いで起き上がり、ドアに向かった。
「はい、すんません! います!」
 勢いよくドアを開けると、そこには驚いた顔の梶さんが立っていた。だが、驚いていたのも束の間、すぐにニッコリ笑った。
「良かった! 生きてた」
「……え? そら、死ぬわけないですけど……」
 咲翔がそう呟くと、梶さんは「そっか」と言って、うんうん頷いた。そして、両手に持ったビニール袋をずずいと見せてくるのだった。
「お腹すいてない? 晩ご飯食べよ」
「え? 晩ご飯?」
 そう言われて、はたと腕時計を見た。現在、八時十五分――約束の時間を大幅に過ぎている。
「ごめんなさい! 寝てしもてて……無視したわけじゃ……!」
 即座に頭を下げるが、梶さんは笑って手を振った。
「いいのいいの。疲れたでしょ。運転、めちゃくちゃ緊張してたし」
「いや、でも……」
 チェックインから七時までは時間があったのだから、寝過ごすつもりはなかった。不覚だったと言っても、梶さんはニコニコしている。
「いいから、いいから。入るよ~」
「は? いやいやいや、入らんといて下さい。ここ一人部屋ですよ」
「いいじゃん、ご飯くらい」
 そう言って、梶さんは咲翔を押しのけてズカズカ入っていくのであった……。
 梶さんは入って早々、ベッドに脱ぎ捨てられたジャケットやネクタイを見て、なぜか嬉しそうにしていた。
「いいね。寛いでるね」
「ホテルですし……」
 寝心地が抜群だったことは、なんとなく伏せておいた。
 そうしている間にも、梶さんは備え付けのテーブルに持っていたビニール袋をどさっと置いた。濡れていたのを、持っていたハンカチでしっかりと拭っている。
「それ、どこの店のですか? ホテルの……?」
「ううん。ホテルのレストランはモーニングだけなんだって。これは向かいのコンビニで買ってきたの」
「え? この天気の中ですか?」
 外は、先ほどよりもさらに悪化して暴風雨となっている。警報が出ているかもしれない。屋外に出られるような天気ではなかった。
「大丈夫だって。信号渡ってすぐだし。こんな天気だからお客さんも少なくて、色々買えたし。ほらほら」
 ビニール袋からは次から次へと食べ物が飛び出してくる。どこぞの四次元ポケットのようだ。
「こんなに二人で食べきれませんよ」
「余ったら明日のおやつにでもしたらいいじゃない。どれ食べる?」
「じゃあ……おにぎり」
 そう言っておにぎりを指さすと、梶さんはなぜか不服そうだった。
「他には?」
「いえ、それだけで十分です」
 そう言おうとした、その時だった。ぐうぅぅぅ、と切なげな音が響き渡った。
「ほら」
 ニヤリと、梶さんが笑う。それ見たことか、とばかりに、テーブルの上に広げた品々を指し示す。
「じゃあ……おにぎりもう一つと、肉まんも頂きます」
「どうぞどうぞ、召し上がれ」
 咲翔がおにぎりのフィルムを剥がして食べ始めると、梶さんもおにぎりを手にした。沖縄限定のアグー豚角煮おにぎりだ。
「ん~! 美味しい! 角煮、最高!」
 そう叫ぶと、パクパク食べ進んで、あっという間にぺろりと平らげてしまった。咲翔の三倍くらいの速さだった。唖然とする咲翔を置いて、梶さんは次に食べるものを物色していた。
「ねえ、そういえば聞いてもいい?」
「何ですか?」
 咲翔がようやく一つ食べ終えて、次のおにぎりのフィルムを剥がしていた時だった。梶さんは食べる手を一瞬だけ止めて、咲翔をまっすぐ見つめた。
「えみくんて、お仕事はなにしてるの? 学生さん?」
 一瞬、答えに迷ったものの、咲翔はおにぎりをかじりながら、告げた。
「無職です」
「そうなの? ふーん」
 まさかの返答に咲翔の方が驚いていると、次なる質問が飛んできた。
「気になってたんだけど……関西の人?」
「はい、大阪です」
「大阪かぁ……行ってみたいな」
「はい。いつでも来て下さい。面白いところ、いっぱいありますよ」
「ほんと? えみくん、案内してくれる?」
「……僕は遊ぶところ、あんまり知らへんので……」
 苦笑交じりに言うと、梶さんは残念そうな顔をしていた。だがすぐに、興味津々な顔に戻った。
「じゃあ……年齢は?」
「24歳です」
「趣味は?」
「うーん……時代劇見るのんは好きです」
「お、いいね! あとでテレビつけてみよう。無職って言ってたけど、バイトとかはしてるの?」
「いえ……しいて言うなら、専業主夫になるんでしょうか」
「それ無職じゃないじゃん、立派だよ」
 食べている最中なのに、梶さんはバシバシ背中を叩いてくる。かじりついたばかりの肉まんを落とさないように堪えて、咲翔は恐縮した。
「じゃあ……最後の質問」
「はいはい。なんですか?」
 少しだけ気分が良くなってきていたところで、梶さんはニヤリと笑った。
「明日、予定ある?」
「……え」
 すごく、嫌な予感がした。だが、嘘でも「ある」と即答しなかったことが災いした。
 梶さんは、むふふと不敵な笑みを浮かべて、ずずいと近寄ってくる。
「できれば明日も明後日も明明後日も、おばちゃんの『お手伝い』をお願いしたいなぁ」
 その手には、唐揚げ串が握られている。賄賂のつもりなのだろうか。
 だけど、この状況で断れるほど、咲翔は気を強く持つことは、できないのだった。
「わかり……ました……」
 受け取った唐揚げ串は、とっても美味しかった。

◇◇◇

「――というわけで、なし崩し的に運転手をやることになりまして……」
 ため息と苦笑を交えて、咲翔は語った。話すだけで、どっと疲れたように見える。
「そりゃあ大変だったねぇ。あの人、押しが強いから」
「ええ、本当に……」
 桜には母の強引さが、よーくわかる。思い出しただけでぐったりしてしまっているこの青年が、かなう相手ではなかっただろう。
 父は、咲翔のそんな疲れた様子すら楽しそうに笑って見ていた。母らしいエピソードが聞けて、嬉しかったのだろう。桜もほんの少し、同じ思いを抱いている。
 そして咲翔も、苦笑を浮かべていたものの、ゆっくりと柔らかな面持ちに変わっていった。
「正直びっくりしましたけど……でも、あの時おばちゃんが声かけてくれたおかげで、今があると思います。あのままやったら僕は、どこへも行かれへんままでした」
 シーサーのストラップを優しく撫でながら、咲翔は言う。その言葉の意味が、わかるようでいて、図りかねた。
(そもそも、なんで沖縄にいたのか、わかってないんじゃ……)
 それを尋ねようか、しばし迷った。
 だが、その逡巡は大きな音に吹き飛ばされた。父が手を打った音だ。
「ああ、もうこんな時間だ! 今日はもう休まないとね」
 時計を見ると、十時を指していた。
 咲翔は慌てた様子で立ち上がる。
「すみません、こんな時間までお邪魔して……」
「なに言ってんの。こっちが引き留めたんじゃないか。明日も、よろしくね」 
「……はい」
 明日は通夜で、その翌日は告別式。母との、お別れの日だ。
 認めたくはないが、たぶん母も、咲翔に見送ってほしいと思っていることだろう。
「じゃあ、続きは……葬儀が終わってからにしようか」
「……え、続き?」
 咲翔の素っ頓狂な声が響き渡る。桜も、内心では同じくらい驚いていた。
 だけどそんな二人に構わず、父はにこにこして言う。
「だって今日聞いたのは一日目の話だけだろう。沖縄旅行の話はまだ続きがあるし、他の旅行先での話も聞きたいなぁ……聞かせてくれるかな?」
 どうやら父と母は似たもの夫婦だったらしい。有無を言わさぬ笑顔でずずいと咲翔に迫り、気迫で「はい」と言わせてしまった。
 喜んでいるのは、父だけである。
「いやぁ良かった。続き、楽しみにしてるねぇ。じゃあ、今日は予約しておいたホテルに入ってもらえるかな?」
「……ホテル?」
 桜が驚いて尋ねると、咲翔がばつの悪そうな顔をした。これもまた、押し切られたらしい。
「家に泊めてあげたいけど、まぁ……さすがにねぇ」
 父は桜をちらりと見やる。どうやら、年頃の女の子がいるからということらしい。
「そんなの、気にしてくれなくていいのに」
「気にします。当たり前やないですか」
 咲翔は強い口調で言った。父も、同調して頷いている。なんだか桜一人がワガママを言っているような空気になって、ちょっと不服だ。
「でも、ホテルをとってもらうのは……後でお支払いしますので」
「ああ、いいのいいの。こっちの都合で引き留めてるんだから、これくらいは……」
「でも……」
「高いんじゃないかって? まぁ何泊もすればけっこういくけど、大丈夫」
 父は大袈裟な仕草で、どんと胸を叩いた。
「僕、今、お金持ちだから」
 そう言って、父はまだ遠慮する咲翔をグイグイ押して玄関まで行く。そのまま一緒に出て行ったかと思うと、しばらく経ってから戻って来た。
「タクシーに押し込んできたよ」
「そ、そう……」
 父も母も、いざと言うときのこういう強引さは、呆れる。
「さあさあ、桜もお風呂入りなさい。明日は忙しいよ」
「え、うん」
 父は、桜の背中までぐいぐい押し始めた。
 そこから逃れるのには、随分苦労したものだった……。 

【第二章①】

【第二章②】

【第三章①】

【第三章②】

【第四章①】

【第四章②】

【第四章③】

【第五章①】

【第五章②】

【第六章①】

【第六章②】

【第六章③】

【第六章④】

【第七章①】

【第七章②】

【第七章③】

【エピローグ】

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