【小説】あなたといた道、母が見た空 第六章 ④
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「晩ご飯は、鶴橋で焼き肉や!」
母は、なぜかいきなり、そう宣言した。そうなると行動が速いのも母だ。なにやらスマートフォンを操作している。
「お父さんと澄生も呼んだで。今日は梶さん+多岐川家でパーッと焼いてがっつり食べるで」
咲翔は目を瞬かせるしかできなかった。なぜなら、母の言葉の直後に、スマートフォンからメッセージの着信音が連続して聞こえたからだ。
『了解。今から入れる美味いところ知ってるから予約しとく』
『奈良からのルート探したから送っとく』
父と兄も、速かった。普段はそれぞれの都合でしか動かない家族だったが、団結するとこうも連携できるものなのか。
今急にできたことなのか、それとも元からできていて咲翔だけ知らなかったのか……それは、知りようもない。
(それはええけど……帰りは誰が運転するんやろ?)
一抹の不安を抱えつつ、咲翔は車を走らせた。鶴橋駅前のコインパーキングに駐車して、店に向かう。すると、父と兄は既に店の前で待っていた。
やはり、思わず竦みそうになる。
昨日、一昨日はそれぞれ一人ずつとの対面だった。一人ずつとなら、なんとか会話もできた。だが、母も合わせて全員と向かい合うとなると違う。
(わかってる……俺が思ってたようなこと、この人らは考えてなかったんやって。でも、無意識やからこそ……)
今まで言われてきたことに悪意がなかったからといって、咲翔が抱いてきた恐れや痛みまで帳消しになんて、できない。
だけど、ただ落ち込むだけだった今までとも、違う。
――ごめん、今は……
そう、言うことができた。母も、たぶんそれを聞き届けてくれた。
もう少し時間が必要だと、わかった。それだけで何かが大きく変わった気がした。だから、こう言えた。
「父さん、兄貴、遅なってごめん」
咲翔たちの姿を見つけた父たちは、軽く手を挙げて微笑む。
「ええよ。俺らも今着いたところや」
仕事終わりだからか、二人ともスーツだ。
いつも仕事帰りは難しい顔をしていたものだが、今は二人ともにこやかだ。焼き肉効果か、おばちゃんというお客様がいるからか……。
(でもなぁ……今はこうでも、後でどうなるかわからんもんなぁ……)
両親も兄も、酒飲みである。アルコールが入ることで迷惑をかけたことはないが、かなり陽気になって、落差で周囲を驚かせてきた。その世話をしてきたのは、言わずもがな、咲翔だ。
ちらりと、おばちゃんを振り返る。おばちゃんも、イケる口である。だが酩酊しているところは見たことがない。
果たして、今日はどちらの面倒を見なければいけなくなるのか……焼き肉よりも、そちらが心配になったのだった。そして、ふと気付いた。
(自分で自然と家族の世話焼くもんやって思ってるんやな)
家族が嫌で離れたというのに、因果なものだ。だけど、不思議なことに辟易としているわけではない。この関西を回った三日間、ずっと同じ感覚を覚えていた。
(おれは、家族が嫌で逃げ出したんやなかったか……?)
戸惑いが、頭の中でぐるぐる回る。
(まぁ、こんな悩みも店に入ったら吹っ飛ぶわ。どうせ焼くのに専念せなあかんのやろうし……)
そんなことを考えていた。だが、いざ入ってみると……
「梶さん、咲翔、焼けたで」
「酒……は、咲翔はあかんのやったな。何飲む? 梶さん、お酒いけますか?」
「咲翔、ご飯がほかほかやぞ。肉と一緒に食べてみぃ」
上げ膳据え膳というやつだ。こんな扱いを受けたことがない咲翔は戸惑いを通り越して戦慄していた。
(昔話に出てくる山姥……? いや、出荷前の家畜にめちゃくちゃ優しくなる、アレか……⁉)
一度そんなことを考えてしまうと、すべてが恐ろしくなってくる。咲翔は勧められた肉にも手を着けず、震えるばかりだった。
両親と兄は、口々に咲翔を気遣ってくれるが、その光景があまりにも不慣れすぎた。
気付けば咲翔はすぅっと頭から全身が冷えていく感覚に陥っていた。
「えみくん、大丈夫? 顔色悪くない?」
「大丈夫です……」
心配してくれるおばちゃんには、そう返すものの、家族三人に対しては何も言えない。
(こうなったら、しれっとおばちゃんの横にいとこう……)
そう思った矢先――おばちゃんのスマートフォンが鳴った。
「あ、電話だ。すみません、ちょっと失礼します」
おばちゃんは立ち上がり、スタスタ去って行く。その後ろ姿を視線だけで追っていると、目の前の皿に、何か気配を感じた。見ると、空っぽだった皿に、山盛りの肉が載っていた。
「な、なんでこんなに……?」
「美味いから」
兄が、悪びれず言う。
「そんな気にしてくれんでも……」
「ええから食え」
父の強い口調に、咲翔は思わず竦み、ただ頷いた。三人の視線から逃れるように箸とお皿を持ち、一つ、口に入れる。
「どうや?」
「……美味しい」
おそるおそる答えると、兄は「そうやろ」と破顔した。母を見ると、なぜだか嬉しそうだった。父に至っては無言で頷いている。
(なんなんやろ……?)
そう思ったのが表情に出ていたのだろう。三人とも、困ったように顔を逸らせた。咲翔は黙々と盛られた肉を食べる。
「良かった」
母が、ぽつりと呟いた。
「良かったって、なにが?」
「あんたの『美味しい』が聞けて」
母はなおもニコニコしている。だけど咲翔には、わけがわからない。『美味しい』なんて、家でよく交わされていた言葉だろうに。
その気持ちも伝わってしまったのか、母の表情が苦笑いに変わった。
「いやほら……最近、あんたに作ってもらうことの方が多かったやろ?」
「ああ……まぁ、そうやな」
最近と言っても、ここ一年ほどのことだ。会社を辞めて主夫になれば、必然的に咲翔が家事全般を担っていた。何も考えずに毎日作っていた。だから、思えば咲翔が『美味しい』と言うのは久しぶりなのだ。
「ここ一ヶ月ほどは外食ばっかりやったから、そういう感覚は忘れてたなぁ」
なぜか、兄や父の表情までもが、ピタリと固まったように見えた。
「……旅行先で、どんな料理食べたん?」
母が笑顔を貼り付けて尋ねた。咲翔は不自然さに気付かないフリをして、答えた。
「うーん、色々……沖縄や鹿児島では特に豚が美味しかったで。北海道では寿司も食べたし、ジンギスカンも、ラーメンも美味しかった。仙台では体調悪かったからあんまり重いもんは食べてないけど……ああ、ずんだシェイクは美味しかったな」
「ずんだ? あれ、シェイクになるのん?」
「うん。甘くて飲みやすかったで」
「へぇ……なんや気になるな」
母の表情が和らぎ、そして一歩にじり寄ってきた。どうやら興味が湧いたらしい。
「仙台駅前の店で買えるみたいやで。旅行、行ってみたらええやん。楽しいで」
「……そう、やね」
また、なぜか母の声音が固い。美味しいものの情報が欲しいんじゃなかったんだろうか。疑問に思っていると、その答えを、兄が示してくれた。
「えーと……今のは『旅行に行ってみたら』やなくて『一緒に行きたい』て言ってほしかってん」
「え⁉」
思わず母の顔を見ると、恥ずかしそうに俯いていた。息子とは言え他人の口から言われると、いたたまれないらしい。
「え、でも旅行て……俺と? なんで?」
「『なんで』って……家族で旅行に行きたいて思うのは普通のことやろ」
呆れたように父は言う。だが、咲翔は戸惑いを隠せない。
「普通て……そんな素振り、見たことないけど」
「うん……やっぱりな。そう思ってたやろな」
か細い声が聞こえた。母の声だ。
ともすれば店内の喧噪に飲み込まれてしまいそうな声だった。だが咲翔には、染み入るように、耳に届いた。
「あんたは、私らがずっとあんたのことを邪魔にしてきたって思ってるんやろうけど……そんなこと、ないんよ」
「それは……さっき、ちゃんと聞いた」
「うん。でも実感ないんやろ?」
そう問われて、咲翔は迷った末に小さく頷いた。
「しゃあないな。私らみんな、最近まで自覚もできてなかってんから」
「自覚て、なに?」
「末っ子は可愛いってこと」
「はぁ⁉」
先日、兄に言われた時よりも遙かに大きな声が出てしまった。周囲の席の視線まで集めてしまったが……配慮をしている余裕は、咲翔にはなかった。
「言い訳するとな、ずっと可愛かったんやで。でもだから甘やかしたらあかんと思ったし……」
母が、同意を求めるように父と兄に視線を向けた。父は、厳かに頷く。
「その分、おじいちゃんがベタベタに甘やかしてはったからな。逆に他の者が厳しくせなあかんと思ったんや。お前は特に気が弱かったしな。庇ってばっかりいたら、自分では何もできんようになるて心配したんや」
父は「実際、会社員になって、そうやったやろ」と付け足した。その通りで、反論なんてできなかった。
「お義父さん……おじいちゃんはむしろ、私らに『もっと優しくせぇ』って言うてはったんやけど……おじいちゃんが優しくしてくれた度にどんどんその後ろに隠れるようになってしもたあんたを見てたら、それじゃあかんて思ってなぁ」
「まぁ……あかんようになってた自覚は、ある」
「ああ、違う。そういう話しやなくて……」
母は慌てて、咲翔の言葉を遮ろうとした。そこに更に、兄が被せるように言うのだった。
「まぁそれは良くなかったって、俺ら全員反省したっちゅう話や。そうやなくて、言いたいのは……こう……本来の意味でちゃんとお前を可愛がるには何したらええんかって話で……」
咲翔は思わず眉をひそめた。「なんじゃそりゃ」という声が口を突いて出そうになった。
「いや、だって……『あかん』ばっかり言うてたやろ?……梶さんにも、言われてしもたし」
「なんて?」
「『人間だって植物といっしょで、成長には水をあげることが必要ですよ』って……あと『それを人任せにしちゃダメなんじゃないですか』って。ぐうの音も出んわ」
両親はそれを聞き、苦笑いとともに頷いている。どうやら同じ言葉を言われたらしい。
母は言いづらそうに、でもはっきりと、口にした。
「それでな、色々考えて……思い出してん。咲翔と一緒ご飯食べにいったこと、あんまりなかったって」
「……ああ」
「そやからな、今、ちょっと嬉しいねん。咲翔が一緒にご飯行ってくれて、『美味しい』て言うてくれて」
思わず、手元の皿を見た。そして気付いた。
(必要なんは、これやったんか)
ずっと、考えていた。どうすれば彼らの満足する人間になれるのか。どうすればため息をつかれずに澄むようになるのか。どうすれば、笑って話せるようになるのか。
そのために必要なのは、咲翔が『しっかりする』ことだと思って来た。そして、それができない自分は、彼らと家族である資格がないとすら思った。
でも、違った。
「……あんた、昔はよく熱出してたやろ。外食行こうって言ってた時に限って」
「うん。おじいちゃんが看病してくれて……」
家族はいつも、祖父と咲翔を置いて出かけていた。
その言葉を飲み込んだ咲翔に、父が頭を下げた。
「すまんかったな。会社の家族ぐるみの食事会で、欠席できへんことが何回もあって……おじいちゃんが気を利かせて、澄生だけでも連れて出席してこいて言うてくれてたんや。それで面子が保てるやろって」
「うん……それは一応、聞いてる」
「でも結局、おじいちゃんとお前に甘えてそれを続けてしもた。決してのけ者にしたわけでも、お前を見捨てたわけでもない。それを今までずっと言えんかったこと、ホンマに申し訳ない」
父は、改めて深々と頭を下げた。それに倣うように、母も兄も、深く頭を下げる。
「や、やめてや、そんなこと」
ここが謝罪にふさわしい場ではないことは承知しているのだろう。三人とも、すぐに頭をあげた。そして、まっすぐに咲翔を見つめた。
「今ここで許せとは言わん。でも、一緒にやり直していけたら嬉しいと思てる……どうや?」
「どうやって……」
昼間、母に同じ事を言われたばかりだ。そしてその時は、答えなんて出せなかった。
だいたいこの家族は何もかも唐突すぎるのだ。この三日間、おばちゃんの手引きもあるが、咲翔のあずかり知らぬところですべて進んでいく。それで答えを出せと言う方が無理だろう。
だけど、今、咲翔の胸に去来してるのは恐怖ではないことは確かだ。以前、家族を前にした時とは比べものにならないほどに、心が凪いでいるのがわかる。
以前なら、きっと声を詰まらせていた。
だが今は、言える。
「わからへん……すぐには、言えへん。ただ……」
箸を握る手に力をこめる。そして、湯気の上る肉と、つやつやのご飯を口に入れて、思い切り頬張る。
「これは、めっちゃ美味い。また……食べたい」
そう告げるのは、勇気が要った。一気に言って、口いっぱいにご飯と肉を頬張り、ちらりと三人を窺い見た。すると、三人は一様に目を瞬かせていた。
その視線に耐えられず、咲翔は思わず下を向いてしまった。だが、ふわりと柔らかな声が降ってきた。
「うん……また行こうな。美味しい店、探しとく」
母の声が、震えていた。また泣かせてしまった。
だけどきっと、悲しませたんじゃない。そう思えた。だから……もう一つ、告げる勇気が湧いた。
「その……外食以外でも食べたいもんがあって……知りたいっちゅうか……」
「なに?」
「……お粥……」
咲翔が告げた料理名に、三人ともが首を傾げていた。まさか、言われると思っていなかったらしい。
「作ってくれてたやんな? 熱出した時……母さんが、おじいちゃんに『食べさせたげてください』ってお願いしとった、あの……?」
「え⁉ あんた覚えてるん⁉」
母が驚く様子に、今度は咲翔が驚く。
「覚えてないって思てたん?」
「だって小さかったし、熱出てしんどそうやったし……それに、食べさせたげたんは、お祖父ちゃんやろ?」
「それはまぁ、そうやけど……作ってるところ見てたし、おじいちゃんも毎回言うてくれてたで。『お母さんがお粥作っといてくれたで』って」
咲翔がそう言うのを、母は驚いたり顔を赤くしたり、忙しい様子で聞いていた。
「いや、うそ……あんたは、そういうのん全部おじいちゃんがやってくれてると思てるもんとばかり……」
「そんなわけないやん。ずっと感謝してた。だから、いつか一緒に行きたいて思ってたよ……こんな風に」
そう言うと、また口いっぱいに頬張る。
「……明日、作ったげる。今は、お肉ぎょうさん食べよか」
そう言って、母も大きな口で頬張った。父も、兄も、同じように大口でご飯と肉を掻き込んだ。
誰も、口の中がいっぱいで、何も言えなかった。だけど思わず笑みがこぼれていた。お互いが『美味しい』を顔一杯に溢れさせているのが、わかった。
それだけで、胸の内がぽかぽかと温かくなって、そして羽のように軽くなった。
四人で無言のままもぐもぐ食べていると、ようやくパタパタと足音が聞こえたのだった。
「すみません、失礼しました~あら、みんな美味しそうな顔!」
ようやく戻って来たおばちゃんは、咲翔たち四人を見るなり嬉しそうにそう言った。
あまり驚いた風に見えない。もしかして、咲翔たちの様子を見ていたのだろうか。浮かんでいる笑みがどことなく芝居がかっているように見えたのは、そういう理由かと、咲翔は考えた。
(この機会も、おばちゃんがくれたんやな……)
すべては、おばちゃんによるお膳立てのおかげというわけか。
口の中も胸の内もいっぱいで何も言えなかったが、四人で思わず目を見交わした。そして、一番最初に飲み込めた咲翔が、代表して言うのだった。
「はい、美味しいです!」
咲翔が満面の笑みでそう言うと、おばちゃんは春の日差しのように柔らかな、優しい笑みを浮かべた。
******
目覚めると、見慣れない天井が見えた。いや、逆に見慣れた気もする。そんなあべこべなことを考えた理由は、その天井を見るのが久しぶりだったからだと、すぐにわかった。
「……あ、ここ、自分の部屋か」
親戚からのお下がりのデスク、使い古して固くなった布団、ガラガラの押し入れ……ほんのひと月前まで生活していた部屋だ。といっても、一ヶ月もの間離れていたので、なんだか他人の部屋のようだ。
ここひと月はホテル暮らしだったため、ふかふかの布団に慣れてしまっていた。懐かしの我が家も、いいことばかりではない……。
それでも、なんだか肩の力が抜けているのがわかる。やはり『家』は落ち着くのだと、よくわかった。
そして、自分もここに戻りたかったのだと、昨日気付いた。
昨夜、焼き肉店を出た咲翔に、そうするよう勧めたのは、おばちゃんだった。
(良かったんかな……いくら父さんや兄貴が泥酔して運転できる人がおらんかったからって、おばちゃんから離れて……?)
おばちゃんは酔っていなかったので、ホテルまでの道のりにそれほど心配はなかった。だからと言って、咲翔が今、家に戻るのはなにか不安だった。何が、とは言えないのだけれど。
結局、おばちゃんに頼まれる形で家族を家まで連れ帰り、そのまま家に泊まることになったのだった。
(家に『泊まる』て、変な言い方やな)
ふわりと笑いがこみ上げ、立ち上がる。時計を見れば、午前7時。朝食の時間だ。
(家にいるんやったら、皆の朝ご飯、作らんとな)
そう思った。義務感に駆られたからでも、怯えたわけでもない。なんだか今日は、自分からご飯を作ってあげたい気分なのだった。
部屋に置いたままのシャツとズボンに着替える。埃まみれになっているかと思いきや、部屋は出て行った時と何も変わらないきれいなままだった。
家族が、咲翔を受け入れてくれていたのだと、実感できた。だけど実感できたのは、それだけが理由ではない。
台所に向かうと、そこには先客がいた。
「おはよう」
ややぎこちなく、でもにこやかに、母は言った。咲翔も、ぎこちなく返す。
「お、おはよう……」
挨拶が終わると、母はコンロに向き直った。目玉焼きを焼いているようだ。
「母さん、座っといて。あとは俺がやるから」
「ええから座っとき」
フライパンを受け取ろうとして、逆に手をピシャッとはたかれた。驚きのあまり声が出ない咲翔を、母はまた振り返った。
「あんたは当分、お休み。何もせんと、ゆっくりしとき」
「……え? 何もせんていうのはちょっと……」
「ええから! あんた、私のお粥食べたいって言うてたやろ。朝からたらふく食べさしたるから、座って待っといて」
見ると、コンロのもう一つには土鍋がかかって、コトコト鳴っている。昨日言ったことを、すぐさま実行してくれているらしい。おそらく父も兄も二日酔いだろうし、丁度良かったのだろう。
咲翔はしばし迷ったが、テーブルにつくことにした。そして、母に見えないように首をひねった。
(それにしても……お粥に目玉焼きて、変な取り合わせやな)
そして、ふと思う。
(おばちゃんは今、何食べてはるかな)
おばちゃんは連泊しているホテルに戻った。今朝の朝食は、昨日までと同じビュッフェだろう。焼き魚が美味しかったことを覚えている。
ちらりと時計を見る。現在、7時15分。ホテルの朝食は7時~9時。おばちゃんはいつも、ちょっとゆっくり起きてくるので、7時30分くらいに食べ始めるだろうか。食べて、のんびりまったりして、だいたい8時30分。そこから荷物を整理して出かける。9時30分くらいには出発か。
(ここから梅田のホテルまで、電車と徒歩やと……1時間30分てところか。ほな8時には家出よか)
スマートフォンでだいたいのルートと時間を割り出す。そこに、二人分の影が差した。
「おはよう、咲翔」
「おはよう……」
「……おはよう。父さん、兄貴」
寝ぼけ眼の二人は、それぞれ自分の席につく。かと思うと、急に何かに気付いたように立ち上がった。
キッチンに立つ母の手伝いをしに行ったのだ。
(ほんまに、変わったんやな)
父も母も兄も、変わった。たぶん咲翔も、何かが変われたと思う。
ふと、思い立っておばちゃんに電話をかけてみた。もしかしたら、まだ起きていないかもしれない。朝食を食いっぱぐれることがないようにモーニングコールをしてあげないと。そう思ったのだが、聞こえてくるのはコール音ばかり。
「……出ぇへん」
一度切って、再度かけ直してみようとした。その時、音じゃなく声がした。
「えみくん? どした?」
やはり、この声の方が最近は聞き慣れている。声が聞こえた瞬間、全身を安心感が包み込んだ。
「……いえ、何でもないです。ちゃんと起きて、朝食行ってはるかなて思って」
「朝食?……ああ、はいはい。大丈夫だよ。ちゃんと食べる」
「……まさかと思いますけど、今起きたんちゃいますよね?」
電話の向こうから、しばし沈黙が流れてくる。これは……図星のようだ。
「大丈夫。朝食ビュッフェは9時までだから。チェックアウトは10時だし」
「……遅刻はダメですよ」
「はーい」
軽いやりとりを交わすと、どちらともなく電話は切れた。とりあえず、おばちゃんはこれから朝食にありつけるだろう。さて自分も……とリビングに戻ろうとすると、なにやら視線を感じた。
「咲翔、やっぱり行ってまうんか?」
そう尋ねたのは、父だった。心なしか、寂しそうな響きだ。そんな声で尋ねられたら、答えづらい。
代わりに母が、一歩進み出た。
「そら、何にせよ、行かへんわけにはいかんやろ」
「あ……うん。何にせよ、な」
「私らも、行こうか?」
母は、このまま旅に出るとは言おうとしない。もう一つの可能性を、残してくれている。
咲翔は、家に残ってもいいのだ。もう『必要ない人間』ではないと、言ってもらえたのだから。その場合でも、やはりお世話になったおばちゃんに挨拶はしなければいけないだろう。
母はきっと、その可能性のことを言っている。
だから咲翔は、ゆっくりと首を横に振った。
「いや、いい。俺一人で行く」
母たちの表情が、僅かに沈んだ。だけど、それを表に出すまいとしているのも、わかる。
「まだ、仕事は終わってへんから……終わったら、帰るわ」
父が、何も言わずにただ頷いた。そして肩をポンと叩く。兄も、なんだか笑っている。今までとは違う笑みだ。
母は、涙を堪えながらも笑顔を作っていた。そして、くるりと踵を返す。
「ほな、急いで朝ご飯食べな。私らは仕事休みやけど、咲翔は『出勤』やねんから」
母はパタパタと駆け足で準備を始める。父も兄も、台所から皿を持ってリビングと往復を始めた。
咲翔もまた、それについて皿を並べた。
咲翔は、ちゃんと『家族』の一員なのだから。
******
朝食を終えると、咲翔は家を出た。ついでだ、と言って兄が車でホテルまで送ってくれた。おかげで想定したよりも早い時間にロビーに辿りつけた。だが、そこにいるはずの人物がいない。
「……あれ?」
時計は9時15分を指している。いつもおばちゃんが出発する時間より少し早い。
怪訝に思い、電話をかけてみた。
「……出ぇへん」
起きてはいるはずだ。なのに、なぜ?
待っていれば来るかもしれないが、咲翔はフロントに向かった。念のためだ。
同じく宿泊予定者である自分の名を出せば、まだ中にいるかどうかぐらいはわかるはず。そう思ったのだが……
「梶様は既にチェックアウトなさいました」
「え……⁉」
一瞬、何を言われているのかわからなかった。戸惑い、視線を彷徨わせていると、フロントクラークの男性は尋ねてきた。
「失礼ですが、『多岐川』様でしたね?」
「はい」
「ではお預かりしているものがございます。少々お待ちくださいませ」
そう言うと、どこかに内線電話をかけた。数分経つと、別の係の男性が大きな荷物を持って現れた。旅の間持っていた……沖縄で揃えてもらった、咲翔の荷物だ。
目を瞬かせていると、フロントクラークは更にもう一つ、封筒を差し出した。
「こちらも、お渡しするようにと申しつかっております」
封筒を開けると、出てきたのは便せんが一枚。書かれていた言葉も、ひどく簡素だった。
『長い間、ありがとう! とっても楽しかったよ。元気でね』
たった、それだけ。
(なんで……⁉)
どうしておばちゃんは、こんなことを? それよりも、これからいったい、どこへ行くのか? 咲翔が家に帰るなら、おばちゃんも帰るのだろうか? 何のことわりもなしに? 自分は旅の仲間じゃなかったのか?
様々な考えが頭の中を巡る。脳が焼き切れそうなほどに熱い。
もう、自分は必要ないのだろうか。
家族に対して抱いていた不安を、今度はおばちゃんに抱くことになるとは。そう思うと、胸の奥が重く苦しく、息ができない。
(……いや、違う。父さんたちにそう思ってた頃とは、違うんや)
あの頃の自分を、おばちゃんが変えてくれた。今の咲翔は、ただ怯えて縮こまるだけじゃない。違う選択をすることが、できる。
咲翔が顔を上げると、フロントクラークと目が合った。
「あの……その『梶さん』、タクシー呼ぶとかしてませんか? もしくは、どっか駅への行き方とか、聞きませんでした?」
「……そういったことは、お答えできかねます」
フロントクラークは丁寧に辞した。だが、咲翔は引き下がらなかった。
ここで引けば、手がかりがなくなる。
「お願いします。教えてください。僕……僕はまだ……」
熱く滾る頭で、必死に考える。何でもいいから、言わねば。
「僕は……まだあの人から給料もらってないんです……!」
焼き切れそうな脳を更にフル回転させて、咲翔は、人生で数少ない真っ赤な嘘をついた。
******
おばちゃんは、いつ、この別れを決めたのだろうか。昨日か、一昨日か、それとも仙台を発つ頃には、もう……?
どの考えも、咲翔の胸を抉っていく。だが、どうにか考えを巡らせ、おそらくは昨日か今朝だと結論づける。
仙台を発つ頃は、おそらく本当に『うちの子になってもいい』と思ってくれていたのだと思う。
父や兄と観光した頃も、おそらく同じだったのではないだろうか。なにせ兄に『大事にしないなら、もらっちゃいますよ』なんて言ったくらいだ。
だから、おそらくは昨日――咲翔が家族との溝をどうにか少し、埋めることができたからだ。だからきっと、自分がいては邪魔をしてしまうと思ったに違いない。
いつもと変わらず明るく振る舞っていたおばちゃんだったが、咲翔にはいつもと違って見えた。母や父を眩げに見つめ、そろりと咲翔たち家族から距離をとっていた。ほんの少しずつ、だけれども。
(もしくは、おばちゃんの方に何かあったか……!)
ホテルのフロントで、咲翔が鬼気迫る空気を纏っておばちゃんの行く先について尋ねたところ、しぶしぶ、こっそり教えてくれたのだ。
『タクシー 新大阪駅』というメモ書きを。
咲翔はメモを握って車に戻り、兄に新大阪駅まで行くよう頼んだ。兄は、何も言わずに走ってくれた。あと、持ち金をすべて餞別としてくれた。
おばちゃんがホテルを発ったのは9時頃とのことだった。今は9時30分。急いで新幹線に飛び乗ったなら、もう旅立っていてもおかしくはない。
だが、そうはならないと確信していた。
発車直前に買った切符だと、いい席がとれない可能性が高い。おばちゃんはゆったり旅したい心情の人だ。きっと一本か二本見送るはず。そうなると20分は余裕ができるはず。そんな時間ができたら、おばちゃんが寄りそうなところといえば……
「おばちゃん、見つけた……!」
新大阪駅改札前の、お土産物売り場……そこしかないと確信していた。そして、その通りだった。
おばちゃんはゆったりと大阪土産のお菓子の箱を吟味していた。カゴには車内で食べるのであろう駅弁が入っている。
「あ~ははは、見つかっちゃった」
息を切らせる咲翔に、おばちゃんは誤魔化すような笑みを見せたが、すぐに止めた。咲翔の視線が、鋭く尖っていることに気付いたのだろう。
おばちゃんは手にしていた箱を置いて、ぺこりと頭を下げた。
「ごめんね」
「……ホンマですよ」
視線と同じくらい尖った声になってしまった。だけど、それくらい怒っているんだと、わかってほしかった。
だけどいざ目の前にすると、言いたかったことのほとんどが吹き飛んでいた。今言いたいのは、いくつかの質問だけだ。
「それで、これからどこへ行かはるんですか?」
「え? えーと……」
「……家に帰らはるんですか?」
おばちゃんは少しだけ迷っていたが、小さくかぶりを振った。
「もう、そんな必要ないんとちゃうんですか? おばちゃんの旅は、ホンマは沖縄で充分やったんでしょ?」
「……そうだね」
おばちゃんは、咲翔を放っておけなくてあちこち連れ回してくれた。旅を続けてくれた。その咲翔が帰る場所を見つけたなら、おばちゃんの旅の意味も、もうないはずだ。
おばちゃんは俯きながらも笑みを浮かべた。だけど、そこにはいつもの無邪気さはなかった。悲しみを堪えている笑みだった。
咲翔には、わかる。
「いやぁほんとはね、帰ろうと思ったんだよ。それで家族にもそう言ったんだけど……」
「何かあったんですか?」
「娘が、ね……ちょっとね……だいぶ怒らせちゃったみたい」
おばちゃんは苦笑いとともに呟いた。
「仕方ないね。一ヶ月もほったらかしにしたのは本当なんだし。自業自得だね」
笑ってそう言うおばちゃんに、なんと声をかければいいか、わからなくなった。
すべて自分のせいだからだ。おばちゃんが咲翔のために旅を引き延ばしたせいで、おばちゃんは。家族から長い間離れることになったのだ。
「それは、その……すみません、僕のせいで……」
ぼそぼそと呟くように言うと、バシンと強い手のひらが肩に飛んできた。
おばちゃんは、いつもの快活な笑みを浮かべている。
「なに謝ってるの? ちゃんと手紙に書いたでしょ。『楽しかった』って」
「はぁ……でも……」
「娘はね、家族のことをほっぽって一人で楽しんでた私に腹立ててるの。えみくんが気にすることなんて、少しもないんだからね」
おばちゃんの言葉は、それ以上の言葉を封じるようだった。そんな言い方をされると、咲翔は二の句を告げなくなってしまう。
「大丈夫。夫が間に入ってくれてるから。でも……夫から見ても、ちょっと時間を置いた方がいいんじゃないかって言われちゃってね。参ってたところ」
「参ってたって?」
「帰ろうと思ってたのに、これ以上どこに行けばいいのかなって思って。はぁ……いいところ、ないかなぁ」
「そもそもどこ行きの切符を買ってはったんです?」
「切符? まだ買ってないよ」
「はぁ?」
そこは、予想だにしなかった。適当でも切符くらいは用意した上で買い物しているとばかり思っていた。
「……つまり、行き先はこれから決めるってことですね?」
「そうねぇ」
暢気な声が聞こえてきた。いつもなら、ちょっと頭が痛くなる場面だが……今日は、都合がいい。咲翔はまっすぐおばちゃんに向き直って、告げた。
「ほな、箱根にでも行きますか」
「箱根?」
咲翔は頷く。
「おじいちゃんが行ってみたいって言ってたんです。この機会に、と思って。温泉巡りとか、ええんちゃいます?」
「なるほどねぇ……それで夫から様子を聞いて、タイミングを見計らうっていうのは、アリかもね」
「アリやと思います。ほな、行きますよ」
おばちゃんは、なぜかぎょっと目を剥いた。
「行くって……箱根に? 一緒に? 行くの?」
「当たり前やないですか。僕以外の誰が運転手やるんですか? おばちゃんは絶対に運転禁止ですよ」
「そりゃそうだけど……ご家族とは……?」
上手くいかなかったのか、と窺うような視線だった。咲翔は、安心させるように首を横に振った。
「大丈夫です、おばちゃんのおかげで。そやから、おばちゃんをきちんと家まで送り届けたら、僕も家に帰ります。家族と、そう約束してきました」
「約束して……そっか」
どちらからともなく、頷き合う。今、意思が固まった。
するとおばちゃんは、お菓子の箱から遠ざかり、お弁当の売り場に戻って行った。
「おばちゃん、何買うんですか? お昼はその弁当でしょ?」
「えみくんの分、買わなきゃ。何食べたい?」
「え、えーと……」
それよりまえに切符じゃないだろうかと思うが、こうなったおばちゃんの勢いを止められないことを、咲翔は嫌というほどわかっていた。咲翔は諦めて、売り場に並ぶ弁当を選んだ。
次の旅は、この弁当選びから始まっているのだ。
◇◇◇
桜は、語り続ける咲翔の顔から、目を逸らすことができなかった。
彼自身の心のつかえがとれて、晴れやかになったであろう『いい話』だった。だというのに、咲翔の表情はどんどん暗く重く、どんよりとした雨雲のようだった。
理由は、なんとなくわかる。
父も同じなのだろう。だからか、いつもならニコニコして話しを聞いている父が、今日はなんだか神妙な面持ちでいる。
誰も何も言葉を発せずにいたが、その空気を、父が咳払いで破った。
「……咲翔くん」
「はい」
びくっと震えて、咲翔は答えた。
「改めて聞きたいが……」
「はい……」
咲翔は、ぎゅっと唇を引き結んだ。覚悟を決めたような顔だ。
「きみ、東京にいて大丈夫?」
「……はい?」
何を今更……そう思ったのを、桜は隠しきれなかった。咲翔も似たような考えらしく、ポカンとしている。
「お父さんが引き留めたんでしょ。マンスリーマンションまで借りて」
「そうなんだけど、あの時はけっこう勢いでやっちゃって……咲翔くん、ごめんね」
父がしょんぼりして頭を下げるものだから、咲翔はかえって萎縮していた。
「そ、そんな……! 僕の方がお世話になりっぱなしなんですから、おじさんが謝らはることは何も……」
「本当に? ご家族から何も言われてない?」
「連絡は時々してます。気が済むまで好きにやれって言うてくれてますし」
そんな風に家族のことを話す咲翔の声音は、柔らかなものだった。
(そっか……ほんとに家族と仲直りできたんだ)
それまでの話を聞いて、どこか共感や同情を覚えていた身としては、喜ばしいことだった。だけど、それは咲翔の話だけを聞いていた場合だ。
咲翔の話には、おばちゃん……つまりは桜の母が深く関わっている。
何も言えずにいる桜の代わりに、父がにこやかに戻って言った。
「そうか、そうか。良かった……ご家族も、そう言ってくれるなんてね……なかなか優しいじゃないか」
「はい……初めて知りました」
冗談交じりに咲翔は呟く。父と咲翔、二人分の笑い声が響いても、桜はそこに加われずにいた。
その声を聞いていたら、自分の胸の奥底から何かがこみ上げた。正体のよくわからない、ものすごく重苦しい何かが。
だが桜がその衝動に耐えている間も、父は、話すことをやめないのだった。
「やっぱり、話してみるものなんだねぇ。ご家族も、きっといい機会だったんだろう」
「はい……そう思います。全部、おばちゃんのおかげです」
その瞬間、また、あの感覚を覚えた。頭の中で、何かが音を立てて弾ける感覚。母を箱根まで迎えに行ったあの日と同じように、気付けば、あふれ出た何かが声に変わっていた。
「なに、それ……」
「え?」
父と咲翔、二人ともが振り向いた。二人の顔が強ばっているのが見える。「全部おばちゃんのおかげって……何それ」
咲翔の顔に焦りが滲む。それすらも、今は腹が立つ。
「家族と仲直りできて、良かったね……でもそれがなに? 私たちは、離ればなれのまま終わっちゃったんだけど」
「桜」
父が、強い声音で呼ぶ。止めようとしているのはわかる。自分でもこれ以上は泊まるべきだとわかっている。それでも、もう止められなかった。
「帰る場所ができたっていうなら、もういいでしょ? なんでまた連れて行ったの? それ以上どこかに行く必要なんてなかったじゃない」
「桜、やめなさい」
「お父さんはなんで、いつもこの人ばっかり庇うの? 私たち、この人にお母さんを取られたのに……! この人が言い出さなかったら、お母さんは帰ってきてたかもしれないのに!」
「やめなさい!」
父の怒声が響く。滅多に聞かないような大きな声だ。
思わず固まってしまったが、それでも桜は、湧き出すモノを抑えることができなくなっていた。
「返してよ……」
「桜!」
「家族のところに帰れるようになったんだから、もういいでしょ? 私たちにお母さんを返してよ!」
思いのままに、金切り声を上げてしまった。真正面には、咲翔がいる。初めて会った時のような、罪悪感と悲しみで押しつぶされそうな顔をしている。
わかっている。母はきっと、咲翔のこんな顔を見たら悲しむ。こんな顔をさせないために、あちこち旅して回っていたのだから。
だから、桜たちのもとに帰ってこなかったのだ。そう思うと、桜の胸には更に重くて黒い感情が湧きそうになった。その感情を受け入れそうになった、その時、強い衝撃が桜の両肩に走った。
父が桜を押さえつけて、無理矢理椅子に座らせる。その面持ちは厳しく、まるで般若のようだった。
「やめなさい、桜。そういう気持ちを咲翔くんにぶつけるのは、筋が違うだろう」
「なにが……違うの? だって、この人が……」
「違うんだよ」
父はきっぱりと言い放った。桜の言葉を真っ向から否定したのだった。
「……お母さんに、まだ帰らない方がいいって言ったのは、僕だ」
「お父さんが? な、なんで?」
父は一瞬、黙り込み、何か言葉を飲み込もうとした。だが意を決したように、口を開いた。
「大阪にいた最後の夜……おそらく咲翔くんが実家に戻った日だ。あの時、お母さんは連絡をくれたんだ」
「……いつも電話してたよね」
「そうだよ。それであの時、桜にもお母さんが帰って来るって伝えたよね。そしたら桜は……なんて言った?」
「……あ……!」
なんてことない記憶だと思っていた。だから、忘れていた。
あの日、父は嬉しそうに桜に言った。『お母さん、帰って来るって』と。
だけど桜は、素直に喜べなかった。照れくささもあった。だけどそれ以上に、信じられなかった。沖縄に行ってくると言ったきり、帰ってこようとしない母を。
沖縄での旅を満喫したら帰ってきてくれると思っていたのに、聞いた言葉は『鹿児島にも行ってくる』。それで終わりかと思ったら『北海道にも行ってきます』。さすがにこれ以上はないだろうと思っていたら『仙台にも行くね』だ。
お土産の箱ばかり家に届いて、送り主は依然帰ってこない。
怪我したことは黙っておいた。言えば母は帰ってきただろう。だけどなんだか、怪我をダシにして呼び戻すようで気分が悪い。そう思って何も言わないでいると、母は帰宅を先延ばしにするようにあちこち飛び回った。
呆れて、冷めて、もう期待しないと決めた。
『帰って来る』なんて言葉、信じられなかった。どうせまた、直前で目的地を変更するんだろうと思ったのだ。
だから、言ってしまった。
――別にこの一ヶ月の間、お母さんがいなくても平気だったじゃん。思う存分旅してくればいいよ。もう日本一周してきたら?
それは、何気なく言った言葉だった。
そう言えば、「あ、そう?」と言って旅立つだろうと。帰ってくるかもなんて期待していたのに裏切られるより、幾分か気が楽だ。
そう思って、つい口を突いて出た言葉だった。
「ごめんな。僕はその言葉を、ちゃんと聞いてあげられなくて……お母さんに『桜は拗ねてるみたいだから、帰るタイミングをずらしたら?』なんて言っちゃったんだ。咲翔くんは、困っていたお母さんを助けてくれただけなんだ。全部、お父さんのせいなんだよ」
それが、こんなことになるなんて……。
桜は、そう思った。父も、そう思っているのだろう。そして、咲翔も……。
誰もその言葉を口にできずにいたが、小さく伏せた瞳が、同じ思いを物語っていた。
「咲翔くん、悪いが今日は帰ってもらってもいいかな?」
「はい……」
咲翔は遠慮がちに頷いた。伏し目がちに桜を見やり、頭を下げると、足早に立ち去ったのだった。父が後に続き、桜はその場に留まった。一緒にいたら、また何か言ってしまうかもしれない。それが、今は怖かった。
「わかってるよ……本当は……あの人が悪いんじゃないことくらい、わかってる……でも……!」
母は、自分たちの家族だと信じたかった。
咲翔に取られたままだったと、思いたくない。
その一心で、桜はメッセージアプリを開いた。そこにまだ残っている、母からのメッセージを見る。
それが、最後のよすがであるように、今は思っていた。それ以外、ないのだ。
『頑張れ。絶対、見に行くから』
いつもなら絵文字がいっぱいついてゴテゴテした文を送ってくるのに。それまで送られてきていたメッセージと比較しても、随分と簡素だ。
「……あれ?」
他のメッセージとも比較して、ふと、目に留まった。
メッセージが表示されるフキダシの横にある、小さな文字が。それは送信時刻だ。
普段はそれほど気にしない表記だ。メッセージはあまり見ず、気付いた時にまとめて返信するので、気付かないことの方が多かった。
だから、見落としていた。気付いてはいけないとも、思った。だって気付いてしまえば、色々なものが崩れてしまうかもしれない。
そう思うのだが、一度気付いたことは、もうなかったことになんてできなかった。
「桜、咲翔くんをお見送りしてきたよ……どうした?」
父が怪訝な顔で桜を見る。それは訝るというより、心配が勝っているようだった。
このままだと、父まで傷つけるかもしれない。そう思うのに、桜の目は、そこに釘付けになってしまっていた。
父は、桜の手元のスマートフォンを覗き込んだ。
「……お母さんとのメッセージ? どうかしたのかい?」
「お父さん……お母さんて、確か……夜中に、その……」
「ああ、そうだね。眠るように……とお医者さんは言っていたね」
確信を告げた父に、桜はスマートフォンを見せた。改めて、画面をじっと見つめた父は、桜と同じところで目を留めた。
「これは……」
母の最期のメッセージ……その送信時刻は、午前8時30分。
桜は、カラカラに干上がったような喉で、声を紡ぎ出した。
「なんで……こんな時間に送ったの? お母さんは、この時、もう……」
震える桜の手から、スマートフォンがするりと滑り落ちる。ゴトンと、重たい音が床に響いた。それでも桜は、それ以上動けなかった。
「これを送ったのは、誰……? お母さんじゃないの?」
「桜……!」
父が、桜を抱きすくめていた。優しく、穏やかに背中を撫でてくれる。だけど、桜はその言葉を言わずにいられなかった。
口にしてしまってはいけない言葉を、自ら――。
「お母さん……お母さんは、帰りたかったんじゃ、ないの……?」
ああ、言ってしまった。
言葉と同時に、堰を切ったように涙が溢れる。そんな桜を、桜自身がぼんやりと他人事のように胸の内から見つめていた。ただただ、じっと、静かに……。
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