【小説】あなたといた道、母が見た空 第七章 ①
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桜の、長い長い夏休みは終わった。部活動じゃない登校は久しぶりだ。その新学期の始まりを彩ったのは――
「梶さん、お母さん、亡くなったの? その……気を落とさないでね」
そんな、『お悔やみの言葉』だった。
他にもある。『梶さん、かわいそう』『優しそうなおばさんだったよね』等など……。
職員室の先生方に始まり、同じクラスの人たち、顔なじみの人たちに至るまで、いたたまれない面持ちでやって来ては、お決まりの言葉をかける。
登校してから体育館に集まるまでの短い間に、実にたくさんの人に言われたものだ。だけど……誰に眉をハの字にして言われても、桜の心は動かなかった。
会ったことのない桜の母に、いったい何の感慨を抱いているのか、はじめは分からなかった。
そして気付いた。
彼らの言葉は、ほとんど似通っているということに。いわゆる、定型句というやつだ。
(お葬式の時と同じだ)
それで合点がいった。何を言われても妙に白けた気分でいたのは。そして、白けたとしても、罪悪感を持たなくて良いんだとわかった。
ならばと、定型句には定型句で返すことにしたのだった。
「うん、ありがとう……なんとか頑張るよ」
そう言えば、『悲しみに耐える健気な娘』として満足してもらえるらしい。
お悔やみの言葉そのものはありがたいし、きっと彼らだって心配の気持ちも嘘ではないはずだ。お礼を言うのはおかしくないはず……そう、納得することにした。
それでも、もやもやするのは仕方がない。
自分の母親の死が、こんな形で形骸化されるのは気分がいいものじゃない。
だからといって、じゃあ、どう言ってほしいのか? それも、わからない。
悪し様に言ってほしいはずはない。でも知らない人から『いい人だったのに』『さぞ悲しいだろう』と知った風に言われるのも嫌だ。
よくわかっていない人から、『悲しいに違いない』『そういうものだろう』と決められるのも、嫌だ。
『亡くなった』と、他の人の口から聞くのが、嫌だ。
『嫌だ』が積み重なっていく。それもまた、嫌だ。
耐えきれず、大きめのため息を吐き出す。すると、その声に重なるように先生の声がした。
「じゃあ今日は以上! また明日な」
待ち望んでいた号令だ。
起立して先生に礼をするや、桜はかばんを掴んで駆けだした。一刻も早く、この場から去りたい一心だった。
幸い、今日は顧問の先生の都合で、部活は自主練習となっていた。何人かは基礎練習のために集まるようだったが、桜は思い切って休むことにした。
仁美にそうメールを送り、まっすぐに玄関に向かった。
******
午前中で終わり、部活もないとなると、一番に考えなくてはならないのは、昼ご飯だ。
桜は帰り道をゆったり歩きながら、頭をひねった。
部活がないからお弁当も作っていない。かと言って、コンビニに寄る気にはなれなかった。
学校と家との間にあるコンビニは一軒だけ。今一番、顔を合わせづらいあの人……咲翔が働くあの店だけ。
昨日、八つ当たりにも等しいひどいことを言ってしまった。父の言う通り、咲翔は困っていた母に付き添ってくれたというのに。それなのに、母が帰ってこなかったことを咲翔のせいだと、言ってしまった。
初めて会った時と同じ、自責の念と悲しみで押しつぶされそうな顔が、今も目に焼き付いて離れない。
謝らなければとわかってはいるが、昨日の今日で会うのは非常に気まずい。できることなら、あのコンビニは避けたかった。
しばし、記憶を探る。
「うん、確か冷蔵庫に何か残ってたはず。なかったら、カップ麺とか、インスタントがある」
何とかなりそうだ。これでコンビニに寄る必要はなくなった。そう思っていたのだが……見慣れた店名の看板のふもとから、蠱惑的な声が聞こえてきた。
「ニャァァァ」と……。
通り過ぎようとしていた桜の足は、ぴたりと止まった。鞄につけた猫のキーホルダーに呼応するかのような声が、何度も聞こえてくる。
呼ばれている。
そんなわけがないのに、そう思ってしまうような声だった。
だが、桜の耳を優しくくすぐるような声を耳にしてしまっては、無視することはできなかった。
気づけば足は、コンビニの敷地内に踏み込んでいた。店内ではなく、脇にある小さなコンテナ置き場……声は、そちらから聞こえる。
そっと物陰から窺うと、ゆらりと揺蕩うように揺れるしっぽが見えた。
桜の心がぱっと華やいだ。……と同時に、その横にいる人物も、見えた。
暗めの色のシャツにジーンズ、染めていない髪を短く整えた、とてもよく見知った男性ーー多岐川咲翔の後ろ姿が。
思わず隠れてしまったが、見つかったような様子はない。もう一度、建物の陰から覗いてみる。
店のユニフォームじゃない。いつも桜の家を訪れるときと同じ、私服だ。ということは、今はシフト中ではないということか。これから仕事に入るのか、それとも終わった後か。
表情は見えないが、しゃがみこんで猫をなでている。その足下には、紙皿が見える。猫もそこに集まっているようだ。
いつかと同じように、餌をあげているのだとわかった。
声は聞こえない。猫たちの鳴き声か、咀嚼音のどちらかだけだ。だけど、背中越しに咲翔がほほえんでいるのが、なんとなくわかる。
猫たちがされるがまま、なで回されている様子を見ると、今、優しい面もちでいるのだろうと思われた。
猫たちが食べ終わるまで、ずっと同じようにしているつもりだろうか。そう思っていると、突然スマホの着信音が鳴った。
一瞬、自分のポケットを見たが、桜のものではなかった。
桜から一拍遅れて、咲翔がポケットに手を突っ込んだ。そして、「はい」と慣れた調子で応答する。
「うん、うん。まぁ、元気にやっとるよ。そっちは?」
この慣れたような、ぞんざいなような口振りからして、大阪の家族かと推測した。桜や桜の父が聞いたことのない口調だ。
「……うん、まぁ……ええ人たちやで。二人とも」
二人とは、誰のことだろうか。桜の父と、あとは……こっちで再会したと言っていた社長さんだろうか。
「うん……『桜』ちゃんな。ええ子やで。しっかりしてるし、優しい子やし」
(え? 私のこと!?)
まさかの言葉に、飛び跳ねそうになった。
「うん……そやから、ほんまに申し訳なくて……俺にできることがあれば何でもしようて思ってたけど、そんなん、あるわけないしな」
そう、咲翔は悲しそうに言う。なぜか桜の胸が
ずきんと痛んだ。
「四十九日まではと思ってたけど、それもどうかと……え?」
ふと、咲翔の声が止まった。電話の向こうの声に耳を傾け、次いで、首を傾げた。
「参加したい? 三人とも?」
三人とは、先日聞いた、咲翔の家族のことだろうか。そして参加したいとは、母の四十九日のことだろうか。確かに、あと二週間ほど後に法要があるが。
「大阪から来るの、大変やない? それに正直、俺も出るかわからへん……出ていいんか、わからへんていうか……」
ぼそぼそとか細くなっていく声を心配しているのか、電話の向こうから、なにやら心配そうな声が聞こえてくる。咲翔の、猫をなでる手もいつの間にか止まっていた。
「もしかしたら、予定よりも早く、そっちに帰るかもしれへん。そやから……」
そんな言葉を耳にした瞬間、桜の足は再び動き出した。そして、自分でも気づかないうちに咲翔の服の袖をぐっと掴んでいた。
「え?」
咲翔の驚く声がした。瞬きを繰り返しながら、桜を振り返っている。電話の向こうからは、急に言葉がとぎれて戸惑う声が聞こえる。やはり、咲翔の母親が相手だったようだ。
それはわかるのだが、肝心の桜自身がこれからどうすればいいか、わからずにいた。いきなり袖を掴んだものの、自分は何を言うつもりだったのか。 そう思っていると、咲翔が電話口で告げた。
「ごめん、後でかけなおす」
そう言うと、咲翔は電話を切った。
「桜……さん? どうしたん?」
「べつに、『桜ちゃん』でいい」
「そ、そう? ほな桜ちゃん……どないしたん? ていうか、あんまり近づいたらあかんよ。めっちゃ猫おるで」
咲翔の懸念を感じ取ったかのように、猫たちは散り散りになった。皿の上の餌がなくなったからかもしれないが。
それでも咲翔は、猫をなでていた右手は桜から離したまま、桜をのぞき込んでいた。
よけいに、何を言えばいいかわからなくなってくる。
「……今日は、早いんですね」
「へ? ああ、今日は食堂の方が休みになって、こっちのシフトの時間を早めにズラしてもろて……」
「……これからですか? もう終わったんですか?」
「終わったよ。これから帰るところ……です」
「そうですか」
会話が、終わってしまった。
咲翔もまた、困ったような笑みを浮かべている。 この場は、桜が何か言うべきなのはわかっている。だが、いざとなると何も出てこないのだった。出てこないのはきっと、言葉じゃなくて、勇気だ。
(ああもう、試合だったらどんなに強そうな相手でも絶対引かないのに……!)
そう思っていると、急に咲翔が動いた。
「ちょっと待っとって」
そう言って、店の中へと駆けていった。そして、わずか数分で戻ってきた。だけど、その手には先ほどは持っていなかったものが握られていた。
「はい、これ。暑いやろ」
カフェメニューのアイスコーヒーのカップだ。受け取ると、たっぷりのコーヒーと氷のぶつかる感触が伝わってくる。
「あ、ありがとう……ございます」
「うん。あ、ちゃんと手ぇ洗ってから煎れたから、大丈夫やで」
さっき猫をなで回した手でカップを手渡したことを気にしての発言らしい。
そんなこと、まったく気にしていなかったのに。
じりじりと焦がされるようだった手のひらが、急速に冷えていく。
「えーと……ほな、また日曜日に」
咲翔はくるりときびすを返す。桜は、とっさに手を伸ばした。
気づけばまた、服の裾をしっかりと掴んでいた。
「え、えーと……?」
困惑して振り返る咲翔と、視線が交わる。もうごまかしがきかない。桜は意を決して、口を開いた。
「き、昨日……忘れ物、してました!」
咲翔は向き直って、首を傾げた。
「すみません、なに忘れました?」
真っ赤な嘘だ。忘れ物なんて、ない。どう続けようか。
「あの……多岐川さんが、じゃなくて、うちが……お、お父さんがなにかおみやげを渡そうとしてたけど、忘れてて……」
それも、嘘。だが咲翔は嘘だとわかるはずもなく、遠慮がちに笑った。
「そんな……お気遣いなく」
「そういうわけにはいかないです。お父さん、絶対に渡したいって言ってたから、絶対にお渡ししないと」
桜は気づいた。
考えなしに喋っているとはいえ、なんだか雲行きがおかしな方向にあると。このままだと、話の着地点としては、一つしかなくなるのでは? そう思うが、口は止まってくれない。
「だから、その……今日、今、これから! 寄ってってください!」
咲翔の瞬きが増えたのは、言うまでもない。
******
「ど、どうぞ、お入りください」
もう何度も招き入れているはずなのに、妙に緊張しながらドアを開けた。緊張しているのは、きっと咲翔が緊張しているからだ。歩いている時から、一言も発しないし、ずっと視線を さまよわせていた。
(やっぱり、昨日あんなこと言ったせいかな)
繊細な人だから、きっと桜の一言で、また自分を責めたに違いない。今も、「どうぞ」と言ったのに、咲翔は一歩も動こうとしない。
「あの……僕は、ここで」
「ここじゃ暑いでしょ? 中に入っててください」
「いや、さすがに中に入るのは……」
いつもは遠慮しつつも入るのに、今日に限っては、どうしてこうも頑ななのか。
思い当たる理由は、一つしかなかった。
「あの……昨日のこと、ごめんなさい」
「え?」
桜が頭を下げると、頭上から戸惑った声が降ってきた。
「昨日、ひどいこと言ったから……気まずい、ですよね? でも、ごめんなさい。あれは完全に私の勘違いと八つ当たりで、多岐川さんが悪いんじゃなかったんです。後でわかったとはいえ、あんなこと言っちゃって、本当にごめんなさい! だから家に入るの断らないで……」
「ち、ち、ちょっと待って」
咲翔があわてて桜の話を止める。ちらりと顔を見上げると、思った通り、咲翔の困ったような顔が見えた。だが、怒っている風ではなかった。
「昨日のことは、桜ちゃんが謝ることとちゃうよ。ほんまのことや。僕のせいなんやから……」
「だから、そんなことは……」
言い募ろうとする桜を、咲翔は押しとどめた。
「そんなこと、あるねん。そやから、桜ちゃんの八つ当たりなんかやない。あと、家に入らんのはそれに怒ってるからでも、遠慮してるからでもない」
では、何が理由なのか。疑問の目を向けると、咲翔は気恥ずかしそうに声をすぼめて、告げた。
「今、おじさん、いてはらへんやろ? 女の子1人の家に男が上がるわけにはいかへんよ」
「……え?」
桜は、完全に虚を突かれていた。まさかそんな紳士的な理由だったとは。
だが、ここまで来たら桜だって後に引けない。すかさず、ポケットをまさぐった。
「お父さんに許可とったら、いいってことですね?」
「え? そ、そらまぁ、そうやけど……」
言うが早いか、桜は父にメッセージを送った。返事が来たのは、わずか数秒後。『いいよ~』と、たった一言だった。
桜がそのメッセージを画面ごと見せると、咲翔は反論の余地をなくしたようだった。
「お邪魔します……」
そう言って、咲翔はとぼとぼとリビングに向かった。だがリビングスペースではなく、自然とダイニングテーブルにつく。この流れは、完全に勝手知ったるナントヤラだ。そこで、はたと気付いた。
(……あれ? 家に来てもらって、なに話すつもりだったんだっけ?)
確か、謝らなければいけないが気まずいと思っていたんだった。だが、そういえばさっき謝罪してしまった。思えばあの言葉こそ、言いたくて言えなかったことだった気がする。それをあっさり済ませてしまったということは……
(家に入ってもらう理由、なかったんじゃ……?)
ちらりと見ると、咲翔が所在なさげにダイニングの椅子に座っている。その姿が、なんだか懐かしく感じた。初めて家に来た時と、同じだ。
(とりあえず、お茶かコーヒーだな)
冷蔵庫を開けて、麦茶をコップに注ぐ。あとは、何かお茶菓子がないか探した。父は、母から送られたお土産の中で気に入ったものをリピートでお取り寄せしていた。おかげで戸棚がパンパンになっている。
(あ、これはまだ出してない)
未開封の箱を引っ張り出して、包装を解いて、個別包装を皿に並べていく。咲翔に出すならいいだろうし、なくなったらまた買うだろう。そう思って、あるだけ全部出した。
お茶とお菓子の載ったお盆を持ってダイニングに向かった。
そこにいた咲翔は、静かだった。まだ暑さの残るリビングを懸命に冷やそうとするエアコンの方が、ずっと騒がしく思える。
暑さも涼しさも、何も気にせず、咲翔はただ静かに部屋の一点をぼぅっと見つめていた。
確かにそこにいるのに、まるで存在しないかのように、儚く見えた。その様子を見て、桜はふわりと、理解した。
(ああ、お母さんは……本当にこの人を、放っておけなかったんだ……)
手を放すと、どこかに行っていってしまいそう。今引き戻さなければ、次の瞬間には霧か霞のように消えてしまうんじゃないか。そう、思ってしまう。
だから、母は旅を続けたのだ。この人を、消えさせたくないから。
母は、旅に誘った。では桜は? 桜にできることは、何か。考えた結果、口を開いた。
「あの!」
咲翔は、ぴくんと身体を震わせる。そして振り返り、その瞳に、確かに桜を映した。次いで、桜の持つお盆を見る。
「ああ、お構いなく」
そういうわけにはいかない。もう理解しているだろうと思って、勝手にコップと皿を並べた。皿に載ったお菓子を見た咲翔は、それまでの緊張をふわりと和らげた。
「ああ、箱根で売ってたお菓子や」
やはり知っていた。
母が箱根に向かってすぐに送られてきたお土産だ。ミルクバターの餡が詰まったお饅頭で、イノシシの赤ちゃん・通称「うり坊」を象っている。可愛い見た目に、思わず食べるのを躊躇う一品だ。
「おばちゃんが買ってるのは見たけど、僕は食べてないんよなぁ。美味しいんかな」
「美味しかったですよ」
なにげなく、そう答えると、咲翔は驚いていた。
「……食べたん?」
「はい」
「そうなんや……てっきり、お土産の食べ物は全然食べてへんのかと思った」
「……ほとんどは、食べてないですよ。でもこれは、お父さんが美味しそうに食べてたし、あとイノシシが可愛かったから……」
桜がそう言うと、咲翔は手にしたイノシシをじっと見つめた。
「……可愛かったら、食べられへんのとちゃうん?」
「躊躇はしましたけど、どうしても食べられないってほどでは……」
「え、じゃあ……どうやって食べるん? 頭からかじるん? それとも尻尾から?」
「頭からいきますよ。だって目が合うと罪悪感が湧くから、はじめに……って、なんで笑ってるんですか」
桜が話している途中なのに、咲翔はふるふると肩を震わせていた。当たり前のことを話しただけなのに、なんだか不本意だ。その気持ちを視線に込めると、咲翔は謝罪した。笑いながら、だけど。
「ごめんごめん。いや、なんや……同じこと言うてた人がいたなぁて思って」
その表情に、目元に、笑い声に、急に温度が戻ったように見えた。母のことを思い出しているからだ。
桜は、なんだかホッとした。咲翔の儚さが消えたこと、それ以上に、目の前の人が生きた母の姿を思い浮かべてくれていることに。
そして、わかった。今日、たくさんの人がかけてくれた気遣いに白けてしまった理由が。
咲翔の語る母は生きている。桜のよく知る、明るくて、行動力に溢れていて、強引で、実はおせっかいな、母の姿そのままで。
咲翔は、母の『死』を無理矢理に突きつけることはしない。
(この人ともっと、お母さんのことを話したい……!)
そんな言葉が、胸の奥から湧き出た。
ここから先、辛い話を聞くことになったとしても。この人の口から語られる話なら、聞きたい。
その思いに賛同するかのようなタイミングで、スマホが着信を知らせた。父からのメッセージだ。
『早く帰るから、晩ご飯に誘っておいて』
今、ようやく父の気持ちもわかった。あの日からずっと、母のことを聞き続けたかったのだ。
ようやく、父と結託できた気がした桜は、再び父のメッセージを画面ごと見せた。咲翔が、また困ったように笑う。
「いや、そこまでは……」
そう遠慮がちに言う。だがいつもなら止める桜も、今日は止めない。身をよじって距離を取ろうとする咲翔に、桜はスマホをぐぐぐっと押しつけた。
「父もこう言ってることですし、晩ご飯、食べていってください。私、ちゃんと作りますから」
「え……?」
咲翔の眉がぴくんと動いた。これは、遠慮とは違う動きだと感じた。
「何ですか?」
「い、いや……何でもないよ。ホンマに、そこまでお世話になるんは申し訳ないから……」
ここまで何度も会っていると、色々と相手のことがわかってくる。咲翔は遠慮深い人だが、とても素直だ。父がお菓子を勧めても、大抵一度は断るが、結局は食べる。そのうち、あまり気乗りしないお菓子だと二度三度と断って、それでも勧めるので押し切られる形で食べる。ところが好きそうなお菓子だと、一度の断り文句の後、手を伸ばす。
今は、前者の時のような表情をしている。つまり、食べたくないのだ。
(なんで?)
咲翔に桜の手料理を食べさせたことはないはずだ。ここまで嫌がられる筋合いはない。もちろん手料理というものを嫌がる人もいるが、そういう潔癖症のような様子は見えなかった。
では何故か?
疑問の目で咲翔を見ていると、居心地悪そうにチラチラと桜を見ている。何か、やましいことがあるように見えた。
咲翔と桜の関係において、やましいことなどあるだろうか?
そう考えて、一つだけ思い当たることがあった。
「お母さんに、何か言われたんですか?」
びくっと、咲翔の方が大きく震える。図星らしい。
こんなにも気弱な顔をしている咲翔の攻略なんて、簡単だ。これまで何度も会って話した人間にとっては。
桜はササッと父にメッセージを打ち、返ってきたメッセージを咲翔に突きつけた。
「うちの父が言ってます。『今夜は桜のご飯だから、楽しみにしてて大丈夫だよ』って」
「そ、そうですか……」
「楽しみに、しててください……ね?」
「は、はい……」
「で?」
「はい?」
咲翔が、肉食獣に睨まれた小動物のように縮こまっている。かわいそうだが、桜の名誉のためにも追求させてもらうことにする。
「お母さん、なんて言ってたんです? 聞かせてください」
「い、いや、それは……」
「聞かせてくれますね?」
スマホと一緒にぐぐぐっと近づくと……咲翔はがっくり項垂れた。
「わ、わかりました……」
咲翔は麦茶をあおって、深いため息をつくと、いつものように天井を仰ぐのだった。彼の中に、箱根の空が広がっているのだと、わかる。
「箱根では……計画性なしで、ダラダラしてました。例えば……」
◇◇◇
見上げれば、一面の青空が見える。だけど真っ青ではない。ところどころ、ぼやけている。雲か霧か、はたまた霞か……どれでもない。
湯気だ。
ぼんやり、ふんわり、漂う露天風呂の湯気が咲翔の視界に白い幕をかける。
今日は、ことのほか良い天気だ。澄み切った青空は、清涼感も感じさせる。
熱い湯に浸かりながら、頭上は涼しい。なんて贅沢なんだろう。
この贅沢も、もう四日目だ。
「こんな生活、許されるんやろか……」
そんな声が漏れ出てしまうほど、この四日間の咲翔は満たされていた。
新幹線とローカル線を乗り継ぎ、揺られること約三時間。咲翔とおばちゃんは大阪から遙か遠く離れた地・箱根湯本に降り立った。
目的地を箱根に設定したのは咲翔だ。あの日、おばちゃんはどこに行こうかと困っていた。旅は終わりだと思っていたところに、娘さんからたいそう大きな雷を落とされてしまったとか。冷却期間をおいた方がいいという旦那さんの判断により、おばちゃんは旅を延長することになったのだ。
おばちゃんの証言に依るので、娘さんが実際にどれほど強く怒っているのかはわからない。だがおばちゃんは、意気消沈していた。放っておいたら一人で行き先も宿も交通手段もぽんぽん決めて進んでしまうような、行動力の塊と呼べる人物である。
そのおばちゃんが、どこへ行ったらいいかわからない、とのたまう。
気付けば咲翔は、咄嗟に祖父が行きたがっていた温泉地へと誘っていた。
(今思えばむちゃくちゃやなぁ。なんで家に帰りづらいからって旅に誘うねん……)
あの時の判断を、正しかったとは思えないが、この四日間はとても楽しく過ごせている。間違っていたとも思えないが、贅沢をしすぎているようにも思う。
正解か不正解か。咲翔は、その狭間でぐるぐる思考を巡らし続けているのだった。
そして、こんなにもぐるぐるとめどない思考に陥るときは、たいていのぼせかかっているときだ。
「あかん。出よう」
いい湯加減だが、どんな湯でも浸かりすぎは良くない。鹿児島の砂風呂の後の温泉で学んだことだ。
立ち上がると、先ほどよりほんの少しだけ、空が近くなる。湯気の向こうの澄んだ青を見ると、胸の内に、すぅっと清々しい風が吹く。一月ほど前、沖縄で感じた風だ。
(あの時の俺と同じように、旅でおばちゃんが少しでも心が晴れたら……)
今の咲翔が旅に同行する理由は、それ以外にないはずだ。
体の火照りに伴って、思考がとめどなく巡っていた。風呂から上がって徐々に火照りが冷めていくと、不思議と考えは収束していく
そして、ロビーでその姿を見つけると、確信に変わる。冷たいものを飲みながら、エアコンの風に涼み、マッサージチェアにほぐされて――温泉巡りを堪能しきって楽しそうなおばちゃんを見たら。
「おばちゃん、お待たせしました」
「えみくん、おかえり。ここも、良いお湯だったねぇ」
「そうですね」
咲翔が声をかけると、おばちゃんはゆっくり起き上がり、ニッコリと微笑むのだった。
四日前の沈みようが嘘のように思える。その笑みを見れば、この旅は間違いじゃなかった……いや、正解だったに違いないと思えるのだった。
「この後は、どこに行きましょうか」
******
箱根といえば、まず何が思い浮かぶか?
そう考えたおばちゃんと咲翔、二人の答えは一致した。もちろん『温泉』だ。
なにせ1200年もの歴史がある温泉郷だ。ここで心身の疲れを癒やしたいと思う人はたくさんいるはず。おばちゃんと咲翔も、その一人だ。
調べてみると、箱根湯本の日帰り温泉だけでも約四〇軒が軒を連ねているという。とてもまわりきれるものじゃない……なんて言ってしまうと、逆に火がつくのが、おばちゃんだ。
「そんなに言うなら全部まわろうよ!」
……と言い出すのは、予想していた。そして、昼過ぎに箱根湯本に到着して早々、宿に荷物を預け、浴衣に着替えて湯煙ツアーに繰り出してしまった。目に付く温泉に飛び込み、目に付く食べ物を食べ歩き、また温泉、またグルメ、そしてまた温泉……と、たった一日でめまぐるしく味わったものだ。
(おかしいな。ここには癒やされに来てるんやなかったか……?)
随行する咲翔がそう思うのも致し方ないほどの、弾丸ツアーになっていた。
翌日も引き続き箱根湯本を……と思ったら、今日は強羅に行ってみたいと言い出した。移り気なのも、おばちゃんの特徴だ。そして行き当たりばったりなのも。
おばちゃんがそう言うのなら、どこへでもお連れするのが咲翔の役目だ。車でそれほど遠くない強羅に向かった。
そして似たようなやりとりを経て、翌日は仙石原、そして四日目である今日は、宮ノ下に来ている。明治・大正時代の建物も残るレトロな雰囲気が漂う中、温泉に癒やされる。贅沢が過ぎる――と思っていたところだ。
「いやぁしかし、温泉郷っていうだけあって、ほんとに一日じゃ回りきれなかったね」
おばちゃんが、マッサージチェアに揺られながら、しみじみ言う。その横で、同じくマッサージチェアの震動に身を委ねながら咲翔が答える。
「何日かかけたら踏破できそうですけど?」
「私もそう思うんだけどさ……」
そこで、言葉が途切れた。おばちゃんが言い淀むのは珍しい。
やはり、強い気がかりがあるからだろうか。
怒っているという娘のことが気になって楽しみきれない、いや……すぐにでも帰れるようにしておきたいのかもしれない。
この箱根の旅は無期限の天国体験旅行というものではない。おばちゃんの家族が、ほんの少し冷却期間を置く間の待機時間なのだ。娘の怒りが解けたら、すぐにでも終了となる。
手放しの考えなしで行きたいところに行っていいわけでは、ないのだ。
(明日はまた箱根湯本の温泉巡りした方がええかな。何かあったらすぐに東京に戻る電車に乗れるし)
そう、提案しようとした、その時だった。おばちゃんが目をキラキラさせて鼻息荒く語る。
「温泉巡ってたらさ……他の色んな観光スポットが目に入るじゃない? 美術館とか、箱根グルメとか、芦ノ湖クルーズとかさ」
「……箱根グルメはかなり堪能してませんでした?」
「足りないの! せっかく来たからには、全部体験してみないと損だと思うのよね」
どうやら、咲翔の懸念は的外れだったようだ……。
「えーと、ほなどうします? せっかくやし、夕飯は宮ノ下で食べますよね? 明日は……」
「美術館に行きたい!」
「美術館いうても、いっぱいありますよね? どこに行きます?」
おばちゃんはニタリと笑って、カバンから雑誌を取り出した。毎度おなじみの観光雑誌・箱根版だ。見るときっちり付箋が貼られている上、ページには赤マルも書き込まれている。
準備万端だ。しかも、付箋の数の多いこと……。
(めちゃめちゃ楽しみまくる気やないか……)
咲翔が、心配していたことが杞憂だった脱力感を覚えている横で、おばちゃんは浮かれた様子でアレもコレもソレもと行き先を選んでいくのであった……。
******
暦は八月に変わろうとしていた。気づけば世間は夏休みを迎えて、もう一週間が経とうとしていた。
夏休みという、長いようで短い自由時間。今思えば儚い『自由』だ。だからこそ、太陽が容赦なく照りつけるこんな日差しの中でも、子供たちとその親は、あれもこれもと様々な体験をしようと懸命になるのだろう。
何が言いたいかというと……
「めっちゃ混んでますね」
「うん」
本日の箱根ミュージアムツアーの第一段にあたる『彫刻の森美術館』は、実に盛況だった。特に屋内展示は。
常設展示のピカソコレクションを巡っているうちは、やはり感銘を受ける余裕があった。
(ピカソっていうたら教科書で『ゲルニカ』見たくらいやけど……色々描いてるんやな)
若い頃の作品から晩年の作品まで眺めると、なにやらいい知れない力強さを感じのだった。それを具体的な言葉に変えられないことが、なんだかもどかしい。
だが、外へ出るとそんな余裕はなくなった。
日本初の野外美術館というだけあって、木々の間に、芝生の上に、白い石畳の上に、様々な作品が展示されている。まさしく作品という木に囲まれた『彫刻の森』というわけだ。
日本人の作品も、海外の作品も数え切れないほどある。
どれも彩りや流れるような曲線が美しく、たくましさすら感じるが……作者がそこに込めた意図を読みとるといった余裕は、なかった。なにせ暑すぎて。
五作品ほど見たあたりから「なにかわからないけど、すごいことはわかる」というかなりぼんやりした感想しか抱けなくなっていた……。
それとは対照的に、おばちゃんはエネルギーに満ちあふれていた。
屋外展示は個人利用に関してのみ、撮影を許可されている。そんなことを聞いて、おばちゃんがじっとしているわけがない。
見かける展示一つ一つに足を止め、スマホのカメラを向けていた。右から左から前から後ろから、下からも、できうる限りの方向から撮りまくるのだった。それはもう、写真集を出すのかというくらい。
あまりに熱心なものだから、咲翔はぽつりと尋ねてみた。
「あの……そんなに全部気に入ったんですか? 後で解説してもらっていいですか?」
するとおばちゃんは撮影の手を止め、くるりと振り返った。さきほどまでの熱のこもった視線が消えて、なんだかきょとんとしている。
「私、全然わかんないけど?」
「え? でもなんか興味津々て感じで撮ってはりますやん」
「あぁ、お父さんが好きだからさ。こういうの」
「旦那さん……ああ、あるほど」
なるほど、まさしくカメラマンに徹していたというわけか。そしてよくわからないから、とにかく全方位カメラに収めていたと、そういうことらしい。
(急に職人に徹するなぁ、この人……)
ひと月の間一緒にいたが、まだわからない側面があるらしい。
だが、同時にこの美術館に行くことを熱望していた理由もわかった。
昨日、行きたい場所をピックアップしたおばちゃんだったが、その数は、おそらく箱根に存在する美術館すべてにあたった。
咲翔が体力的にも時間的にも無理だと強く主張すると、おばちゃんは断腸の思いで三カ所に絞ったのだった。
その一カ所目が、ここである。しかも、ここだけは絶対に行っておきたいと言うのだった。
その理由が、自分ではなく夫が見るためだとは。
(早く次行こうなんて言いづらくなってしもたな)
じんわり暖かな苦笑いを浮かべて、咲翔はおばちゃんに従っていけるところまで歩いていこうと決めた。そのとき、おばちゃんがくるっと振り返る。
「えみくん、写真は十分撮ったし、足湯いかない?」
集中力がずば抜けている反面、切り替えが早いのもまた、おばちゃんらしいところだ。
そして、足湯でのんびり足を休めながら、先ほど撮った写真を早速送信していた。何も考えずに、全部。
(仕事は速いけど、雑なところもあるんよなぁ)
実のところ、咲翔もおばちゃんも、ちゃんと堪能したわけではなかった。そのことがなんだか、申し訳なく感じた。
(また来よう。それでこんどは 屋外の展示もちゃんと見ます)
この場にいない作者たちに向けて、そう念じるのだった。
そして、結局おばちゃんのテンポについていけないまま、第一段は終了した。次の指示は「ガラスの森へ行くべし」とのこと。
強羅にある『彫刻の森美術館』から次の目的地である仙石原へは車でおよそ二〇分。さして時間もかからず到着したのだった。
おばちゃんの指令の通り、『ガラスの森美術館』だ。先ほどは現代的なシンプルな佇まいが印象的だった。だがこちらは、ヨーロッパの町並みを彷彿とさせるどこか幻想的な風景だった。
「むふふ…すっごいきれいなところでしょ」
「そうですね。こんな場所、あったんですね」
「なんかさ……ファンタジーの世界に来たみたいじゃない? 映画かアニメかRPGか?」
おばちゃんの突飛な想像につられて、咲翔もふと想像してみる。だが、なんだか華やかなことが思い浮かばないのだった。
「どう考えても……僕は勇者に道を教える村人Aで終わりそうです」
「もう……夢がないなぁ。そこは勇者を出し抜いて竜を退治するくらい想像しようよ」
「無茶言わんといてください!」
そんなことができるのは、おばちゃんくらいだ。逆に、おばちゃんならやりそうだとも思った。
「はいはい。じゃあ村人さん、行きましょうか」
笑ってすべて流されて、咲翔はぐいぐい背中を押された。
促されて、入り口から進み、小川にかかった橋を渡る。そこに広がっているのは、まさしく幻想的……いや、夢のような光景だった。
白い石畳、ノスタルジックな煉瓦の家々、鮮やかに咲き乱れる千輪のバラ、そして美しくカットされたガラスがいくつも連なったクリスタルガラスの回廊。
太陽光をきらりと跳ね返し、それが風によって揺らされて不規則に揺れては光る。自然と人間の技術が交わったシャンデリアだ。訪れた客を、これほど丁重にそして豪勢にもてなしてくれるものがあっただろうか。
その美しさに、我知らず息をのむ咲翔だった。
だが、それはまだ、出迎えただけにすぎなかったと、すぐにわかる。
光のシャンデリアを抜け、すぐの建物に入る。そこはヴェネチアン・グラス美術館。一五世紀頃のヴェネチアン・グラスを中心とした、幅広い年代のガラスアートを展示していた。
建物の中もまた、少し古いヨーロッパ建築を彷彿とするものだった。天井が高く、少し暗い照明が外の気温を忘れさせてくれる。
そしてなにより、展示しているガラスアートの数々が、どれも色鮮やかで、繊細で、かつ煌びやかで、そして涼やかだった。
炎のような赤を纏いながらも、深海のような青を同時に纏うグラス。水の波紋をそのまま写し取ったかのような透明で細かな文様が刻まれた器。この世に存在するすべての花を束にしたような極彩色のランプ……どれも、その空間に存在する。
「綺麗だ」なんて言葉すら、忘れていた。
隣を歩くおばちゃんも、感嘆の息をもらすことしかできずにいた。
あまりの美しさに衝撃を受けた二人は、しばらく何も言えずにいた。そして、何度目かのため息え、ようやく我に返った二人は、どちらからともなく頷き、建物を後にした。
その空間があまりに繊細すぎて、自分たちの吐息ひとつで壊れてしまいそうな気さえしたのだった。
なぜかそろりと建物を出て、奥へと進むと、バラ園が視界に入った。先ほどは遠目で見ただけだったが、近くで見るとより鮮やかだ。白に赤にピンクに……原色のような色合いから淡い色のものまで、様々咲いている。花弁も、良く知る形から、初めて見る形まで揃っている。
花の知識に明るくなくても、誰もが心華やぐであろう場所だ。
「やっぱりバラはいいね。香りも色も形も全部きれい」
そう言うおばちゃんの横顔も、花が咲いたようにぱっと明るくなっていた。いつも通りといえば、それまでだが。
だが、いつも通りだからこそ、なんとなく、咲翔にはわかった。
「……でも、おばちゃんが一番好きな花は、桜でしょ?」
「え⁉ なんでわかったの?」
弾かれたように振り返るおばちゃんに、咲翔は苦笑した。
「だって娘さんの名前につけるくらいやし。そうなんやろなぁって思って」
少しだけ、自慢する気持ちが含まれていたと思う。気付いてないだろうが、ちゃんと覚えているんだぞ、と言いたくなった。だからおばちゃんの驚く顔を見て爽快に感じたのだが……なんだか思っていた笑みと違う。
おばちゃんは、イタズラが成功した子どものような顔をするのだった。
「えみくん……それはね、半分当たってるし、半分違うんだよ」
「え⁉ どこがですか?」
おばちゃんは、むふふと笑いながらもったいつけて語った。
「えみくん……桜はね、バラ科の花なんだよ」
「そうなんですか……え? それが何か?」
「だから桜が一番好きだけど、つまりはバラも好きってことになるんだよってこと」
「……そ、そうですか」
咲翔が気の抜けたように言うと、おばちゃんはなんだか不服そうだった。
「あれ? 悔しくないの? 読みが外れたのに?」
「別にそれほど言い当ててやろうとか考えてませんでしたし……だいいち、結論は同じですよね?」
「そうだけど……うーん、なんか悔しいなぁ」
悔しがらせようとして悔しがっていたら世話はない。呆れつつ、次の建物に向かおうとした。その時――
「あぁ! マズい!」
突然おばちゃんが叫んだ。
「予約の時間が迫ってる!」
「予約? 何のですか?」
「体験工房の予約してたの。急ごう!」
おばちゃんはそう言うと、咲翔の背中をぐいぐい押していく。次に寄ろうと思っていた現代ガラスアートの建物を通り越して、ぐんぐん進んでいくのだった。
そして着いた先では……
「十二時からご予約の方ですね? よろしくお願いします」
そう、係の人がにこやかに受け付けてくれた。
案内してくれるが、結局は状況がわからないままだった。キョロキョロと見回して、ようやく看板を見つけた。そこに書かれていたのは、『サンドブラスト体験』。棚には、完成品も飾っていた。
「ああ、磨りガラスで模様をつけるんですね」
「そう! さすがえみくん。説明なしでも理解するなんてねぇ」
褒めるより説明してほしかった気がするが……言っても始まらないことだし、いいことにする。
それよりも、工房内の賑やかさが気になった。
参加者は咲翔とおばちゃん以外にもいたようで、その中には、小さな子どももいる。この旅の道中で参加してきた体験講座の中のどれよりも家族連れが多い。
「ではまず、グラスをお選びください」
係の人が案内してくれた棚には、様々な色、形のグラスが置いてあった。いわゆる、普通のガラスのコップだ。
(琉球硝子やら薩摩切子やら小樽硝子やら触れてきたせいか、キレイやのに、なんか感動を覚えんようになってしもた……)
一方のおばちゃんは、穴が空くほど真剣に棚を睨んでいた。
「赤っぽい方がいいかな。でも緑色、キレイだなぁ。いやいやこっちの黒っぽいのも案外好きかも……」
何度も聞いてきたような唸り声に、咲翔は思わず笑ってしまった。
「全部いいんやないですか」
「そりゃそうだよ。どれ選んだって素敵に仕上がるようになってるんだからさ」
なるほど、そんな解釈の仕方があったとは。おばちゃんといると、いつも目から鱗が落ちる。そんなことを思っている間に、おばちゃんはえいやっという勢いでグラスを選んでいた。
「やっぱりこれ! 赤にする」
グラスの底から口まで、淡い赤から透明へと抜けるようにグラデーションを描いている。炎のようであり、夕焼けのようであり、おばちゃんの気性のようだ。
「ほな、僕は黒にします」
こちらも淡いグラデーションの色合いだった。ただ、底の色が黒い。なんだか物珍しい気がして、手に取った。それに……
「おじいちゃん、こういう渋い色が好きやったから」
「いいね。かっこいいじゃん」
おばちゃんは、なんだかニヒルに笑って言ってくれた。
「次に、模様を選んでください」
係の人は様々な絵が描かれたシートを見せてくれた。花に、魚に、ハート形に、動物型、人間のシルエットもある。
(どれもいいんやけど、おじいちゃんのイメージやと、可愛すぎる気がするなぁ)
祖父は古風な人だった。時代劇の中の人、そのままのような印象だ。ハートや花はどうも似つかわしくない。かと言って、犬や鳥も何か違う気がする。
(なんやろ……花鳥風月って考え方なら、花も鳥もアリなんかな?)
と、そこまで考えて、ふわりと思いついた。そしてテーブルに並べられたサンプルの模様の中に、それはあった。
「三日月? それにするの?」
咲翔の手元を覗き込んだおばちゃんが尋ねる。
「はい。黒い背景やし、合いそうでしょ。おばちゃんは……それで決まりなんですか?」
おばちゃんは、一枚の模様の噛みをぎゅっと握りしめていた。もうずっと昔からそうしていたように。
「うん、これ……簡単そうでしょ?」
「……そうですね。きれいにできそうですね」
選んだシートを適当な大きさに切って、絵柄の部分のシールを剥がす。細かな模様を選んだ人は苦労していたようだが、幸い、おばちゃんも咲翔も難なく剥がせていた。青いシートの緒の中に白い模様ができると、その上から転写シートを被せる。そして、選んだグラスへと絵柄のシールを貼り付けた。マスキングテープでしっかりと周囲を覆うと、準備万端だ。
係の人の案内に従って、大きな箱のような機械の元ヘと向かう。
開かないようにがっちり閉められた硝子ケースの中に両手だけ入れて、作業は始まる。グラスに、砂を噴射していくのだ。先ほど選んで貼り付けた模様の形に砂がついて、磨りガラスになっていく。マスキングテープで覆われているとはいえ、咲翔はできるだけはみ出さないように慎重に吹き付けていく。
おばちゃんはと言うと……絵柄が複数あったせいか、すごく大胆に吹き付けていた。
「おばちゃん? それ……拭きすぎやないですか?」
「大丈夫。しっかり描きたいから」
「いや、もう充分ですって。ムラになりますよ」
磨りガラスがムラになるなんて聞いたことがないが、そう思えるほど、おばちゃんは一心不乱になりすぎていたのだった。
ようやく機械から引き剥がして、テーブルに戻る。いよいよ、お目見えだ。
慎重に、マスキングテープを剥がしていく。グラス全体に張っていたので、剥がすのも一苦労だ。
そこら中からビリビリっと音がして、そしてそれらは徐々に歓喜の声へと変わっていく。
「うわ! できてる!」
こんな、嬉しそうな声が。★
咲翔は不思議と、自分が作ったものよりも、おばちゃんが作ったものの仕上がりの方が気になるのだった。そろりと、覗き込んでみると、はしゃいでいるおばちゃんと目が合う。
「えみくん、見て。いい出来だと思わない?」
淡い赤いグラスの側面に、点々と舞う桜。それが、おばちゃんの描きたかったものだ。とても可愛らしい。なんとなく、わかった。おばちゃんは、この桜のグラスを作りたくて、ここを訪れたのだ。
「ええんやないですか? キレイやし可愛いし……喜んでくれるといいですね」
「それが読めないんだよね~。『コップばっかり買って!』とか言って怒られるかも……って、なんでこれがプレゼントだってわかったの?」
「いや……柄で分かりますよ」
「……え? もしかして、あからさますぎる? 思春期だし、こういうのはかえって嫌がるかな? どうしよう?」
おばちゃんは急に慌てふためき始める。怒っているという娘への罪滅ぼしのつもりだったのだろう。
咲翔は、おばちゃんの娘という人物を想像してみる。会ったことはないが、おばちゃんが常々語る話から察するに、とてもしっかり者のようだ。だけど、ここ一番には弱い面もある。根底には、まだ甘えたい気持ちが見え隠れしているようでもあった。あと、猫好き。
「……ええんやないですか? 今までずっと猫グッズばっかり送ってましたし」
「なるほど。目新しく見えていい……かも?」
「そういう未来も見えます」
おばちゃんの言う通り『コップばっかり買って云々』と叱責を受ける未来も見えたが……黙っておいた。たぶん、こんなにきれいなグラスをもらって、嫌な顔はするまい。
「えみくんのも、素敵だねぇ」
いつの間にかおばちゃんは咲翔の手元を覗き込んでいた。
黒い夜空に丸い三日月が浮かぶような、シンプルなあしらいだ。だが、この黒が時代劇によく出てくる空に見えた時、この月以外にないと思ったのだった。
「おじいちゃん、喜びそうでしょ。渋くて」
「喜ぶ喜ぶ! めちゃくちゃ喜びそう!……あ、ごめん。会ったことないのに……」
「いいです。こんだけ聞いてもらってたら、知り合いになった気になりますよね」
「だよね。えみくんの方も、うちの旦那さんや娘のこと、家族ぐるみで付き合ってる気にならない?」
「そらまぁ……何回もお土産選んでますしね」
「それもそうだね。この後も一緒に選んでもらうし」
「喜んで」
恭しくお辞儀をすると、なぜか、どちらからともなく笑いが零れた。
出来上がったグラスを丁寧に梱包して、二人は工房を後にした。館内のレストランでお昼を食べて、現代アート館を見学して、お土産を買って……車の後部座席にたくさんの思い出を載せて、次の目的地へと出発したのだった。
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